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LEWIS & CLARK  

         第4章 

                                           

                         

          

 

 

         

       私の気持ちは、これまでいろいろな人[ 白人]に会ったが、こんな嬉しかったことはない。もし、道をあけてくれというなら、誰もそれを邪魔したりしないだろう。いつも、あなた方に道を開けるでしょう。

                                                      Kakawissassa,

                                                      Lightning Crow

         

   

ewisClarkは、合衆国が西部に派遣した最初の公的な使節だった。彼らは、Jeffersonから指示されたように、太平洋への旅のなかで出きるだけ多くのインディアンの種族を探し出すつもりでいた。

 大統領は、この冒険隊に、国の最も新しい参入者となる先住民の人たちと友好的な関係を確立するように要請した。 ―― とりわけ、利益の大きい毛皮の取引について、アメリカ人が直ぐに主導権を握るように望んでいたからだ。しかし、純粋な科学的な調査という目的からも、Jeffersonは、インディアンの風俗・習慣にたいへん興味を抱いていたので、キャプテンたちの仕事の一部は彼らが出会った人々についてできるだけたくさんの情報を集めることであった。

 しかしながら、1804年の夏のあいだ、ミズーリ川の下流の領域では、彼らは仲良くならなければならないような、そして、そのための学習をするようなインディアンに遭遇することはなかった。彼らの名前の由来となった川の河口からずっと上流に住んでいたKansaインディアンは、冒険隊が彼らの居住地を通りすぎたときには、平原のほうにバッファローの狩猟に出かけていた。キャプテンたちは、Pawnee族、もしくは、Oto族に遭遇することを期待して、プラッテ川をすこし遡って、北の方に出かけてみた。が、彼らは誰とも会うことができなかった。7月の終わりになって、George Drouillard、彼はこの冒険隊きっての狩猟の名人であるとともに通訳もしていたが、彼がついに一人のMissouriインディアンに遭遇した。そのインディアンに、村に帰って、Clarkが“ council Bluff ”と名づけた西側の土手の上のしかるべき場所で一日かけて和平のための交渉をするので、そこに( Oto族も含めて ) 百人程度の酋長を連れてくるように説得した。

 

 August 3 この日の朝、2人のキャプテンは[ Oto族の ]インディアンと会議を開き、6人の酋長をアメリカ政府のもとに管理することを納得させた。彼ら全員に、全幅の親愛と感謝の気持ちとともにメダルとその他たくさんのプレゼントが渡された。・・・彼らは非常に感動的なスピーチを行い、我々と一緒にタバコを吸い、お酒を呑んだ。そして、握手をし、分かれた。

                       

 John Ordway

  8月の半ばまでに、彼らはOmaha族の領地を通り過ぎた。伝令が派遣され、LewisClarkは、インディアンに対して川に来るようにとの信号であるのろしをあげるため、草原の草を燃やすよう命令した。しかし、やはり、誰もインディアンは来なかった。そこでキャプテンは、Blackbirdという、四年前に流行した天然痘のために亡くなり、川の見える丘の上に、彼が可愛がっていた馬にまたがったまま埋葬されたという有名なOmaha族の酋長のお墓を尋ねた。そこで、LewisClarkは、彼の墓の墓標となっている竿に赤と白と青の三色旗を掲げ残してきた。そして、再び、ミズーリ川を遡っていった。

 8月の末に、とうとうYonkton Sioux( ヨンクトン・スー族 )と接することができ、James 川のほとりにある彼らの部落から、Calumet Bluffと呼んでいた冒険隊がキャンプしていた場所に、大代表団が訪問してきた。そして、13日の朝、インディアンたちは話し合いをするために川を越えてやってきた。

                                   キャプテンは以前に、 Oto族やMissouri族と対面した時と同じような手順で対応した ―― このやり方は彼らがそれ以後、二年間の間に出会ったあらゆる部族に対して繰り返し用いられたやり方である。

 酋長たちにアメリカの軍隊の力と技術を印象付けるために、キャプテンは隊員たちに行進をさせ、磁石や、コンパス、そして、小型双眼鏡などを見せ、そして、Lewisが彼の空気銃を撃って見せた。 彼らはことごとく、この不思議な光景を見てとても驚いた と、Joseph Whitehouseが書いているが、さらに そして、続けざまに数発彼が撃つと、すぐに標的となった木のところに跳んで行き、弾丸の丸い痕を確認していた。”

  アメリカという国の使節の裕福さを誇示するために、彼らは贈り物 飾りだま、布きれ、はさみ、縫い針、かみそり、櫛、手鏡、タバコ、ナイフ、石斧などなど、を差し出した。そして、片面にはThomas Jefferson の肖像が、その裏には御互いの友情のしるしとして握手している二つの手が刻み込まれたメダルと、酋長は合衆国の特別な友人であるということを書いた証明書をプレゼントした。

 そして、 ―― かれらの17の地域にちなみ 合衆国の偉大なる17の州 と表現して、キャプテンは次のように書かれた長い挨拶をした。

 

   息子たちよ、お前たちの古い父であるフランス人とスペイン人は太陽が昇るほうにある大きな湖のずっと向こうにいってしまった。そして、かれらはそこから二度と再び、彼らの残した赤い息子たちに会いに来ようとはしないだろう。

 

   息子たちよ、川を渡り、旅をしてきた新しい子供たちを父親の心で迎えた、アメリカ合衆国の偉大なる17つの州の酋長たちは、道を切り開くために我々を送り出した・・・そして、その道を平和への道とするであろう。

 

“Make Yourself Acquainted”

       ( 精通するように努力しなさい )

 

Thomas Jeffersonが、調査のための探検隊が遭遇するであろうインディアンの部族のことについて、指示したことは実に明快であり、 ――極めて広範囲にわたるものであった。“これのことに精通するよう努力をしなさい”と大統領は記録している。“あなた方の旅のなかで、許される限りその追跡の努力を怠らないように”、そして、彼は、沢山の研究すべき項目をリストにしてとうとうと説明した。:人口、喋っている言葉、食料、衣類、生活している住居、法律、習慣、交易の実態、“彼らの農業、漁業、狩猟、そして、戦争も含め、これらの普段のやり方と、その時に使用する道具などについて”、物理的な概観、病気のこと、“倫理観の状況、宗教、そして、これに関する情報”、などなど、その他多くのことが含まれていた。

 LewisClarkJeffersonの指示を実行することに最善を尽くした。彼らが遭遇したそれぞれのインディアン達について、数百にもおよび質問をし、興味のある項目について情報を収集し、できるだけ実際に自分達の目でみて、そして、日誌にその情報を書き込んだ。

 Lewisは、インディアンの部落のかわったものを記録することに卓越していた。彼の日誌のページは、料理用のポットからモカシンに至るまでのあらゆる事柄の記述がなされている。ある長い段落では、Arikara族がガラスビーズを作る方法について丹念に記述していた。“そのやり方は、彼らの間のインディアンによって秘密にされていた”と注釈している。“そして、いまだに彼らの中でも極僅かの人しかそれを知っていない”とのことである。また、別のところでは、Lakotas族がバッファローの毛皮でテント小屋をどうやって組み立てるのか、説明していた。Mandans族のところでは、――スケッチも付け加えて、――彼らの戦闘用の斧について記述している。歴史家のJames Rondaが言うように、“彼は、ほとんど写真で撮るように正確に物事を詳述する自然学者としての能力を持っていた。 ”Lewisは、楽しみながら、自然界のなかで生息する生き物を記述し、分類分けする実際の物の見方を民族誌のなかに持ち込んだ。“

 Clarkはインディアンの習慣、とりわけ、酋長達の会合に関係した儀式などについて、もっとよく記録していた。リーダー達は着飾り、御互いの関係に従って着座し、そして、タバコをまわして、これを吸うと言うようなことがどんな重要な儀式でも同じように執り行われる、と彼は説明している。そして、数多くの部族のなかで、酋長の権威は、しばしば、信仰的なものをよりどころとしており、それは、ただ漠然としたものでは決してないと理解していた。“威厳は”と彼は書いている。“酋長の秀でた功績として、戦士達の間では疑われることなく黙認されている。”と。

  他の隊員達もまた、彼らの独自の観察記録を付け足している。John OrdwayMandans族の間で使われている、埋葬地にある処刑台、インディアンの子供たちの輪と柱を使った遊び、そして、トウモロコシパンのこの地域の作り方などについて記録している。Joseph Whitehouseは、Salishの言葉の歌を必死の思いで解説している。Patrick Gassは、大工が職業であるが、かれは、土の家がどうして作られるのかを詳しく説明している。

 彼らは、インディアン達の間で、実際に見て、そして、記録しているものの何がしかは、探検隊が彼ら自身の文明のプリズムを通してみているものである。Gassは、Mandans族がバッファローの頭蓋骨に餌をやっているのを目撃して、:“彼らの迷信を信ずる気持ちは相当強く、頭をうまく使えば、生きたバッファローが来て、自分達に肉を供給してくれると信じるようになるだろう”と、これを嘲って言っている。

 難所であるBitterrootの山々をもう一度越えるときに、Nez Perceの若い調査隊のガイドが実施した儀式について記述している。:“昨日の晩、インディアン達がもみの木の焚き火を準備して、我々を楽しませてくれた。”と彼は書き、“彼らは、非常にたくさんの乾いた石灰を自分の体の近くに持っており、これを火の中にくべると、突然、これらの背の高い木の根元からてっぺんまで大きな炎が燃え上がるのである。…原住民たちは、木をこうして燃やすのは、我々の旅が好天に恵まれるようにとの祈りのためであると話ていた。”インディアンたちにとっては、これは習慣であった。Lewisたちにとっては、“この行事は、丁度、花火を演出しているように思えた。”( しかしながら、それからの五日間の天気日誌によれば、天気は大体晴れていたようであった。 )

 この調査隊の全行程をとおして、およそ50近くの部族と遭遇したが、これらの原住民アメリカ人の生活のめまぐるしいほどの多様性は、これらの日誌から非常に鮮明に( そのように記述されているわけではないが )、想像できるものの一つである。発見のための冒険隊が踏査した西部は“誰も住んでいない未開の荒野”でもなければ、ただ一つの“インディアンの世界”というわけでもなかった。インディアン達は自分達自身のことを、一つの完全に統一された集団ではなく、非常に沢山の種族からなり、――と考えていたが、そう理解するのも無理からぬところであった。

 LewisClarkは、バッファローの群れを追いながら、大平原を、わずか数分もあれば片付けてしまうことができるようなテント小屋に住みながら放浪している部族と出あった;、また、あるところでは、丸い土作りの家に住み、移住せずに一箇所で生活し、農業を営んでいる部族;また、木の小枝でできたそまつな小屋にすみ、草の根を掘って食べて生活している部族;魚を食料のためにとり、厚い木の板でできた大きな家で暮している部族などに出会った。有る種族は財産として馬を所有していたが、一方では、全く馬を所有していない部族もいた。また、あるものはひときわ背が高く、また、ある部族では、自分達と他の部族とを見極めるために前髪を天頂のほうに引き伸ばしているものもいた。そして、背が低く、ずんぐりしていて、板で自分の前頭部を平らにすることで美しく見せるというような部族もいた。

 ほんの一握りの部族は、かれらがLewisClarkたちに会う前に白人というものを全く知らなかったが、彼らのほとんどがすでにこの大陸に300年も前から到来していたヨーロッパ人の影響を少なからず受けていた。しかし、なおかつこの探検隊の出来事は、実際的に、アメリカが太平洋に向けて拡大していく以前に存在していた数多くのインディアン文化の、民俗学的な非常に貴重な基準として歴然と存在しているのである。
  ロッキーの山々を分割点として利用しながら、キャプテンたちは最終的には、“東部のインディアンに関する概要”と“西部のインディアンに関する概要”という形でまとめた。そして、そのなかには彼らが遭遇した( そして、その一部について、彼らはただ耳にして聞いただけのものもあるが )部族のそれぞれの名前が分類わけされており、そのそれぞれに対してすくなくとも19項目に別れていろいろな記述がなされた。インディアン達が話す言葉については非常に注意深く編集されていたが、その探検隊の終りのころ、どこかに片付けられたか、あるいは、無くしてしまった。

 しかし、毎日付けられていた日誌は、依然として、豊富で、時に、驚くべき事実を今も詳しく伝えてくれている:そのなかには、どこかアメリカ人が楽しんでいる西洋双六に似しているChinooks族が遊んでいたゲーム、Nez Perceがどのようにして馬の去勢をするのか;Shoshoneの賭けの習慣;大事なお客はバッファローの衣を着て村につれていかれて、丸焼きの犬の料理のもてなしを受けるというYankton Sioux族の珍しい儀式などが記述している。

 そして、勿論、LewisClarkが、インディアンに関わるすべてのことについて心をひきつけられていたJeffersonに送ったいくつかの絵もある。大統領の好奇心を満すために、インディアン達の作った工作物を詰めた荷物を次から次へと送った:絵柄のついたバッファローの衣、弓と矢筒、カワウソの毛皮で作られた煙草入れ、Mandans族の土製の容器、Clatsopの円錐状の帽子、Chinook族のスカートなどなど、沢山のものが送られたのである。

 彼らはインディアン、そのものも送った。酋長の東部を訪問した当初の目的は、外交的な取引をしようとするものであったが、しかし、彼らが大統領に会いにいく道中で、合衆国があまりに広大であり、かつ、強力であるということを思い知らされ、彼らは、アメリカとともにうまく共存していこうという気になった。しかし、Jeffersonにとっては、かれらの訪問はこの大陸にもとと住んでいた人達について、さらに詳しく知るもって来いの機会であった。彼らの文化を示すものが、たちまちのうちにMonticelloのロビーを飾ったのであった。

 “Mandansの私の友に話してくれ…私はすでに彼らを受け入れるために両手を広げていると”とJeffersonは、キャプテンたちがSt.LouisMandans族の酋長のShehekeと共に戻っているということを知らされたときに、熱烈な手紙をLewisに送った。“多分、我々のところにいる間に、…彼をMonticelloに案内し、他のインディアンの部族から受けたものと同様、我々が彼の部族から受けた特別の友情をどのような形で言い表そうとしているのかを知ればきっと彼は喜ぶに違いあるまい。:われわれは今、事実、インディアンの記念館のようなものを建てる準備をしている最中なのである。”

 探検は両面通行である。東部への“発見のための冒険”をしたMandans族の酋長のShehekeのことを考えると、人々は、彼が土でできた家の部落に戻り、Charlottesvilleの近くの家について、そして、自分達を“偉大なる父親”と呼んでいる人々についての様々なことを報告しなければならないのに、彼がWashington D.C.で見たことや、その行き帰りの途中での町の様子を聞くことにあまり疑問を持っていないのである。

 

 

 

 

 

  そのスピーチは、その領域全体に新しいアメリカ合衆国の統治権が及ぶことを説明するとともに、かれらに対して、直ぐに提示されるであろうアメリカの毛皮会社と取引をし、インディアンたちは白人とばかりではなく、御互いに敵対関係にある部族とも仲良くするようにと説得するためのものであった。すでにその当時、白人はミズーリ川のこのあたりで一世紀ちかく毛皮の取引をしており、このキャプテンの言葉の調子は、――インディアンを 息子たち とよび、合衆国のことを遠くの、力強い 偉大なる父 と呼んでいる が、―― もともとそこにすんでいた先住民のアメリカ人の耳には、なんら新しいものではなかった。

 

  息子たちよ・・・あなた方に変わらぬ友情の手をもたらしたのは・・・アメリカの17つの偉大なる州、そこは、天上に耀く星のように無限であり、そこに住む人々は、・・・どこまでも広がる・・・、その大地の終わるところは、太陽が昇る偉大なる川面である・・草原の草のようであるが・・・そこの偉大なる酋長であ

                                    

                                   

るということをよく認識していただきたい。・・・[ ] は、あなた方に献身的でありこそすれ、決してだますようなことはしない。

 

 息子たちよ・・・あなた方はすべての白人と平和的に暮らさなければならない : 隣人である赤い人たちと戦争をしてはならないし・・・あなた方の偉大なる父の国旗の保護のもとにあなた方を訪ねてくるいかなる貿易商の人間をも傷つけるようなことがあってはならない。

 

 息子たちよ。 あなた方の父が忠告することに従って行動したまえ、そして、幸せになりなさい・・・あなた方の州にあなた方の偉大なる父・・・彼は、この草原の草を焼き払ってしまう炎のように、あなた方を抹殺することもできるのである・・・を落胆させるような過ちの足跡を残すようなことがあってはならない・・・

 

 息子たちよ・・・[ 彼の ] 助言に従いなさい、そうすれば、何も恐れることはないであろう。なぜなら、偉大なる精神があなた方の国に微笑みかけ、そして、将来、あなた方に森にも勝るほどの繁栄をもたらしてくれるでしょう。

 

 Yonktonsの部族は、次の日の朝、返事をすると言った。しかしながら、その夜は、彼らはその新しい登場者のために、自分たち独自の儀式をとりおこなった。―― それは、歓迎の態度ではあるが、しかし、彼ら自身の力を誇示するかのようなものであった。

 

 暗くなると火がともされた。太鼓が彼らのなかに準備された。若い男は、いろいろなやり方で自分を塗りたくっている。彼らのあるものは顔全面が白いが、なかには、部分的におでこの周りとか、胸が白いという者もいた。それから、彼らは我々には奇妙としか思えないようなやり方で踊りを始めた。歌いながら太鼓をたたき続けるグループがあった。みんながダンスをしたが、かれらは特に若い者たちばかりであった。

  ・・・彼らは、時々、炎の周りを踊りながら飛び跳ね、そして、暫く休んだ。一人の戦士が中央に進んで、腕を他の国の方向に差し出して、彼がなにをしたか、どれだけ多くの人を殺してきたか、馬をたくさん盗んだとか、喋り始めた。こうしたことは、彼らの中では尊敬されることであり、素晴らしい戦士とみなすことになるのである。・・・彼らのなかで最も勇ましい男、最も多くの人間を殺してきたものが彼らの中では最高の栄誉を勝ち得るのである。

                    Joseph Whitehouse

 

インディアンのなかではLewisよりもゆとりのあったClarkは、彼の共同指導者が決してしたことがないような方法で、Yankton族を 大胆で、度胸のある人たちだ ”と呼んで、彼らの同席を楽しんでいるようだった。彼は、彼らの言葉の意味を書きとめ、その名前と彼らのさまざまな集団を列挙し、彼らの布切れやテントの形、飾りなどを記録した。そして、Yankton族が、この冒険隊に対する “ 尊敬の念を表す印として ”、丸焼きにして料理をするための太った犬を献上したと記し、イギリス人との取引の関係を討議し、戦いの間、決して後退したり、隠れ家に逃げ込んだりしないと宣誓をした彼らの戦闘集団についてその詳細を記録した。彼らは、“ 勇敢で、生き生きした若者で ”、また、“ 好感の持てる者 ”であるとClarkは書いている。Crow族とのつい最近の戦いでは、その戦闘集団のメンバー22人のなかから 18人もの若者が殺されたと、ノートにメモをした。他の仲間が引きずりだして助けたときには、たったの四人しか生きてはいなかった。Yankton族は、“ 自分たちの直ぐ脇にキャンプをはり、まことに礼儀正しく振舞った ”と、Hohn Ordwayが報告している。

                  

 次の日の朝食のあと、キャプテンによって集められた酋長たちは、タバコを吸うための儀式に使うパイプをプレゼントし、そして、彼ら自身のスピーチを始めた。Shake Handとよばれた一人の男が、彼はすでにスペインとイギリスからメダルをもらっているが、もし、Yankton族にもっとたくさんの贈り物と取引の品物をくれるなら、新しい“ 偉大なる父 ”に会いに行く用意があると言った。“ われわれは、自分たちのところにとどまる商人を確保したいのだ ”と、Tar-ro-mo-neeという別の男が言った。この男はプレゼントとしてアメリカの旗を貰っていた。もし、“ われわれの2人の父が、旗と一緒に、小麦粉と団子とそれに、何がしかのミルク[ whiskey ]をくれれば ”、 私は非常に嬉しいだろう ”と付け加えた。

 しかし、Half Manと呼ばれるYanktonの酋長は、注意をうながした。ミズーリ川のもっと上流で彼らが遭遇する次の部族は、とキャプテンに話しかけた。“ かれらは聞く耳を持たないだろう。そして、私が恐れるのは、あなた方はかれらを説得することができない ”と。かれらとは、Teton Siouxという ――Lakotas 族で――彼らのうわさはとおくワシントンまで届いた。

 

  あなだ方は、おそらくTetonSiouxと呼ばれる部族の一団に会うだろう。その国とは、私たちはとりわけ友好的な関係を持ちたいと切に望んでいる。なぜなら、その部族はものすごい影響力をもっているからである。

                     

Thomas Jefferson

 

 Lakota族は、つい最近になって西のGreat Plainsに移動した。しかし、彼らはいまや、この地方では、最も強力な部族となった。そして、ミズーリ川にそって往き来するヨーロッパの取引商品の流れをコントロールしようとしている。ここ数年、彼らはフランスやスペインの船乗りたちがさらに上流に行くのを阻止したり、かれらに貢物を要求したり、あるいは、カヌーを取り上げ、荷物をすべて巻き上げるなどして怯えさせていた。

 Bad River 、今は サウス・ダコタのPierreという川になっているが、その川の河口で、冒険隊は始めて彼らに会った。

 

  彼らは、まだそのような振りをしているのかもしれないが、私がこれまでに出会った人々の仲では最も友好的である。しかし、かれらはチャンスがあればものを盗み、こっそりと持っていってしまうのだろう。・・・15日ほど前に、彼らはMahars[Omaha]と闘ったばかりだった。65人の男たちを殺し、25人の女たちを捕虜として捕まえてきた。彼らは、その65人の頭皮を剥いで、彼らが踊っているときには、その女たちが支えている小さな柱に吊るした。

 私は、この日の晩に彼らがそれを持ち、踊りをしているのを見た・・・彼らは太鼓をたたき笛で音楽を奏でながら、・・・火を回りながら、1時近くまで踊りを続けた。・・・それは私にとってとは奇妙としか言えないようなものであった。

                       Joseph Whitehouse

     

  双方とも、9月の25日の朝に川の真ん中にある浅瀬で会議を持つことに合意した。太陽の日差しと風から防護のために天幕が張られた。贈り物の荷物が準備され、アメリカの旗がポールに掲げられた。そして隊員たちは正式の軍服を着た。 

  William Clarkでさえ、心配しているようであった。冒険隊に彼は注意をした。“ もし必要なときのために、あらゆることができるように心の準備をしておけ”と。それでも、キャプテンたちはうまくいくと自信を持っていたようだ。・・・そして、直ぐ近くの島を Good Humored Islandと名づけた。

  朝が開け、明るくなると両方の川岸に大勢のLakota族が集まってきていた。Black Buffaloという名の酋長、遊撃兵、それにBuffaloの占い師が ――30人程の戦士たちに囲まれて――その儀式のためにやってきた。

  

  三人の酋長に対して三つのメダルと一枚のアメリカの旗が渡された。何本かのナイフと小さなプレゼントの品物・・・それに、黒いバッファロー、赤い上着、そして、縁反帽、羽飾りなどが、タバコと一緒に・・・ 頭と思しき酋長に渡された。彼らはたくさんの贈り物を貰うまでは多くを語らないように思えた。そして、そうするものと予測していたのだが、彼らはもっとたくさんの贈り物を要求し、我々を停止させる、されなければ、人質を一人残してゆけといった。

                       John Ordway

 

  LewisClarkは例により――行進と、空砲を撃って――軍隊の威力を誇示してみようということになった。しかし、これは、Lakotaにはあまり効果がなかった。冒険隊は彼らに商取引扱いを提示した。キャプテンによって提案されたその新しい取引のやり方はLakotaの影響を土台から崩そうというものであった。

 彼らは再度さらにたくさんの贈り物を要求するとともに、冒険隊をこれ以上上流には行かせないと言い張った。三人の酋長のためにキールボートをさっと見せたが、その場の緊張した雰囲気を取り除くわけには行かなかった。Clarkは、そこで、彼らを岸に下ろした。

 しかし、彼らが岸にあがった時、三人の戦士が、別のものがマストをつかんでいる間に、カヌーの二本のロープを掴み取った。そして、その遊撃隊は刀を抜いたClarkに激怒して大声でわめきだした。岸にいるLakotaの戦士たちは弓矢を張った。

 

  キャプテンClarkは全員に銃を持ち戦う用意をするように言った。キャプテンLewisのほうは、[キールボートの]甲板の上でやはり銃を準備するように命令した。大きな回転銃には、16マスカット玉が充填され、いつでも使える状態であった。そして他の2機の回転銃も炸裂弾が詰め込まれ、いつでも銃撃できる状態であった。キャプテンClarkは・・・我々はやらねばならないし、また、止めることもない・・・われわれは決して腰抜けではなく、それどころか、れっきとした戦士であると、彼らに話した。

 すると、酋長は、自分たちにも戦士が居る。もし、われわれがこのまま探検を続けるなら、その後を付いて行って、次々にわれわれ全員を殺すといった。

                        John Ordway

 

冒険隊、全体の運命がその緊張のなかにさらされた。

  双方に大惨事が起こることを回避したのは、酋長のなかのひとり、Black Buffaloという男だった。かれは、問題を変えて、彼の只一つの要求は、彼の村の子どもと女たちにこのキールボートの中を見せ、冒険隊が出かける前に彼らと会うことだと言って取りなした。

  Clarkは即座に同意し、さらに三日の間、―― 親善の儀式と時たま衝突があったものと記された――冒険隊はLakota族と一緒にいた。しかし、彼らは、キールボートは1マイルほど離れた、柳で覆われた島、ここをClarkは、その時の彼の気持ちを思い起こしてBad Humored Islandとなづけた、その島の近くに停留させた。

 

 未開人の中には恥ずべき悪者がいて、ミズーリ川の海賊として、海賊行為に頼るということは彼らに一次預けておくに過ぎないと思わせ、彼らのそうした行為が、我々の政府によって止めさせられるまで、何時までも続けているにちがいない。

                          William Clark

 

  それから直ぐに10月になった。天候は次第に寒くなった。冒険隊が川を遡るときには、かれらはLakota族が追いかけてきて、襲撃してくるのではと常に警戒をしていなければならなかった。もし、そうなったら、と一人の男が書いている。“我々は、戦うか死ぬかのどちらかだった”と。

  その代わり、かれらには、川の土手に土でできた家の無数の集落が目に入るようになった。これら家は、かってはArikara族のものであった。彼らは、農耕を営んでいて、わずか20年前のことであるが、その頃で、30,000人もの人口があり、ミズーリ川に沿って、延々と100マイルにわたって支配していた。それから、1780年代の始めに、天然痘が大流行し彼らの多くがなくなった。インディアンたちはその病気に対してなす術がなかったのである。Arikara族の10人に9人が亡くなった。

 108日に冒険隊はその部族がのこした――三つの小さな部落についた。そこで、彼らはTeton Siouxから受けたものよりずっと暖かい歓迎を受けた。

 

  [ここにいる]だれが、あなた方のボートのロープにあえて手を置くようなことをすると想像するだろうか。否、そんなものは誰もいない・・・もし、私が生きている間にあなた方が戻ってくるなら、あなた方はもとの私であると分かるでしょう。我々はあなた方が帰ってくるのを心待ちにして川を見つめているでしょう。

                  Kakawissassa, Lightning Crow

 

   Sioux族は決していい心の持ち主たちではない・・・私が[偉大なる]父に[東方へ]会いに行っても、私は、私の部族が危機にさらされる恐れがあるので直ぐに帰ってくるつもりだ。[しかし]、私は、それでも行きたい・・・私が戻ってきた時には、それは、私の部族にとって嬉しい結果になるだろう。

                   Piahito Eagle’s Feather

 

  Arikaraの酋長たちは彼らの敵で、上流に住んでいるMandan族、Hidatasa族と平和となるよう努力すると約束をし、かれらはアメリカとの通称をもっと増やしたいと考えており、そして、LewisClarkJeffersonを尋ねて東にぜひとも行くように説得したOto族やMissouri族の酋長たちの代表団に、自分たちの代表を送ることに賛成をした。

  LewisClarkがあったすべてのインディアンのように、Arikara族はこの冒険隊の一行を正確に理解することに苦しんでいた。彼らの兵器や荷物を積んだキールボートにも拘わらず、彼らは戦闘集団でもなかったし、また、毛皮の取引商人でもなかった。キャプテンが説明をした。我々は、探検隊であり、“西にあるという偉大なる湖、そこは大陸の終りで、その湖の湖面から太陽が昇ってくる長い旅に乗り出したのだ”と。Arikara族はみんなで話し合いをし、結局この探検隊は自然の観察者だと結論した。

 この冒険隊はArikara族のところに4日の間居残った――そして、緊張を解きほぐしながら、Lakota族とともに通り抜ける時には、Jefferson の教えに従って、彼らの招待主の習慣を研究した。キャプテンが協議の会合が終わってウィスキーを提供したときに、Arikara族は辞退した。そして、友よ、なぜ君はそんな人間を馬鹿にするようなものを差し出すのかね、と彼らは上品に尋ねた。そして、冒険隊がJohn Newmanの“犯罪と不服従の態度”に対して75回の鞭打ちの刑を判決として言い渡すために最後の軍事法廷を開いた時には、Arikaraの酋長はその命令にたいへんなショックを受けた。それは、その恥ずべきひどい扱いに対してではなかった。かれは、“私の国ではたとえそれが子どもであっても決して折檻などしない”とClarkに話した。

 しかしながら、本当にかれらが興味を示したのは、Clarkの奴隷であるYorkに対してであった。

 

  インディアンたちをとても驚かせたのは私の奴隷であった。かれらはそれまで黒人というものを見たことがなかった。大勢のものが彼の周りに群がり、彼の頭からつま先まで

食い入るように見つめていた。

                             William Clark

 

 どこの州でもかれをとてもよく待遇した。子どもたちは彼の後をついてまわり、かれがみんなの方に振り向くと、みんな、彼から逃げ出し、いかにも怖がっているように彼を恐れていた。

                           John Ordway

 

 Yorkは、自分は捕まえられた野生の熊で、飼いならされたけれども、今でも、時々人間の新鮮肉を食べていると言って子どもたちとよく遊んだ。大人たちも非常に興味を示した。Yorkの肌の色と強靭な体には、――きらきら光る弓矢や不思議な目新しい道具を持っている他の冒険隊の隊員に対してよりも、それ以上の特別な精神的な力が備わっていると理解した。

   アメリカ人にとっては、Yorkは奴隷という身分であった。しかし、Arikara族にとっては、彼は大きな魔力であったのだ。

 

    Arikara族とおなじようにSouix族にあった不思議な習慣は、彼らが感謝の気持ちを表したい相手に対して、気持ちのいいタバコを与えるというものであった・・・[ やわらかい新しい]タバコがある男から、我々の方に送られてきた。彼らはこの日の晩にキャンプにきて、非常に礼儀正しく振舞った。

                            William Clark

 

   Arikara族――北部平原の他の多くの部族も同じで、――の間には、性的な関係は儀式の意味合い色が濃かった。若い男の妻とセックスをすることにより、それは、普通、一族の年寄り、あるいは( 重要なよそから来た者)の“魔力”とよばれる知恵と特別な力が、その若い夫に伝授されるというものであった。多くの部族が一夫多妻であったし、一晩のあいだ妻を訪問客に差し出すことはある意味での歓迎の気持ちを表すものであった。

 Arikara族は、“私がこれまで見たインディアンのなかでは一番好感の持てる部族であった・・・親しみやすく、と同時に良くできていた”とPatrick Gassが記録していた。そして、彼らの女たちは、Clarkによれば、“われわれを可愛がるほどやさしかった”ようだ。記録ではどちらのキャプテンも、長い旅の間に彼らが受けた親切な性的行為のどのような提供に対してもそれを受け入れたという証拠は何も残していない、ただ、他の隊員がそれを受け入れたことについてはなんの疑問もない。

 

  October 21  その日の晩は、まことにありがたくない霙と雹が降った。そして、正午前には雪になった、が、我々は早い旅立ちをした。

                    Patrick Gass

 

   冒険隊がさらに北に進み、今のノース・ダコタの地に入った時に、膨大な数のガンと野生の鳥の群れが我々の頭の上を飛んで、南の空にも渡っていった。夜には霜がはった。時には雪の吹雪となるようなこともあったが、時期はまだ10月であった。Clarkはリュウマチに襲われた。それをLewisは暖かい小石を包んだ綿布をあてて治療した。     

 St. Louisを彼らが離れたときに、キャプテンたちは冬になって行軍が止められる前にMissouri川の源流まで行きたいと考えていた。しかし、それは、いまや問題外のこととなった。

 Clarkの見通しによれば、10月の26日までに、彼らはその偉大なる川を1600マイルほど行進しているはずであった。しかし、いまここは、確かにその源流の近く――もしくは、西部の山を越えて、彼らを海岸まで導いてくれると信じていた伝説で名高いNorthwest Passageの近くにいたことはまちがいなかった。

  実に、6ヶ月の厳しい旅の結果、彼らはMissouri川のかれらの地図のなかの最後の目標となっていた地点に到達していた。その向こうにあるものは、あらゆるものがこれまでうわさと憶測しかなかったものである。

 冬の到来とともに、キャプテンたちは、まだ知られてないこの地の片隅であるここにとどまる決心をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

         Vision  Quest (霊感の探求)

              William Least Heat-Moon

 

1995年の6月、ニューヨークから太平洋岸までアメリカの内陸部を横断する旅の途中、私と三人の仲間はSt. Louisの近くの河口からモンタナの大分水嶺に近い源流までミズーリ川を遡っていた。LewisClarkの冒険隊がおよそ200年も前に偉大なる西の太平洋に続く彼らのたどったと同じルートに沿って、泉の流れに逆らい2,500マイルの行程を進んでいた。いくつかの通路は、C-Doryと呼んでいた22フィートほどの底が平らな小さなボートに乗って、また、あるところでは、わずか4馬力ほどの小さなモーターをつけたGrummanカヌーに頼らなければならなかった。長い登りは、時々、その流れがわれわれを折角登ってきたのにまたもとの場所に戻してしまいそうな、そんな倦怠感を覚えさせる場所だった。

  中央ノース・ダコタにさしかかったある日の午後、われわれは、それからの行程の苦労を少しでも楽にしようと、そのC-Doryを引っ張って一時しのぎのドッグに慎重に入れて、陸に上がり暫く歩いて、サンドウィッチを食べることができた。と突然、深い雑木林のなかから、5人ほどのインディアンが現われた。2人の男と、1人が女、そして子供が2人であった。彼らはまさに、大雑把に作られた、土器の容器のような丸い大きな頭をしており、――はるか西部でも――これまで見たこともないような部族であった。そして、明らかに彼らはヨーロッパ系の血を引くものではなかった。肉体的にも、また、顔の作りからしても、はいているデニムやT-シャツにも似ず、彼らはどこか別の時代から来たような感じだった。

  我々はインディアンの土地に来ていて、彼らは我々が不法に侵入してきていると注意をしようとしているものだと私は想像した。ドッグにゆっくりと近づき、ビールのカンをもった大人の1人が、われわれがどこから来たのか、冷静に尋ねた。最初は、彼らは大西洋からボートがGreat Plainの真ん中まで到達することができるなど、容易に考えることはできないと思っていたようだが、しかし、彼らの好奇心が直ぐに彼らの注意と疑いの気持ちを抱かせることとなった。彼らは船に乗りたいと言い出した。彼らが乗り込むと小さな船の後ろのほうが深く沈んでしまった。子供は船室の中に飛び込み、男達は音響測深器を覗き込み、舵をまわし、コンパスをトントンたたいていた。そして、かれらも一緒に乗りたいと言い出した。われわれの持っていた燃料は明らかに少なかったし、そこからがガソリンが補給できるような場所までは数マイルも離れていたので、その申し出は受け入れることができなかった。そして、かれらの落胆を和らげるために、T-シャツに、我々の船のシンボルと名前 ――Nikawa、これはOsageのことばで“川船”を意味するものであるが、を印刷してあげた。かれらはそれを非常に喜んだようだった。そして、驚くことに、一枚の耀くジャケット、そこには、部族の名前であるJUNKPAPAの文字が書かれていたが、をプレゼントしてくれた。かれらはTeton Siouxの一つの部族であった。Hunkpapaはとても恐ろしい戦闘部族で、何年も何年も白人の侵略に抵抗し続けた。19世紀の中ごろには、インディアンの代理人が、彼らのことを“今現在、ミズーリに住んでいるもっとも恐れられる部族である”と話していた。Sitting Bullとは、Hunkpapaのことであった。

 LewisClarkのこと: 1804年の冒険隊の行く先で恐怖のもととなったのは、他のどんな部族でもなく、多分、それはTeton族であったことを思い出しながら、われわれはそこに立ち止まった。キャプテンたちがキールボート : そこは、兵士たちが“彼らにとって不思議であるというよりずっと奇妙なもの”を誇示したところであるが、そこに数人の酋長を招待し、とても良い感じで始まったアメリカとSiouxとの間で開かれて会議で、彼らの緊張を和らげようとして差し出したギフトがあまりにも少ないと、インディアンが不満であるような気持ちを抱いた。 そこで、Lewisは取引用のウィスキーの瓶を開け、それぞれの酋長はごくわずか、グラスの1/4ほどずつそれを受け入れた。わいわいがやがややっているその最中、ひとりのSiouxの男が、彼は酔った振りをして、“厄介なこと”を言い出したので、Clarkは土手の影に居るTeton族を拘束するために緊張と、困難と危険な仕事を始めた。そこは、かって、ある男がClarkのほうにゆっくりと近づいてきて、そして、冒険隊は川に戻れと声を荒くして脅したところでもある。キャプテンは彼の刀を抜き、Lewisはボートの上の旋回銃に射撃の準備をするように命令した。そして、他の兵士たちは、Siouxが矢筒から弓矢を引っ張り出す間にマスケット銃を取り出した。Clarkは、ひとりのあまり頼りにならない仲介者をとおして、酋長たちにこの冒険隊はこれからも川を上っていくし、白人は“決して臆病ではない、戦士である”と理解させるように話した。これに対して、Black Buffaloの大酋長が、彼らもまた戦士であり、簡単には冒険隊を追跡することができるし、“だんだんと”、お前たちを殺すと返事をしてきた。立ったり、目を輝かし、顔を御互いに見合わせながら座ったりしながらも、双方とも冷静であった。そして、ついにLewisBlack Buffaloと2人の男をキールボートに招待するということで、このいざこざを解決することになった。そして、次の朝、大もてなしをするためにさら 5マイルほど上流に遡ることにしてその晩は収拾した。言い争ったことに対する政策的な結論は、損得的なことによって導き出されたものであったのだが、本質的にはその時のある種の誇りとインディアンの土地を通過するということへの敬意であった。

 私のクルーと私がHunkpapaと一緒にNikawaと名づけた船の上で話をしているときに、Teton Siouxと対面することがとてもスリリングなことであると気がついた。そして、どうやったら、偶然にも、その二百年も前に起こった出来事をほとんどそのまま再現することができるのか、考えていた。そうなることを私は望んでいたが、あまり敵対するようなことなしに。ここ最近の8世代の間に多くのものは変わってしまったが、しかし、なお、LewisClarkの冒険隊のことは、驚愕と、魅惑的な間近の出来事のように思われる。そして、私は、“親愛の印象”をその先住民たちに植え付け、そして彼らに、LewisClarkTeton Siouxとうまく行かなかったことはあまりにも明白ではあるが、その合衆国との新しい政治的、ならびに、経済的な領域をもたらすという政策をもったThomas Jeffersonの笑顔を思い描くことができた。Teton のことを“彼らはミズーリの海賊として何時までも生き残っている原住民族の中でも最もいやらしい悪党である”と書いたClarkの手紙を思い起こし、Jeffersonはおそらく、小さなボートの上で、笑顔で笑っている今のわれわれのすべてを見たら、実に喜んだであろうと想像した。

  旅行記の中でのClarkのここでの厳しい記述は、今われわれがいるところよりもすこし上流の場所にある、Knife River Mandan Hidatsa  の村の近くの丸太作りの砦のなかでで書かれたもので、そこの人たちは、厳しいGreat Plainsの冬のなかで冒険隊に物質的な援助をして生き残りを助けた人々なのである。砦の近くにある柵で囲まれた土作りの住居は、そこに住んでいるふたつの部族と、白人たち、ならびにCrow, Cheyenne, Arapaho, Kiowa そして、Assiniboinとの間の貿易のための壮大な集合場所であった。丁度そこは、冒険隊が北西の大草原に展開するインディアンの素晴らしい多様性をもつ生活と文化を目撃し、共に語った場所なのでもある。

 ミズーリ川を遡っていくそれぞれの新しい通路で、LewisClarkは、彼らの独特な風習と彼らの気質が、冒険隊に対して、違った対応や、近づきかた、キャプテンが握手をし、彼らが“やるように”もっと賢く振舞うことの必要性を求めて来るさまざまな部族に遭遇した。われわれは、今日、それらの部族の人々のほとんどが、彼らが最初に白人に出会ったのは、LewisClarkが初めてではないと言うことを思い起こさなくてはならない。たとえば、中央ノース・ダコタのミズーリ川の上流沿って住んでいる人々は、Sieur de la Verendryeと彼の仲間と、3世代近くも前の1738年にすでに会っていた。こうしたインディアンたちは、東部からくる訪問者と彼らの目的についてかなりよく分かっていた。そして、彼らは自分たちの冒険隊を取り扱うやり方はトレーダーに対するものとできるだけ変ったものにするという意識をもっていた。それは、LewisClarkが通路を探すことに対して、消極的な、あるいは、敵対的な対応をやめ、暖かい歓迎の気持ちをもつというものであった。リーダー達は、出発する前にごく限られた、インディアンの通商のネットワークについての極狭い情報しか与えられていなかったので、さまざまな部族が持っている経済的、かつ、政治的な可能性と将来性のうねりの深さと、それに、いろいろな違う言葉でやり取りされ、しかも、通訳もとても流暢とはいえないレベルのものであったので、その複雑さを直ぐには測る知ることができなかった。そして、問題は、部族間同士の間の争いというものが依然として残っていたことである。丁度、川がそれぞれの急流で、そして、樹木に覆われた曲がり角で、あるいはまた、曲がりくねった連続の上流への登りで、ことあるごとに新しい挑戦を用意したように、同じことをここの先住民たちがしたのだ。

 私たちがいつも心しておかなければならないことは、この冒険隊がただ単に、純粋な科学的な見識のために編成されたものではないということだ。われわれがそれを好もうと好まないとに拘わらず、そしはある意味では、領土拡張主義の一つでもあった。Thomas Jeffersonと議会の大半のものがとにかく、フランスから購入したばかりのこの新しく、広大な土地の確固たる所有権を確立することを望んでいた。さまざまな影響のなかで、この発見のための冒険隊の帰還を発表することと、それを既成の事実とすることは、熱烈な愛国主義の表現であり、白人がそうなることを望んでいた、Clarkの言葉でいう“われわれの従順な息子たち”である人々に対する確信であった。そうした態度と表現が時々違反行為をもたらした。後に、イギリス系のカナダ人商人であるAlexander Henryによれば、若いHidatsaの酋長には、“アメリカのキャプテンが、自分たちは偉大な戦士で、もし、怒らせると地球上のすべての国を破壊しつくすことができるほどの強力な力を持っていることをインディアンとかれらの国に印象付けようとして言い渡した、その高く響きわたる言葉”は、決していい感じのするものではなかったようだ。

 その任務の中で、調査旅行は、カナダの商人の影響を勉強させ、St.Louisをミズーリ川の上流の州の経済的な中心地とすることで、“ワシントンの偉大なる父”のもとで経済的、ならびに、政治的な主導権を確立する手助けをしなければならなかった。他の時代と同様、LewisClarkは、政治的な主導権と経済的な統制が西部の地域を共に発展させ、そして彼らの派遣隊がこの変化の案内役になるものと信じていた。彼らはまさに正しかった。

 そして、インディアンはどうであったろうか? 彼はLewisClarkを若い合衆国のために西部地域を開拓し、それを統治することを助けるような初歩の科学的な探求を計画している探検隊というよりももっと新しい形のある種の取引商人以上のものと見ていて苦悩をしていた。発見のための大冒険隊はほとんどの部族にとってその研究という意味からだけでなく、ますます大きくなる交換取引の間に、かれらに贈り物と取引の品物を持ってくる

という初歩的な重要性をもっていた。ここで確認したいのは、インディアンたちは確かにその男たち(とりわけ、Clarkの奴隷であるYork)と、彼らの小道具(Lewisの空気銃とか、双眼鏡、Clarkのコンパス、あるいは、記録用紙にさえ)に好奇心を持っていたが、かれらの最大の興味の対象は、経済的なものであった。それは、どうしたら彼らは、こうしたものを手に入れることができるのかというようなものであった。この冒険隊から消費主義の基本的な形式を取り除いたときには、だれもが、彼らの旅が、その後いかに違った形で、それは多分、いかに痛ましく続いたかを想像できるだろう。

 

 疑いなく、その28ヶ月の間、驚くほど平和的に経過したということは、物質的な収穫を求めた赤い人と、それと同様、白人のほうもまた、当面の経済的に避けられないものとして御互いがそのことを合理的によく理解したまさしく、その結果によるものである。そのプロセスは今日の国際的な外交のやり方とはすこし異なるが。いつくかの部族は――あまり、固い同盟関係になかったためか――華やかさを誇示し、ほとんどの場合は、インディアンの物ねだりと取引の上での収穫を望むことを抑制するための軍事的な脅しであったが、それにもかかわらず、この小さな探検隊にめぐり会うことはなかった。実際、Teton 族との騒動が示すように、贈り物とか、取引の商品が少ないと、インディアンたちの期待に背くそうなときには、御互いの関係が悪化し、時によっては危険を感ずることさえあった。

  Mandan Hidatsaの集落のなかで冬を越したことは、この探検隊にゆっくりとさせる機会を与えるとともに、二つの文化を間近に観察するチャンスを作ってくれた。この人たちがどんな風にして生活しているのか : 彼らの愛とか、争いごと、食事、信仰、憧れなどといったものがどのようなものであるかを理解するには極めて都合が良かった。彼らがノース・ダコタに立ち寄ったおよそ半年のあいだに、キャプテンたちの理解の深さは明らかに深くなっていた。男たちは儀式や祝宴に参加し、そこの婦人たちとじっこんになり、バイソン狩りに一緒にでかけ、誕生や死にも立会い、Mandanを喜ばせるものが何であるかを学び、Hidatsaは疑い深いということを知った。こうして、ついにその探検隊は、さまざまなことを試し、偶然にもわずか数ヶ月前に知り合った生活の方法を記録する絶好の場所を確保することができたのである。彼らは、これまで、ただ彼らの使命を遂行するのに必要な知識を隠すだけだった東の人々の偏見を拭い去るチャンスを得たのだ。

 探検への1,000マイルをもとに、彼らは、インディアンの生活について、1803 年にJefferson設定した指導に基づいて、それは、正式には教育を受けていない兵士たちをにわか仕込みの民族学者に効果的に変えて、その質問に対しての回答を始めたのであろう。こうして、彼らが学んだものは直ぐに膨大な経済的な重要性を持つものとなったのである。大統領はLewisに手紙を書いた。“あなたが強制的に描いた筋書きを妨げているような人々と実際に行う取引は、その人たちの知識をますます重要なものにする”と。他の質問のなかに、彼は先住民の伝統、食べ物、衣服、住居、病気のこと、治療、そして、“そこの人たちの規則の特徴、習慣、ならびに、気質”などについても特別に質問している。Lewisに大きな影響を与えたフィラデルフィアの物理学者であるBenjamin Rushは、その探検隊の顧問としてLewisにもっと詳しいリストを指示している。“かれらは子供にどのくらいの時間乳を上げているのか? ・・・おきる時間は朝の何時であるか?・・・彼らの風呂は?・・・彼らの間では自殺は常識なのか?・・・愛は永遠なのか?・・・彼らは死体をどのように始末するのか?・・・という質問であった。

  このPlainの冬の長い滞在の間、探求に重点をおいたことがLewisClarkを教育するのにたいへん役立った。そして、かれらはの残りの数ヶ月の旅の間にインディアンとの折衝をより効果的に進める方法を学んだ。

  実際、その部族と御互いに利益を上げられるような取引の関係を確立する道を、どれだけ開拓したかはもっと疑わしい。その冒険隊の手にかかり死んだインディアンがたったの2( Reuben Field Piegan人の1人を刺し殺し、もう1人はLewisが鉄砲と馬を盗もうと侵入してきたBlackfeet1人で射殺した)であるということは、この冒険隊が非常にうまく生き残り、そして、安全に帰還したことと同じように注目に値することである。

 さらに西に進み太平洋までの残りの旅の途中、探検隊はそれまで白人とはあまり交流のなかったたくさんの部族と遭遇したが、あまりこころよく歓迎をしない地域の人間との関係と、そこを安全に通過する経路を見つけることは、これまでよりずっと計略的になった。今日であれば、失敗とか、もっと悪く言えば、Mandan砦でのゆゆしき教訓のような災害は起こらないとだれもが思い浮かべることができる。Knife Riverの部落で強制的に停留させられ、その間にインディアンが指図したことを、キャプテンたちはのちの探検にうまく利用した。そして、それは国家にとっても同じことだった。 

 その冬のまことに教訓的な逗留が、この冒険隊の旅とそのあとの数多くの探検隊、これらの探検隊の興味は、素行の良くない兵士たちによって構成されており、あるいは、先住民の生活についてのあまりにも惨めな理解と思いやりしか持ち合わせていないような貪欲な企業家たちによって実行されたように、あまりにも商業主義と帝国主義的なものに基づくものであったが、これらの探検隊との間に決定的な差をもたらした。

 軍事的な立証という観点から考察すると、この冒険隊が合衆国の北西部の一角に入り込んでそこを探検したということが、2人のBlackfeetFieldLewisに殺されてから84年後の1890年にサウス・ダコタのWounded Kneeで最終的な武装インディアンの抵抗が終結したが、これはそれ以前に起きた、1876年のGeorge Armstrong Custerと彼の騎兵隊の事件にまでたどり着くことになり、西部開拓の大キャンペーンの始まりとなったわけである。

 これは、なにも皮肉ではなくて、ただ、論理的に、私が気に入っているモンタナのBlackfeetによって作られた杉の木の鉛筆で、これらの言葉を書いただけである。その論理とは、つまり、Meriwether Lewis, William Clark, Benjamin Rush そして Thomas Jeffersonのあと、西部をアメリカが開拓しようという人道的な教養をもった人があまりにも少ないのではないかということである。Lewisに対して懸命に教育したようなJeffersonの壮大な望みは、悲しいかな、今日では全く空虚なものとなっているようだ。多くの国がその権力と正義を自分たちの周りの人々に対して拡大し、強めようとしていくそのの興味を考察すると、どんな知識をあなたは・・・することができるのかということを理解することが役立つのではないか、それは、その理解が、文明化し、訓練しようと努力をしている人々をして、かれらが効果的な作用を及ぼさなくてはならないと思っている人々の中にある概念と実際に対して彼らのやり方をうまく適用させることができるようにしてやることと同じようなものだ。Jeffersonとこの冒険隊がしたことは、期待どおりにすぐに、――あまりにもつよく“発展”の存在を信じ、価値があり、人道的な知恵によりわくわくさせられるようなものへの要求、そして先人の努力に対する国家の攻撃をことごとく打ち砕いた。

 アメリカの先住民族の間での常識に、「vision quest(霊感の探求)」といわれるようなものがある。それは、通常、孤独と貧窮しかないような人里はなれた場所を、形式的に旅をするもので、そにに滞留することにより、その人は、調和をもたらし人生の目的を与えてくれるような、自分の存在というもの、そして、宇宙そのものについての新しく、明敏な知識を悟ることができるのである。私には、それはLewisClarkがアメリカの代表としてある種の国家でもあった大ミズーリ川を遡っていったことが、正当な評価ではないかもしれないが、いま我々がアイデンティティと、目的と、調和と、そして、この豊かな大地の公正な分け前を求めているような、その後、何世代もの人たちが続けていく機会をもった、Vision questであるように思われる。われわれは、いまだ、その行くべきところからどれだけかけ離れた場所にいるのか、そして、どれだけたくさんの間違いをしたか、LewisClark、そして私は、今、自分の手の中にあるそれを見ている。私が手にしているのは、今日、鉛筆の生産地となったBlackfeetの製品である。