ホームページ 隠された歴史 Lewis & Clark Corps of Discovery
第10章
12月25日 1805。雨、ならびに、湿気の高い、まことに不愉快際まりない
天気である。我われは全員が新しい砦に移った。そこは、われわれの指揮官殿が、
我々に一番近いところに住んでいるClatsopのインディアンの名前にちなんで、
Clatsop砦と名づけた。この日の夜明けには隊員達は自分達の兵舎で銃を発泡して
指揮官殿に挨拶した。かれらはタバコを吸う者たちに、自分達の持っている最後の
タバコを分け、そこの者には、とりわけ熱狂的な信者ではないが、自分達を思い
出してもらうことができるようにと、クリスマスのプレントとして絹のハンカチを
分け与えた。この世界中の全ての熱狂的な信者よりももっと我々が尊敬するのは、
我々の健康であった。われわれは貧相なエルクの肉以外には何も持っていなかった。
その時期ではなかったので塩も無かったが、この冬が、われわれがこの状況で
過ごさなければならない最後の冬になるものと思い、われわれは自分達が想像して
いた以上によい精神状態であった。
John
Ordway
岸から数マイル離れた小さな川の近くのエゾマツの林のなか、いま、オレゴンのアストリア辺りに、冒険隊はその冬を過ごすための宿営地を設営した。その宿営地は近くにすむインディアンの部族に敬意を表し、Clatsop砦と名づけられた。
任務は彼らが移動してクリスマスを祝福する12月の終りまでにはとても片付けられなかった。キャプテンたちは絹のハンカチと自分たちが持ってきた最後のタバコを配り尽くした。SacagaweaはClarkに二ダースの白いいたちの毛皮をプレゼントした。
天候は雨が多かった。食料事情は悪く――あまりにもよく腐るので、Clarkは、“我々は本当に必要な分だけを食べた”と記している ――洗剤もなければ匂いを消すウィスキーも無かった。砦にはびこったしらみが、と数日してからClarkが補足している。“夜の睡眠を半分もさせてくれぬほど我々を悩ました”。
その当時のほかのアメリカ人は誰一人、完全に理解できないような方法で、この冒険隊は厳しい経験を通し、まさしくいかにこの大陸がだだっ広く、そして、そこを横断することがどれだけ難しいかということを知った。そして、1805年という一年を、ほとんど旅をしながら、冒険に冒険を重ねたそのあとで、いま、彼らがなしえることと言えば、それは彼らがいま居る、くすぶった、そして、しらみの充満した部屋のなかに、降り止まぬ雨から逃れる隠れ場を見つけることであった。その部屋こそ、彼らの現実と彼らが残してきたそれまでの全てのものとの大きな隔たりを感じさせる場所に他ならなかった。 このとき初めて冒険隊は、ホームシックにひどく悩まされたようであった。
Mapping the Unknown
(
未知の世界の地図づくり
)
William
Clarkは、Clatsop砦に暫く滞在していた時に、一次しのぎに作った図面台で、革命的な記録を作成していた:かれの西部地域の地図である。彼が描いたどの線も、北アメリカの地理をリアルに表現するもので、それまで噂であり、想像の世界であり、推測の域を出ることができず、長い間、期待され続けてきたものが、ゆっくりではあるが次第に現実のもととして浮かび上がってきた。
二年ほど前の、1804年の1月に、Clarkは、発見のための冒険隊がその度のなかで出くわすであろうものについて、その時の最も新しい情報を取り入れた地図を検証していた。そこには、太平洋からそれほど遠くないところに、単独の狭い山の稜線が示されていた。主要な川は、大陸の、基本的にはほとんど同じ標高の場所から別々の方角に向かって流れていた。西部の地域は、一口に言えば、白紙の状態であった。
情報に基づきながら、Clarkは探検隊を待ち構えているその行程の長さを推定した。St.
LouisからMandanの部落まで、 ――部分的にはすでに毛皮の取引業者によって道が開かれており、紹介されていたが、
――Clarkの予測では、1,500マイルとされたが、これは、1804年に探検隊が実際に進んだ距離と、ほんの100マイル足りないだけであった。これに対し、Mandans族の部落から太平洋までは、最初の地図からClarkが予測したのは、1,350マイルであった。しかし、1805年に発見のための冒険隊が大洋に到達するまで進んだ行程は、およそその二倍の距離
( 2,550マイル
) であった。
Clatsop砦でClarkがこの地図の空白の部分の記録を集め、整理を始めた。彼は、地図作りの正式な訓練をしていたわけではないが、彼にはその天分があり、地図作りに素晴らしい能力を発揮した。西部地域を旅しているあいだ、毎日彼はコンパスを使って、全ての川の湾曲の具合や探検隊の通った道の形跡を読み取り、一つの地点から次の地点までの距離を記録するために、当時ではすでに使われなくなっていた推測航法のやり方を利用した。こうした旅の毎日の“コースと距離”は別の紙にシートに移されて、(
たとえば、Clarkはインディアンの酋長にあげるつもりで、白紙の証明書の裏側を使ったりしていた
) そして、それをもう一度、この旅の重要な場所が書き込まれた大きな何枚か続きの地図の上に移しなおされていった。
Clarkが、西部の基本地図を整理するときには、彼自身が個人的には見ていないような地域についても入手した情報をもとに仕上げていった。ミズーリ川の沿岸やMandanの部落で交易をする者たちはその大きな川の分岐点についての詳しい記述をするために役立つ情報を提供してくれた。そして、彼はインディアンの人達に出会うたび、彼らにその周囲の地形について詳しい話しをしてくれるように頼んだ。何人かの酋長は、距離をマイルで言わず、“睡眠の回数”(
つまり、旅の日数
) で説明するなど、秘密を守るために大雑把な地図を描いたりした。また、あるところでは、くすぶっているキャンプファイヤーの灰のところに地図をスケッチしたりした。そうかと思うと、山の状況を示すために彼らの家の土の床に溜まった埃とも砂とも言いがたいようなもので小さな山を作り、そこに川の流れを示すために細い溝を欠き描くなどしていた。
そうした全ての情報を元に、 ――そして、得がたい個人的な経験をもとに ――彼の命令に従い、ClarkのClatsop砦からの見識は彼が二年前に持っていたものよりずっと明確になっていた。こうして彼が描いた地図はロッキーの山々をずっと正確に描写していた。:単に一つの稜線だけでなく、気ままな山々の広く帯状に連なるものとして、そして、東部の山々とは違い、広いばかりでなく、標高の高いものとして描かれていた。それは、さらにCascades山脈 と
沿岸地域というこれらの領域とも全く異なるものであった。
ミズーリ川の流れに沿っての非常に長いコースは( そして多くのその支流
)、結局は、事実に対する見せかけを打ち砕き、そして、その源流とコロンビアに導いてくれる流れとの間の隔たりが明らかに半日の陸路での行程をどのように見るかということを左右していた。
地理学者であり、歴史家でもあるHohn
Logan Allenの言葉を借りれば、“LewisとClarkは西部についての新しい概念を携えて、再び文明社会に戻ってきた”。“彼らの新しい概念のなかには、西部地域の持つ豊かさと美しさとそして、広大さの夢に溢れている。しかし、その夢はもはやインドへの旅ではなかった”
Clarkは、1806年の2月14日に彼の仕事を終了したときには、いかにも彼らしいところではあるが、全てのことについてもっと冷静であった。“私は我々がミズーリの河口のミシシッピー川からここまで、旅をして来た地域の地図を完成した。”と述べた。“私たちは、いま、北アメリカの大陸を横断する最も現実的、かつ、辿ることのできる経路を見出したということを確認した。” 彼の地図があまりにも端正に描かれているので、“現実的”という言葉と“辿ることができる”という言葉がここで改めて再認識された。
1月1日 1806. この日の食事は、基本的には、我々の友の温かい友情に囲まれて、その日の歓喜と爽快な気持ちに浴することができるような時、そして、現在を回想して与えられる心からの喜びの時となるであろう1807年の正月を想定してのもので、クリスマスの時の食事よりずっと素晴らしいものであった。その日われわれは、完全に、精神的にも、また、肉体的にもそこの住人が我々のための腕を振るって料理してくれた食事を存分に楽しんだのだった。
Meriwether
Lewis
隊員たちは、帰りのたびの準備のために蝋燭をこしらえ、海水を煮沸し塩を作り、エルクの肉はいぶし小屋で燻製にし、また、エルクの皮をはいで服を縫った。
Clarkは西部の地理の厳しい現実に基づき、東部で、想像で作られた地図を新しく作り直していた。
Lewisはこれまでの知識では知られていない動物や植物のことについて詳細に記録していて――大きなアラスカトウヒから常緑のハックルベリーに至るまで、;首に輪の模様のあるアヒルやヒューヒュー鳴く白鳥から小さなキュウリウオに至るまで ――ロウソクウオ ――この魚は隊員達が焼いてほとんど食べてしまったが、これらの記録をとるのに忙しかった。
1月の始めに、インディアンから、塩を作っているキャンプの数マイル南の海岸に鯨が岸に打ち上げられているとの報告があり、それまでの退屈な気持ちが一度に吹き飛んだ。Clarkが僅かの部下とともに、まず、それを見るとともに、次第に少なくなっていった食料を補給するための食べ物を探すために出かけることになった。Sacagaweaは一緒に行くことを嘆願した。
1月6日。インディアンの女は私と一緒に行くことを許可してもらうように非常に熱心であった。そして、結局、同行が許された。彼女は我々と共にこの偉大なる太洋の水を見るために長い旅をし、そして、いま、怪獣のような魚を自分の目で見ることができると認識していたが、彼女は、そのどちらもまさか自分が見ることができるなどということは、あるはずはないと確信していたのだ。
William
Clark
Clarkの部隊が、岩の海岸に沿って、今日のキャノンビーチと呼ばれる見晴らしの良く効く場所に辿りつくのに2日がかかった。――“それは、いままで私のこの眼で見てきたもののなかでは、最も壮大で、しかも、最も素敵な眺望であった”と彼は言った。“おびただしいほどの巨大な岩が海岸からかなり遠くまで連なっており、その岩に波が巨大な力でぶつかり砕けているこの海岸の光景は限りなくロマンチックな様相を呈している。”
しかし、彼らが鯨のいるところに到着した時には、Tillamookのインディアン達がすでに全ての肉と脂肪の部分を取り去った後だった。残れたものといえば、骨だけしかなかった。Clarkは任務上、その長さを測ると105フィートの大きさであった。彼は交換用の品物を取り出して、300ポンドの脂肪と数ガロンの鯨の油をTillamook族から買った。そして、Clatsop砦に、わびしい気持ちで引き返していった。
1月17日 昨晩は一晩中嵐であった。そして、この日の朝は湿気が多く雨降りであった。
Joseph
Whitehouse
1月18日 この日・・・は注目に値するようなことは何もなかった。隊員達はなおも身に纏う服を作るのと、故郷に帰る準備に熱中していた。
Meriwether Lewis
1月19日 この日の朝は、しとやかな雨であった。
Joseph
Whitehouse
1月20日 この日も一日、しとしとと雨が降った。特に記すべきものはない。
Joseph
Whitehouse
2月22日 Gibson,
Bratton, Ordway軍曹、Willard
それに
McNealなど、病気のものがほとんど回復した。われわれはミシシッピーを離れて以来、一度にこれほど多くのものが病気になったことはない。大体の病状からすると悪い風邪のようで、熱があり、私が思うには、なにか悪いインフルエンザにかかっているようだ。
Meriwether
Lewis
3月3日 隊員の間に記録に残さなければならないようなこれといった動きはなにもなかった。全てがこれまでと同じように展開していて、我々はここを離れる予定になっている4月1日の日を指折り数えており、それが我々をClatsop砦に縛り付けているようだ。
Meriwether
Lewis
隊員の何人かは自分達のモカシンの靴を作るのに忙しかった ――事実、この冬の間に131頭のエルクと20頭の鹿が殺されたこと、雨の降らなかった日は12日しかなかったし、すっきりと晴れた日はなんと6日しかなかったことなど、いろいろなことを数えていたPatrick
Gassによれば、その数は338足もあったそうだ。3月7日は、この日でとうとう配給していたタバコがそこをついてしまい、Gassは、26人の隊員は、自分達の噛みタバコの習慣を満たすためには、crab
treeの樹皮を噛む以外に何もするものがなかったと記した。
Clatsops族とChinooks族のものが定期的に訪問してくるようになったが、しかし彼らは、Mandans族やHidatsas族がMandans砦に来た時のように歓迎されたわけではなかった。キャプテンたちはこれらの新しい友人達はあまり信用が置けないと見ていたようだった。そして、しばしば、これらの海岸近くに住んでいるインディアン達の欲の深い取引に不平を漏らしていた。Mandans砦の時にはインディアン達は、探検隊の隊員達が土でできた家の村々に泊まりに行ったのと同じように、しばしば砦で一晩中明かしたものだった。Clatsop砦の場合には、砦に近づくには厳しい制約のついた道を通ることが厳重に命令され、全てのインディアンは夕暮れまでに砦の柵の外に出なければならなかった。その結果、Clatsops
族や
Chinooks族の村に長く訪問したなどと言うことは一度も記録されていない。
3月15日 この日の午後に、Chinookの酋長であるDelashelwiltが彼の妻と彼の部族の6人のおんな、これは、売春婦としてつれてきたものだが、とともに砦に来た。これは、去年の11月に隊員達の何人かと関係をもち性病をもたらした女達と同じ集団だった。もっとも今は彼らの病気は治っていたが。その時に私は隊員達に、そのことを認めさせて、
今後は必ず私に従うという特別の約束をさせた。
Meriwether
Lewis
3月16日、Lewisは、探検隊が帰路に必要とする馬や食料と交換するために残しておいた品物をとりだした。その量は、全部でもたった二枚のハンカチに包まれてしまう程度のものしかなかった、と彼は記していた。
同じ時に、Chinookの酋長が何人かの女を砦に連れてきた。探検隊の持っているものと交換に女を提供するというつもりであった。11月に、隊員達は同じインディアンの女達と交換にナイフ小道具キャプテンたちを与え、キャプテンたちは金属類を取り外したリボンを交換用に配るという驚くほどの交換比率で取引をした。しかし、いまやリボンさえ十分に持ってはいなかった。交渉して性病にかかった隊員達を最終的に治したのは水銀治療のおかげてあると信じていたLewisは、彼らに約束した。――御互いの健康と経済的な理由で――今度は、受け入れることはできないと。
3月17日 Old
Delashelwiltと彼の女達はなおも残っていた。彼らは、砦の近くにキャンプを張り、我々の近くに何時までもいるつもりでいるようだった。彼らは恩恵を被ろうとしてあらゆる努力を払っているようであったが、しかし、私は、隊員達が今度はキャプテンClarkと私に対して約束した肉体的な純潔の誓いを決して破るようなことはしないと信じていた。
Meriwether
Lewis
一方、このとき東部では、ジェファーソン大統領は、LewisとClarkが一年以上も前にあったMissouri,
Oto, Arikara,そして、Yonkton
Siouxの酋長たちの代表団の訪問を歓迎していた。ジェファーソンは、Lewis、彼のことを“われわれの最愛の男”と呼んでいたが、彼に対する彼らの支援に対して感謝するとともに、アメリカの会社との商品の取引を約束し、そして、彼の希望は“我々は一つ屋根の下で共に暮すことである”と説明した。
インディアン達はLewisに対する親切な言葉と彼ら自信の将来についての関心を示して応答した。
我々はその最愛の男に会い、我々は御互いに手を握り、そしてあなたが彼に託した言葉を聞きました。我々は彼を信じているし・・・彼を心から信用しており、彼が帰還した折には、かれが我々の面倒を見てくれ、我々の欲望を調整して、そして、我々を幸せにしてくれると信じています。
しかし、あなた方が、ミシシッピーのこちら側に住んでいるあなた方の子供達があなた方の言葉をきいていると我々に話をしたときに、あなた方は間違いをおかしたのだ。いつも彼らは我々の頭上に石斧を振りかざしているのではないか・・・我々の土地に住んでいる白人の子供たちに、彼らはあなたがたの言葉を守ろうとしないので、あなたがたの命令に従うように、そして、彼らが楽しみのために行動するようなことはしないように話をして下さい。
大統領はLewisの兄弟と母親に、彼は探検隊が大成功を納めるような責任を持っているということを述べた簡単な手紙を書いた。しかし、ジェファーソンは他の者に打ち明けていた。“我々は、キャプテンLewisがMandansの砦を出発してからはなんの情報も受け取っていない。”と。
そして、Santa
Feでは、ニューメキシコのスペイン政府がこのアメリカの探検隊を妨害しようと別の試みを策謀していた。その一つが500人の集団と、百人のインディアンからなる同盟軍と、そして、2000匹以上の荷物を運ぶ動物からなるものであつた。――それは、それまでにこの大平原に出現したものでは最も大きなスペイン軍の組織で、そのグループが、冬が過ぎるや否や出発する手はずになっていた。
Meriwether
Lewis
冬の間中、LewisとClarkは貿易船が現われ、その船から彼らが必要とするものを補充し、そしてもっと重要なことは、その船を使い、例え彼らが帰ることができなかったにしても、彼らの目的の達成と発見の事実の証拠として彼らの記録の写しを送り届けることができるものと期待していた。しかし、彼らがそこに滞留していた五ヶ月間と言うもの、一隻の船も見ることができなかった。
3月の遅くになり、彼らはもはやこれ以上待つことができないということになった。
キャプテンたちは、この冒険隊の成就したことの総まとめを書き、ミズーリ川とコロンビア川の間のルートの大まかな地図をスケッチし、この冒険隊に参加した全ての隊員の名簿をつくった。彼らはそのノートをClatsop砦の壁に鋲で留め、他の記録は、この春になって遅ればせながらやってくる船の船長にそれを渡すように説明をつけてインディアン達に託した。
この目録の目的は、それを見るであろう善良なる市民の好意により、見識のある世界に事実を知られるようにするためのものである。ここに名を掲げられた人々からなる探検隊、それは、とりも直さずアメリカ合衆国の政府により、北アメリカの大陸の内部を探検するように1804年の5月に派遣され、ミズーリ川とコロンビア川への道を踏破し、そのコロンビア川の水は太平洋に注いでいるものであるが、その太平洋の海岸に1805年の11月に到達し、そして、そこから再び1806年の3月の23日に、もと来た同じ道を辿りアメリカ合衆国へ戻るために出発したものである。
Meriwether
Lewis and William
Clark
時は来たれり、いざ故郷へ。
Sacagaweaに関する考察
ERICA FUNKHOUSER
Meriwether Lewis
十分な食料と、そして、本の僅かの身に付ける装飾品・・・このことがこれ以後に続くことの全てである。Sacagaweaは何の記録も残していなかった。彼女は一通の手紙を書くことも無かった。彼女自身の言葉で彼女の物語を伝える言い伝えも何も残っていない。もし、私が、LewisとClarkの探検隊の旅に同行したこの若いShoshoneの女のことについて何かを知ろうとするなら、私は、Sacagaweaが40回近くにものぼり記述されているこのキャプテンの記録の、まさにここの場所から始めなければならかなった。
いくつかの例外はあるが、キャプテンたちはSacagaweaの容貌や、彼女の言葉、さらには彼女の日常のありきたりのことについては記録していない:彼らは、彼女の気質とか、強さ、あるいは、弱点、そして、彼女がどんな風に感じているかなどを想像しようとしたことなどについては一切記述していない。
どこに居たとしても十分に満足していた・・・LewisとClarkたちと同じように旅のほとんどの間を彼らと同じテントで寝泊りした、Sacagawea、彼女の夫、そして彼らの赤ん坊のことなど、2人のキャプテンはこの家族の状況についても何のコメントもしていない。そして、なんと言うことだろう、この赤ん坊は? Jean-Baptisteというが、この探検隊と旅を始めたのは、生まれたまだほんの二ヶ月しか経っていなかった; Sacagaweaはなんとこの大陸を横断し、そして、帰ってくる時も彼を背負っていたのである。急流を丸太でできたカヌーで乗り切る時にも彼女はこの赤ん坊と一緒であった;食料がほとんどなかった時には、彼女も、そして、その赤ん坊もともにひもじい思いをした。LewisとClarkの日誌はそれでも、Sacagaweaの極めて稀な役割について何も記録を残していない。
それが歴史家の因果なのか、この情報の欠如こそ、詩人としての私をより一層この主題に惹き寄せたのである。まるで素晴らしいモザイクから欠けてなくなったかけらのような、すべての見せびらかしてじらしているこの溝が、かすかに光を放ち、ささやきかけるように私を引き寄せていたのである。もし、私が、我々がSacagaweaについて知っているほんの僅かのことによくよく注意を払っていたなら、私自身の想像の中にこの歴史的なミステリーに対して信頼できる発言を見出すことができたであろうか? それは事実としての発言では決してなかった――今となっては、それは、取り戻すことが不可能な失われたものであり――が、しかし、それ自身は信頼性を十分持った発言であることには間違いない。
さて、もう一度、先の日誌の抜粋に戻ることにしよう。Lewisが引用しているところでは、Sacagaweaが誘拐されたのは、彼女が十二歳の時であった。我々は、彼女の部族がHidatsasの襲撃部隊により奇襲されたときに、他のもの達と一緒にその部族から略奪されたのだということを知っている。Sacagaweaの母親は殺され、SacagaweaはHidatsasの戦士に、数日間馬に乗って彼らの村まで連れて行かれた。多分、賭け事かなにかのために、SacagaweaはToussaint
Charbonneauの所有物となった。彼は、45歳のフランス系のカナダ人で毛皮貿易商をしていたが、彼女を法律上の正式な妻の1人として扱っていた。1805年の冬にLewisとClarkが彼女に会ったときには、Sacagaweaはおよそ17歳の若い女になっており、丁度、彼女の最初の子供が生まれる直前であった。
Hidatsasの部族と五年間一緒に過ごし、そして、LewisとClarkたちとともに3ヶ月の間旅を続けたのち、5ヵ月経って、彼女は再び彼女自身が略奪されたまさにその場所に帰ってきたのであった。私は、Lewisが記録しているように、彼女は何の“感動”も示さなかったが、しかし、これが、彼女が何も感じなかったと言うわけではないということだと確信している。彼女は、この冒険隊とともに西に向かって歩き続けているあいだ一体どんなことを感じていたであろうか?
彼女は彼女自身の話のなかのどこに自分を位置づけていたのであろうか、それが私には疑問であつた。被害者して?
それとも、ヒロインとして?
その時に起こったことを彼女は自分自身に対してどんなふうはなしかけたのであろうか?
彼女から彼女自身の幼年時代を奪った場所でもあるその川に向かって自分の子供と共に歩いている時に、彼女の過去と現在の経験のどんな交錯と気持ちが彼女の思いをよぎったのであろうか。
それは、私もその後あったのであるが、この内面的な生き方であり、そして、そこに到達する唯一の方法は、日誌の豊富な想像を通してであった。キャプテンたちがみたものは何であれ、Sacagaweaもなた、それを見ていた。;しかし、彼女がそこから感じていたものは全く違った物語だったのである。本質的には、その仕事が私を旅に導いたのだ。LewisとClarkが見たものを出発点として、私は、その探検隊の中では他の隊員達とは違った意味で旅をした、そのSacagaweaの異なった見方を想像しながら、まるで望遠鏡を通して見るように考えに立ち、旅を遡って行った。彼女はLewisやClarkのように科学的な任務を持っていたわけではない。;彼女はこの新しい大地を所有したばかりのアメリカ人でもなかった。;彼女は、アメリカ人開拓者の古い感覚、領地を主張するようなよそ者でもなかった;彼女は、少なくともその旅のはじめの2・3ヶ月は、自分の土地を歩いていたわけである。
新しくやっと来たLewisやClarkは夢を求めて西へと向かっていたときに、彼女は子供の頃のかすかな記憶の淵をさまよいながら思い出の地へ戻る旅をしていたわけである。
1805年の5月、Milk
Riverと他の者たちをののしるような川との間にある
ミズーリの地で、
もし、空に漂う雲の一遍の端が、大地に戻ってくると決めたとしても、それは、
降り立つ場所がそこにないことに気づくであろう。
川の両岸は、バッファローと、アンテロープ、そしてエルクで満ち合われ、
彼らは、我々が必死で川を遡っていくのを見ている。
川面は、ビーバーでまさに黒くなっている。
我々は、自分達が空腹だったことを忘れるまで、その尾と肉をたらふくと食べた。
キャプテンたちの日誌のなかで、全てのものの上に際立って目立つものは、Sacagaweaの確固たる信念と、勇気、そして、次第に大きくなっていく自信と独立心である。キャプテンたちの記録から彼女自身が、自分が犠牲者でもなければ、また、ヒロインでもないと考えていたことは明白である。1805年に彼女がこの探検隊に加わってから、ほんの一ヶ月後に、LewisはSacagaweaの“不屈の精神と断固とした決意”について日誌に記録するための時間を割いていた。:白い丸木船が転覆し、Sacagaweaのとっさの機転で川に洗い流されそうになった報告書のほとんどを、キャプテンたちの日誌を詰めた錫製の箱などとともども無事回収することができた。このことは我々に彼女についてなにを教えてくれるのだろうか? 彼女の背中には赤ん坊が背負われていたにもかかわらず、彼女はあらゆる面で探検隊の隊員達と同じような丁重さと気持ちを持っていたのであった。彼女は――必要なだけの食料、非難小屋、乾いた衣料、そして、信頼性のある設備を備えて、旅をしているこの大きな集団の持つ崇高な目的と、日々に増して行くダイナミズムを賢明にも理解していた。私は、旅の同行者として贔屓目に見たとしても、Sacagaweaが、5月までに自分自身を移動している探検隊の重要な一員であると自覚していたものと想像している。
いまや、私はClarkが乾いたページを開き、ペンを使ってきらめく黒インクで字を書くときに彼の指に喜びを感じることができる。
彼がそこの日の夕方の不幸な鎮圧の一部始終を書き始める前に、なんとか彼自身を乾かしてやることができる。
夕飯のあと、Cruzat、彼は私の大好きなフランス人であるが、かれが、フィドルを引きながら歌を歌ってくれるだろう。
暖炉のまえには、みんなが集まり、長い時間、一緒に生きてきた樹木のように、御互いに腕を組んでダンスを始めるだろう。
川の岸でも、また、離れていても、我々は1人の人間として移動している。
誰かがしり込みをするようであれば、ほかのものがさらに挑戦するだろう。
誰かが怠惰な気持ちや誇りおごるようなことがあれば、残りのものはコヨーテのように
牙をむき出しにするだろう。
6月の終りに、Sacagaweaが病気になり熱がでたが、このとき、この探検隊にとっての彼女の重要性がより深く理解された。Clarkが日誌の中に、“われわれのインディアンの女が病気になり、元気をなくしている”と記録していた。:彼は彼女をアヘンチンキの薬で治療した。LewisはSacagaweaが“病気が重く、彼女の気分がすぐれず意気消沈している”と書いて、よくその状況を把握していた。そして、彼女は彼らの“Snake族のインディアンと親しく交渉できるたった一つの頼りである”と付け加えている。
一ヶ月ほどして、この大発見の冒険隊は三つの分岐点に着いた。そこは、若いSacagaweaが略奪された場所なのである。Lewisが彼女は、“この場所でおきたことを思い出しても悲しみの感情“すら表さなかったとき書き残しているにもかかわらず、私はこの瞬間がSacagaweaの転換期であったと理解しないわけにはいかなかった。その場所の風景は、まさしくその時出来事と反響していたに違いない;Sacagaweaが彼女の母親が殺されるのを見た場所こそここであったし、また、そこが、彼女自身が連れ去られたところでもあったのだ。
その後、Shoshone族の生活様式以外にはなんの知識も持たずに、彼女は十二歳の娘になった。そして、いま、五年の月日が経ち、彼女は彼女自身が、同じ川の流れのほとりにたたずんでいるのに気づいた。この場所、彼女にとっては個人的なものでもありまた部族の象徴でもあるような場所なのであるがが、ここに立つ彼女に、十二歳のShoshoneの娘のなにが残っているのだろうかと尋ねる以外に彼女をどのように慰めることができるのだろうか。結局は何もできないのではないのだろうか。彼女自身がいかなるものであるかということを尋ねることは、彼女の部族についての質問に集中せざるを得ないことになる。彼女の家族のなかでまだ生き残っているものは居ないのだろうか、Lemhi Shoshone族の生き残りはいないのでろうか、そして、仮に居たとしても、彼女のことを彼らは確認できるのだろうか。彼女が戻ってきたことすら喜ぶだろうか、Sacagaweaは、LewisとClarkがShoshoneから都合よく馬を調達するために彼女を頼りにしていたことを、そして、もしShoshoneが応じなかったときにはどうするかを知っていた。彼女は横にかばわれるだろうか。彼女の故郷に帰ってきたというこの重大な帰還が、Sacagaweaの意識のあらゆる断片を騒ぎ起こすのにどんなことがあってそれができないということがあろうか。
すでに彼女の短い人生のなかに、彼女は、Shoshone族でもあったし、またHidatsasとも一緒に生活し、さらに、フランス系のカナダ人である毛皮商人、そして、違った意味ではあるが、LewisやClarkとも“共に生活をした経験を持っていた”のだ。Sacagaweaは、行方不明のShoshone族なのか、それとも、間違って仲間にされたHidatsas族なのか、あるいは、混血の子供をもったフランス系カナダ人の奴隷的な妻なのか、はたまた、2人の白人アメリカ人のキャプテンたちと旅を共にする同伴者なのであろうか。このときには、彼女はいったい、これらの“どの立場だった”のだろうか。これらの疑問に答えている彼女を想像したとき、彼女の身の上になにかが起こり、いま彼女がいかなければならない場所を十分にしるために、過去の経験の中に出き得る限り立ち戻りながら、その略奪された川のほうに立ち進んでいく彼女を理解しないわけにはいかなかった。
今、私は子供の頃に遊んだ水の中につかり、
湧き出る泉のように立ち上がる
新しい目的に向かうことが我慢できずに。
私は土手の白い土を削り取り平らにし、
倒れた木々を横切っていく
私は、いま、全てのものを、実にいやなにおいがするBig
Lake に
運んでしまう川を捜し求めているのだ、
太陽がいつも夕方に沈む川、
朝になったらまた太陽が昇ってくることができるようなところに、
その太陽を運んでいく縁起の良い奴だ。
子供と私が乾く前に、
私は、私がキャプテンたちに話しかけることが何であるか知っている。
私は彼らにこういうであろう。「私は瞑想の中で、遠い旅をして来た。
そして、決して連れて行って欲しいなどと頼まれることの無いような、
それはとてつもなくかけ離れた場所に居場所を見つけたの」と。
かっては、それが真実であった。
私自身が踏み込んでいって、理解することができる唯一の場所は、
山々に囲まれた私の昔の故郷であった。
いまや、私の目をこじらすことなく、
幾つもの初めて見る川を辿りながら進むSacagaweaを理解することができる。
その川こそ、彼女や、彼女と共に歩む隊員達の誰一人、
それまで聞いたこともない新天地に導いてくれる川にほかならない。
それから数週間もたたないうちに、Sacagaweaは、Shoshone族に再開していた。Lewisはこの再開が、“実に、感激的なもの”であったと記録していた。そして、彼の日誌の発行のときに、Nicholas
Biddleが、Sacagaweaは、彼女が最初に自分と同じ部族の人々と対面したときに、“飛び跳ねて、これ以上の表現のしようは無いというほどの喜びを表すためにあらゆるしぐさをし始めた”と書いた。彼女の従兄弟との対面、彼もHidatsasの襲撃のときに連れ去られた経験を持ったもので、彼もまた、熱狂的であった。キャプテン達とShoshoneのリーダーが腰を落ち着けて打ち合わせをする時に、Sacagaweaが通訳をするために呼ばれた。そして、会議が始まり、彼女が通訳を始めると、なんと、酋長のCameahwaitが自分の兄であることが分かった。そして、我々は、“彼女は飛び上がり、走り出して、彼に抱きつき、彼女の纏っていた衣類を彼のほうに投げかけ、辺りはばからず泣いた”と話を聞かされた。
Sacagaweaは数週間も前から、否、数年もの間、この再開を待ち望んでいたに違いない。そして、いまついに彼女自身の家族との際がかなったのだ。彼女が気にしていたことがなんであれ、Shoshoneは彼女が戻ってきたことを暖かく迎えてくれた:かれらは彼女がLewisやClarkとともに旅を続けるよりもそこに留まり一緒に生活することを望んだ。彼らの暖かい受け入れをとても喜んだが、それにもかかわらず、SacagaweaはShoshoneの部落に残らない決断をしていた。実に、彼女は彼女と彼女の子供がどんな苦難に遭遇するかを十二分に知っていながらも、この探検隊とともにさらに西にむかって旅をすることに固執したのだ。
彼女がなぜ、旅を続けると決断したのか?
私は、この探検隊のこの時点で、Sacagaweaは、自分がただ単に、自分の故郷に戻るためにだけ旅をしていたのではないと自覚していたに違いないと想像している。彼女には、いまや、もっと違った、大きなたびの目的、――LewisやClarkらとともに旅をする目的があったのだ。彼女は発見のたびそのものの精神を理解し始めていたのである。そして、その探検の終末がどんなものであるかを最後まで見たいという気持ちになっていたのである;彼女はここに留まることなどさらさら考えていなかったのである。ここに彼女のかたくなな意思の強さと、しかしながらも、忠誠心に満ちた誠実さが伺える。
4月から8月にかけて、Sacagaweaは彼女と同じ境遇にある旅人とますます拘わりをもつようになり、いまや、彼女はその探検の旅が終結するまで彼らと共に行動することを望んでいたのである。彼女がShoshoneと共にいる間に、Sacagaweaが、少なくとも、ちょっとの間だけでも、彼女は、発見のための冒険隊というこの新しい、これまでとは違ったもの達の仲間であるとの印象を与えていたのだと思う。早い冬の訪れと、山越えについてJean-Baptisteのことを心配したキャプテンたちの気持ちにもかかわらず、Sacagaweaはこの探検隊とともに西に旅を続けることにこだわったのである。
Clarkは彼の荷物の中から探している
我々が行軍して以来始めてのことである
彼とCharbonneauが有る一つの問題に初めて同じ意見をもった ――
Sacagaweaと彼女の赤ん坊はShoshoneと共にここにいたほうが安全だ。
駆け抜けていた鹿が自分の住処を立ち退いて我々のための居場所を提供してくれた
わたしはBaptisteと話をした
もし私がおろかであれば、まず餓死をするのはこの子なのだ
もし、おまえが、お前の母親は、彼女の半分の血をBitterrootsの向こうに
運ぶことだけの力を持ち合わせていないと心配するなら、
今、声を大にして言おう、三日月よ、私は彼に警告する
彼は、私の懐に這って進み、そして、眠りにつく
顔面に笑みをたたえながら
“出きるだけはっきりさせよう”とClarkが言う
Clarkは私に素敵な斑点のある子馬の手綱を握らせる
このことをBaptisteはどう思うかね ?
まさにいまから、お前の母さんの素敵な足は、丁度おまえのように、
土に触れることもなく旅をするようになるだろう
Bitterrootsを越える旅は、予想したように、難儀なものであった;隊員のほとんどが風邪を引き、病気で飢餓状態であった。もっと空腹であるとしてもそれはSacagaweaにとっては珍しいことではなかった。そして、彼女も、彼女の赤ん坊もこの時期に日誌のなかで何も触れられていないということがとても興味深いことである;明らかに、彼らは多かれ少なかれ他のものたちよりもより多くのものをあげたのであろう。そして、ついにこの探検隊はコロンビア川の河口に到達したのだ。その日は、1805年の11月の24日である。 ここで、Sacagaweaと黒人の奴隷であるYorkが他の探検隊の隊員と対等に、冬の四半期をどこで過ごすかについて意見を述べることを許されたあの名高い投票が行われたのである。
キャプテンたちが彼らの日誌のなかで何も語っていないと居ことがとても興味のあることであると、もう一度言いたい:その投票、すなわち、アメリカの歴史のなかでまさに最初の民主主義的な出来事に等しく参画することを認めることになる、SacagaweaとYorkも含まれた投票について、誰一人としてそれに異議を挟むものがいなかったのである。私がこの経験が、発見のための冒険隊と運命を共にしようというSacagaweaの感覚を確固たるものにするのに強く働いているのでないかと想像している。LewisとClarkは、彼女がShoshoneやHidatsas、あるいは、仮定でとしたほうが確かかもしれないが、Charbonneauとの結婚生活の中で彼女が経験した喜び以上のものを感ずることができる、意思決定の権利を与えていたのであった。
Clatsop砦というところにキャンプを設営したが、そこは、丁度クリスマスの日にClarkがSacagaweaから“二十匹以上の白イタチの尻尾”のプレゼントを貰ったと日誌に書いてあるところである。冬の北西海岸の湿った強い風を防ぐ、素敵な乾いた白い聖像を思わせる様な形をしたプレゼントであった。そのプレゼントは驚くべきことのように思える;もしLewisや他の隊員もSacagaweaからなにかプレゼントをもらっていたら、われわれはそんなに大げさに語らないであろう。Sacagaweaは以前に土を掘り起こし、隊員達が食べるための植物の根を集めていたことはあるが、これは、キャプテンたちが記録に残す最初の個人的な交換なのである。Sacagaweaはイタチを自分と捕まえたのであろうか? 彼女は密かにその尻尾を工作したのであろうか? はたまた、Clarkはなにかを彼女に返礼として差し上げたのであろうか?
私は、こうした疑問について最終的な答えをすることはできないが、彼らに尋ねることが、我々が、Lewisの1806年1月6日の日誌の始まりで次にSacagaweaに会う時の為の準備を助けてくれる。塩を作るグループがClatsop砦と太平洋の間を何度か行ったり来たりした。ある時そのグループが、鯨が浜に打ち上げられていると報告し、Clarkは肉と鯨の脂肪を確保するため何人かの隊員をつれて川を下ることにした。Sacagaweaもその時一緒に行くことを望んだ。Lewisは彼の日誌のなかで、“そのインディアンの女は、何としてでも一緒に行けるように頼んだ、そして、それが実現した;彼女は太平洋の海を見るために長い旅を我々と共にしてきてことを自覚しているし、そして、今、巨大な魚を目の当たりに見ることができたわけであるが、実のところ、彼女はこうしたことがまさか現実に許されるなんてことは到底不可能であると考えていた(彼女はそれまでに、大洋の海を見たことも無かった)”
この突然の大胆さのもとは一体何なのであろうか? 明らかにSacagaweaはキャプテンたちとかなりの親密な感情を持っていたに違いない。とりわけ、Clarkとは。多分、彼女は、ある意味では退屈であり、また、いらいらしていたのかもしれない。また、羨望の気持ちさえあったのかもしれない。結局、Clatsop砦で、蚤や、腐りかけた食料、厳しい雨などにより、みんなが異常な精神状態になっていたのであった。;塩を作っているグループが海の話をキャンプに持ち帰るまでの何週間かの間はそんな状態だったのである。
そして、いまやSacagaweaは、今度は自分が太平洋を見る番だと感じていた。この海に到達することが、結局、その探検隊の象徴となったのである。私は、他の任務は指示された仕事があったと想像している。Shoshoneが他の部族から聞いていた太平洋のことは、彼女にとっては神話であったのだ。大陸の大分水嶺を越えて、西に流れる彼女の故郷の川は全てやがてこのようにここに流れてゆく先を見出していたのである。;彼女がそうせざるにすんだのだろうか? このとき、もはや1歳近くになっていた彼女の小さな少年も、やはり同じようにこの旅の完結を成し遂げずにおられただろうか? 彼女は、他の隊員達から話しを聞くだけでなく、自分で浜に立ち、彼女自身の手で大海の水に触れたかったのだ。
ついに太平洋に辿りついたSacagaweaは、もはや、単なるShoshoneの若い娘というだけではないと私は理解している;彼女は彼女の本来の部族からはかけ離れた、LewisとClarkの友としてのインディアンの女なのである;そして、西部開拓の母であり、土作りの家やテント張りの小屋の暗い扉の奥のほうで火をくすぶらしているようなものではなく、そんな家から飛び出た、否、草原から脱出した母親なのであった。
彼女の前にも、また、後にも、Sacagaweaほどアメリカ大陸の西部の未開拓の大地全体を視野に入れた女はいないと思われる。そして、ここに、彼女はその大陸のはるかかなたの果てまで踏破したわけである。私は彼女が彼女自身の気持ちの中に彼女の息子と共に海を見ようという考えを持たずに太平洋まで見に行こうとしたとは考えられない。
この探検隊の誰もがそうであるように、彼女も彼女の部族のこだわりのようなものを、そして、その探検隊のもつ精神のすべからく合流するために彼女の独自性を表現するような考え方は捨てなければならないと考えていたに違いない。然るに、私は、いま太平洋にたどり着いたSacagaweaは、彼女が単に発見のための冒険隊の隊員であるというだけではなく、彼女が踏破したその広大な大地の全てにかかわりをもつ者の1人であると理解している。
今度ばかりは、腹が空いていたわけではなかった
どこかに辿り着こうかと急いでいるわけでもなかった
長いこと姿を見せることのなかった太陽が
丸い小石のなかで遊んでいた
Baptisteに黄いろ色した水の泡のなかを歩かせ
彼の顔を水の中に押し付けた
彼が生涯、その匂いを忘れることがないように
それから、私は海、その創造物のそばにある砂浜に横たわり
二十倍以上あろうか、それでもなおその尾に届かない
私は腹の中に進んでいった
エイーッ。他の生物の内部に立つ
あなたは死んでいるわけでもないし、また、誕生を待っているわけでもない
Baptisteの手をとり、彼に踊ってみせた
彼は彼の背に乗る息子とともに動いた
私は、可愛いKillamuckのガイドに大きな話をしているCharbonneauと共に
かれを残してきた
私は暫くお別れといった
そして、水の先端まで歩いていった
流れを横切るでもなく、また、流に沿っているわけでもなかった
川に拘わることなど何も考えていなかった
ふと気がついたら、他の人たちとそこにたたずんでいた。
もう、戻らなければならない
寄せる波に合わせて行ったり来たりしている浜辺の千鳥ほど
今日の私は気に病むものはなかった
そのずっと向こうには横たわる深緑の海は、
その表層の一部だけしか見せていなかった
彼女の部族のことを考えよ、彼らの英知と名声を、と
私は自分自身に言った
私がこれまで横切ってきたあらゆる流れはすべからく
この水を捜し求めていたのだ
そして、いま、私自身がそこに入ろうとしている ――
Sacagawea、鳥の女、水先案内人、
三つ網の髪をしたひと、
銀の勲章に耀く1人のひとが
波の頂上に乗っている