ホームページ 隠された歴史 Lewis & Clark Corps of Discovery
第1章
今、我々が抱いている興味が我々を我々自身の限界の中に閉じこめておく
かもしれないが、しかし、ずっと離れた将来のことを予測しないでおくと
いうことは不可能である。われわれの急速な多様化はそれ自身がそうした
限界を越えたところまで広がっていき、そしてその全体をカバーするよう
になる。つまり、この・・・・大陸を、同じような言葉を話す人々とともに、
同じような形で、そして、同じような法律によって統治することになるであろう。
Thomas Jefferson
homas
Jeffersonが、1801年に大統領になった時には、アメリカ人の2/3以上の人々が大西洋岸から50マイル以内のところに住んでいた。そして、Allegheny山脈を越える道はたったの四本しかなかった。まさしく、合衆国はMississippi川の東側の土手で終わっていたのである。
テキサスからカリフォルニアに伸びる南西の地方にはNew
Spainが横たわっていたし、英国はカナダを支配していた;貿易商人は、現在ではミネソタとかダコタあたりまで、貴重な毛皮を求めて南下して来て、その船は太平洋岸の北西部を支配していた。ロシアは、アラスカの前哨地で、カリフォルニアの北部海岸に今にでも砦を設置するような状況であった。MississippiからRockyの山々までは、Napoleon
Bonaparteが新しい世界のなかで再び王国を建設しようとしていたLouisianaと呼ばれる広大なフランスの領地であった。
しかし、多くの国々がその西部の運命を支配しようと夢見ていたにもかかわらず、彼らはその場所については、ほとんど知識を持っていなかったのである。スペイン人の征服者たちは南西部に広がって行った。フランスとスペインの毛皮商人はミズーリ川を部分的に開拓していった。そして、英国人が現在のノース・ダコタに当るMandan Indianを訪問した。また、太平洋の北部の海岸にはさまざまな国の船が、中国で途方もない値段で取引きされていたカワウソの毛皮を取引するためにやって来ていた。アメリカ海軍の将軍であるRobert Grayは1792年にコロンビア川の河口を発見し、ここは、後に彼のイギリスの敵対者であるGeorge Vancouverに確認され、地図に描かれるようになった。そして、1793年には、スコット人のAlexander Mackenzieが陸路でカナダを横断し、北アメリカでの毛皮貿易をすべて支配するために大陸全体に点々と砦と貿易取次所を築いて大英帝国と張り合った。
とは言いながら、眉唾の冨をむやみと欲しがる人々にとって、西部の大きさは依然として膨大な空白なもの―――それは、ただ風評と憶測とだけによって満たされている彼らの地図の穴のような所であり、知識の中の夢のような空隙部分として残っていたのである。
新しい大統領であるThomas
Jefferson以上にこのことを変えようと願ったものはいなかったのである。彼はVirginia
のShenandoah
Valleyから西50マイル以上の旅をしたことが無かったけれども、Jeffersonはいつも西部というところに心を惹かれていた。Monticelloにある彼の私的な図書館には、この地方に関する本が世界のどこの図書館よりも沢山所蔵されていた。
周りのものの誰かが彼に、そこには毛皮に覆われたマンモスやそのほかの前史時代の獣が今も歩き回っていると話した。また、ある人たちは噴火している火山のことや純粋な塩の山が45マイルの幅で180マイルも続いているとものの本に書いたりしていた。こうしたものを読んで、Jeffersonは、VirginiaのBlue
Ridge 山がこの大陸では最も高い山で、西部のどこかにはコロンブスがアメリカを発見するよりも3世紀も前にそこの新しい世界に住みついた伝説的なMadoc王子の末裔で、ウェルズ語を話すような青い眼をしたインディアンの部族がいると信じていた。
こうしたことから、当時の誰もがそうであったように、Jeffersonも北西部の交通路―― 川、あるいは、短い通路によって繋がったいくつかの川、を辿っていけば、その西部の山々を超え、東洋人ともっと簡単に、しかも、もっと多くの利益が得られるような取引が直接できるのでは、そして、北アメリカの冨の鍵を開くことができるのではないかと信じた。その北西部の交通路をいまだ誰も発見していないし、そこは誰にも支配されていない状態であったので、Jeffersonは、もしその交通路が確立さできればこの大陸の運命をコントロールすることができるかもしれないと信じた。
1世紀以上も、スペイン、フランス、そして、イギリスもこの交通路を必死に探していた。Jefferson自身もこの通路を探すために3度もアメリカ人による冒険隊を編成したが、そのたびにそれは失敗に終わっていた。1783年になって彼は、独立戦争の英雄でもあるGeorge
Rogers Clarkを、私的な冒険隊を編成してそれに引き込もうと試みた。が、その後、何の進展もなかった。3年後、親善大使としてフランスに渡ったJeffersonは、コネチカットのヤンキーであるJohn
Ledyardという人物にあった。かれもまた、その大陸を最初に横断し、名声と冨を得ることを夢に抱いていた。Ledyardの計画は、ロシアからアラスカに入り、太平洋岸からミシシッピーに、わずか二匹の猟犬と、インディアンの友好の象徴であるパイプと、薪を切り出すための斧を持って、歩いて横断しようというものであった。“彼はなかなか創意があり、情報をよくもった人物だった”と、Jefferson
は当時の記録に書いている。“が、残念ながら、彼はあまりにも想像が過ぎていた”とも言っている。にもかかわらず、彼は、自分の名前と何がしかのお金を与え、彼を送り出した。しかし、ロシアの皇帝であるCatherineが彼をシベリアで逮捕してしまったのでこの冒険はあえなく挫折してしまったのである。
George
Washington大統領の国務大臣の時に、JeffersonとAmerican
Philosophical Societyの何人かの会員がフランスの植物学者であるAndre
Michauxと1793年に、“ミズーリの高原地帯と太平洋との間を結ぶ最も近くて、便利な通路を見つけ、切り開くための”、探検をするという契約をした。但し、資金はたった128.50$が調達されただけだし、(Washingtonが
$25.00、そしてJeffersonは
$12.50を寄付しただけだった)、また、Michauxもオハイオ川を渡らせるようなことはしなかった。
が、大統領となったJeffersonは、もう一度これに挑戦する決意を固めたのである。
1803年1月18日。正式書類。 上院議員、ならびに、下院議員の皆様へ
ミズーリ川とそこに住んでいるインディアンについてはよく知られていないという状態を変えなければならない・・・しかしながら、その川の周辺の地域は非常に多くの部族の人たちが住んでいて、しかも彼らは膨大な量の毛皮を供給しているのである・・・。
10人、もしくは、12人程度の選ばれた聡明な隊員・・・なら、その全体を明らかにし、西の海岸に辿り着くことさえできるかもしれないのである・・・2,500ドルの出資金があれば、・・・・この計画は成功するであろう。
Thomas Jefferson
支援を得るための連邦議会への内密な文書の中で、Jeffersonはしきりにこの冒険隊のもたらす商業的な利益について強調した。しかし、かれは、フランス、スペイン、ならびに、イギリスの大使に対しては、――これらの国は、占領地を閉鎖するものと考えられた――この冒険隊の目的は純粋な科学的なものであると説明した。イギリスとフランスの大使は安全を保証するパスポートを直ぐに発行したが、アメリカの意図に疑いをもつスペインは、これを拒絶した。しかし、Jeffersonは彼らの拒絶を気に留めず無視した。
そして、1803年になり、Jefferson大統領の西部を冒険するという夢――科学のため、通商のため、そして、国家的な興味のため――がいよいよ実現する段階となった。
Lewis
大佐は、勇敢であり、分別が備わっているし、森の生活にもなれている。その上、インディアンの生活習慣や性格もよく知っている。彼は、正式な教育は受けてはいないが、今の自然界で起こっているさまざまな現象を非常に正確に観察するという類まれなる能力を持っているのである。
Dr.
Benjamin Rush へ Thomas
Jefferson
1803,
Feb. 28
大統領は、彼の発見のための冒険隊と呼んだ隊を率いるために、彼の私設秘書であるMeriwether
Lewisに目を向けた。Lewisは、Jefferson自身の出身地でもあるAlbemarle郡で、独立戦争で亡くなった農園主、その時にはLewisはまだ五歳であったが、そのまじめな息子として育った。彼は16歳まで、彼の母、兄弟、そして、姉妹の生活保護の面倒を見る立場にあった。18歳になって、彼は熱心に志願して、Jeffersonのあの不幸なMichaux冒険隊の隊員となったが、しかし、ここで彼は挫折した。
にもかかわらず、若いLewisは、西部ペンシルバニアとオハイオの開拓者の正規軍に加わり、1801年にJeffersonが彼をワシントンに呼ぶ前まで、前途有望な事務官として名をあげていた。そして、大統領の新しいたった一人の補佐官として、彼は新しい政府に忠実と思われる軍の指揮官のリストを作ったり、大統領の記録のコピーをとったり、使い走りとして飛び回り、また、今では、White
HouseのEast
Roomと呼ばれているが、その部屋、ここの部屋のことをJeffersonは、彼の娘に“教会の中の二匹のねずみのような”男が住んでいると手紙を書いているが、その部屋の整理をしたりしていた。
2年の間の、日常のJefferson
とのかかわりのなかで、Lewisは、大統領の西部地域に対する遠大な興味、すなわち、地理学的なこと、そこの植物や動物について、そして、住んでいる人々自身のこと、かれらの習慣、さらには、新しい国としての可能性といったもの・・に深くかかわりを持つようになった。
多くの人にとって、Lewisをそのような重要の探検隊の指揮官として選択したことは予期せぬことであった。“堅物で、容赦なしの”、と彼を知っている人はいった。“O脚で、ぎこちなく、律儀で、ほとんど順応性にかける”と。司法長官のLevi Lincolnは、28歳の若者であるLewisでは、あまりにも軽率であるようだし、多くのリスクがあり、この“国家的な事業を成就する”には、危険であると懸念を表した。Jefferson 自身は折に触れLewisが(彼の父親から引き継いだものと大統領は思っていたが) “ 意気消沈している ” ことに気がついていたが、しかし、彼がこの役目にもっとも相応しい人物であると認めていた。
長い旅の準備のために、Lewisはその春、Philadelphiaにある、American
Philosophical Societyの本拠地とできたばかりの国家科学学習センターに送りこまれた。その途中、彼は、石斧と、ナイフ、そして、一五丁のそこで作られている最新兵器
;
短い銃身の、54口径ライフルの試作品であるが、これは、その後、直ぐに軍の標準装備となったものであるが、これを調達するために、Harpers
Ferry にある兵器工場に立ち寄った。そして、およそ三週間近く彼はペンシルバニアのランカスターで著名な天文測量技師であるAndrew
Ellicottのもとで天文観測の勉強をした。
Lewisがペンシルバニアにいた、そのほかの月は、ペンシルバニア大学の四人の科学者によって仕込まれた。Benjamin
Smith Bartonは、彼に植物について教育し、それをどのように保護するかを教授した。Robert
Patterson は、さらに、緯度と経度の決定方法について教え、Caspar
Wistarは、彼は、化石の分析学者であり、その道の第一人者であったが、彼が、古代の獣、それらのうちのなにがしかは今も西部の地域では生存していると信じられていたが、その情報をどのように集めるか、を教えた。そして、医療に関しては、Lewisは、当時のアメリカで最も高く評価されていた物理学者のDr.
Benjamin Rushを尋ねた。博士はすでに冒険隊のために一揃いの医療箱を用意しており、その当時のほとんどの病気について、最も適切な処置に重点をおき、その内容を彼に指導した。放血は、Rushが発熱から骨の脱臼にいたるまですべてのものについて好んで用いた治療法であるが、これらについて伝授した。
こうした集中的な講義に加えて、Lewisは、フィラデルフィアで必需品――かれは、議会が認めた$2,500をほとんど使い果たしてしまったのだが、それらを手にいれるために時間を費やした。彼が手にいれたものは、経度を測定するために必要な、コンパス、象限儀、望遠鏡、そして高精度の腕時計(これは、$250もするものであったが)などである。さらにキャンプに必要な物品として、彼は、150ヤードの布を買い、これはオイルを塗った上にテントに仕上げ、シート、ペンチ、のみ、手縫いミシン、手斧、そして、砥石などを買った。さらに鉄製のトウモロコシの砕粉機、2ダースのテーブルスプーン、蚊よけのカーテン、101/2ポンドの釣り針と釣り糸、12ポンドの石鹸――そして193ポンドの“
即席石鹸
”と呼ばれるものを購入した。これは、牛肉と卵と野菜を混ぜて作った分厚い練り物で、旅の途中でもし、食料がそこをついたときに食べるつもりで作られたものであるが。
そして、$650ドルもの大金が、多分遭遇するであろうと思われるインディアンへのみやげ物を買うのに使われた。その土産物のなかには、12ダースの手鏡、4,600本の針、絹製のリボン、象牙の櫛、ハンカチ、数ヤードの色とりどりに耀く布、130巻きのタバコ、パイプのように二重になった手斧、8つの真ちゅう製のやかん、朱色の顔料、33ポンドの小さな飾り玉の詰め合わせ、それにそのほかいろいろなものが含まれていた。
彼は、彼と行動をともにすることになると仲間のために、45着のネル製のシャツを$71,1-を出して購入した。コート、仕事着、靴、ウールのパンツ、毛布、ナップザック、そして、ストッキング、さらに、火薬入れ、ナイフ、500個のライフルの火打ち石、玉にするための420ボンドの板状の鉛、そして、52箱の鉛のコンテナに入った176ポンドの火薬、このコンテナはいざという時には溶かして玉にするためのものである。彼自身の金も使って、Lewisは遭遇するかもしれないインディアンの気を惹くために珍しいものも買った。たとえば、長身のライフルであるが、これは、(BB銃のように)火打ち石で火花を飛ばし、火薬に火をつけるのではなく、圧縮空気で玉に火をつけるようになっている。
6月の半ばまでに、軍が3,500ポンドの必需品をオハイオ川に送り始めたときには、Lewisはすでにワシントンに帰っていた。その時、彼は、彼と一緒にこの隊を率いる指導者がもう一人必要である決断していた。そして、それが実際誰なのかを彼はわかっていた。
A
Secret Code and a Blank Check
LewisとClarkの探検隊の計画の中でThomas
Jefferson は賭けでやるようなことはしないように心がけていた。二つの事実が、かれが派遣団の成功を保証するためにどこまでも支援するつもりでいたことを示している。
Lewisからの神経を尖らせるようメッセージが、好ましくない人々に読まれることが絶対にないようにするため、Jeffersonは自分の弟子に特別の暗号コードを教えた。そのような秘密の必要性は、大統領にとって決して初めてというものではなかった。1790年に国務長官の時に、彼は外交上の連絡をとるために複雑な暗号機を発明した。しかし、Lewisは、大自然のなかでの旅にはその機械を携えて行くことはできなかったので、Jeffersonは彼に別の手段、アルファベットのマトリックスを使うような方法を習得させた。
Lewisにコードを実際に使う方法として、Jeffersonはサンプルを信号化した、――これは、願いもこめられたものだが ――メッセージは、“私はミズーリの源流にいる。全てが順調である。そして、インディアン達はとても友好的である。”そのコードを解読するにはある一つのキーとなる言葉を双方が思い出す必要があった。Jeffersonは“チョウセンアザミ”という言葉を選んだ。
この探検隊の間にLewisとJeffersonの間でとり交わらされた書簡の中に“チョウセンアザミ”という言葉のないものがいくつか知られている。 ――秘密にしようという大統領の強い意向ではあったが、だれが、Jeffersonがそれを受けとらなかったとか、その証拠を隠滅したと言うことができるだろうか。
別の証拠は、1803年の7月4日に書かれたJeffersonからLewisへの手紙である。その同じ日にルイジアナ買収に関するニュースが報道された。それこそ、それはどんな大統領と言わず、それまでに大統領がサインしたもののなかでは最も際立ったものの一つであるといえる。
そのたった一ページの手紙にLewisの使節団についての総括がなされており、もし、彼に彼が陸路で太平洋に出たときには、“仮に、西海岸で適当な船を見つけることができるなら、その船を使って”、海路で帰ってくるほうが安全だし、又、早く戻ることができるかも知れないと示唆している。
しかし、彼は、そんな船を買うための、あるいは、いろいろなものを買い揃えるためのお金は持っていなかったであろう。
Jeffersonの手紙には問題解決のための答えが提示されていた。大統領は、Lewisが求めるどんな協力、もしくは、必要とする物資を提供するなど協力してくれた人には、それが誰であれ、“合衆国の名において、その返済を誠意を持って固く約束するものである”、加えて、彼らが、海の船旅のなか、そして、世界のいかなる場所であっても探検隊がワシントンに帰る途中に出合った艦長であるとか、商人、外国の領事、あるいは、どんな国の市民であっても、その人たちに対して、“あなた方に援助をしてくれるような人々をより十分に満足させ、その人たちの信頼を得るために”、かれは決意した。“私、Thomas
Jefferson(アメリカ合衆国の大統領である)は、あなたのために、私自身の直筆で私の名をサインした、この一般信用状を書いた”。それは、なんと、金額に制限のない信用クレジットであった。
しかし、事態はかわり、Lewisは太平洋で船に出会うことは無かった。そして、探検隊が必要とする食料と、その地域のインディアンからの提供物以外にもはや交換するものすらなかった時には、Lewisは身にまとっている衣類のほうが、Jeffersonのこの例外的な白紙のチェックよりも比べ物にならないほど貴重なものであることを証明したのだった。
Lewisが“探検の間に、カヌーと馬、ならびに、みんなのために必要なものをうるために、交換品として提出した、ユニフォームのレースのコート、銀製の肩章、短刀とベルト、一本のハンガーとベルト、ピストルと野鳥狩のための道具など、全ての個人的な所有物に対して、帰還して政府に提出するためにまとめた控えの補償金としての支払は、僅か、$135であった。
クレジットの手紙を使わなくとも、冒険隊は、その予算以上を使った。この探検隊が正式に編成されたときに議会は、JeffersonとLewisが見積もった$2,500ドルの予算を公認した。しかし、全ての支払が終わってみると、その総額は、その15倍もの$38,722.35ドルであった。
1803年6月19日
親愛なるClarkへ
私の友人よ・・この大成功の中に何かがあるとしたら、それは、困難で、危険でもあり、また、名誉でもあることですが、是非、それらを私と共に分かち合える人は貴方以外にはこの地球上にはいないと私が考えていると信じていただきたい。
Meriwether
Lewis
William
Clarkは、バージニアで生まれ、彼の人生のうちのほとんどをケンタッキーとオハイオの開拓地で過ごしていた。そこで、彼は、インディアンと戦うことと妥協することの両方を学び、荒野のなかで砦をどのように築くか、そして、自分の知らない領域でどうやって自分の活路を見出すかということを学んでいた。かれを知る人は、彼は“
堅実で、将来性があり、そして、シーザーのように勇敢である
”といっている。
彼はLewisより4歳年上であり、嘗ては軍隊で彼を指揮したことがあったが、正式な教育はかれよりも経験が少なかった。しかし、実際の経験はかれよりももっと豊富であったし、慎重でしかも、より外向的な性 格の持ち主という―― 一人の友人であった。そして、他の人を訓練すると言う点と彼とともに歴史を作ろうとClarkを招いた人とうまくやるということについては完全にお互いの補填がし合える友でもあった。-
1783年のかれの最年長の兄が、西部を探検するというJeffersonの最初の提案をいやいやながら引き受けた。そして、今、William
Clarkは、同じチャンスを与えられ、彼はそのチャンスに胸が躍ったのであった。
親愛なるLewisへ
これは、多くの困難を承知の上で承諾するものです。が、私の友人と私は、そうした冒険の旅を御互いに喜んで引き受ける仲間は誰も他にいないと信じています。
William
Clark
Lewisの招聘は、彼自身と同様、Clarkにも指揮権を与える約束をするという、つまり、その探検隊に2人の指揮官がいるというすべての軍隊の基本である実施要綱を破るものであった。軍部は反対した。そして、Jefferson
が ――彼は、いつもLewisの冒険隊を信頼していたので ―― これに関わろうとしなかったし、Clarkは不服なところはあったがその処遇を受け入れ、これに加わることを承諾した。
しかしLewisは、彼自身とClarkが、二年半の間は、指揮官ではあっても第二指揮官のClarkと呼ばれること、そしてすべての決断はかれよりも若い、しかしながら、かれよりも上位の位にある友人と同じ扱いになること、これらのことを内密にするよう主張した。
キャプテンMeriwether
Lewis へ
貴方の使節団の目的はミズーリ川を探検することであり、そして、その源流を突き止めることです。この経路により、太平洋の海水と結び付けられるようなことになれば、・・・、つまり、通商という目的のために、ほとんど直接的に、しかも、現実にこの大陸を横断する水路が開けるということになるでしょう。
Thomas
Jefferson
Lewisが科学を勉強し、必需品を買い集め、Clarkを招聘している一方で、Thomas
Jefferson は、かれの大事な目論見を実現するための準備に忙しかった。彼は、Lewisのための膨大な量の、いざというときに役に立つような品物やその他のものを提供した人には、誰に対しても政府の全幅の信頼を約束するという信用状の草案を作り、それにサインをした。また、諸外国によって支配されているところからLewisの報告が来るときに、その報告書を取り上げるような敵対者のいることも想定して、Jefferson
は、そんな時にかれが使えるように複雑で、かつ、秘密のコードを考案した。
そして、大統領はこの探検隊のために
“
あなた方が合衆国を出発してから
”の精密な指示書を何枚にも何枚にもわたって書きとめた。北西部の、しかも、太平洋に最も直接的に到達する経路を発見し;その地図を作り;
土壌や、鉱物、穀物、動物、そして、気候などについて詳しく観察するように;
インディアンに会って彼らの喋る言葉、人口、宗教や習慣、食べ物、身につけている衣類、さらには、アメリカ人と取引をする意思があるかどうかなど記録に残してくること。彼の長い指示書のなかで、Jeffersonは何一つ見逃すようなことはなかった。そして、Lewisのノートの一つの写しでさえ、“
通常の紙がやられるような湿気でも痛まないようにカバノキの樹皮のうえに保管するよう”
にと指示したのだ。―― もっとも、この指示は、カバノキがこの冒険隊が通るルートにはなかったので、必ずしも実行されたとは思われない。
Lewisがワシントンを離れ、西部に向かう日の、1803年の7月4日になって、この冒険の持つ意味を大げさに押し広げるヨーロッパからのニュースがひろがった。それには、すでに知られているのにその役割を列挙したものとどんな秘密も不要であるというようなことも付け加えられていたのである。
ワシントン市、7月4日月曜日。 公的文書 4月30日、合衆国の代表
・・・とフランスの・・・との間で、協約にサインがなされた。それによれば合衆国は、ニューオーリンズの統治とルイジアナ全体についてのすべて権利をもったことになる。
National
Intelligencer
Jeffersonは、1802年に使節をフランスに送り、当時、港として非常に活気に満ちていたミシシッピー川の河口にあるニューオーリンズの買収を申し入れた。しかし、その時、イギリスとの別の戦争の準備をしていたNapoleon
Bonaparteは、まさに驚くべき別の提案をしてきた。それは、全部で820,000平方マイルもあるルイジアナの全域を、$15ミリオンでアメリカ合衆国に譲渡するという内容であった。その額は当時の合衆国の予算の大体二倍程度であったが、そして、そうすることが憲法上できるかどうか彼自身疑問に思ったが、Jefferson
は即座にその申し入れに同意した。こうして、大統領は、一エーカーあたりわずか3kという価格で、かれのペンのたった一書きで彼の統治する国の広さを二倍以上に拡張したことになる。
誰もが、――とりわけ
Jeffersonの政治的な敵対者は、ルイジアナの買収がたいへんな大安売りの買い物であると認めたわけではなかった。“狼や、放浪するインディアン以外に誰も住んでいないような野生の土地を買うのは、たいへんな浪費に過ぎない”と、ボストンにあるColumbian
Centinelは批判した。“その土地のためにわれわれはすでに多大の金を支払ってきた。もはや、その支払のために残された金はあまりにも少ないのだ”と、連邦主義者のJoshua
Greenは言い、さらに、“それは、われわれを、まるで月の土地にでもあるかのような、どんなところとも分からない、また、どこにあるかも分からないようなところに連れて行く、全く恥さらしの誇大妄想のようなもので、そんなことができる権利はもっていないのだ”といっている。
しかしながら、パリでは、ナポレオンは、ミシシッピーの西にあるその土地は、合衆国を“この後、ずっと強力にする”、だろうと予測していた。“私は、イギリスに対して”と、彼は続けた。“遅かれ早かれ、その誇りを損なうようなライバルをプレゼントしたのだ”と。
こうして、いまや、紙の上では大陸の西の半分は合衆国となったのである。しかし、LewisがClarkと合流するために7月5日にワシントンを去り、かれらの長い旅の最後の準備をするためにミシシッピー川の東岸に着いた時点では、Thomas
Jeffersonが西部を買収したという事実を知るものは誰もいなかったのである。