ホームページ 隠された歴史  なるほどなぁーアメリカ

    

      

 目      次   
1.     ルイスとクラークの探検」との出会い
2.    アメリカインディアンのことについて
3.    アメリカ人の価値感の底にあるもの  
4.    インディアンの価値感  
5.    西洋人の価値感                 
6.    ルイジアナ買収        
7.    ゴールドラッシュ         
8.   幌馬車隊の通った道               
9.    そして、今    
農業大国アメリカ
工業国アメリカは、まだ発展途上国だ
どこの町にも立派な教会
教会の乱立
アメリカの気候・風土
五大湖が東部海岸に雨・雪をもたらす
なぜ天気が良いのに大洪水
年間降雨量で生活様式が変わる
化石の宝庫
鉱物資源の話
アメリカ人の合理性
日本は放置国家
テレビ番組
サラリーマン気質
アメリカで働くときの障壁は高い
アメリカの男女同権
人種差別の実態
契約社会の落とし穴
月単位でものを考える習慣がない
一日24時間制って
アルバイトが公然
転職できない人間は駄目な人間
Wage Worker の賃金
金曜日に金がないとどうなるか
性のモラル
土地は安いか、天災もひどい
ナショナルパークは教育の場
Photo ID
高速道路は滑走路兼用
まだ南北戦争は終わっていない
北と南の価値感の違い
アメリカの道路交通規則の合理性
どこにもinformation center
モーテルが安い
天と地の別世界
さいごに  

 

1. ルイスとクラークの探検」との出会い

  仕事の合間、せっかくアメリカに来たのだから、すこしは英語の力も上達させなくてはと思い、まずは忘れた単語を思い出すことからはじめようと、原本を読むことにした。さて、なにか適当な本はないかということで、ふらっと本屋に立ち寄る。と、本屋の入り口で目に見張ったのは、そこに、「Lewis & Clarkの探検」と書かれた本がずらりと並んでいる。まさしく、日本の流行作家の作品のオンパレードという感じ。いろいろな本が二メートルくらいびっしりと並んでいるのである。このときには、「えっ、何だって? Lewis and Clark? そんな人の名前はこれまで聞いたこともない。それにしても、この本の種類のたくさんあること。これは、一体何者なのだ?」という感じで、何の気なしにその中の一冊を手にする。最初から、分厚いものは大変だし、また、文章だけの本では飽きが来る。と、沢山の写真が挿入され、値段も手ごろな一冊の本が見つかったので、これを入手する。後で考えたら、そのときに手にしたこの本が実はとても意味ある本であった。というのも、この本が、ある教育番組映画の解説本として書かれたものであったということ、写真がふんだんに取り込まれていること、映画そのものがミドルスクール程度の学生の教科書的な内容でとても理解しやすいものであること、さらに、その内容が、ある種の意味でアメリカの歴史の舞台裏を鮮明にしようという意図の下に編集されていること、こうしたことが、この初めて聞く物語をとても興味深いものにしてくれたからだ。そして、もう一冊手にしたのは、これはまた、内容がとても学術的なもので、この物語の歴史的な意味を解析し、アメリカの歴史の中での役割をよく説明しているものだった。こうして手に入れた「ルイスとクラークの探検」という二冊の本。まずはその やさしいものをじっくり読もうということで、毎日、会社から帰り二時間程度の読書をすることにした。ただ、目で文字を追っているだけでは、何の勉強にもならないということで、これを日本語の文章に訳すことにした。

 こういうわけで、最初は写真の説明を興味深く眺めている程度であったが、その説明文と、このルイスとクラークの探検というものの紹介を詳しくたどっていたら、それがとんでもなくアメリカの歴史にとって重要なものであるということがわかった。それまで、そんな話が存在することすら知らなかった自分が、如何にアメリカについての知識に乏しいかを思い知らされ、そして、この国のもつ知られざる歴史とは何なのかということに非常に興味が湧いてきた。では、一体、このルイスとクラークの探検とはどんなものであろうか。そして、それがどういう意味で興味深かったのか。

 「ルイスとクラークの探検」って、なんだ?

 では、このルイスとクラークの探検とは、一体どんなものなのか。アメリカは、1805年にフランスからルイジアナを買収した。すなわち、当時、ルイジアナという地域、これは、アメリカ大陸のミシシッピー川から西の地域を漠然と示す言葉で、この地はフランスが毛皮の取引のために統治していた。一方アメリカは、ヨーロッパからの移住が急激に増え、人口の増加にともないアパラチア山脈を越えての西洋人の入植をなんとしても進めなければならないという状況であった。独立戦争後、国の情勢は一段落していたとはいえ、新興国のアメリカにとっては、なんとしても国土拡大が必要だったというわけである。そこで、時の大統領トーマス・ジェファーソンは、フランスに通商の拠点ニューオーリンズの買収を打診した。これに対し、イギリスと対立していたフランスのナポレオンは、アメリカ大陸にイギリスに対応することのできる大国ができれば、自国に有利になると考え、この提案にたいし、ミシシッピー川から以西のルイジアナの売却を提案したのである。こうしてアメリカは、国土が一揆に二倍となるような広大な土地、2100平方キロをわずか、1500万ドルで手にしたのである。当時、この地方はフランスの統治下にあったとは言え、ここに住む原住民のインディアンは、必ずしも西洋の国の支配下にあったというようなものではなかった。そこで、ジェファーソンは、これらのインディアンに対し、この国の盟主はアメリカ合衆国であるということを知らしめる使節を派遣することにした。ただ、当時の状況としては、この広大な土地を武力で平定することは到底不可能なことであり、そこで、平和的にインディアン達に、アメリカの支配権を説得する手立てを考えたのである。そのための施策は、この地のインディアンの生活の実態を調査し、インディアン達に、アメリカ合衆国との友好的な条約を結ばせるというものであった。ただ、後者の意図を諸外国に気づかれると武力衝突になると考え、ジェファーソンはミズーリ川を遡り、太平洋側に流れる川との接点を見付けるための学術調査隊を派遣することにした。しかも、その調査隊の隊長には、自分の私設秘書である年若いルイスを指名した。そして、そのルイスは、軍隊時代の上官であるクラークを副隊長として招聘するが、その条件は、この探検隊の中では、二人は全く同一の権限を保障するというものであった。当時、軍隊には二人の指揮官は置かないというのが不文律としてあったが、ルイスはあえてこれを破り、すべての命令には二人の合意がなければならないと約束したのだ。こうして、探検隊には二人の隊長が存在したわけだが、この二人の間には、探検の間、全く意見をことにするというものはなかった。たとえ、意見が分かれても、どちらかに決めなければならないときには、その決定権は二人には平等に与えられるというもの。そこに二人の友情の深さを感じる。

 こうして、この探検隊は、1805年から1806年にかけて、苦難を乗り越え、ミズーリ川を遡り、ロッキー山脈を越えてコロンビア川に合流し、そして、やがて太平洋岸に到達するのである。そして、たった一人の犠牲者、しかも、それは病死という、全くの平和的なインディアンとの折衝の末にアメリカに帰還するのである。また、この旅には、インディアンの年若い女が同行し、彼女はこの探検隊がロッキーの山のなかで迷ったときには、幼かったころの自分のふるさとを思いだして探検隊を救うなど、この旅のなかで幾多の障害を克服するときに大活躍をする。その功績は、彼女の姿がアメリカのドル硬貨にモチーフとして描かれているほどのものである。

 

 この探検隊がアメリカ合衆国の歴史の残した意味合いは、現在のアメリカ教育現場に携わる教師の人達をして、もし自分が歴史の史実のなかで、その現場に立ち会いたいとすれば、どんな歴史上の出来事かというアンケートで、一番に支持の高かったものが、アメリカの独立戦争でもなし、奴隷解放でもなし、また、アポロの月着陸でもなく、このルイスとクラークの探検、そのものであると言わしめていることからも、その素晴らしさを感ずることができる。

 

これほどまでだから、今でも、この探検隊の話は、沢山のアメリカ人が痛快な物語として愛しているし、その形跡をたどる人も少なくはないとのこと。この話を知り、しかも、自分の滞在しているネブラスカがその探検隊の重要な経路になっていることから、これは、少しでも、その後をたどってみようということになった。ただ、はじめのうちは、アメリカでのドライブにもなれて折らず、どこに行くにも、綿密に下調べをしたうえで、間違いのないようにと、行く先はほとんどがネブラスカの東の州境を流れるミズーリのほとりを走るというだけのものであった。ところが、これがいざこの川沿いを走っていると、もう、いたるところに「ルイスとクラーク」にちなんだ、公園、博物館、そして、記念碑が立っているのだ。これは聞きしに勝る大変な話なのだということに直ぐに気がついた。そして、これをただ単なる興味半分で、その形跡を辿っているだけでは、時間がもったいないという気になってきた。というのは、どこの博物館に行っても、そこには、とても学術的に高いレベルの解説書が用意されていて、これを無料で手に入れることができる。その内容を読んでいくと、このルイスとクラークの探検とは、まさしく、西洋人とインディアンの出会い、そして、二つの文化の融合していく歴史そのものであるということが理解できることに気がついた。こうして、もっと、インディアンのことを知りたい、価値観の違いはどのように克服されていったのか、その違いは今はどんな形で残っているのか、などということが自然に疑問の形となって湧いてきたのである。

 

 ルイスとクラークの探検の後を辿れば、ミズーリ川沿いのインディアンについての状況が良く分かる。しかし、もうすこし良く調べてみると、このアメリカ大陸はもともとがインディアンの土地、国だったということが分かった。なんと、このアメリカ大陸中、いたるところに沢山のインディアンの部族がいたのだ。

こうして、インディアンのことに興味が湧くと、今度は、その地を訪ねてみようということになったのである。これが、私が、四年間にアメリカ大陸を10万マイル、地球四周、走り回るという動機となったわけである。

 

2. アメリカインディアンのことについて

アメリカの歴史

インディアンがどのような形でアメリカに同化していったのか

 

インディアンの土地を訪ねて、アメリカ中をドライブしてきました。四年半の間に走った距離は、10万マイル。これは、丁度、地球を四周したことになります。これだけの距離を走り、アメリカ大陸の中心にあるネブラスカから、アメリカの四つの端まで一人旅のドライブをしました。北西の端には、シアトルの先にOlympic National Park があり、さらにその先にCape Flatteryという、岬がある。ここは、MAKAR INDIAN RESERVATIONとなっており、この地の原住民の人たちが住んでいる場所である。ネブラスカから 2,000マイルを走って、この地に着いた。

 そして、南東の端、サンディエゴは、ここを発見したスペイン人、Cabrillo にちなんだ、Cabrillo National Mon.で、大航海時代の海の発展の歴史を学んできた。ここまでは、ネブラスカから、六日間の行程だ。

   

 どうしても、行かなくてはの決意でたずねたのが、キーウェスト。ここは、フロリダ半島の先にある、島伝いのハイウェイ一号線の出発点にもなっているところ。ヘミングウェイが、「老人と海」を執筆したという別荘。そこは、かれがシーライフを存分にたのしんだ。太平洋とメキシコ湾の境目になっている。真っ青な空と、漂う白い雲、青い海原と対象的な、椰子やパパイヤのまばゆい緑、そして、そんな中に白一直線のセブンマイルズブリッジは、さすがに走っているだけで充実感を感ずる、風光明媚な橋。アメリカ東海岸の南の地帯は、もともとがスペインの植民地だ。そんな雰囲気のするフロリダ半島までの旅は、やはり、ネブラスカから、5日を掛けて走りぬいて辿りついた場所。2,000マイルの旅。

 アメリカの四隅のうちの一つが残っていると、残り少ないアメリカ滞在の日をやりくりして、帰国の一ヶ月まえにドライブしたのが、北東部の地域。この地はヨーロッパにも近く、アメリカでももっとも早く開けた土地。それだけに、バージニア、フィラデルフィア、マサチュセッツ、どこに行ってもアメリカの歴史を感じさせてくれもものがある。アメリカの北東の端は、カナダに通じていて、そこには、「赤毛のアン」の舞台となっプリンス・エドワード島がある。ここまで来て、行かないわけにはゆかないと無理を承知で、ここまで足を伸ばす。結局、2,500マイル走りまくり、ここの大西洋の潮風を頬に感じてきた。

 

アメリカの大自然を目の当たりに見ることができた。

  アメリカ大陸、48州のうち、47州を訪ねることができた。これだけ走れば、アメリカを隅々まで走りぬいたというと、すこし僭越になるので、まあ、ほぼ、全域を通り抜けてきたくらいには言えるのではないか。そして、その間には、地方のまちまちに立ち寄り、アメリカの田舎の町の風情を直に見て、そこに住む人たちの心情を考えたりしてきた。そんなドライブのなかで感じた、「私なりのアメリカ」です。

 

 3.  アメリカ人の価値観の底にあるもの

アメリカは広い

  国土が日本の26倍もある。人口は、およそ2.3倍。だから、人口密度は、日本の10分の1ということになる。しかも、その人口の大半は、西と東の沿岸地帯に集中しているわけだから、ミシシッピー川からロッキーの山々にかけての、いわゆる大陸の中西部はもっと人口が少ない。

 誰でもがあのグランドキャニオンの多きさに度肝を抜かれる。しかし、アメリカの広大さは、あんなものではない。ワイオミングの大平原。モンタナの広大な草原。ワシントンのどこまでも続く麦畑。そして、テキサスに行けば、サボテンの砂漠が延々と続いている。Salt Lake Desertは、これまた、100マイル近くも、塩の砂漠のなかを一直線にハイウェイが走っている。そこは、恐怖を覚えるほどの異様な雰囲気の世界だ。それだけではない。

ユタ州のSalt Lake City からネバダの州都Carson Cityへの道は、通常は、インターステーツ80を走るが、その南にハイウェイ50号がある。この道路、アトラスの地図帳にLoneliest Loadと紹介されている。ユタのDelta という町からネバダのElyという町まで、150マイル、この間、全く人家がない。予断であるが、この何もない荒涼とした荒野のなかに、ポツンと近代的な工場が建っていた。これが何かと疑問に持たないわけがない。底には導入路があって工場の近くによることはできないが、その案内にあったのは、ここがウランの精製工場であった。確かに、ここでは、テロリストが濃縮ウランを盗もうと思っても、陸上輸送の間に用には発覚し、見付けられ、逃げぬけるうな状況ではない。アクセスするだけでも相当大掛かりな窃盗団を組まないと、まず、成功しないだろう。ということは、ここのセキュリティーはそれだけ高いということになる。ものは考え方次第。この発想に恐れ入りましたの一件。

 

そして、そこから、Fallonという町までは、260マイル、この間には、Eureka, Austig, そして、Cold Spring という小さな町が三つあるだけ。ここを六月の末から七月の初めに走ったが、70マイル走る間にすれ違った車はわずか、七台。もちろん私の車の前後に車は見えない。さすがにここを走るには勇気と注意が必要。ガス欠、自動車のエンストなどは命とりだ。ただ、それだけに、景色は抜群、バレーを何度も横切ったが、まるで、文明社会から隔離された別天地を走っているようであった。なにしろ、峠からは、20マイルくらい先の次の峠まで、広大な盆地が広がっているのだ。流石にアメリカは広い。彼らの価値観のうらにこうした広大な自然を目の当たりに見て、この大陸で暮らすにはどうすればよいのか、その答えが漂っているに違いないと思う。

 

州により考え方が違う。州は独立国家だ

  これだけ国土が広いと、気候の南と北でまるで違う。夏にはカナダの国境まで行くと、少し高い山には雪が残ってい。アメリカの真ん中では、100Fなのに、モンタナでは数メートルの積雪があった。また、冬にフロリダは80Fを超え、海辺では海水浴を楽しむ人で一杯。ところが、四日後にネブラスカに戻ると、そこは雪世界。道路には雪が舞い、農場は、まるでスキー場の様相。そして、東西でも、その土地の標高がまるで違うから、ロッキーでは場所によっては大雪。それなのにミシガン辺りでは、まるで雪がない。その広さゆえに、州が変われば、まるで気候が違う。だから、人々の考え方も違うし、政治も画一的な施策はまるで意味がない。その結果、州により法律がちがうし、税金が異なる。そして、交通規則まで、それぞれの州によりスピード制限は違うし、また、取り締まりの習慣も違う。ネブラスカ辺りでは、制限速度10マイル程度は許容されるが、テキサスでは、五マイルでもスピード違反で捕まるという。こんなことを知らないと、アメリカをドライブするときにはとんだ落とし穴にはまる。、

 インディアナでビジネスをしていたときのこと。ミシガン州に顧客があり、製品の販売をしていた。もちろん、インディアナには売上税を払わなければいけない。しかし、ミシガン州から、ミシガンで販売している分は。ミシガン州にも売上税を払えといわれた。その税の額や、内容については詳細は分からないが、これも、州独自の税法とあきらめて支払った覚えがある。

 

  アメリカのテレビ番組にC-SPANというのがある。合衆国の政治の内容を四六時中、テレビ放送している。様々な政策の委員会での議論を放送している。ここでの議論は、州により、まさしく価値観の違うことをよくあらわしている。たとえば、環境問題での委員会では、各州の上院議員が自州の状況を説明し、州の環境対策施策を説明する。そのあと、連邦政府の援助を得ようというわけだ。しかし、ご存知のようにアメリカの北部地方は、は水力発電が盛んであり、水系の保護のための予算を求める。一方、東部の地方は水力発電はほとんどなく、火力発電が主流。従って、石炭の価格が問題になる。そこで、この資源の確保のために政府の援助を要請する。こうして州により電力代は全く違う。アメリカを一つの国と見ることはこのように不可能なのである。州により状況が全く違うし、それぞれの州が独立国家ぐらいに考えるのが適当だ。

 

インディアンの居留地はインディアンの自治区だ。

  インディアンの居留保護地域というのをご存知だと思いますが、では、一体、アメリカにはとの位の保護地域があるのでしょうか。

 ここは、合衆国の政府により定められたアメリカ先住民部族により治められている地域なのである。現在、アメリカには、550以上の先住部族がいるといわれています。いわゆるインディアンの部族がこれだけあり、アメリカ中に、310地域の居留保護地域があるとのことです。これらの居留区の広さは、合計すると55.7million エーカーあり、アメリカ全土の2.3%に当たる。そして、12のインディアン居留地は、ロード・アイランドの広さ(776 エーカー )より広いそうだ。この地域では、インディアン部族の協議会が連邦政府に変わって統治しているのである。つまり、ここは自治区なのである。有名な居留地は、アリゾナにあるナバホ居留地。ここは、アメリカ最大の居留地で、強い自治権を持ち、一つの独立国家にも等しい力を持っている。有名なモニュメントバレーはここにある。このナバホ族は、独自の言葉を持っており、その語尾変化に独特のものがあることから、第二次世界大戦では、この言葉が暗号に使われた。軍の指令文は、ナバホ語に翻訳され、これが受信されたあと、再び、ナバホ族出身の兵士により英語に戻されたそうだ。この暗号は当時の日本軍は全く解読がふかのうだったそうだ。

  ただ、こうして、インディアンが自ら統治しているというと、彼らには自由が保障され、豊かな生活を営んでいるかのごとく思われるが、果たして実際はどうであろうか。アメリカをドライブしていて、沢山のインディアン居留地の中を走り回ったことがあるが、どこもインディアンの居留地に入ると、周りの景色が一変する。土地は開発されておらず、また、住宅はも貧相なテラスハウスが点在しているだけ。土地がやせている証拠で、ここでの経済的な自立は到底不可能と思われるようなところばかりだ。農場を開拓するにも、また、牧場を経営するのにも、アメリカでは規模が大きく、膨大な資金が必要となるが、彼らには、その元手がないのだ。今では、政府により生活保護を受けて細々と生計を立てているのがやっと。失業率が高く、というより、産業がほとんどないから、かれらは、日雇いで白人の経営する農場や牧場に出稼ぎにいくくらいしか収入源がない。その結果、彼らは酒におぼれ、麻薬に染まっていくのである。

 しかし、インディアンがもともとこんな生活をしていたのではない。チェロキー族はもともとアパラチア山脈の南部に住んでいた。しかし、ここに、金鉱が発見され、そのほか鉄鉱石や石炭が埋蔵されていることが分かると、アメリカ合衆国政府は、彼らに代替地としてオクラホマの地域をインディアン居留地として、彼らにここに移住することを求めた。チェロキー族は、ほとんどが反対をしたが、武力に勝るアメリカは彼らを強制移住させた。そして、移住のために集められた、17,000のチェロキー族は、この旅の途中で4,000名以上が病気でなくなった。チェロキー族の言語で、この出来事は、「われわれが泣いた道( nvnadaulatsvyi )」とよんでいる。1838年のことである。

 こうした強制移住の悲劇は、これだけではない。先祖の土地を追われたインディアン達は、アメリカ中からオクラホマの居留地にあつめられたのである。そして、そこでは自分達の生活の基盤を築けず、再び先祖の土地に戻るという運動がおこり、アメリカ中西部のいたるところで、白人との争いとなり、その結果。各地でインディアンの虐殺事件が起きたのである。サウスダコタで、カンザスで、そして、その他の地方に、「マサクレ」の歴史の指標が残されている。悲しい現実の話である。

 

アメリカ自身がインディアンの国

アメリカには48州とアラスカ、ハワイがある。その48州の名前の起源を見てみると、実に沢山の州がインディアンの言葉から生まれている。

 

アメリカをドライブしていると、どこに行ってもインディアンのリザベーションがある。勇猛果敢なスー族やクロー族。西部劇で活躍するアバッチ族やシャイアン族。ナバホ族は最大の居留地を持っている。そのほか、コマンチ、アラパホ、チェロキー、ポンカ、ショショネ、タタンカ、などなど、われわれ西部劇に親しんだ世代には懐かしい名前が次々に出てくる。それだけでなく、田舎の都市の名前にインディアンの部族の名前がついた町がある。カンザス、スー、プエブロ、オマハ、シャイアンなどの大都市、それに無数の田舎の町がある。もちろんこうした地域は、今でもインディアンの文化が脈々と引き継がれているのである。

  天文ファンにはお馴染みのアリゾナのキット・ピーク天文台。ここは、Tohono O’odham Nation というインディアンの居留地区の中にある。ここのクウィラン山、2096mの山頂に造った天文台だが、こうした山は先住民にとっては聖地であることが多い。このため、天文台を建設するには、彼らの同意が必要で、そのために何度も彼らに天文台の必要性を、そして、天文学の重要性を説明するために何度も講演会や協議を重ね、やっとのことで彼らの協力を得たとのことである。ここの天文台に行くと、沢山の記念品が販売されているが、天文台とは全く無関係としか思えない、インディアンの工芸品が販売されている。この地に住むインディアンの作品を販売しているのである。天文学と同様、インディアンの文化にも少なからずの興味を持っていた小生にとっても、願ったりかなったりの土産物屋であった。しかも、その値段がまことに手ごろだった。文明の最先端の学問にしても、インディアンの協力なくしては成り立たないのである。ここがインディアンの国だからだ。

ここばかりでなく、インディアンの居留地の目立つ山々は彼らの聖地である場合が多い。

 ワイオミングの北部にBig Hornという郡がある。ここを走る14号線のBald Mtn.の麓にある峠、その近くにMedicine Wheel N.H.S.という場所がある。山の頂に、石を円形に置き、その輪を幾つにも区分けし、それぞれに、沢山の祈祷のための供え物が置かれた場所がある。円の大きさは、直徑が30メートルくらい。ここは、インディアンの占い

 

  インディアン語に由来する州の名前と、先住民インディアン

語源

名前の由来

 先住民インディアン

ネブラスカ

インディアン語

広い川、平らな川

オマハ族、オト族

オハイオ

インディアン語

大きい川、美しい川

エリー族

マサチュセッツ

 

大きな丘の近く

ワピンジャー

コネティカット

 

長い川のほとり

ペクート

イリノイ

 

イリニウェク( 男ども )

イリノイ、カスカスキア

ミシガン

 

大きな湖

ポタワトミ、ニチャプコ

ウィスコンシン

Wees Consan

草に覆われたところ

オジブワ、サンテ、アイオア

ミネソタ

Minesota

空の色をした水

メノミニ、キチャプコ

アイオア

 

ここだ

アイオア

ミズーリ

 

大きなカヌー

ミズーリ、オトワ

ダコタ

 

同盟者

スー、テトン、ヤンクトン

カンザス

スー族語

南風の人々

カンザ、カイオア

ケンタッキー

Ken_Tah_tek

明日の土地

シャウニー

テネシー

チェロキー族

大きく曲がった川

チェロキー

アラバマ

チェクト族

藪を切り開く人

チョクトー、クリーク

ミシシッピー

Messi_Sipu

大きな川

チョクトー、タポサ

アーカンソー

 

下流の人々

カト

オクラホマ

チョクト族

赤い人々の土地

ウィチタ、カド

テキサス

カト族

友人

コマンチ、アバッチ

アイダホ

 

山峰の宝石

ショショネ

ワイオミング

 

大平原

シャイアン

アリゾナ

ハバゴ

アリショナク

ホピ、アパッチ

ユタ

ユート族

山の人

ユテ、ナバホ

オレゴン

 

美しい川

チノーク、ユキマ

 

をする場所だ。この辺りにすんでいたインディアンが、部族の運命を決めるため占いをした聖地なのである。こうしたところには、特別の人しか入ることができなかった。こうした、medicine wheelは、全国にあり、その学会すらあるほどだ。これほどに、田舎にいけばインディアンの文化があちこちに残っているのである。

 

しかし、考えてみれば、これはあたりまえのこと、アメリカの大陸は、もともとは彼らの土地なのである。

何百といるインディアンの部族たち。彼らは、この大自然のなかで、あるときには交流し、また、あるときには戦闘をし、生き抜いてきた。その自然は広大であると同時に、場所によっては、自然の過酷なまでの気候を克服して来なければならなかった。中西部の広大な平原を占めているPlainsと呼ばれる地域には、雨は少なく、また、冬の寒さは、マイナス40度にも達することがある。この地は農作業をするには適さず、彼らは、狩猟を生活の糧としてきた。だから彼らにとっては、より発達した文明とは狩猟文化であり、それは農業文化よりも優れていると考えられてきた。自然の恵みである獲物は決して商業の対象ではなく、その年の収穫なのである。その収穫を必要以上に取れば、それは次の年に飢餓を招くことを知っていた。どんなに沢山のバッファローが草原に群れ成していても、彼らは自分の部族の人数以上のバッファローと射止めることはしなかった。一年に一人のインディアンが必要とするバッファローの数は、一頭だ。その一頭のバッファローは、毛皮から、内臓、そして、骨まで、ことごとく生活に必要なものと化して、消費されていた。彼らの狩猟の後には、ひとかけらの肉の残りもないし、また、腐った内臓すら残されていないのだ。これが、自然と共存する最低限のルールであることを長い習慣のなかで引き継いできた。インディアン達は、大草原のなかを転々と移動しながら生活していたが、一年のうち、いつになれば、どこにバッファローの群れが集まってくるのかを知っていた。谷を渡ってくる風がバッファローが近くにきたことを知らせてくれた。全く、原始的な方法で仕掛けをつくり、地形を利用して、一度に何百等のバッファローを捕獲していた。そして、冬になると暖かい地方に移っていったのである。毎年、何百マイルという距離を移動しながら、夜は満点の星を眺めながら、そして、昼は、草花が色とりどりの花を咲かせる草原のなかで、自然と調和して、まことに平和な世界で生活していたのである。

 

インディアンこそアメリカ人なのだ。

ネイティブアメリカンと呼ばないわけ

 最近では、アメリカ先住民のことをネイティブ・アメリカンと呼ぶケースが増えたように思う。インディアンとは、もともとアメリカ大陸の発見者、コロンブスが誤解してつけた名前であることは良く知られている。だが、アメリカに入植した西洋人は、彼らのことをアメリカ先住民とは呼びたがらない。アメリカを建国したのは、自分たちの先祖であり、しかも、それは、何百年も昔のことではなく、つい最近のこと。とりわけ、中西部は、19世紀の中ごろにアメリカにわたってきた西洋人が開拓した場所だ。開拓と言っても、フランスから買収したルイジアナと呼ばれるこの地域は、もともとインディアンが狩猟していた場所。かれらは遊牧民族であり記録の必要性もないことから文字を持っていなかった。だから、彼らの正確な歴史の記録はないが、ここには、何百年の昔から住んでいたのである。西洋人はこの地からインディアンから追放し、ここに自分達の生活の基盤を築いた。土地は、ピストルの号砲一発、杭を早く打ったものがその土地を手にするという早い者勝ちで得た土地だ。しかし、アメリカ大陸の土地は、決して肥沃というわけではなく、また、木も育たないような荒地。そこに、入植した西洋人は、手で土を掘り起こし、大地に穴をほり生活していたのだ。そして、牧場を整備し、農場を切り開き、やっと生活のできる場所を確保したわけだ。しかし、もともとはここに住んでいたネイティブの人たちは、これを襲撃して自分達の主権を主張してきた。これに対し、アメリカ政府は、入植者達を守るために各地に砦を築き、そこに、騎兵隊を駐屯させた。その名残が残る町は、いまでもアメリカ中に残存している。Fort Worthを初めてして、Ft. Dodge, Ft. Collins Ft. Morgan, Ft. Wayne, Ft. Madison, Ft. Scott, Ft. Benton, Ft. Stanton, などなど。これは、名前を挙げればきりがない。また、その砦のあとがミュージアムになっているところも少なくない。これは、まさしく西部開拓の苦難の歴史の証言である。ただ、インディアンの見方をすれば、これは彼らが先祖伝来の土地を追放された歴史でもあるのだ。しかも、それは、ついこの一世紀半の間の出来事。いまアメリカで入植し安定した生活をしている西洋人にしてみれば、それは彼らのお爺さん、お婆さん、あるいは、その両親達が、厳しい気候と飢餓と苦難の上に作り上げた国なのである。そこがかってはインディアンの土地であるにしても彼らにしてみれば合法的に手にした土地であり、自分達先祖が築き上げた国なのである。こうした思いの対立が最近になり、インディアン達の独立運動として芽生えている。アメリカ北西部に住むインディアン達のあいだに独立運動があることは有名な話。しかし、アメリカの合衆国政府は、インディアンが先住民族であることは認めながらも、彼らには保護居留地域を定め、そこでの経済的な自立生活を強要している。しかし、すでに、大草原を駆け回るバッファローの群れは消え、鮭が有り余るほど遡上してきた川には水力発電のためのダムが建設され、彼らには先祖代々伝わってきた生きるための自然と術が取り上げられてしまった。ネイティブなインディアン達に残っているものは何もないのだ。

 

  こうした複雑な現実の矛盾を含んだアメリカは、ネイティブアメリカンという言葉を使いたがらない。それは、あくまでもこの国を建国したのは自分達の先祖であるということをいつまでも胸に刻み込んでおくためのように思われる。

 

 

インディアンの地位は決して低くない。

  こんな事情を背景にしているのか、アメリカ人社会でのインディアンの地位は決して低くはない。アメリカ人としての立場は、スペイン人やメキシコ人などのヒスパニックよりも、そして、東洋人や黒人よりも優先された恩恵をこうむっているのである。つまり、白人に告ぐ高い位置にあるわけだ。具体的な例はなかなか申し上げにくいが、そんなインディアンが、いま、失った自分達の土地を取り戻そうという運動をしている。機械化された社会を必ずしも文明化された社会とは考えていない。かれらのもつ価値観のよりどころは、狩猟による生活であり、自然や動物との共存である。われわれ文明人と自負している人たちは、こうした彼らの考え方を非難するだけの資格があるのだろうかと、ふと思うことがある。そんな疑問を持ちながら、彼らの価値観の裏にあるものを覗いてみたい。

 

4.  インディアンの価値観

自然のなかで培われた価値観

 自然との共存、それは、あの広い大地で生活をしていれば、自ずと芽生える考え方ではなかろうかと思う。インディアンの価値観は、まさしく、自分達を動物達と同列で感がえ、お互いに尊重しあうところから始まっている。そんな彼らの考えを、彼らの部族に伝わる伝説から探ってみたい。ここに紹介するのは、インディアン達の間に信じられている、動物たちと人間とのかかわりについてのもの。かれらが如何に動物達を大切にしてきたかということが分かると思います。

さあ、果たして、彼らのこのような動物との付き合い方は、あなたにはどんな風に映りますでしょうか・

  

 インディアンにとって文明とは、

インディアンが決して農耕を営んでいなかったわけではありませんが、彼らの住んでいた場所は雨量もすくなく、決して肥沃な土地ばかりではありませんでした。そんなわけで、農耕で生計を立てることは不可能だったわけです。そのために彼らは狩猟民族として繁栄してきたのです。18世紀にヨーロッパから、天然痘が持ち込まれ、沢山のインディアンが術もなく死んでゆきました。そのときに農耕民族のオマハ族の人口は、1割に減ったといいます。集団で、一箇所に定住していた彼らの部族は、この流行病から逃れることができなかったのです。ミズーリ川の土手には、山のように詰まれて死体があったといわれています。一方、騎馬民族は、遊牧生活をしていましたので、病気が蔓延する前に住む場所を転々と変えて、この流行病から逃れたといわれています。こんなことがあったからでしょうか、彼らは農耕文化よりも狩猟文化のほうが進化していると考えていたそうです。

自然とともにいきる、動物とともに栄える、そんな彼らの考え方を伝説のなかに、覗いてみたいと思います。

 

  熊狩りのこと

 Lewis and Clark Expeditionから

     熊は、・・・我々が持っているものと同じような魂を持っている、そして、彼の魂は、われわれが眠っているときにわれわれの魂に呼びかけ、私がなにをするのか話をしている。

                    - ―― BEAR WITH WHITE PAW 

 

 

     インディアンが、ホワイトベア( グリズビー )の狩猟に出かけるときには、・・・彼らは、自分の体に模様を塗り、通常、彼らが近くのほかの部族に戦争をしに行くときにするような、あらゆる神がかり的な祈りの儀式をする。
                   ――Meriwether Lewis 

 

  夕暮れになり、冒険隊のほとんどの隊員たちが、そこにいた、支配者のような、大きな茶色の熊[ グリズビー ]を引きずり出して攻撃するために、島に近づいた。が、その熊は、取囲んでいるわれわれのことを全く無視しているかのようであった。我々の隊がその場所で、容赦することなく脅しまくったが、それにもかかわらず。そして、指揮官が怪我をしてしまった。結局、我々はその晩は、そのまま何の痛手を加えることもできず、キャンプに戻ることになった。

                       ―― Patrick Gass 

 

  北の地方に住むインディアン達の間で、熊ほど尊敬の念をもって狩猟をされる動物はいない。すべての動物のなかで、熊は最も人間に近い生き物である ――Cheyenne(シャイアン)族とArapaho(アラパホ)族のような平原に住むインディアン達の多くの部族も、そうした考えを持っているからと思われるが、共食いになる行為のように考えて、熊の肉は食べない。45 熊は、動物としての人間よりも賢い年上の兄弟と考えられていた。彼らは、植物に関する知識の精通者であり、治癒の名人であり、そして、巧みな神秘的芸術家でもあった。彼らは根を掘り、そして、洞穴やねぐら住んでいたために、大地や地下に潜んでいる力とかかわりをもっていると考えられていた。そして、彼らのもつこうした力は死を超越したものであった。なぜなら、かれらは、冬が来るといつも死んだような状態になり、そして、春になるとまた、生き返ってくるからであった。

  熊の物理的な体は、熊の狩猟者たちの真の標的ではなかった。狩猟者たちは熊の持っているとてつもない力を求めていた。そして、熊との戦いはり、物理的なものよりもずっと、精神的なものであり、気持ちの問題であった。多くの部族の間では、熊を狩猟するもの達は、棍棒や槍といった手で扱う武器以外に鉄砲とか弓矢といったものを使おうとはしなかった。もし熊が、狩猟者たちが自分の命を与えるに相応しいと思わないようなときには、鉄砲はとにかく役に立たなかった。熊をしとめることは、部族間の戦いで敵を殺すことと等しいくらいに勇敢な行為であった。Cheyenne ( シャイアン )族の男達は、狩猟した熊の数を数えていたし、また、Assiniboine族の戦士達は、かれらが闘いをして打ち破った敵の話のなかに、熊との戦いのことも含めていた。熊のつめで作ったネックレスは、熊をしとめた男の英雄的な行いと精神的な力の象徴でもあった。男達は、それを身に付ける資格を手に入れなければならなかった。

 

コヨーテのこと

  インディアンの伝説   Coyote and Rolling Rock から

コヨーテ(ki-o-kiという名前でした)は、聖霊の酋長から特別の力を授かっていましたので、そうした動物達のなかで、最も力の強い生き物でした。たとえばこんな具合です。かれは、Dry Falls( 水のなくなった滝)をそのままにして、偉大な川の流れを変えることもできたのです。たくさんある伝説の中では、かれは、動物でしたが、そのほかに、かれは人間だったという話もあります。また、時によっては、ハンサムな青年でもありました。

 

 コヨーテが火の使い方を教えてくれた

        アメリカインディアンの話

しかし、いつものことですが、秋の夕べのもやは日増しにだんだん冷たくなり、太陽の日差しは少しずつ短くなってゆきました。 そして、人々は冬が間近に来ていることを知り、恐ろしくて、不幸がやってくるように感じたのです。 彼らは、子供たちと、そして、部族の神聖な話を語り伝える自分たちのお爺さん、お婆さんたちのことが心配でなりませんでした。彼らのうちの多くの人達が、老若男女を問わず長い、冬のあの凍りつくような寒さの中で死んでいったのです。

残された人々のように、コヨーテは、火を必要としませんでした。ですから、彼は、人間達の部落を通り過ぎる春の日まで、自分は殆ど火が必要だなどということを感じなかったのです。そして村には、冬の間に死んだ赤ん坊達や、年寄りを悼む、そんな唄を歌っている母親たちがおりました。彼女たちの歌声は、コヨーテの首の上の髪の毛をチクリと刺し、そして、バッファローの頭蓋骨をすり抜けてゆく西風のようなうめきだったのです。

“太陽が、今、どんなかに我々の背中に暖かいものであるのかを感じなさい”とある1人の男が言いました。“どれほど、この大地とそこいらにある石を、手にするのも熱いくらいに暖めているかよく知りなさい。ああ、もし、その太陽のほんの一かけらでも冬の間、我々のテントの中に持ち込むことができたのならなあ。”

コヨーテがこの言葉を聞いていました。そして、男たちや女たちにすまないなと思ったのです。と同時に彼は、なにか彼らのためにできることがあるのではと考えました。彼は、そこからずっと離れた山の頂に、3人の火の精が住んでいることを知っていたのです。これらの精は、人間達が何時か火を手に入れ、彼らがもっと狂暴になるかもしれないと心配しながら、それを用心して守っていたのです。コヨーテは、こうした自分勝手な火の精を犠牲にして、人々のためになにかしてやることができるのではと思いました。

 

バッファローのこと

   Cheyenne 族の伝説 Yellowstone Valley and the Great Floodから

偉大なる創造の神が人々に、“これらの動物達は、みんなお前の兄弟なのだ。だから、この大地も彼らと共に使いなさい。そうすれば、彼らはあなた方の食料にもなってくれるし、また、着るものも差し出してくれるようになるのだ。彼らと一緒に住んで、彼らを守ってあげなさい。”

“特に、バッファローは、あなた方に食料もそして、身を守る盾にもなってくれるのだから、大事にしなくてはいけない。バッファローの皮革は、寒さからも、暑さからも、いやいや、雨からだってあなた方を守ってくれるのです。あなた方がバッファローとともにいる限り、他に必要とするものはないでしょう。”

何回もの冬を過ごす間、人々は動物達と、そして、その大地で平和に暮していました。彼らがバッファローを殺したときには、偉大なる創造の神に感謝をし、バッファローの体のすべての部分を利用しました。そうして、なんでも必要なものができたのでした。

 

 バッファローダンスの起源

Native American Lore

バッファローたちがこの世に始めてやってきた頃は、彼らは、まだ人間と仲良くやることはできませんでした。狩人たちが、自分たちの部落で使ういろいろなものを調達するために彼らを崖の上に誘い出しましたが、そのときには、彼らは自分たちを人間立ちのために差し出すことにあまり気が進みませんでした。彼らは、自分たちが毛皮として使われたり、あるいは、冬を越すための食糧である乾燥肉になることを好まなかったのです。自分たちのひずめや角がいろいろな道具や家具用品にされるのが嫌であったばかりか、彼らの腱が、いろいろなものを縫い合わせる糸として浸かられるのを喜ばなかったのです。“だめ、だめ、”と彼らは言いました。“もう、私たちは君たちの罠には乗らないよ。もう君たちのごまかしにはだまされないさ。” というわけで、狩人たちが彼らを最後の崖ッ縁まで連れ出してくると、彼らはいつも、最後の最後になってそこで向きを変えてしまったのです。こんな風にして、協力関係が壊れてしまうと村人たちは飢えと寒さに襲われ、厳しい冬を越さなければならなかったのです。

ところで、村の狩人のなかに、自分の父親が素晴らしい弓の使い手であることをとても誇りに思っている娘のいる狩人がおりました。夏の盛りの間には父親の方はいつも彼女の所毛皮のベストを持って来ました。一方、彼女の方は、そのお返しに鹿の皮をとても柔らかく、そして、真っ白になるまでなめして、それを外套にして父親に上げました。彼女の身に纏っている服は、まるで雪のようなガチョウの羽のようでした。そして、彼女が村の子供たちやお年寄りのためにつくったモカシンは、一番喜ばれる贈り物だったのです。

しかし、いまや、風に乗って待ってくる雪の知らせと、折れた柳の木々の間に殆ど見ることのできなくなった鹿たち、こうしたことから、彼女は、バッファローの群れの一部が始めたこの拒絶は、本当にたいへんな問題になるということに気がついていたのです。そこで、狩人の娘は、そのことについて何かをしようとこころに決めました。彼女は、その崖の麓のところに行き、上のほうを見上げました。そして、低く、優しい声で歌を歌いはじめました。“さあーっ、バッファローたちよ、私の所に下りてきて頂戴。もし、降りてくるなら、そして、私の結婚式の宴の時に親戚の人たちに沢山のご馳走をだしてくれるなら、私は、あなたたちのなかで一番勇猛な戦士の花嫁となって、あなたたちの家族になるわ。”

 そして、歌をやめ、耳を澄ましました。と、彼女は、ずっと離れたところで、かすかに雷の鳴り渡る響きが聞こえたような気がしました。

それから、彼女は、おもむろに、死んだ人を再びのこの生の世界に呼び戻す魔法の力をもった生き返りの歌を唄い始めたのです。彼女は、彼女のお婆さんが教えてくれた歌を静かに唄ったのです。そして、ほんの僅かの小節を唄い終わると、その毛皮のしたにひとつのこぶができたのです。そこで、彼女とカササギが毛布の下を覗いてみると、なんとそこには、1人の男の体があるではありませんか。でも、まだその時には、その男は息をしていませんでした。彼は、只、冷たい石のようにそこに横たわっていただけです。そこで、なおも娘さんは唄を唄い続けました。そぉーっと優しく。と、なんと、さして時間が経たないうちに彼女の父が動き出したのです。彼は、生き生きと、しかも、とても強そうに立ち上がったのです。これを見て、バッファローたちは、驚いてしまいました。そして、彼らは狩人の娘さんに、“どうか、この歌を、どんな狩が終わったときでも、我々のために歌ってはくれないだろうか? そうすれば、私たちは、あなたの部族の人たちにバッファローダンスを教えてあげます。そして、そのダンスを狩に行く前に踊れば、あなたがたは必ず、沢山の獲物を手にすることができますよ。そして、あなたが私たちのためにこの歌を唄ってくれれば、私たちはみんなまた、元のようにいきかえるんだから。”

 

蜘蛛

ダイン/ナバホ族〔ナバホ語〕族に伝わるクモ岩の伝説より

色鮮やかなアリゾナのChelly峡谷国立公園(ダ・シェイと呼ばれているところですが)のなかに、高さが800フィートにも及ぶとても威厳に満ちた、そして、美しい岩が聳えています。その岩は、蜘蛛岩と呼ばれてきました。 国立公園局の地質学者の話では、「その岩ができたのは、23千万年前のこと」なのだそうです。

長い年月の風化により、壮大な赤い色をした巨大な砂岩が作られたのです。そして、ずっと、ずっと昔に、Dineのインディアン( ナバホ族 ) は、その岩に蜘蛛の岩という名前をつけました。

何層にも重なり、様々な色をした崖の壁がその峡谷を取囲んでいました。そして、何世紀も、何世紀も時代を経て、Dineのインディアン達( ナバホ族 ) は、その崖の壁に大きな洞穴を掘り、ここにに住むようになりました。こうして作られた洞穴は、敵の襲撃や、大洪水から逃れるために、峡谷の谷からはずっと高いところに作られていました。

蜘蛛の部族の女は、Dine( ナバホ ) の部族が、第三次の世界から、この第四次の世界に生まれ変わる、その創造のときに超自然を身につけていました。

その頃は、怪獣たちが暴れまわり、沢山の人々がその犠牲になっていたのです。蜘蛛の女が人々を愛するようになると、彼女は、Monster-Slayer( 怪獣退治をする男 ) と、 彼らの父となるSun-Godを探すためにChild-Born-of-Waterに、超能力を授けました。そして、彼らがSun-Godを見つけると、彼は、どうすれば、この大地から、そして、この海の中から怪獣を退治することができるか教えたのです。

彼女は、彼らを保護していましたので、Dine(ナバホ )族の人々は、蜘蛛の女を彼らのもっとも大切な、そして、誉ある女神のなかに奉ることにしました。

そして、彼女は、自分のいる場所として蜘蛛の岩の頂上を選びました。ずっと、ずっと昔に、Dine( ナバホ )のインディアンの先祖たちに機織の技術を教えたのは彼女だったのです。彼女は、みんなに、“私の主人の、蜘蛛の男は、この世界:太陽の光のよじれた光線、織物をするための長い糸;岩の結晶でできた頭の部分と光るシート、繊維の最初の状態を維持するために、天界に十字の柱と地球に畝を作る機織の機械を作りました。その当て木をするところには、つなぎ目をしっかりするために太陽の後光を使い、沢山の蜂の巣状の住居をつくるために、細かく区分するような方法できちんと立ててゆくために白い貝殻を使うことにしました。”何世代にも渡って、Dine( ナバホ )の人々は、こうしていつも機織に精を出してきたのです。  

Dine( ナバホ )の子供たちは、年配者から、もし、彼らが行儀を悪くするようなら、蜘蛛の女が蜘蛛の巣の梯子を降りてきて、その子供を彼女の家まで引き連れて行き、食べてしまうと言い聞かされていました。

子供たちは、また、蜘蛛の岩の天辺は、行儀のよくないために食べられてしまったDine( ナバホ )の子供たちの骨が太陽の光にあたり、色あせて、白くなっているのだ! とも聞かされていました。

これは、旅行していて、日本人の癖かもしれませんが、なんとか、その土地の珍しい土産物はないかと漁ります。そんなとき、アメリカでインディアンの手ごろな土産はというと、「ドリームキャッチャー」と言うのがあります。これは、クモの巣を題材にした土産物で丸い輪のなかにクモの巣のように紐をめぐらしてデコレーションをつけたものです。なぜ、クモの巣かといいますと、インディアン達の間では、クモの巣は、弓矢の矢とか、鉄砲の弾が素通りし、巣は壊れもしないということで、戦いのときに矢や鉄砲の弾から身を守ってくれるものと考えているからです。彼らのお守りというわけです。ということで、アメリカ人たちは、これを信じて、クモの巣をとても大事にしています。スパイダーマンという映画がありましたが、クモは、彼らにとっては、英雄でもあるのです。

 

このほかにも、インディアンたちの間には、動物達をこんな風に見ていたのです。それを紹介します。アメリカ北西部に住んでいるインディアン達の中で伝わっている話の中からです。

 

Beaver  ビーバー

ビーバーは、様々なものを作り出す想像の能力を持っているといわれています。特に、独創性があり、想像力が豊かで、勤勉の象徴とされています。そして、決心の固さでも知られています。木の枝で上手に巣をつくる能力はインディアン達からはとても神秘的だったのでしょう。

 

Butterfly   


インディアンたちの間には、こんな話が伝わっています、もしあなたに誰にも言えない秘密の願い事があるのなら、そんなときには蝶を捕まえてごらん。そして 蝶にあなたの願いをささやきかけるのです。蝶はもちろん話すことはできませんから、あなたの秘密は安全です。そして蝶をやさ しく放してあげなさい。蝶は自由になって大空を飛び、必ずあなたの願いを部族の神まで届けてくれます。 こうしたことから蝶は、変化、喜び、色の象徴とされています。。

 

Eagle  イーグル

わしはパワー、名誉の象徴です。かれらいつも天高く羽ばたき、いつもそこから人間達の行動を監視しているのです。天は神々のいる場所に近く、かれらは、人間達よりもずっと神のことを良く知っているのです。わしはとても名高く他人から尊敬されることから、リーダ ーシップに富み、知恵が豊富です。イーグルはこれらの全ての力を使って世界(空)を自由に 高く飛びまわります。もう1つの特徴は、友情と家族愛の証し、仲間どうしの永遠の平和の約束 です。鷹のつがいは狼と同様に一生寄り添っていくといわれています。インディアン達はわしを神の使いと考えていたのです。

 

Frog  カエル

は安定、純真、コミュニケーションを象徴している動物でした。蛙は2つの世界間である、地上と水中の両方を 旅しながら生きています。そのために地上と水中の両方面からの生き物の声であり、さらにコ ミュニケーションに長けていることから、仲裁人を務めているといわれています。 また、蛙は春の象徴であり、変化していくことつまり、新しい人生のシンボルでもあります おたまじゃくしがカエルに姿をかえるということは、インディアン達にとっては、神の力以外にないと考えていたのでしょう。

 

Raven   ワタリカラス

ワタリガラスは日本では不吉な鳥といわれていますが、インディアンの文化ではワタリカラスはとても知恵があり、賢い動物とみなされています。彼らは人間達よりもずっとはやくこの世に生まれ、そして今の世界を作っ たとされ、特別な意味を持ち、文化的なヒーロー(英雄)とみなされています。なぜなら、いたずら好きで、何事をも可能にしてしまうずる賢さを兼ね備えた手品師であり、そ いくつかの物語によれば、ワタリカラスは空に太陽、月そして星を導き、世界に光を与えたと信じ られているからです。インディアン達はそんなワタリガラスをとても大切にし、尊敬しているのです。

 

Wolf   オオカミ

は高い知能とリーダーシップの象徴とされています。狼は開拓者、新しい考えの先駆者(人にさきがけて物 事をなす)で、そのために狼の社会はとても個人主義が強く、忍耐力に富んでいるといわれ、これはインディアン達にとっては、まさしく英雄の姿です。一方、かれらは家族の連帯が強く、忠実であり彼らのつがいは一生連れ添い、家族の絆は彼らにとって絶対であるのです。そんな姿がインディアン達の模範であることはまちがいありません。

 

 

 5.  西洋人の価値観

  アメリカの独立

  アメリカの初代大統領ワシントンは、アメリカの独立戦争の指導者として実績をあげ、その功績で大統領になったのですが、では、一体アメリカの独立戦争とは何だったのでしょうか。そもそも、西洋人がアメリカに移住を始めたのは、17世紀のはじめにイギリスのピューリタンの一団が、信教の自由を求めて、故国イギリスからオランダに渡った。しかし、そこで深刻な生活苦にみまわれ、やがて彼らは、たまたま耳にしって、たアメリカ植民地の話を聞き、新大陸移住の決意をする。そして、帆船メイフラワー号に乗って、大西洋に船出した。

 見渡す限りの荒野に降り立った彼らは、冬を迎える。一団は、玄関と病気に苦しみ、そして、春までに半数以上が死亡した。生き残ったのは、わずかに50人ほどといわれる。だが、ピューリタンはくじけなかった。いかなる厳しい環境にあっても、胸中には、イギリスで達成できなかった理想社会建設への情熱が、赤々と燃え盛っていた。かれらは、ひたすら働き、磁力を差祖ね、苦境を乗理超えた。そして、アメリカ建設の祖とて、歴史にその名を残したのである。

 こうして、西洋人のアメリカへの移住が定着化し、アメリカは、それまでの植民地意識を持ったイギリスからの独立を目指すことになる。イギリスは、アメリカの植民地に対して次々に税の増収をはかり、1764には砂糖法、1765年には印紙法を成立させた。そして、1767年にタウンゼント諸法により新たな植民地課税に乗り出すと、アメリカは敢然とこれに反対し、この法案が廃案となったが、お茶に対する税は残った。そして、1773年に東インド会社の茶が安く植民地に流入することになるとアメリカの商人の怒りが爆発し、独立運動への引き金となった。アメリカとイギリスの戦いが始まると、ヨーロッパでイギリスと対立していたフランスやスペインはアメリカを応援するようになった。当時、海軍はイギリスが圧倒的な強さをもち、東海岸の主要な都市を制圧していったが、内陸での戦いでは独立軍は良く戦った。イギリスとアメリカの戦いに、先住民のインディアン達は複雑な思い出あった。殖民地としてアメリカ大陸に渡ってくる人たちは、いたるところで先住民達といざこざを起こした。こうしたことから、アメリカの独立軍の敵となる部族も決して少なくはなかった。しかし、ヨーロッパでフランスと戦うイギリスは、内陸での戦いでは一進一退。本国を離れての戦いは、やがてイギリス軍にとって、致命的な敗北となったのは、1781年ヨークタウンの戦い。アメリカ軍はフランス軍と呼応して、ヨークタウンを包囲し、ついにこれを降伏させたのである。そして、1784年にパリ条約が批准され、アメリカ合衆国は名実ともに独立したのである。わずか100名余りのピューリタンが新天地をもとめ祖国イギリスを離れてから、160年後のことである。

 そして、今日、アメリカは経済大国となり、世界をリードするほどにまでなった。この間にも、沢山の西洋人がヨーロッパからアメリカに移住し、現在のアメリカ人の各人種系統ごとの人口は、次のようになっている。(2004)

 

順位

  系統

  人口

順位

  系統

  人口

1

ドイツ系アメリカ人

42,800,000

8

ポーランド系アメリカ人

8,980,000

2

アイルランド系アメリカ人

30,520,000

9

フランス系アメリカ人

8,310,000

3

アフリカ系アメリカ人

24,900,000

10

インディアン

7,880,000

4

イギリス系アメリカ人

24,510,000

 

11

スコットランド系アメリカ人

4,320,000

5

アメリカ人 

20,190,000

12

オランダ系アメリカ人

4,450,000

6

メキシコ系アメリカ人

18.380,000

13

ノルウェー系アメリカ人

4,480,,000

7

イタリア系アメリカ人

15.640,000

14

スコットランド系アイルランド人

4,320,000

 

 

お気づきのように、アメリカとは、こけだけ人種の雑多な国であり、それぞれの国には違った気候風土と、宗教観があるのだ。その種類の数だけ、多様な価値観が存在していると思っていただきたい。だからアメリカ人の価値観を一言で説明するのは、到底不可能なこと。ただ、必要なことは、この多様な価値観の国がどのような形でお互いの価値観を認め合っているかということだ。そこに、アメリカの偉大さがある。

 われわれ日本人は、ほとんどが同一の価値観で物事を判断している。もっとも、なんら価値観の違いなど感ずることなしに、その価値観について議論することもないのが現実なのではなかろうか。しかし、アメリカでは、同じキリスト教ても、プロテスタントが58%、カトリックが21%であり、そのほか、ユダヤ教、イスラム教、仏教など多種多様。こうした宗教観から、われわれでは理解できないようなことが起こる。たとえば、プロテスタントの人たちは、宗教的な理由から、進化論を否定しているし、これがもとで裁判までおきている。例の黒い馬車を移動の手段にしていることで有名なアーミッシュと呼ばれる宗派の人たちは、文明の恩恵を拒否し、自動車には乗らないし、電気を生活のなかでは使用していない。自分たちだけで自給自足をし、アメリカ社会のなかで自活している。それが、今の社会に通用しているのだ。統一した価値観をもつには、国土が広すぎるということかもしれない。

 

アメリカという国をその歴史から見ると、それは、東海岸に集中した見方であり、また、現在のアメリカということでは、日本人には、地理的な条件もあり、また、経済的なつながりから西海岸の姿が非常に鮮明に浮かび上がってくる。しかし、アメリカという国は、とてつもなくひろい。東西の沿岸部のアメリカは、饅頭で言えば、外側の薄い一皮に過ぎない。アメリカという国の大半は、アパラチア山脈から西、ロッキーにかけての大平原なのだ。これが、アメリカの中西部といわれる地域だ。セントルイス、ここは、ミシシッピー川の辺にあるアメリカ中部の代表的な町であるが、ここに、1965年、ゲートウェイ・アーチを建造した。ケネディの後任として大統領についたジョンソンは、このゲートにたち、ここから西は、未だ、フロンティアであるといった。つまり、この地は、文明社会であるアメリカにとっては、辺境の地であったのだ。その中西部の歴史を見てみよう。

 

  アメリカ中西部 

 アメリカ合衆国中西部(英Midwestern United StatesまたはMidwest)は、アメリカ合衆国の中央部北側にある州を集合的に呼ぶ呼称である。具体的には、アイオワ州、イリノイ州、インディアン中、ウィスコンシン州、オハイオ州、カンザス州、サウスダコタ州、ネブラスカ州、ノースダコタ州、ミシガン州、ミズーリ州、ならびにミネソタ州を指し、2006年の人口統計局の推計人口は66,217,736人である。地続きのアメリカ合衆国で地理上中心およびアメリカ合衆国人口の分布中心が中西部の中にある。しかし、ここに西洋人たちがやってきたのは、つまり、歴史的には、現在のこの地を開拓したのは、つぎのような具合である。南北戦争の頃、つまり、19世紀の中ごろまでに、ヨーロッパ人たちは東海岸からアパラチアを越えて、直接内陸に入植するようになった。ドイツ人移民、ユダヤ人たちはオハイオ州、ウィスコンシン州、イリノイ州、そして、東部ミズーリ州に、巣ウェーデン人とノルウェー人はウィスコンシン州、ミネソタ州および北部アイオア州に、ポーランド人、ハンガリー人およびドイツ人のカソリック教徒ユダヤ人は中西部の都市に定着した。しかし、こうした西洋人の入植の歴史は、西洋人にとっては、西部開拓の歴史であり、アメリカ合衆国拡大の歴史とみることができるが、忘れてはならないのは、西洋人がここに入ってくる前にこの地で生活をしていた先住民がいたということである。彼らは、西洋人からはインディアンと呼ばれているが、かれらこそ、ネイティブ・アメリカンなのである。

 このネイティブ・アメリカンと西洋人のかかわりこそ、アメリカの国の忘れてはならない歴史であり、ここに住む人たちの価値観を形成しているのだ。では、その西洋人とインディアンのかかわりはどんな歴史をたどって言ったのだろうか。ここに、アメリカ大国の基礎を作った歴史の避けては通れない事実がある。それが、「ルイジアナ買収」なのだ。

 

 6. ルイジアナ買収

  この事件は、まさしく新生アメリカが世界の舞台へと躍り出る最初の一歩であったことは紛れもない事実である。では、一体この歴史上の大イベントについて、Dayton Duncanと Ken Burnsの「Lewis and Clark」から引用して、すこし詳しく説明しよう。

 

homas Jeffersonが、1801年に大統領になった時には、アメリカ人の2/3以上の人々が大西洋岸から50マイル以内のところに住んでいた。そして、Allegheny山脈を越える道はたったの四本しかなかった。まさしく、合衆国はMississippi川の東側の土手で終わっていたのである。

 テキサスからカリフォルニアに伸びる南西の地方にはNew Spainが横たわっていたし、英国はカナダを支配していた;貿易商人は、現在ではミネソタとかダコタあたりまで、貴重な毛皮を求めて南下して来て、その船は太平洋岸の北西部を支配していた。ロシアは、アラスカの前哨地で、カリフォルニアの北部海岸に今にでも砦を設置するような状況であった。MississippiからRockyの山々までは、Napoleon Bonaparteが新しい世界のなかで再び王国を建設しようとしていたLouisianaと呼ばれる広大なフランスの領地であった。

  しかし、多くの国々がその西部の運命を支配しようと夢見ていたにもかかわらず、彼らはその場所については、ほとんど知識を持っていなかったのである。スペイン人の征服者たちは南西部に広がって行った。フランスとスペインの毛皮商人はミズーリ川を部分的に開拓していった。そして、英国人が現在のノース・ダコタに当るMandan Indianを訪問した。また、太平洋の北部の海岸にはさまざまな国の船が、中国で途方もない値段で取引きされていたカワウソの毛皮を取引するためにやって来ていた。アメリカ海軍の将軍であるRobert Gray1792年にコロンビア川の河口を発見し、ここは、後に彼のイギリスの敵対者であるGeorge Vancouverに確認され、地図に描かれるようになった。そして、1793年には、スコット人のAlexander Mackenzieが陸路でカナダを横断し、北アメリカでの毛皮貿易をすべて支配するために大陸全体に点々と砦と貿易取次所を築いて大英帝国と張り合った。

とは言いながら、眉唾( まゆつば )の冨をむやみと欲しがる人々にとって、西部の大きさは依然として膨大な空白なもの―――それは、ただ風評と憶測とだけによって満たされている彼らの地図の穴のような所であり、知識の中の夢のような空隙部分として残っていたのである。

 

 新しい大統領であるThomas Jefferson以上にこのことを変えようと願ったものはいなかったのである。彼はVirginia Shenandoah Valleyから西50マイル以上の旅をしたことが無かったけれども、Jeffersonはいつも西部というところに心を惹かれていた。Monticelloにある彼の私的な図書館には、この地方に関する本が世界のどこの図書館よりも沢山所蔵されていた。

 周りのものの誰かが彼に、そこには毛皮に覆われたマンモスやそのほかの前史時代の獣が今も歩き回っていると話した。また、ある人たちは噴火している火山のことや純粋な塩の山が45マイルの幅で180マイルも続いているとものの本に書いたりしていた。こうしたものを読んで、Jeffersonは、VirginiaBlue Ridge 山がこの大陸では最も高い山で、西部のどこかにはコロンブスがアメリカを発見するよりも3世紀も前にそこの新しい世界に住みついた伝説的なMadoc王子の末裔で、ウェルズ語を話すような青い眼をしたインディアンの部族がいると信じていた。

 

 こうしたことから、当時の誰もがそうであったように、Jeffersonも北西部の交通路―― 川、あるいは、短い通路によって繋がったいくつかの川、を辿っていけば、その西部の山々を超え、東洋人ともっと簡単に、しかも、もっと多くの利益が得られるような取引が直接できるのでは、そして、北アメリカの冨の鍵を開くことができるのではないかと信じた。その北西部の交通路をいまだ誰も発見していないし、そこは誰にも支配されていない状態であったので、Jeffersonは、もしその交通路が確立できればこの大陸の運命をコントロールすることができるかもしれないと信じた。

 

  1世紀以上も、スペイン、フランス、そして、イギリスもこの交通路を必死に探していた。Jefferson自身もこの通路を探すために3度もアメリカ人による冒険隊を編成したが、そのたびにそれは失敗に終わっていた。1783年になって彼は、独立戦争の英雄でもあるGeorge Rogers Clarkを、私的な冒険隊を編成してそれに引き込もうと試みた。が、その後、何の進展もなかった。3年後、親善大使としてフランスに渡ったJeffersonは、コネチカットのヤンキーであるJohn Ledyardという人物にあった。かれもまた、その大陸を最初に横断し、名声と冨を得ることを夢に抱いていた。Ledyardの計画は、ロシアからアラスカに入り、太平洋岸からミシシッピーに、わずか二匹の猟犬と、インディアンの友好の象徴であるパイプと、薪を切り出すための斧を持って、歩いて横断しようというものであった。“彼はなかなか創意があり、情報をよくもった人物だった”と、Jefferson は当時の記録に書いている。“が、残念ながら、彼はあまりにも想像が過ぎていた”とも言っている。にもかかわらず、彼は、自分の名前と何がしかのお金を与え、彼を送り出した。しかし、ロシアの皇帝であるCatherineが彼をシベリアで逮捕してしまったのでこの冒険はあえなく挫折してしてしまった。

 

George Washington大統領の国務大臣の時に、JeffersonAmerican Philosophical Societyの何人かの会員がフランスの植物学者であるAndre Michaux1793年に、“ミズーリの高原地帯と太平洋との間を結ぶ最も近くて、便利な通路を見つけ、切り開くための”、探検をするという契約をした。但し、資金はたった128.50$が調達されただけだし、(Washington $25.00、そしてJefferson  $12.50を寄付しただけだった)、また、Michauxもオハイオ川を渡らせるようなことはしなかった。

  が、大統領となったJeffersonは、もう一度これに挑戦する決意を固めたのである。

この地にアメリカの実質的な統治の基盤を築くために自分の私設秘書であるルイスを隊長とした科学調査隊を派遣しようとしたわけである。

 

  支援を得るための連邦議会への内密な文書の中で、Jeffersonはしきりにこの冒険隊のもたらす商業的な利益について強調した。しかし、かれは、フランス、スペイン、ならびに、イギリスの大使に対しては、――これらの国は、占領地を閉鎖するものと考えられた――この冒険隊の目的は純粋な科学的なものであると説明した。イギリスとフランスの大使は安全を保証するパスポートを直ぐに発行したが、アメリカの意図に疑いをもつスペインは、これを拒絶した。しかし、Jeffersonは彼らの拒絶を気に留めず無視した。

   

 そして、1803年になり、Jefferson大統領の西部を冒険するという夢――科学のため、通商のため、そして、国家的な興味のため――がいよいよ実現する段階となった。

そして、Jeffersonは、1802年に使節をフランスに送り、当時、港として非常に活気に満ちていたミシシッピー川の河口にあるニューオーリンズの買収を申し入れた。しかし、その時、イギリスとの別の戦争の準備をしていたNapoleon Bonaparteは、まさに驚くべき別の提案をしてきた。それは、全部で820,000平方マイルもあるルイジアナの全域を、$15ミリオンでアメリカ合衆国に譲渡するという内容であった。その額は当時の合衆国の予算の大体二倍程度であったが、そして、そうすることが憲法上できるかどうか彼自身疑問に思ったが、Jefferson は即座にその申し入れに同意した。こうして、大統領は、一エーカーあたりわずか3kという価格で、かれのペンのたった一書きで彼の統治する国の広さを二倍以上に拡張したことになる。

 誰もが、――とりわけ Jeffersonの政治的な敵対者は、ルイジアナの買収がたいへんな大安売りの買い物であると認めたわけではなかった。“狼や、放浪するインディアン以外に誰も住んでいないような野生の土地を買うのは、たいへんな浪費に過ぎない”と、ボストンにあるColumbian Centinelは批判した。“その土地のためにわれわれはすでに多大の金を支払ってきた。もはや、その支払のために残された金はあまりにも少ないのだ”と、連邦主義者のJoshua Greenは言い、さらに、“それは、われわれを、まるで月の土地にでもあるかのような、どんなところとも分からない、また、どこにあるかも分からないようなところに連れて行く、全く恥さらしの誇大妄想のようなもので、そんなことができる権利はもっていないのだ”といっている。

 しかしながら、パリでは、ナポレオンは、ミシシッピーの西にあるその土地は、合衆国を“この後、ずっと強力にする”、だろうと予測していた。“私は、イギリスに対して”と、彼は続けた。“遅かれ早かれ、その誇りを損なうようなライバルをプレゼントしたのだ”と。

 こうして、いまや、紙の上では大陸の西の半分は合衆国となったのである。

 

以上が、ルイジアナ買収のいきさつである。こうして、いよいよ「Lewes and Clarkの冒険」が始まるのである。

 

 7.  ゴールドラッシュ 

広大な未開の地、西部が開拓されていく歴史のなかで、ゴールドラッシュが持つ意味は決して小さなものではない。

 1805年〜1806年にかけて、ルイスとクラークがアメリカ西部を横断し、無事帰国してから、この地に関する情報は、アメリカ東部の西洋人社会に瞬く間に広がり、肥沃で広大な土地を求めて、ヨーロッパからアメリカにわたってきた人たちが急激に入植していった。この地が開拓されるには、100年はかかるとトーマス・ジェファーソンは予測していたが、それが、たったの三世代で実現してしまったのだ。しかし、そこでは、西洋人とインディアンとの間のこの地をめぐる主権争いが絶えることはなかった。

 そして、1848年にカリフォルニアで金が発見されると、一躍、西部はアメリカ・ドリームの舞台となったのだ。そこには、こんな歴史がある。

そもそもの発端は、1848年1月24日に農場主ジョン・サッターの使用人ジェームズ・マーシャルがアメリカン川で砂金を発見したことである。これと前後してカリフォルニアを始めとした西部領土がメキシコからアメリカに割譲されたので、文字通り新天地となったカリフォルニアには金鉱脈目当ての山師や開拓者が殺到することになった。特に1849年に急増したことから、彼らは”forty-niner”49er)と呼ばれた。サンフランシスコに拠点を置くアメリカン・フットボールのチームの名前、「Forty niners 」は、もちろんここから来たものである。ゴールドラッシュは、東部地域のアバズレ者、アウトロー、そして、入植に失敗し貧困にあえいだいた人たち。その人たちは、たった一枚の広告「貴方は、座っているだけで、億万長者になれます。」にさそわれて、カリォルニアに殺到した。当時、人口はわずか、15,000人程度のものが、わずか15年の間に200,000人にまで膨れ上がったというから、これは、社会そのものが混乱していたことは明白。

 実は、このゴールドラッシュは、カリフォルニアだけではない。

まず1858年、コロラドのサウスプラット川で金鉱がみつかりデンバーを中心に、フォーティ・ナイナーズを彷彿(ほうふつ)とさせるゴールドラッシュがおこった。さらに翌59年にも豊かな金鉱脈が発見され、セントラル・シティという大規模な鉱山町が建設された。同年、ネバダのカーソン川近くでも金銀鉱脈が発見された。カムストック鉱山が開かれ、バージニア・シティを中心にカリフォルニアとの道が開かれ発展した。人口集中により61年にネバダは準州となった。この年には、のち作家として名をなすマーク・トウェーンも金銀をもとめてネバダへやってきている。現在ネバダ州内には200ものゴースト・タウンがのこっている。

その後ゴールドラッシュは、モンタナ(1863)、ワイオミング(1867)、ダコタ(1874)とつづくが、南北戦争(186165)期を境に東部資本が金採掘に本格的に参入し、個人の採掘者はしだいに賃金労働者に転落、ロマンにあふれたフロンティアの成功物語は過去のものとなっていった。

1874年に発見されたサウス・ダコタのブラックヒルズ地域でのゴールドラッシュは、アメリカ先住民と白人の関係を象徴する出来事だった。アメリカ政府はブラックヒルズ一帯に居住するスー族と協定をむすび、保留地として保護を約束していた。金発見後、はじめ政府はカスター将軍の第7騎兵隊に警戒させていたが、白人採掘者たちが警戒線を突破して次々と保留地内で採掘をはじめた。多くの採掘者がブラックヒルズに侵入して手におえなくなると政府は、土地の放棄をスー族にせまった。スー族は武力抵抗をおこなったが、90年のウーンデッド・ニーでの虐殺を最後に力でねじふせられた。 この地を私も訪れたことがあるが、それは今でも悲しい物語として地元の人たちに受けつがれている。

8.  幌馬車隊の通った道

  こうした一攫千金の夢をみた人たちは、ごくわずかの家財すべてを売り払い、幌馬車隊を編成して、中・西部の大平原を横切り、ロッキーを乗り越えてカリフォルニアを目指したのである。かれらは、セントルイスから、ミズーリ川を船で遡り、インディベンデンス、カンザス・シティーまでやったきた。ここからミズーリ川は大きく湾曲して北上する。西を目指す人たちは、カンザス・シティーからオマハ辺りまでの途中で陸揚げし、ここで、旅の支度をして、幌馬車隊を組んだ。インディアンに襲撃されても太刀打ちできるだけの数と、二・三ヶ月の旅に遭遇するあらゆる困難を克服するだけの準備をしてである。こうして、この辺りのミズーリ川沿いには、当時栄えた水揚げの港町が沢山ある。カンザスのAtchison, St. Joseph, ネブラスカのBrownsville, Nebraska City , Plattsmouth, Omaha といった町である。Atchisonという町には、今でも当時の商人の家が残されていて、その見事さは、個人のミュージアムにもなっているほどである。ゴールドラッシュで一番の金持ちになったのは、金を発見した人たちではなく、こうした、旅の途中の商人だということもうなづける。

 こうして、カリフォルニアだけでなく、その他の西部の州にむかう旅の街道ができた。そこには、今訪れても幌馬車隊の轍のあとが残されている。これがオレゴン・トレイルであり、カリフォルニア・トレイル、サンタフェ・トレイル、そして、もう一つ、別の意味で開拓されたモルモン・トレイルなのだ。こうした、トレイルがネブラスカや隣のカンザスを横断しているというのだから、これは、もう、なんとしても、このトレイルをトレースしたいという気持ちになるのは当然。

 そのトレイルの一つ、オレゴン・トレイルをウィキペディアから紹介しよう。

 

オレゴン・トレイル

 

         1852-1906年のオレゴン・トレイル

オレゴン・トレイルオレゴン街道とも呼ばれる、英:Oregon Trail)は、19世紀、北アメリカ大陸の西部開拓時代にアメリカ合衆国の開拓者達が通った主要道の一つである[1]。オレゴン・トレイルはマニフェスト・デスティニー、すなわちアメリカ合衆国を大西洋から太平洋まで拡げるという文化的目標の達成に貢献した。幌馬車で大陸の半分にあたる2,170マイル (3,500 km)5,6ヶ月かけて旅した道程は、後にミズーリ州、カンザス州、ネブラスカ州、ワイオミング州、アイダホ州およびオレゴン州となった6州にまたがっていた。1841年から1869年の間、オレゴン・トレイルは現在のアメリカ合衆国となった太平洋岸北西部に移住する開拓者に使われた。1869年に大陸横断鉄道が開通すると、この道を長距離で旅する人は減少し、徐々に鉄道に置き換わっていった。

 

旅の光景

現在のアメリカ合衆国を横切る最初の陸路は1804年から1805年にかけて行われたルイス・クラーク探検隊のとった経路だった。探検隊は西海岸に至る実際的な経路を発見したと信じた。しかし、ロロ・パスと呼ばれるロッキー山脈を抜ける経路は幌馬車が通るには難しすぎるということが分かってきた。1810年、ジョン・ジェイコブ・アスターが遠征隊を起こし(一般にアスター遠征隊あるいはアストリアンと呼ばれる)、アストリア砦のあるコロンビア川河口に毛皮の交易所を作るために陸路の物資供給経路を見つけようとした。アスターの同行者の大半やそのスタッフ全員は元ノースウエスト会社(ノーウエスターとしても知られている)の雇員であった。

ブラックフィート族の攻撃を恐れた遠征隊はルイス・クラーク遠征隊の経路よりも南の進路を選び、現在のサウスダコタ州からワイオミング州に入りスネーク川を下ってコロンビア川に入った。

遠征隊のメンバーでノーウエスターの共同経営者でもあったロバート・スチュアート達は、帰路東方に向かった。遠征隊は途次、峠道サウス・パスを見つけた。これは広くて高度の低い峠で、ワイオミングでロッキー山脈を抜けるものである。遠征隊はプラット川を通って旅を続けた。この経路は幌馬車でも通れることがわかった。スチュアートの日記にはその細部まで行き届いた描写がある

 

道標

オレゴン・トレイルでは、多くの岩の形状が有名な道標となり、それらを開拓者たちは道しるべとし、また次にやってくる開拓者へメッセージを残した。開拓者が遭遇した最初の道標はネブラスカ州西部のコートハウス&ジェイル・ロック、チムニー・ロックおよびスコッツ・ブラフである。ワイオミング州ではレジスター・ブラフと呼ばれる道標となる崖やインデペンデンス・ロックに開拓者の名前が彫りこまれている。道沿いにあるワイオミングの道標、エアーズ自然橋はその名前で州立公園となっている。

   

旅の装備

幌馬車

オレゴン・トレイルは距離が長く当時の東部で貨物輸送の大半に使われた標準的コネストーガ幌馬車では厳しいものであった。これら大きな荷車はそれを曳く牛の隊列も行程の3分の2くらいで死んでしまい、その不幸な所有者は荒涼とした孤独な台地で立ち往生してしまうという評判があった。そうした時の唯一の解決法は所持品を全て捨てて抱えたり引き摺っていける物資や道具とともにとぼとぼと歩くことであった。1846年のカリフォルニア・トレイルの場合、カリフォルニアを目指したドナー隊は11月のシエラネバダで立ち往生し、3人のメンバーは生き残るために人肉を食する手段に訴えるしかなかったと言われている。

 

トレイルの楽しみ方

 

  幌馬車のトレイルはネブラスカを横切っている。カウンティーハイウェイは、その古い街道に沿ってできた道だ。ここを田舎の景色を楽しみながら、ノンビリと走る。そして、道の途中には、いたるところに、Histric Makerが立てられている。その土地土地にまつわる歴史のなかイベントが紹介されている。これを探し出し、呼んでいくと、その土地と歴史の関係がよくわかり、一度にその地が身近に感じられるようになるから不思議だ。たまには、このマーカーまえで写真を撮ったりする。このマーカーよりも迫力のあるのが、ランド・マーク。つまり、だだっ広い大平原のなかにある旅の指標だ。ネブラスカには、クォーターコインのモチーフにもなっているチムニー・ロック、スコッツ・ブラフ、そして、コート&ジェイルなどの岩山がある。幌馬車隊はこの道標を実宛に旅を続けていたわけだ。しかし、この辺りは、シャイアン族の居住地。その岩陰からいつ彼らが襲ってくるとも分からない。そんな恐怖を感じながら旅をした道でもある。こんな、ナショナル・モニュメントも西部開拓の象徴だ。いずれの場所にも、ビジターセンターがあり、この奇怪な岩山の地質、生物、植物、そして、歴史を紹介してくれる。もちろん紹介してくれるのは、パーク・レンジャーだ。中西部のこうした、ナショナル・パーク、モニュメントを訪ねるひとはあまり沢山はいない。いつでも、二・三のグループと一緒になる程度。だから、ビジターセンターにいる学術員とすぐに仲良しになれる。かれらは、質問でもしてくれれば、ここぞとばかり、自分の知っていること、見出した事柄など、懇切丁寧、というより、とうとうと説明してくれる。時間がゆるせば、これは、もう学習教室そのものだ。とりわけ、子供ずれのお母さんの迫力はたいしたもの。子供に先立ち専門的なことをどんどん質問している。そうしたお母さんの教養もたいしたものだ。

  このトレイルの途中にある田舎町、これがまた、どこの町もユニークだ。こうした町は、幌馬車が一日で進むことのできる郷里ごとにできている。当時の名残であろう。その町のでき方が面白い。まちには必ず立派な教会がある。この町に住む人たちに支えられて建築されたのであろう。大きな町になれば、それぞれの宗派ごとの教会がある。建物のつくりは、同じ宗派のものは同じ形をしているから、その町の住人の宗派が直ぐに分かる。そして

、 隣町通しでは同じ宗派はない。かならず異なる宗派同士が飛び飛びになっているのだ。この教会のたてものがどこに行っても立派。教会の高い塔は、町のどこからでも見ることができるから、ここを訪ね歩くのも楽しみの一つ。

 

  教会ばかりでなく、町の中心にある庁舎もこれまた、ユニークで見るのが楽しみ。大体は、コートハウスとジェイルが一緒に立てられている。とにかく石造りの頑丈な建物。勝手は、インディアンや他の宗派の人たちから襲撃されたときの砦代わりに使われていたことが分かる。これは、教会も同じだ。よくあるのが、この庁舎を町の中心にして、ここがロータリーになっており、ここから、丁度、パリの凱旋門のごとく、放射線状、と言っても、四方に道が延びているのであるが、そんなつくりの町が結構ある。こんな町は、地方のかなり繁栄した町、歴史のある街だ。その町の由来などを調べと、これまた、西部の物知りになったような気がするのである。

 

9. そして、今

  農業大国アメリカ

アメリカの地図をみて、気がつくことは、あの中西部に広がる大平原。そして、その広さだ。ただ、この広大な土地は草原がおもだ。肥沃な土地は、オレゴン川、ミシシッピー川、イリノイ川、そして、ミズーリ川や、カンザス川、アーカンソー川などが作った河岸段丘の土地だ。ネブラスカやサウス・ダコタ、そして、ワイオミングなどは、広大な草原が広がっているだけで、農地として利用されているのはそのごく一部。ほとんどは牧場か、あるいは、荒野そのものだ。土地がやせているというよりも雨量がすくなく、ここでは木も育たないのである。だから、ここに住んでいたインディアン達は農業よりも狩猟のほうを生活のよりどころにしていたわけだ。しかし、それにしても、この大地の一部を農場として開拓しているこの姿は、想像以上に大規模なものだ。その広さを言葉で表すのは不可能と思う。とにかく、カンザスやオクラホマに行くと、見渡す限りの農場。若葉が芽生えるころのこの景色は、まさしく、緑の大地という形容がぴったり。どこまでも続く農場。よくもこれだけの農地を管理しているなと感心せざるをえない。こんな広い土地だから、アメリカの農業の規模がちがう。田舎道を走っていると時々トラクターや、耕運機らしきものとすれ違うことがあるが、その大きさには度肝を抜かれる。子供のおもちゃの変身ロボットがあるが、丁度あんな形で、耕運機の両方の腕を折り曲げて、道路を走っている。その幅は、片側車線を敢然に塞いでしまうほど。これが、農地に入り、腕を伸ばして耕しているのだ。幅は、十メートル以上だろう。これが、また、一マイルくらい真っ直ぐと進んで農地を耕しているのだ。こんなスケールで農業をやるわけだから、もう、農産物工場といってよいのではなかろうか。土地があるからといって追いそれと農業ができるような規模ではない。これがアメリカの農業の規模なのである。日本の農産物を管理するお役所のひとは、政策をたてるのにアメリカのストックマーケットの状況ばかりに目をやらずに、こうした、生産の現場の実情を良く見て、将来の日本の食糧の調達をどうするのか真剣に施策をねってほしいと思う。とにかく、日本の農業をどのように保護していくのか、これは並大抵のものではないことを痛感した次第。

 

  工業国アメリカは、まだ、発展途上だ

  アメリカの中西部をドライブしていると、カンザスにしてもオクラホマでさえ、農場の中に石油を掘っている井戸がある。ワイオミングは石炭の露天掘りで有名。ここから、ありかの東部に十分おきと言ってもいいくらい石炭を積んだあの100両編成くらいある長居貨物列車がアメリカの東部に向かって走っている。石炭のほか、ウランやそのほか貴重な鉱物が産出する。石油だって出ており、大平原のハイウェイの途中に突然と大きな製油所の町が出現するから驚き。こんなところに人が住めるのか思われるようなところに決して近代的とは言えないがかなり大きな街Rawlinsには、アメリカの中西部ではかなりの石油会社であるSinclairの製油所がある。なるほど、ところどころに例の石油を掘り出しているポンプを目にすることがあった。以前に、同じワイオミングの北の端を旅行したときにも、大きな石油基地の町Newcastleを見たことがあるが、なにを隠そう、ワイオミングは石油が産出する州なのであった。暫くいくと、草原の中にフレアースタックから火が挙がっている石油基地も見えた。これには、驚き。あまったガスが燃えるほど石油が出るということだ。資料によれば、なんと、ワイオミングはアメリカで生産している石油の46%を占めているとか。テキサスについで鉱物資源の豊かなのだ。そのおかげで、州自体がとても豊かなくにだ。

  アメリカが工業国として発展したのは、鉄鉱石の出現と、石炭の算出だ。この豊かな鉱物資源の国アメリカは、もちろん工業国であることは間違いないが、しかし、中西部や南西部には、まだまだ開発されていない土地がいくらでもある。消費地である東海岸や西海岸から遠く離れていることが、この地域の発達を妨げているのかもしれないが、巨大な資本と先端技術を保有するアメリカでさえこうなのだから、将来、この地が開発されてゆくことは確か。だが、それにだれが手をつけるのか。アメリカは、いま、この広大な土地をどのように利用していこうとしているのか。とても興味のあるところだ。そんな意味で、アメリカの中西部、南西部はまだまだ発展途上の地といいたい。アリゾナのフェニックスなどは、砂漠のなかに忽然と出来上がった町。ここを中心にしてどんどん町が発展している。こうした街づくりの将来がどんな形になるのかとても興味のあるところであるが、もし、日本がこれから、アメリカの大きな市場でビジネスを展開しようというのであれば、その利益の一部は、こうした町お越しのために投資にあてるようなことを考えてほしいものである。それが、やがては、日本のビジネスがアメリカに定着する糧になるのではないかと思う次第である

 

どこの町にも立派な教会

  東部海岸には、アメリカの古い歴史があり、中西部、そして西部には、フロンティアの名残がまだまだ強い。アメリカを西に東に、そして、北に南に走り回り、ふと立ち寄った町、けっしてアメリカのすべての町というわけではないが、どこの町に行っても気のついたことがある。それは、どんな田舎町に行っても、教会だけは立派だ。もちろん、最近できた教会はさわやかな感じのするものが多いが、こうした教会は、その土地、町のもっとも古い建物であることが多い。こうした教会を数多くみて歩くといろいろと新しい発見がある。まず、教会の形にはいくつかのパターンがある。これは、宗派によって、それぞれ特徴のある、というより、決まった形の教会を作っているようだ。この建物はどこの宗派のものであるのかが直ぐに分かる。ステンドグラスをはめ込んだ窓のある四角い塔の教会、天に少しでも近づこうと、高く、鋭い塔の教会、丸みを帯びた、窓の荘厳な教会。町の規模と、地域によってその大きさには違いがあるようだが、形はほとんどおなじようなものがあちこちにある。ただ、こうした教会がダウンタウン、あるいはメインストリートの中心にあるということは、この教会が町の建物でももっとも古いものの一つであるのだ。似たような形の建物は、隣通しの町にはない。ある形の建物の教会の町の隣の町は別の形の教会になっている。いなかの町になると、一つの町に一つの教会という感じだ・多分、ある宗派の町ができると次の町には別の宗派の人たちが定着する。だから、同じ宗派の教会は、一つ先、二つ先の町にできるのではないかと思う。そして、こうした建てられて教会は、実に堅固にできている。それは、まるで、砦のような感じだ。もちろん、教会であるから、ここで殺傷はしなかったであろうが、西部の開拓の時代は、それは、同じ宗派での話。違う宗派の人たちは、自分達の敵と思って、自分達が生き延びるためには、これを襲撃していたなんていうのは、日常茶飯事だったのである。そのために、それぞれの村には、自分達の実を守るために立てこもる砦がひつようだったわけ。それが教会であることは何度も映画で見た。有名なアラモの砦は、今でも修道院である。教会の地下室はお墓になっているのだが、当時は、そこに武器と非常食が隠されていたとのことである。そして、抜け穴があり、長い期間篭城という形になると、ここから抜け出して、別の町の同じ宗派の教会に行き、助けを求めていたとのことである。これが厳しい西部開拓の現実だったわけだ。今では、平和のシンボルとして、町の景色に彩りを添えているが、価値感が多様なアメリカはこんな風にして歴史を刻んできたわけだ。

 

 教会が乱立

 少し大きな町になると、これは、町の一角、と言っても、大体は町の中心地、そこに、いろいろな宗派の教会が並んでいる。ゴチックやロマネスク調といったもののほかに、イスラムのモスクのような建てものもある。まるで、建築技術の展覧会の会場並み。そして、セント・ルイスやミネアポリスにある大聖堂は、これはもう格が違う。この大聖堂の中で聞く賛美歌の響き、とりわけ、聖女たちのソプラノの歌は、まるで心が洗われるような気持ちになる。まさしく天からの呼びかけのような響きを持っているから不思議だ。これらの大聖堂ほどではないが、スー・フォールにも立派な大聖堂がある。こうしたものが町の発展のなかで教会が果たした役割を推し量ることができる。そして、極めつけは、モルモン教の聖都、ソールト・レイク・シティーだ。市民のほとんどはモルモン教徒。そればかりでなく、ここには世界中の信者が巡礼でやってくる。建物はゴチック風の天に高く突き刺すようにそびえる聖堂。これを取り囲んで、モルモン教の教えを学ぶ説教の施設、それに、政界一のパイプオルガンのある音楽堂。そして、南北のゲートには博物館がある。ここには、世界中から聖女が集まって、ここに巡礼でやってくる人たちの案内をしている。私が訪問したときも日本人の聖女が優しく声を掛けてくれた。そして、いまから、説教が始まるから一緒に聞きましょうとのお誘い。時間がないからと断ると、どこに住んでいるのか、その町にも教会があるので、是非、きてくださいとのお誘い。旅先でこんなやさしい言葉を掛けられると、ついつい、その気になってしまう。そんな雰囲気のするやさしいお嬢さんだった。

 

  このように、アメリカの田舎をドライブして、町に近づくと、遠くのほうに教会の塔が見えてきます。その建物の形は宗派によって違いますから、その町にどんな考えの人たちが住んでいるのか予想がつくというわけです。厳しいキリスト教の教えを守っている人たち、あるいは、敬虔な信者の人たち、もっと現実的に物事を考える人たち、そんなことを想像しながら、立派な教会の建物をみて感心していました。どんな田舎町でも教会だけは立派なのです。信心の力の強さと、教会を大切にする気持ちが伝わってきます。

 

田舎町だけでなく、キリスト教の人たちは、日曜日の礼拝を欠かしません。古い町では教会は待ちの真ん中にありますが、新しい年では町の郊外に立派な新しい教会も珍しくありません。感心するのは、この教会が毎日曜日、駐車場が一杯になるほど、みなさんよく教会に顔をだしているようです。テレビでも日曜日の午前中は沢山のチャンネルで牧師さんの説教を、そして、選ばれた信者のひとが聖書の教えを解説しています。昔からそうなのでしょうが、このように日曜には教会に行き、礼拝するというのが生活の習慣のなかにしっかりと根付いています。そして、この礼拝が終わると皆さん一斉に買い物に出かけるか、家族でレクレーションに繰り出すというわけです。ですから、日曜の午前中はスーパーはがら空きですが、午後からは猛烈な込み具合になります。そんなことからわれわれ信心のないものは午前中から買い物に出かけます。すこしでも空いているときにと言うことなのですが、実は、これは大変なことを意味しています。つまり、日曜日の午前中に教会にも行かない人は、もともと信心のない人、あるいは、キリストの教えを知らない人、言い換えると、自分達とは違った考え、違った価値観を持っている人、神を信ずることのできない哀れな人、というような感覚で見ているのではないでしょうか。それほどまでに宗教の力は強いのです。さらに、極端な例を挙げれば、日曜日に同じ教会でかおをあわさない人は、たとえ家が隣であっても、近所づきあいはしません。かれらは、同じ教会に行く人を友人と思っているのです。ですから、家族同士の付き合いは、教会を通じてというのが普通です。同じ説教をきき、同じ教会で助け合うというのが、彼らの友人の考え方なのです。こうして、同じ教会で知り合ったひとなら、結婚しても考え方に違いがありませんから、うまくいくのでしょうが、そうでない場合には、たちまち夫婦の仲は怪しくなるのでしょう。

  そんな社会ですから、日本人の人がアメリカに定住しようと言うのであれば、日曜日に教会に行かなければ、なかなか日本人の社会から抜け出すこと、つまり、国際的な感覚の考え方を見につけるのは難しいのでは痛切に感じました。

 

 私の友達も、長い年月、アメリカで生活しています。・かれは、アメリカで生活するには、やはり彼らと同じ価値観を持たなければということで、教会に行き、そこて、日本人の人たちが作っている聖書研究会に参加し、キリスト教の教えについて一生懸命勉強したのだそうです。そんな姿に、心を打たれたのでしょう。ある女性と知り合いになり、その後、二人は、意気投合。やがて、デートを重ね、結婚しました。彼はそのときすでに還暦を過ぎていました。この年で大恋愛をして結ばれたという素晴らしい話です。

 

もちろん、アメリカでは宗教の自由はありますし、他人の宗教についてとやかく言うことは、即、差別になりますから、これを議論することはタブーなのですが、日曜日に教会に行かないひとは、アメリカでは信心の薄い人と思われる、もしくは、自分達とは違う価値観を持っている人ということで、仲間としての人間関係を結ぶことが非常に難しいと思ったほうがよいのではないでしょうか。

 

アメリカをドライブするときに、できるだけ現地の人たちの生活観を感ずるために、どんなに遠くに行くときも、できるだけカウンティハイウェイという、いなか道を使うようにコースを選びました。こうした道は、かっては幌馬車隊の通った道で、いわゆる旧街道という感じです。ほぼ、20マイル毎くらいに町があります。それは、幌馬車が一日に進む行程がこのくらいだったということなのではないでしょうか。そんなことを考えながら、地図で町の名前を見て、どんな人たちが住んでいるのか、町のつくりはどんな形なのか、胸をわくわくさせながら、近づいてゆきます。そんなときに気づいたことですが、こうした町に近づくと、そこには、ある一つのパターンのようなものがあることが分かりました。それは、町に近づくと、決まって、まず、墓場が出てきます。これが町はずれと言うことでしょう。そして、大農場に欠かせない農機具、耕運機や、収穫機械などを販売しているジョン・ディーアと言う会社の営業所があります。この会社の商品は、緑色がシンボルカラー。これにロゴとトレードマークの鹿の絵がついています。アメリカの農業の機械化をになってきた会社で、どんな田舎の町にもこの会社のものがありますから、その規模の大きさに度肝を抜かれます。この営業所がシティー・リミットにあるのは、販売している機械がとにかく大きいので、これを展示するのに広大な土地が必要だからかと思います。そして、この辺りから、スピード制限が50マイル、そして、45マイルとなってゆくと、今度はガソリンスタンド。そして、スクールゾーンがあり学校となります。そろそろ、ダウンタウンということになり、公園や、メインストリートが出てきます。いよいよ町の真ん中になりますと、これはまた立派な支庁舎、教会、裁判所など、荘厳な感じの建物が続きます。裁判所は、Curt House と Jail が一緒になっていますが、このJail の立派なこと。勝手は、どこも田舎は荒くれものが多かったのでしょう。町によっては、西部劇に出てくるようなつくりになっているところもあり、今にも馬にのったガンファイター出てきてもおかしくないような雰囲気です。

 

 

アメリカの気候・風土

 

 アメリカの天気予報、もちろん、期待はずれのこともあるが、実に良くあたる。テレビでは、天気予報の専門チャンネルがあり、全国の天気だけでなく、ローカルの天気予報を詳しく教えてくれる。どうして、これだけ天気予報が当たるのかと考えたら、アメリカの国土はとてつもなく広く、そして、地形の変化が少ないので、天気の状態が安定しているのだ。ネブラスカの天気は、偏西風が北から強く吹いているときには、サウス・ダコタの雲が流れてくるので、その雲の流れをみていれば、大体一日先の天気はまず間違いなく分かる。また、メキシコからの風が強ければ、カンザスの雨雲がやがてネブラスカに流れてくるのである。こういう傾向は、アメリカ中大体おなじ。とにかく国が広いから、俄かに天気が変わるということが少ないのではないかと思う。このように、アメリカの気候を支配しているのは、偏西風とメキシコ湾からの風の勢力争いによって決まっているのではないかと思う。この偏西風は、西から吹いてくるというより、ロッキー山脈を迂回する形でアメリカの中西部の平原には、北風となって、ノース・ダコタ、サウス・ダコタを吹き抜けてくるのだ。とりわけ、冬の季節のこの風は、北の冷たい空気を運んでくるので、舐らすかの気温がマイナス20℃くらいまでなる。一方、メキシコ湾からは、海風が大陸に向かって暖かい風を吹き込んでくる。ハリケーンのシーズンには、この勢力が強くなり、テキサスからオクラホマ、そして、カンザス辺りまで北上してくる。そして、これが北からの偏西風とぶつかると猛烈な上昇気流となる。これが、実はトルネードの原因だ。大平原をドライブしていると、突然、空の一角にこの雲が現れ、やがて、どんよりと曇り始めるとかぜが吹き始め、雷が鳴り始める。そして、猛烈なスコールのような雨が降ってくる。この雨の中では走ることが危険のため、雨宿りをするほど。こうした、北風と南風がぶつかるのは、大体が決まった地域。ここにトルネード銀座と呼ばれるゾーンができる。オクラホマからカンザス、ミズーリ、そして、イリノイ、ケンタッキーに走るゾーン。このトルネードのすごさは筆舌に尽くしがたい。一度、カンザスをドライブしていたときのこと、Dodge City の近くにあるGreensburgという町、この町には、手堀理の世界で一番古い油井があるというので、これを見学に行ったときのこと。これが、たまたま、その一週間前ほどにトルネードに襲われていたのだ。小さな町ではあるが、町全体が全滅。家という家はすぺて屋根が飛ばされ、安全のための地下に作られたシェルターさえも、中の家財道具が吹き飛ばされていた。道路には仰向けになった車も少なくない。庭に植わっていた樹木は、太い幹を残して丸坊主の状態。その被害のすごさにはただただ驚くばかり・ただ、感心したのは、ボランティアで来ていたのであろう、この荒れ果てた町の整理のために高校生らしき生徒たちが一生懸命汗を流していた。アメリカの若者って、なかなかいいねという感じがした次第。

 

  

  五大湖が東部海岸に雨・雪をもたらす。

アメリカの東海岸のニューヨークは、ネブラスカとほほ同じ緯度。しかし、雪のふる量が圧倒的に多い。雪だけでなく、雨量もかなりのもの。これは明らかに五大湖の影響。スペリオル湖やミシガン湖の西側では、雪ではなく、地表全体が凍りつくような寒さだ。しかし、五大湖から東海岸にかけては、大雪となる。これは明らかな五大湖の影響。湖とは行っても、この五大湖の大きさは、瀬戸内海の何倍もあるから、もう海と言ってもよいのだ。その上を渡る北風がたっぷり水分を含み、ニューヨーク州やペンシルバニア州の山々に辺り、雪をもたらすというものだ。このように五大湖は天候を支配するほど大きな海である。

 

  アメリカ大陸の中西部は、Prairie もしくは、Plainsと呼ばれている。カンザスの北部からネブラスカ、ダコタ、モンタナ、ワイオミングはPlains と呼ばれる。一方、カンザスやオクラホマ、ミズーリ、アーカンソーなどは、Prairie と呼ばれる地域だ。地理的には明確に境界線はないが、これらの地域の致命的な違いは、年間の降雨量による。Prairie の地域には、草木がそれなりに育っているが、Plains は、雨がすくなく、草木さえ育ちにくい土地なのである。このPlainsの雨量を圧倒的に少なくしているのが、ロッキー山脈。高い山々は、太平洋を越えて偏西風が運んでくる水分をここで雨にしてしまうのです。ですから、ロッキー山脈の東の大平原には水の恵みが極めて少ないということです。年間の降雨量は、20インチにも満たない乾燥した地域なのです。こうした気候条件の下では、穀物は育たず、乾燥に強い植物だけが細々と生長しているだけなのです。かろうじて、ここで牧場している人たちの仕事はといえば、放牧した牛や馬達のために毎日、水を運ぶことだそうです。かって、幌馬車でこの地を横断していて、水がなくなり、コップ一杯の水を何百ドルも出して求めたという話さえあるほどです。海に囲まれ、飲み水に事欠かないと考えているわれわれにはとても理解しがたい現実です。

 

  なぜ、天気が良いのに大洪水

こんな話を聞かれたことはないでしょうか。古代エジプトでは、ナイル川の下流域では、雨が降らないのに、突然氾濫し大洪水に見舞われました。これは、ナイル川の上流に雨季が来ており、このために下流にあるカイロに洪水が起きたわけです。これでは、たまらないと、彼らは考えました。こうして、シリウスと太陽がほぼ同時に東の空に昇ってくる日から数えて、何日目かに洪水が起こることを予測したのです。実は、これが暦の始まりといわれています。こうした洪水の現象は、エジプトに行かなくても、アメリカでも起こっています。ミズーリ川の下流では、春になると雨もないのに、洪水が起こるのです。これは、冬にロッキーの山々に積もった大量の雪解け水なのです。この雪解け水は、ロッキーの山から地下水になり、これが、ワイオミングや、ネブラスカで泉となって沸いてくるのですが、雪解け時には、地表水がどっとながれ、たちまちのうちに川は大洪水になってしまいます。とにかく大平原の土地の傾斜はほとんどありませんので、一揆に町中が水浸しということが年中行事でおこるわけです。飛行機からみるミズーリ川やカンザス川、そして、それに流れ込むクリークは、まさしく、蛇行そのもの。

 

 

  年間降雨量で生活様式が変わる

   アメリカ中西部では、年間の降水量により生活のパターン違ってきます。北西部、ノースダコタからサウスダコタ、そして、ネブラスカとカンザスの北部、一部アイオアも入りますが、これらの地域は、Plainsと呼ばれています。この地域の雨量は、20インチ以下という乾燥した土地なのである。だから、こうした地域には、木も育たなければ、また、水不足でも耐えられるような代表的な植物、そして、バッファローの食料となる草さえも育たないのである。だから彼らは定住して農耕をするのではなく、遊牧民族としてバッファローを追いながら自然のなかで生計を立てている。これに対し、同じ中・西部でも、カンザスの南の地方、オクラホマ、そして、ミズーリなどは、降水量が30インチあるいは、それ以上の地域で、生える草の背丈も35フィートもあり、穀物栽培に適している。大草原には、野菜が栽培され、大地は緑の絨毯を敷き詰めてような光景。ここで農耕をしていたというわけ・また、南部に行くと、もっと乾燥している。カリフォルニア、アリゾナからニューメキシコあたりでは、乾燥につよいサボテンがハイウェイの両脇に延々と育っている。この地方、サワロ地区とよんでいるが、降水量により育つサボテンの種類か違う。雨の少ないところでは、オルガン・パイプというサボテン。このサボテンは地球に広く根を張る種類で、少ない水でも育つ。これに対し、すこし雨の量が多くなる地域ではサガロという、丸太棒のようなサボテンが幅を利かせている。このサボテンは、この柱のような茎の中に水をためながら成長しているのだ。同じアメリカなのに、これたけ、地域により気候がかわり、育つ植物の種類が変化するということがまことに不思議な気がする。地域によりこれだけ様相が変わってくるから、アメリカをドライブしていると、まるで違う世界をさまよっているような気分になる。これがまた新しい発見を期待する楽しみでもある。 

 

 

化石の宝庫

  このように雨が少ないので、地表は風化する速度が非常に遅いわけだ。もちろん、何億年もの間に自然の雨風が大地を削り、様々な景観を築き上げているが、これが、そのまま残っているというのが、このアメリカだ。太古の昔の造山活動の痕跡もあちこちに残っている。大胆に褶曲した山肌などは地殻の変動の後もまだ生々しい。ワイオミングやコロラド、ネブラスカ、そして、カンザス辺りは、その昔、青々とした森林地帯であったろう。このあたり一体からは、マンモスや恐竜の骨が沢山発見されている。未だにこうした化石か地表に現れている地域がある。コロラドのDinosaur Nat’l Monument、ネブラスカのAgate Fossil Beds Nat’l Monumentなどは、今でもここで恐竜の骨の発掘、学術調査が行われている。また、サウス・ダコタのバッドランドあたりでもこうした化石が沢山見つかっている。そして、かっては海底であったものが隆起した地域には、貝殻もでてくるのだ。カンザスの西にあるOakleyの町には、Fick Fossil Mus.という町のミュージアムがあるが、ここには貝殻の化石が山ほど陳列されている。この地域の農地を切り開いていた開拓者が発見したものだそうだ。近くに、Monument Rockというランドマークがあるが、ここは、大地が雨で削られたところだが、一部、堅い表面の部分だけが、削られずにのこり、これが岩山になっている。しかし、その山肌は、かって海底であった堆積層がそのまま姿を現している。しかも、なんとその山肌には、いたるところに貝殻が露出しているのだ。崩れ落ちた土のなかにも貝の化石が埋もれている。もちろん、こうした化石を持ち出すことはできない。もっとも。こんな化石はいくらでも出てくるのアメリカ人にとってはさして珍しいものではないのだろう。記念に一つなんていうのは、われわれ日本人くらいのもだ。

 

鉱物資源の話

アメリカが大自然の豊かな国であると同時に、また、鉱物資源の宝庫であることがドライブをしていると良く分かる。もちろん、その典型的なものはゴールドラッシュに象徴されるが、そのほかにも沢山の鉱物資源が埋蔵されている。ロッキーの南の地域は、大地が赤茶けている。これは、まるで火星が赤いのは鉄鉱石があるからといわれるように、酸化鉄の成分がおおいからなのであろう・山肌ばかりでなく、大地が赤いのだ。鉄鉱石は一躍アメリカを新興国に成長させたが、そのために必要な石炭はアメリカ中どこにも算出する。アパラチア山脈が鉄鉱石と石炭の産地であることは有名。カンザスにはかって露天堀をされていた探鉱がある。このためのパワーシャベルは、10階建てのビルくらいの大きさ。その名も「ビッグブルータス」の愛称で親しまれている。観光地になっているほどだ。この炭鉱がこの辺りの地形を変えてしまったというから、ものすごい。石炭は、今では、ワイオミングが主流の産地だ。ネブラスカには、東西に走る鉄道があるが、ここをワイオミングの石炭を満載した輸送列車がひっきりなしに走っている。この貨物列車、長さが100両くらいある。だから、。踏み切りにかかろうものなら、時には数分待たなければならない。これではたまらんと、地元の人で自分の家に戻るのに、踏み切りをわたるひ人は、列車と平行して走るときには、猛烈なスピードで飛ばす。読みで見ていて、こんな車を見ると思わず噴出してしまう。それにしても、この列車の数のすごいこと。カウンティハイウェイがその線路の横を走っていることがあるが、とにかく次から次へとこの輸送列車がくるので、驚いてしまう。こうした石炭は、東部の地域で火力発電用の燃料につかっているようだ。ワイオミングは石炭のほうに、その他の鉱物資源も豊富。なんと、アメリカではテキサスについで、二番目に石油の産出量が多いとか。この陸地の満々中に石油が出るとは、、隣の州でありながら、鉱脈が通っていないのか石油のでないネブラスカには「うらやましい」、の言葉以外にない。

 ユタに行くと、周りの様相が一変する。山肌が灰色になり、あたりに陰気が漂っている感じ。I-70を走っていると、ウランの鉱山が出てくる。第二次大戦後の冷戦時代には、ここで大量のウランが採掘されたとある。それだけでも不気味な感じ。ソールトレイクの近くには世界一の銅山Bingnamがあり、ここで、露天掘りが行われている。観光することもできるが、近くにあるユタ・レイクの水の色が緑であるのに度肝を抜かれる。この湖の辺をはしるハイウェイの路上に沢山の水鳥の死骸が散乱していたりすると、誰でもがよからぬ想像をする。一目散にこの場から逃れたい気分だ。

 

アメリカ人の合理性

   クレジットシステム

    スーパーでも、また、街中のお店でも、あるいは、ファーストフードで買い物をして代金を払うのは、たいていクレジットを使う。現金で買うことになれているわれわれには、どれほど使ったかわからなくなるこもあるので、多少の違和感があるが、使い慣れてくるとこれほど便利なものはない。どこのお店でも、どんな場合でも通用するので、これ一枚があれば安心だ。このクレジットで買い物をしていてチェックを使うひと、そのほか、現金で支払う人、様々であるが、実はこれが大変なちがいがある。

 便利なクレジットカードを作ればよいと思うのだが、アメリカでは、クレジットカードをつくるのに、クレジット・ヒストリーが必要だ。銀行でクレジットカードを作るときには、まず、いくらかの貯金をして、これで、この額まではクレジットで買い物をしていいですよという通知をもらう。そのあと、何ヶ月かは、使ったクレジットの支払いが間違いなくされたか、あるいは、チェック・カウントという、当座預金にお金がしっかりとあるかどうかの調査をする。そして、これは間違いないという金額を確認しながら、銀行は、クレジットカードにたいして、毎月、いくらまでは使ってもいいですよというその限度額を決める。こうして、この実績をみて、初めてクレジットを自由に使えるようになるわけだ。もし、このクレジットヒストリーに問題があると、つまり、定期的な収入がない、あるいは収入が少ない、預金の残高が少ない、など、こうした事態になると、クレジットは使えない。そうなると、今度は、チェックで代金をはらうことになる。このチェックも非常に厳しい。このチェックは銀行の預けている貯金の残高以上は使えないことになっている。代金をスーパーで支払うのに、チェックをきると、直ぐにレジのカウンターから銀行に残金の確認ができるようになっているのだ。だから、リアルタイムでその人の有り金が分かるというもの。でも、これならまだ現金を持ち歩かなくても済むから、現金を持っていて強盗に襲われるという危険性はない。銀行に残高の少ない人、あるいは、口座を開けない人は如何するかというと、この人たちは現金でものを買うしかない。低賃金のひと、定期収入のない人たちは、現金で買い物をするしかないのだ。逆に、スーパーのレジで現金で買い物をしているひとたちは、収入がその程度だと直ぐに分かる。つまり、支払いの手段によってその人のステータスが分かるというもの。偽札の可能性もあるし、クレジットを使えない人には、あまりお金がないということだから、スーパーが現金でものを買う人に対するチェックは極めて厳しい。こんな具合に、日常の買い物をするにしても、自分の社会的信用度がどの程度かのランク分けがなされているのである。

 

 現金は必要ない

  従って、定職につき、サラリーで働いている人たちはほぼ間違いなくクレジットを使うことができる。そして、クレジットが使えるのであれば、アメリカ中どこに行くにしても現金の持つ必要はない。もっとも、ターンパイクのように25kとか、50kの通行料を取るハイウェイもあるからそんなときには現金を用意する必要があるが、日常の生活では財布のなかに現金は20ドルも持っていないことがざら。私は、いざというときのためにいつも200ドルくらいの現金を持ち歩いていたが、普段、現金を持っていると犯罪に巻き込まれる可能性があるから危ないとまで言われた。こんな状態だから、アメリカ人は現金を使うことはほとんどないし、持ち合わせてもいない。

 

 子供達は、自由に買い物ができない。

  親が現金を持っていないから、子供達に小遣いを上げるなんてことはきわめて珍しい。財布の中身はクレジットカードしか入っていないことを知っているから子供も小遣いをくれなどとは言わない。だから、小遣いが必要なら、アルバイトをして自分で稼ぐしかないのだ。庭の芝刈りなどせっせとして小遣いを稼ぐようであるが、その金額は、一ドル、二ドル程度。これでは、買い物をするために必要なクレジットはつくることができない。もちろんためたお金で買い物など勝手にできない。レジで、フォトIDを出せと請求されても、自分の身分証明ができないから現金も使えない。こうなると子供達は、ほしいものがあれが、親にお願いするしかない。ということで、親は絶対的な権威を持っているのだ。何かほしいものがあるときは、日曜日の買い物についてゆき、親に買ってもらうしかない。もちろん、親のご機嫌が悪ければ買ってもらうことはできないから、子供達は親の言うことをよく聞いて、なんとか、ご機嫌を取っている。そんな光景が良く見られるのだ。子供達は、現金を持っていても使えないから、小遣いをためるより、親の言うことを聞くほうがよい、否、そうしなければ、ならないと考えているのである。だから、実に親の言うことをよく聞いている。これが、高校を卒業すまで続くのだ。それまでは、親に絶対的な服従なのだ。どこかの国のように、お年玉とか、毎月の小遣いなどと言って、親が意味もなく子供達に現金をあげ、子供はそれを自由気ままに使う。また、そのお金を目当てに商売をしている大人たち。子供達は現金ほしさに、路上ドロボーをする。空き巣に入る。弱い子供からまきあげる。こんなばかなことを平然としている国のモラルの低さは、国の存在すら危ういのではないかと心配である。クレジットカードが、親の威信と、国のモラルを保っているということであれば、この制度は是非、具体化してもらいたいものだ。

 

   チェックシステム

  現金の支払いの代わりにチェック、すなわち、小切手を使うが、これは、通常、銀行にある残高の中でしか使えない。だから、銀行の残高をいつも気にしていなくてはならない。金曜日に残高がないと、チェックで次の週の食料を買い込むことができないから深刻な問題だ。このチェックは、ガスや電気代、そのほか、クレジットの支払いにも使われる。また、税金の支払いや、通信販売の支払いもする。そんなときには、自分名義のチェックを発行し、これを郵送でおくる。簡単にチェックをいれて、普通郵便で送るのだ。日本であれば、こうした有価証券ともなれば書留で送るのが普通だが、アメリカは、ファースト料金の普通郵便で送る。紛失の危険があるのではとおもうのだが、これが、大丈夫なのだ。ほとんどなくなることがないらしい。これは、たとえこのチェックを手に入れても、これを現金化するのには、銀行に行き、身分証明をしなければならないからだ。もちろん、顔写真の入ったフォトIDでなければ、銀行は受け付けない。さらに受け取るにはサインが必要だ。となると、これは、たとえ不正にチェックを手に入れても、現金化できないのであれば、ただの紙切れ同然ということになる。そんなものを犯罪まで犯してとる人はいないのだ。それに、アメリカの場合には、郵便物の犯罪に対する罰が非常に厳しいのだろう。チェックが社会的な仕組みのなかで機能しているので、これを犯すということは、国に対する犯罪でもあるのだ。おそらく、郵便物に関する犯罪は割が合わないような仕組みができているのであろう。犯罪を防止するには、このように罪の重さが必要だ。アメリカでは、一つの犯罪にも、犯した罪により罰が加算されていく仕組み。たった一つの犯罪でも、禁固150年なんていうのもある。

 

日本は放置国家だ

日本の裁判では、罪を犯しても、犯罪者の更正の可能性を考慮して、できるだけ罰を軽くしている。殺人を犯しても、反省している、そのときの精神状態が異常であったなどと言って、終身禁固にすらならないケースがある。ひどいときには無罪なんていうのもある。死んだ人はすでに人間ではなく、犯罪者は人間であるので、犯罪者の人間性のほうを重んずるなどという法の判断で、犯罪がなくなるわけがない。法は、罪を犯した人を裁くためにあるのではなく、罪を犯さないための予防のためであるべきだ。それでも、犯罪を起こす人は、これは精神異常者以外のなにものでもない。これはもう病気であるから、普通の社会生活をするのは無理なのだと思う。いつまでも、大日本帝国時代の法に準拠し、罪の軽重を50年も前の価値感覚で定めているような国は、到底、法治国家とはいえないのではないか。法律学者は、法の精神と体系を守ることは大切であるが、国家の中での法の役割をもう一度考え直し、法により犯罪をどのように防ぐかを研究してほしい。そうでないと、疑わしきは罰せずなどといっていると、法に触れなければ、どんなことをしてもよい、法に書いてないことは、自分の考えが法律だ、などと平気で、他人をだまし、社会秩序を乱している政治家や、企業の経営者がなくなることはない。大人がこんな具合だから、、それを真似て、自由をはきちがえ、自分勝手なことばかりしている若者たちがなんと多いことか。軽犯罪でも、罪を犯せば、社会復帰に膨大な年月のかかることを知っていれば、罪を犯す抑制になることは当たり前。これがなければ、日本は法治国家ではなく、放置国家と言われても仕方がない。

アメリカは、日本に自由と戦争放棄を持ち込んだ。その自由がいま日本を無秩序な国にしている。しかし、彼らには、日本がかっての日本のように独自の法律で、国を統制することを非常に恐れている。価値観が一つで、盲目的に国家に従うと、人口がたとえアメリカの半分であったにしても、これは、太平洋戦争の二の舞になりかねない。二度と日本をそんな風にしてはならないと真剣に考えているのである。だから、だらしのない日本、統制のない日本、これを自由だと考えさせ、日本が一つにまとまらず、あいまいな形でいるのが一番いいと思っているのだ。そんなことに気づかない日本が、これから国際社会で一人前になることなど到底及びもつかないということを今の若者には是非知ってほしいものだ。

 

 

   テレビ番組

  アメリカの町でテレビのアンテナを見ることはほとんどない。町であれば、ケーブルテレビが普及しているし、田舎に行くと、衛星放送だ。もちろん、電波の中継基地はあるが、普通は、ケーブルテレビを見ていることが多いのではないかと思う。このケーブルテレビのチャンネルが非常に充実している。そして、それぞれのチャンネルの放送番組が極めて特徴があり、とてもよくできていると思う。

 

  アメリカのテレビで気がつくのは、それぞれの番組の特異性。あるチャンネルはニュースだけを流している。そのほか、天気予報をしているWeather channel, バラエティー番組のチャンネル、子供用チャンネル、ディズニーも一つチャンネルをもっている。このほか、スポーツチャンネル、Adventure Channel,  Wild Channel,  Travel Channel, Science Channel,  History Channel, Movie Channel などの専用チャンネルがあるから、趣味のあるひとは、その趣味のあわせた番組を一日中見ることができる。そんななかで、特に気のついた番組を紹介したい。C-SpanというChannel がある。このチャンネルは、ケーブル会社がスポンサーになっており、放送中のコマーシャルはもちろんない。放送の内容は、議会、あるいは、政府の委員会での討論の内容、そして、大統領は、補佐官、各長官の演説など、時の政治の動きを紹介する番組。とくに、議会と委員会の放送は、政治家がどんな風に活躍しているかが良く分かるので、とても面白い。ここで、議員さんは、積極的に発言というより、演説をする。委員会では、各州に政府の援助を引っ張ってくるための真剣に演説をする。そのやり方はまさしく、学会で自分の研究成果を発表しているような雰囲気だ。データを沢山のパネルにして、まさしく口角泡を飛ばして説明している。とにかく、アメリカは国土が広いから、州によって主張がまるっきり違う場合が多い。価値観が違う場合もあるから、対立していてもどちらの主張が正しいか分からないような場合がある。これを議員さんたちは、自分の州のために必死になって説明しているのである。様々に委員会があるから、どこかに属して、各政党の主張をしているのであろうが、その活動がこうして放送されるので、不勉強な政治家、あるいは、活動をしていない政治家は直ぐに分かってしまう。議員の後ろでは秘書達が必死になって聞いている。自分達の研究成果が、政治にどのように反映されるかは、自分の将来の政治活動に響いてくるからだ。こんな仕組みだから、実にアメリカの政治家達は、よく勉強しているように思う。テレビで放送されているときに、いい格好ができれば、次の選挙で高い支持率を得られるというわけ。とにかく選挙区が日本全国程度の広さがあるから、地方演説などしていても効率が悪い。それなら、テレビの放送を通じて自分の主張と、州のためにどれだけ働いているかを宣伝したほうがよほど効率がよいのだ。アメリカの政治家の数は、上院が100名、下院が353名。上院は各州二人となっている。これでは、選挙運動をするにしても、州全体を動いていてはとてもやりきれないというわけだ。下院でも、州によっては一人というところもあるから状況は同じ。日本は衆議院議員が480名、参議院議員が242名。国土がアメリカの26分の一だから、いかに、議員の数が多いかは誰でもが感じていること。何とかその数を減らすことを感がえる必要があるが、誰も、猫の首に鈴を掛けたがらない代議士ばかり。政治もしない烏合の大群だといわれても仕方がない。

 

 もう一つ、ユニークなチャンネルに、著作者が自分の本を紹介するという番組がある。どんな形で本を選択しているのか分からないが、多分、話題性のあるものをテーマにした本について、放送しているのではないかと思う。中継は、図書館の一室でなされているようであるが、これが、またなかなか盛況。聞いている人たちも、その道の専門家と思われるが、ほんの内容についてかなり突っ込んだ質問をしている。この放送、とくに若い著作者が良く出ている。多分、その分野でのユニークな発想を提案しているのではと思う。そんな本の紹介は、その著作者の生い立ちから始まっている。こうすると、その人の考え方のバックグランドが分かるからかも知れない。それにしても、こんな風にして本を紹介する機会があるから、よい宣伝になるわけだ。本屋もこれで潤っていることは確か。なかなか良く考えたシステムである。

 

  アメリカの番組を見ていると、どこのチャンネルもこのようにきわめて特徴的だ。似たような番組がないわけではないが、それぞれが、アメリカという国のために、そして、国民のために、ある意味では教育的な内容の番組を放送しているというるかも知れない。そんな風に見ていると、日本のテレビ番組の貧相なこと、この上なし。どこのチャンネルも似たような番組ばかり。しかも同じ時間帯にだ。視聴者参加番組みたいなものもあるが、その内容は、ただのお笑い番組ばかり。まるで、国民を馬鹿にしているようなものばかり。そんな放送に電波の使用権を与えている国の政策に問題があるのではと思いたくなる。テレビ放送は、国民の教育の場であるということを政府は、もっと真剣に考えないと、このままでは、一億、総馬鹿になってしまうような気がしているのは、私だけなのだろうか。

 

  電波の使用は、民間テレビ局に任せるのではなく、番組の内容をもっと的確にしてもらいたい。それができない局は廃止してもらえば、電気の無駄遣いもなくなり、炭酸ガスの削減も、15lなんてものではなく、20lが可能だと思う。

 

  サラリーマン気風

 アメリカ人になるには、

 かって私がボーイスカウトでアメリカにキャンプに行ったときのことですが、ホームステイをしたお宅の主人、この人は、アメリカの国立の研究所に勤めていた人ですが、その人に、「アメリカ人とは、一体だれをさすのか?」と尋ねたことがあります。あれだけ沢山の人種がおり、そして、宗教も違う、考え方も違う人たちの国で、どうやって自分達が、自分こそアメリカ人だということを自覚しているのかというこを不思議に思ったからです。そしたら、その人の返事はこうでした。「アメリカ人というのは、このアメリカの国を少しでも良くしようという気持ちのあるひとで、税金をしっかりと納める人だ。」と言っていました。肌の色は違っていても、そして、貧富の差はあっても、また、価値観の違いはあっても、国のためにしっかりと税金を納めるひとは、アメリカ人として認められるというのです。これを聞いて、なるほどと思いました。アメリカでは、市民権というのがあり、アメリカの国民としての権利を取得するには市民権が必要です。そして、そのためには、一口で言えば、10年間、アメリカで働いて税金を納める必要があります。その10年間アメリカで税金を納めるのがなかなか大変なのです。でも、この市民権がないと、かってに職業を選ぶことも、また、職業に就くこともできないのです。ですから、なんとしてもアメリカ人になりたいひとは、ワーキングビザをとりアメリカで数年はたらいて、その後、グリーンカードで、合計10年間働けばよいのです。ところが昨今では、アメリカはアメリカ人の就業機会を確保するために、外国人にワーキングビザの発行を極力制限しているのです。これがないとアメリカでの就職はできないし、また、ワーキングビザを取得するには、企業の雇用保証がないと発行してくれませんから、まさにいたちごっこの状態。これほどまでアメリカの市民権を取得することが難しいということを認識したうえで、アメリカに働きに出かける必要があります。

 アメリカで市民権をとるのに10年間というのは、セキュリティーによる年金の取得とも関係しています。セキュリティーシステムがあり、年金をもらうためにお金を納め、セキュリティークレジットというのをもらいます。しかし、このクレジットは、年間の納付金が決まっており、最高は、4クレジットまで一年間で取得することができます。そして、このクレジットが40になりますと、年金をもらえる資格がとれます。というわけで、10年間は税金をどうしてもおさめないと、この40クレジットを取得できないという仕組みになっています。そういわれてみると、やっぱり、アメリカ人になるには、これだけの期間が必要というわけです。もちろん、アメリカで出生した人は、二十歳になるときに自分でアメリカ国籍をとるかどうかの選択の権利がありますが、これは特別なケースと思ったほうがよいでしょう。

 

 

 アメリカで働くときの障壁は高い

 アメリカで仕事を得るためには、H-1ビザというのが必要です。そのほか、Eビザというのがありますが、これは、アメリカで起業をする場合の経営者に与えられるビザで、アメリカの企業で働くというより、アメリカに投資するというレベルの人たちのビザです。アメリカに進出した企業の駐在員がこのビザで滞在しているケースもありますが、本来はある職務以上の人たちのビザです。それを、最近では一般の従業員にも適用して、このビザを取得していますので、問題になっているケースがあります。H-1ビザは、アメリカにない技術を保有する人が、アメリカで働く場合に与えられるもので、特殊な技能、もしくは、豊かな実務経験があり、アメリカでは人材の確保が難しいような人が取得できるものです。ですから、アメリカに留学して、大学を出たからと言って、そう簡単にH-1ビザが取得できるものではなく、従って、単に大学を出ただけではアメリカに就職することは非常に難しいことなのです。また、H-1ビザにもいろいろな障壁があります。まず、有効期間は、3年ですから、それ以上、仕事を続けるときには、更新をしなければなりません。このときには、弁護士にお願いする必要がありますから、その費用は馬鹿になりません。この費用を企業が負担してくれることもありますが、最近では企業に余裕がなくこうした費用は個人でもつことになりつつあります。しかし、H-1ビザは、会社の雇用保証がないと許可されませんから、会社は、その費用をもつことが妥当だとおもうのですが・・・・。こうして、更新ができると、6年間は働くことができますが、もし、それ以上、そして、アメリカの市民権を取ろうとするのであれば、この期間内にグリーンカードの申請をして、アメリカで働くことのできる権利を取得します。このグリーンカードがあれば、アメリカのどの企業でも働くことができますので、ここまでくれば、後は、10年分の税金を納め終わるまで頑張るだけです。芸能人や、職人は別ですが、普通のサラリーマンであれば、ここまでして始めてアメリカでの市民権が得られるわけですから、これは、なかなか厳しい現実です。ただ単にアメリカに語学を習得するためにだけゆき、大学を卒業しても、就職先がないことを知っておくことが必要だと思います。

 

 アメリカの男女同権

  男女同権というのは、日本でも当たり前になっていますが、アメリカではどうなんでしょうか。われわれの年代では、「席を同じゅうせず」なんてことはありませんでしたが、それでも、「男は度胸、おんなは愛嬌」の言葉が男ごころをくすぐった時代でした。デートをしても、手を握ることさえも、かなりの度胸が必要だったときですから、まだまだ、男女の意識には距離があったように思います。靴下と女性がつよくなったといわれた時代ですが、まだまだ女性はかわいいほうが、男性には好まれたようです。それ以後、女性はどんどん強くなり、社会的な進出も目覚しいものがありました。なにしろ、大雑把に言えば、世の中、男女同数ですから、頭の良い人の数だって、また、仕事の能力のある人だって、その中の半分は女性であっても何の不思議はないのです。そんな気持ちでアメリカを眺めてみますと、アメリカの女性はものすごいと思いました。力仕事はバリバリやるし、また、議論をしても負けてはいません。それに、小さいときから、男女の差などないといわれて育っていますから、言葉遣いも荒いし、時に、その人の人間性があまりにも前にでてなにか、醜ささえ感じてしまいます。仕事をするのにスカートなどはいていたら、動きが緩慢になりますから、ジーパンです。髪の毛も長い髪なんていうのは、邪魔くさいと考えているのか、ボーイッシュな髪型をしていますから、言葉遣いや容姿からは、だんだん見分けがつかなくなっているようです。もちろん、「女性だから、こうしてくれ。」なんていうのは、即、セクシャルハラスメントで大変なことになります。でも、職場でも、これですから、家庭のなかでも、女性の立場はかなり高いのではないでしょうか。その結果が、とにかく、男性が頼りないこと。職場でも女性が上司の場合もあり、その下で働き、家に帰っては、奥さんの尻にひかれ、家事を分担し、子供の学校の送り迎え、そして、稼ぎが少ないといわれて、アルバイト。休みの時には、庭の芝刈りと、これでは、気の休まるときがないのではないでしょうか。もちろん、奥さんも働いておりますから、奥さんのほうがサラリーが多いなんてこともざらにあるでしょう。そんなときには、亭主面はできず、ただ

ただ、もっといいサラリーの職を探し回ります。そんな態度を見せない男性は、奥さんにしてみれば、愛情が足りない証のようなもの。そく。離婚ということになります。こうなると、男女同権も考え物だなと感じているのは、果たして私だけでしょうか。

 

 

 人種差別の実態

奴隷が開放され、公民権運動の成果でアメリカには、もはや人種差別はないといわれています。が、しかし、実際はどうなのか。これは、東洋人にとってもとても深刻な問題もあります。

 まことに残念ですが、アメリカに人種差別が消えたなどと本気で考えている人はどれだけいるのでしょうか。人種差別はもともと黒人にたいする迫害を規制するものから始まったものでしょうが、アメリカには、白人以外にも、ネイティブ・インディアン 彼らは赤人と呼ばれることがあります、それに様々な肌の色をした黄色人種、ヒスパニックと呼ばれるメキシコを故郷とする人たち、こうした人たちがどんな生活をしているのでしょうか。確かに、政治の中心である東海岸、また、目覚しい経済の発展を遂げた西海岸などは、沢山の人種の人たちの共存する地域ですから、人種差別は少ないのかもしれません。しかし、あの広大なアメリカ大陸の中心にある大平原に住む人たちは、ここを開拓したのは自分達のほんの数世代前の曾おじいちゃん、曾おばあちゃんやその両親達なのです。厳しい自然と闘い、インディアンのまえに辛辣な目にあい、やっと作り上げた生活の場なのです。テキサスが独立し、アメリカに併合されたのは、1836年ですから、まだ、170年前の話です。そして、サウス・ダコタのWounded Knee Massacre、すなわち、スー族の大虐殺事件、このあと、スー族の白人社会に対する抵抗がなくなったといわれる事件ですが、これは、1890年のことです。ですから、アメリカがこの地に平和が確立したのは、わずか100年余り前のこと。この国土は、自分たちの先祖が身の危険に曝されながら築いたものという考えが今でも残っていて不思議ではありません。黒人達は、南部のルイジアナやミシシッピー、そして、テネシーやケンタッキーまではやってきていますが、中西部の田舎にはきわめてまれです。この地域には、開拓農民以外には入ってきても、生活の基盤を築くことが難しいからではないでしょうか。ですから、この地に住む黒人達は決して経済的には恵まれていないようです。そんなことから、彼らはなかなか高いサラリーの職にはつけず、ここに自ずと人種差別の種が潜んでいるような気がします。学歴で差別はしないとは言え、能力に差があれば、ジョブディスクリプションが明確なアメリカでの仕事は彼らにはなかなか順番が回ってこないのです。では、黄色人種はどうでしょうか。ここで問題にしているのはもちろん市民権を持った人たちのことですが、最近では高等教育をうけた東洋人がアメリカには沢山います。インドやシンガポール、マレーシアから来た人たちは英語にハンディがありませんから、コミュニケーションは自由にできます。しかし、彼らがアメリカの企業に就職することはきわめて厳しい条件があるようです。人種差別がないとは言え、白人と競い合って、同じ能力なら、採用されることはまずないと聞いています。これは日本人についても同じことが言えるようです。アメリカに在住している日本人の方が、面接まで行き、さて、最後の採用決定のだんになると、どうしても白人には勝てないといっていました。こんな話があります。アメリカでMBAを取得したり、あるいは、大学で経済学を専攻し、優秀な成績で卒業したひと。この人は、アメリカ人には絶対に負けないというほどの自信をもったひとなのですが、アメリカの会社の経理部門の求人に応募したが、何度やっても採用されないとのこと。しかたなく、自分ではあまり気の進まない部門に就職せざるを得なかったということです。アメリカの会社、とりわけ、経理部門というのは、会社の業務成績が全部分かってしまうわけですから、これは、白人社会と価値観の違う人には任せられないという意識があるからです。

  身近な例をあげます。田舎のちょっとした大きな町のレストランのはなし。すこし格の高いレストランになりますと、ウェイトレスは白人だけです。こうしたお店の常連客はもちろん白人。かれらは、白人以外の人たちからサービスを受けるのを嫌がるから、と聞いたことがあります。そして、ファーストフードのお店になると、マクドナルド辺りは、比較的教育が良く行き届いている感じがしますが、それ以下の安いお店では、サービスも接客態度も悪く、いやな思いをすることもしばしば。人種差別のせいだとは言いませんが、なんとなく、底には、そんな意識があるような気がします。

 テレビのコマーシャルを見ていても、よく分かります。コマーシャルに出てくる人は、ほとんどが白人。映像を作るひとも、それを依頼するひとも、商品のイメージを高くするには何を考えればよいかをしった上でのものと思います。

 

 南部では、違法移民の問題が大きな問題になっています。何十万人と言うヒスパニック系の人たちが市民権を持たずにアメリカで働いています。彼らは一人前のwage を得るために市民権が必要なのです。しかしながら、農産物の大生産地であるカリフォルニアにいるこうした人たちの市民権を認めると、その値段が一揆に倍になるものと思われます。広大なアメリカのこうした産地では、ただひたすら、こつこつと安い賃金て働くひとかどうしても必要なのです。もちろん奴隷制度はありませんが、彼らを安い賃金で引き止めておくには、違法移民者で確保しておく必要があるのです。そこに、人種差別がなくなったという意識は全くありません。

 

 日本の企業に働く白人。彼らは、はっきり言って、アメリカの企業で働くよりもサラリーが半分以下だと思います。それは、彼らの能力がアメリカ企業の要求にマッチしていないからにほかなりません。かれらは、仕方なく、日系の企業に勤めているのです。そんな彼らの認識は、毎日が屈辱感の連続です。ですから、その不満の捌け口は、何かというと、直ぐに、「白人を馬鹿にした。それは人種差別だ。」と言って、会社を脅すことです。それで、自分の立場がまもられ、自分の言い分が通ったということであれば、こんなにありがたい話はありません。この風潮がたちまちのうちに社内に蔓延し、彼らの働く意欲の低さが会社のモラールを下げているのです。また、残念なことに、これを正当化するような弁護士が沢山いるのです。まず、裁判になれば彼らの言い分が勝ちます。日本の企業はなかなか勝てません。それを目当てにこうした係争だけを専門に扱う弁護士がうようよいます。トヨタの現地法人の社長がセクハラで訴えられたことはご存知でしょう。示談のために20億円が払われたとも言われています。同じように三菱自動車もやられました。この裁判の弁護士は、こうしたセクハラとか人種差別の問題を専門に日系企業を餌にしているひとで、毎年、ターゲットにする企業を定めて、裁判を起こすのだそうです。ターゲットにされてはたまらないということで、日本からの駐在員に、厳しい教育をしているとのことです。そのテキストが、2000ベ−ジもあり、これを読むのに閉口しているとある大手商社の駐在員が言っているのを聞いてびっくりしましたが、裏を返せば、こうした問題は日常茶飯事ということになります。

 

  自由と権利を主張するアメリカで、差別がないというような考えが如何に甘いかです。アメリカは自己責任の社会ですから、差別が当然あると考え、自分の責任で守ること、これが大切ではないでしょうか。

 

 契約社会の落とし穴

  従業員を採用するときに契約書を作るのが当たり前の社会。仕事の内容とそれに対するサラリーを契約します。本採用をするために試用期間というのがあり、この間の評価で、十分な能力がないと認められれば、解雇することもできます。が、この期間を過ぎてしまうと、本人に満足のいくような能力かなくてもこれを解雇することが非常に難しくなります。問題は、この短い期間のその人の能力を十分に評価できるかどうかです。優れた人事の担当者であれば、それができるかも知れませんが、その人事担当者自身に問題があることがほとんど。人事考課もできないような人事担当者が会社の将来を決めていると思うと、これは身の毛のよだつような話です。とくに技術系の人の採用では、専門的な知識はチェックしても、レポートの書き方、報告書の作成など明確に記述されていませんから、短い間ではこうした点を評価できません。ですから、仕事については一流の議論ができても、報告書、一枚掛けないエンジニアが沢山います。アメリカ人の技術者は、あまり報告書書きたがりません。しかし、これでは、日系企業の強みである組織で仕事をするという形を築くことができません。こうして、一年もたつと、全く期待はずれの社員ばかりやたらと目につきます。そんな社員は解雇すればよいのですが、その口実が契約書を盾にとられるとなかなか見つけることができないのです。それなのに、契約書には。サラリーを決めていますから、これも下げるわけにも行かずの状態になります。そうならず、社員に自分の立場に対する危機感など毛頭ありま せん。ただ、毎日会社に来てだらだら時間つぶしをしている ような社員が沢山います。

 そんな部下を私が一括したことがあります。その結果はどうだったのでしょうか。その社員にやめてもらうために、普段の仕事振りをまとめ、ジョブが十分に全うできていないという報告書を人事に提出しました。すると、人事の担当者は、これを弁護士のところにもって行き、彼を解雇できるかどうか尋ねたのです。すると、弁護士は、叱られた社員の前の上司、この人は、自分の職務怠慢と、それまでの虚偽の方向が明るみに出て会社をやめたのですが、そのときには、そんな指摘を受けていない。新しい、日本人のマネージャーがきて、このように厳しい評価をするのは、人種差別だ。従って解雇する必要がない。」とのこと。これで人事のマネージャーは、この社員を解雇することができないと結論。これだけでもあきれ果てるが、そのご、この社員、あるとき、自分はやめると宣言し、二週間の休暇をとる。引継ぎをしたあと、やめる当日になり、「それは、取り消しだ。」と言って居直る。そして、その後も会社に残り、そんなことはそ知らぬ顔で勤務している。なんと、次の年には、病欠で半年休み。その後会社に復帰したが、病気のハンディがあるから、楽な仕事しかできないと言い出す始末。こんな社員を放置しておくしかないのが、契約社会の落とし穴なのです。

 

月単位でものを考える習慣がない

日本には四季があります。毎年、三ヶ月ごとに季節が変わります。中国には、二十四節季があり、これは、半月ごとに季節がかわるので、これを景気に気持ちを入れ替えましょうという意味があると思います。気候が変わるわけですから、これは、生活に必要な知恵ということができるでしょう。そのたびに自分の生活を反省する良い機会になっているのではないでしょうか。企業の場合には、半月ごとでなくても、少なくとも一月ごとに、企業の活動の実態をまとめ、これを企業のビジネスプランに繁栄し、間違いのないように、つまり、景気の変動や、市場の変化に遅れをとらないようにしているのではないかと思います。

 ところが、アメリカではどうでしょうか。あのひろい大陸、とりわけ、中西部には、四季というものがありません。夏の次は、冬がアット言う間に訪れます。この季節の変わり目に、昨日と今日とで気温の差が10℃なんていうのはざらです。ですから、このときには季節の変わり目を感ずることができます。もう一つ、変化のすくない生活のなかで、夏時間と冬時間の切り替えのときも、「あァー、これで半年が過ぎたか。」という気になります。しかし、毎月の変わり目はほとんど気になりません。月が変わったからと言って何一つ変化がないのです。そんなわけですから、日本の企業のように、毎月月末には、自分の仕事をまとめて報告しなさい、なんていったって、「えっ、それ、何のためですか?」って言うような調子。全く、拍子抜けなのです。もちろんサラリーをもらっている人は、これを手にしたときに一ヶ月が経過していることを感ずるのでしょうが、それとて、自分の仕事のけじめをつけるなんていう発想は全くありません。ですから、せいぜい半年に一度暗いは、まとめればよいのですが、半年も長い間になると、データの数は多くなり、また、古くなりますので、そのために勤務時間をさいて報告書を書くなんて、何のためということになります。こういうわけで、自分の仕事を見直すなんていうことは、大嫌いということになります。かれらは、月単位で物事を考えるなんていう習慣がないのです。

  じゃあ、金の計算をする経理部門もそうなのかというと、さすがにこれでは会社の経理状態がはっきりしませんので、毎月レポートは出しているようですが、その経理処理の仕方はまったくいい加減なもの。とにかく、その時点で現金があるかどうかの計算だけ。いくら販売して、いくら代金を回収して、未払いがいくらで、未回収がいくら、こんな報告書は作れないのです。とにかく、銀行に現金のあることを確認するだけの月報という感じで報告書を作っています。これでは、危なくてやっていられません。

 では、年度末には如何するかといえば、これは大変な話。とにかく伝票の数が大変な数になりますから、もう、経理部門では手に負えません。また、彼らは、いくら忙しいからといって残業などももってのほかと考えていますから、会社は、外部の会計事務所にお願いするわけです。いずれにしても会計監査を受けなければなりませんから、それならいっそ、全部任せてしまえというわけです。そのときには、会計会社から、数人のひとがきて、一週間詰めっきりで経理報告書を作成するわけです。その費用は膨大な金額になりますが、これを当然の必要経費と考えていますから、会社にとっては馬鹿になりません。多かれ、少なかれ、こんなことが当たり前で通っているのがアメリカに進出している日系企業の実態ではないでしょうか。

 

 一日24時間制って?

 日本の場合には、公共機関の時刻表、さらには、テレビ番組など、毎日、細かく時間を気にしながら生活しているのですが、アメリカでは、自家用車で通勤ですし、勤務時間は、チャイムが教えてくれます。残業はありませんから、自分で時間を管理するなんてことは必要ありません。極端なはなし時計なんか必要がないんです。もちろん、会議が何時から、などという約束時間はありますから、時間を気にしないわけではありませんが、そのときでも時間の表現は、AM,PMです。二十四時間で表現するなんていう方法は取りません。ですから、日本人スタッフが、15時に集まれと集合をかけると、5時と勘違いをして、大ブーイング。なぜ、勤務時間内に会議をやらないのだというわけです。一日の勤務時間を書いて、毎日、何時間働いたか、毎週集計を出せと指示したら、五時までは働いたら、15時までと書くのです。これでは、勤務時間が足りなくなりますから、その分だけ、五時に足していくわけです。こうなると、残業もしていないのに、報告書には、毎週10時間も、一月に40時間も残業していることになっていました。全く笑いばなしのようですが、これが、ひとかどのエンジニアと称しているひとのレベルです。足し算、引き算が苦手ということもあるでしょうが、12進法の表示を24時間表示するなんていうのは、高等数学の部類に属するのです。ですから、仕事の効率を計算するのに、彼らにやらせると筆算ではできないのです。今ではプログラムさえ作れば、パソコンがやってくれますから、それなりに消化できますが、このレベルの人たちが普通だと認識する必要があります。

 同じような問題で、時間を分単位にすることにもかなりの抵抗があります。分を時間で表して、時間単位で、作業時間を報告しろと指示をしたら、15分が何時間か分からないというのです。「なんで、小数点にまでして、時間で表現しなければいけないのか、それは、私に恥を書かせるつもりでそうしているのか。」と、食って掛かってきます。一ヶ月単位でまとめるには、分よりも時間でまとめたほうが理解しやすいと説明しても、理解できないのです。

 

 アルバイトも公然

残業しないアメリカ人。それは、ちゃんとした理由があります。彼らは、会社に奉仕するよりも家族のことを大事にします。早く家にかえり、子供を学校まで向かえに行く。地域、あるいは、教会の仲間で作っている子供の野球チームの世話などなど。そのほか、家族のために自分の技能を高め、転職するために夜学にいく。果ては、安いサラリーでは満足な生活ができない。そのために、二勤の仕事にアルバイトでいく。これは決して極端な例ではありません。アメリカのサラリーマンが普通に考えていることなのです。私の勤めていた会社の従業員が、会社の帰りによったDOITの店で働いていたなんていうのは決して珍しい話ではありません。最近では、日本でも、不景気で操業短縮のため賃金が下がり、その補填のために、アルバイトを認めているような企業もでてきましたが、日本では原則として、アルバイトは禁止されていましたので、初めて、この実態を知ったときにはびっくりしました。でも、考えてみれば、会社との契約では、就業時間は決められているわけですから、その後は何をしようと自己責任で管理をすればよいわけです。アメリカでは隣のひとが何をしようと干渉しないのが普通ですから、もう、大手を振って、会社の終了時間ぴったりに駐車場に走っていくなんていうことが当たり前です。なかには、正規の勤務時間では、二勤の仕事に間に合わないということで、フレキシブルを良いことに、自分の勤務時間を勝手に変えて、毎日30分早く退社する社員もいます。それが、一人や二人ではありませんから、会社の仕事の効率は下がる一方です。彼らは、遣り残した仕事をその日のうちに片付けるなんていう感覚はゼロ。できないのは、仕事の量が自分の処理能力よりも多すぎるため。どうしても時間ないにする必要があるなら、自分に補助をつけるか、ほかに人に仕事を回してほしいと訴える始末。これでは、会社のモラルは下がる一方です。

 

転職できない人間は、駄目な人間 

いまでこそ、派遣社員が多くなっている日本の企業ですが、昔は、新卒で定期採用されると、30年以上勤続するという、終身雇用が当たり前でした。社内で教育をうけ、実務技能を見につけ、内部昇進し、サラリーがあがり、定年まで勤めれば、かなりまとまった退職金が入るというのがサラリーマンの典型的なパターンだったのではないでしょうか。転職は、我慢のできない人、組織になじまない人、などと、あまりいい評価は受けませんでした。しかし、アメリカではそんな認識は全くありません。それどころか、転職は昇給するチャンスと考えられています。採用のときにジョブと、サラリーを契約で決めますから、同じジョブについている限り、サラリーは何年たっても上がりません。環境の変化で代わることがあっても極稀なケースでしょう。内部昇進もありますが、会社は、新しい職務、職責には、それに見合う人を新しく雇うことが普通です。ですから、よほどのことがない限り、昇進もありませんし、昇給も期待できません。ですから、より高いサラリーが必要なひとは転職が一番手っ取り早いのです。こういうわけで、アメリカでは転職することに何の抵抗もありません。いな、逆に転職もできないような人は、自分の能力が一向ぽ進歩しない人というのを証明しているようなものです。子供ができ、小学校にゆくようになり、成長するにつれ、家計が苦しくなっていきますが、そんなときに奥さんは、何とかサラリーの高いところに転職するように亭主の尻をはたきます。ですから、そうなると、夜学に通い、外部講習に金を使ってでも、自分の経歴書に色を添えるわけです。転職のためには、会社の仕事をサボっても頑張ります。それが家族のためであり、将来のためですから、なんの後ろめたさもありません。これに会社がクレームをつけようものなら、「会社が自分を必要としているなら、サラリーを上げてほしい。」と要求します。

 と言うわけで、転職もせず、いつまでも現状の会社にとどまっているのは、やる気のない人間、ほかの会社に移る能力のない人間、挙句の果ては仕事もせずにノンビリと今の待遇でと割り切っている連中ばかり。こんな状態だから、会社の業績を上げるのは期待できないし、そんな連中の尻拭いをさせられているのは、駐在員か。現地採用の日本人だけ。自分達がサボっても、仕事の好きな日本人が何とかするさの、のさばりが蔓延しているのである・

 

Wage Workerの賃金

  アメリカのWage worker というのは、時間給労働者。田舎だとこれが9jから、11jくらい。こんな賃金で働くのは、アメリカ人なら、まさしく最低賃金労働者ということで、手には技能はないし、また、仕事の訓練をしてもなかなか成果が上がらない。そんな職場のスーパーバイザーは女性が多い。男女同権とは言え、彼女達のほうが文句も言わず、よっぱどましな仕事をする。彼女達は、仕事も良くするし、また、働く女性としての根性もある。女性の場合にももちろん転職はあるが、Wage Worker の女性は長いこと一つの会社で仕事を続けている。これにたいし、男性のWage Worker は一癖も、二癖もある。仕事に対す文句と、モラールの低さは、安い賃金だから仕方がないというレベルだ。こうした裏には、生活ほどを受けているベトナム難民が安い賃金で働くので、自分達の賃金がいつこうに改善されないのは、ベトナム人のせいだという始末。さらには、そのベトナム人の生活保護の資金を出しているのは、自分達の税金だといって、ベトナム人をいじめたり、蔑視をする。白人のなかには、ベトナム人が使用す便所のなかのゴミ箱をひっくり返し、ごみの写真を取って、これをE-メールでまわして楽しんでいるものもいるほど。こうしたことになんら罪悪感も持たないのが、一般のアメリカ人とは思わないが、安い賃金で働きにくるアメリカ人のレベルがこの程度たと思ったほうが無難であろう。

 

金曜に貯金がないとどうなるか

Wage Worker は、二週間に一度チェックで賃金の支払いを受けていたが、その額は決して沢山なものではない。毎週土曜日には、次の週の食料の買出しにいくが、一週間分だからかなりの額になる。あまり一度に買いすぎて、次の週の金曜日に現金が銀行にないとその次の週の食料を十分に確保することができない。かれらは、とにかく計画性に乏しいから、お金のあるだけ買い物をしてしまうし、冷蔵庫の中は、あればあるだけ食べてしまう。こうして、彼らの食べすぎの食生活の癖が始まる。その結果、とにかく、中西部にいるアメリカ人の肥満の多いこと。親が太っていれば、その子供も同じような食生活をしているから、子供のころはすらっとしている子供達も高校生ぐらいになるとたちまち親そっくりの肥満。その数がすごい。なかには、幼児肥満なんていうのもザラ。かわいそうになるほどの肥満だ。 

 このようなWage Workerが無計画の買い物をして、金曜日に現金が残っていないと次の週の買い物ができない。このため、賃金は、できれば毎週の支払いにしてもらいたいとおもっている人も少なくない。

 

性のモラル

アメリカ人がどのような性のモラルをもっているのか知る由もないが、しかし、われわれではどうしても受け入れられないようなことがしばしば見受けられた。会社の中での恋愛なんていうのはザラ。たとえ他人の亭主であっても好きな気持ちは耐えられないとばかり、恋愛をする。狭い社会だから、あの人の亭主にあの人がちょっかいを出したなんていう話もザラだ。もちろん、結婚しても、相手に甲斐性がなければ直ぐに離婚する。自分が働くことに違和感はないから、女性でもどんどん自立している。それだけならまだいいが、シングルの女性が離婚して直ぐにまた、平気で結婚している。こんな話がある。ある女性。四人の子供がいるが、この四人父親がすべて違うなんていうのがある。いろいろ理由はあるかもしれないが、そんなことが日常茶飯事であるのだ。

会社の上司が、自分には妻がいるのに、部下の女性をデートに誘うなんていうのも平気で行われている。女性がシングルマザーであるからかもしれないが、そんなことが、会社でおおっぴらに噂になる。ちょっと日本人では理解しがたいこうした、男女の恋愛沙汰、彼らの性のモラルはどんなものなのだろうか。未だに理解できない。

 

土地は安いが、天災もひどい

  国土が日本の26倍、人口が2.3倍程度だから、人口密度は日本の10分の1ていど。これがアメリカの平均であるから、中西部のように人口の少ない地域では、もっと密度はひくい。そのため、家などは、日本の1./10程度で簡単に手に入る。もっとも、これは、しっかりとしたローンの組める人のはなしである。収入が不安定なのに銀行がローンを組んで、その結果が大不況になったことは記憶に新しい。それでも、2000万くらいで、数百坪の敷地に3ベッドルームくらいの家が手に入るから、実に、日本のように自分の家を構えるために一生こつこつと働くサラリーマンからすると夢のような話だ。ただ、気をつけなくてはいけないのは、土地が安く、簡単に家をもてても、アメリカの自然は厳しい。場所によっては、トルネードは年中行事のようにやってくるし、これにやられると、自分の財産は根こそぎなくなると覚悟しなければならない。また、洪水に襲われることもある。こんなことを知らずに安い買い物をするととんだ目にあう。何しろ、アメリカのこうした天然の災害は規模が違う。インディアナにいたときの経験では、ある日、大雨が降り、次の日に車で走っていたら、それまでは大農場だったところが、たちまちのうちに湖に変わっていた。そのなかをハイウェイが走っているが。どこが冠水しているのでは、びくびくしながら走っていたことを思い出す。また、別の経験では、山のなかを走っていたら、丘の上にある家がまわりが水浸しで孤立状態。その家には、ボートが生活必需品だったのだ。アメリカ人はレジャーでボートを持っているひとが多いが、地形によってもボートが必需品の家もあるのだ。さすが一筋縄では、アメリカの生活パターンを理解するのは難しいと思った次第・

 

ナショナルパークは、教育の場

アメリカには、80近くのナショナル・パーク、ナショナル・モニュメントがある。そのほか、。ナショナル・ヒストリック・サイトという、国が管理している公園、記念碑などがある。私は、アメリカに四年半の滞在期間に、このうちの半分を訪問した。そのときに痛切に感じたのは、国はそうした公園、施設を文化遺産のように大事に保護している。自然も、また、歴史的に重要なものは、観光の対象ではなく、文化遺産というような位置づけで、それぞれの場所には、レンジャーというのがいて、学術的な研究をしながら、保護管理をしているのだ。こうした場所がただ、見学するだけの場所でないことをよく理解した上で訪問すれば、そこはまさしく教育の場であり、生きたテキストに事欠かないということを容易の理解することができる。

 こうした施設にいくと、そこには、レンジャー達が研究の成果としてまとめたようなパンフレットが無量で手にはいる。その内容は、地学、地質、生物、植物などの研究成果が要領よくまとまっているから、これを読んだだけで随分物知りになったような気がする。もっと詳しく勉強したい人は、レンジャー達がまとめた解説本がある。これは、さらに詳しい内容であるが、写真が沢山あるので、いい記念品だ。そして、自分もレンジャーになりたいような人、さらには、大学で本格的に研究している人たちがまとめた論文をまとめた本なども発行されている。こうなると、もう、アメリカ大陸の地質学や、植物学の研究レベルだ。そんな活動を身近に感じながらのナショナル・バークの訪問は飽きることがない。ナショナル・バークの遊び方については、別途詳しい報告書を作成しているので、それを参考にしてもらいたい。

 

ナショナル・バークを楽しんでいるのは、白人が圧倒的

 ただ、現実の問題として、非常に考えさせられたことがある。と言うのは、こうした非常に価値の高い場所にきて、自然と接し、それを楽しみ、リフレッシュしているのはほとんどが白人だ。ナショナル・パークの半数近くを訪問したのに、白人以外が楽しんでいるのをみたのはごくごくまれである。生活の場から離れたところにあるかも知れないが、有名なグランド・キャニオンなどは別として、イエローストーン辺りでも、白人以外の訪問者はといえば、中国人の家族、そして、如何にもインテリ風のインド人、などがちらほら。日本人などは滅多に会うことがなかった。それだけ、こちらでは、貧富の格差が大きいということか。それとも、レジャーならディズニー・ランドやラスベガスのほうに興味があり、文化遺産のようなナショナル・パークはあまり魅力がないということなのか。

 

Photo ID

クレジットを使うと、場合によっては、Photo IDを請求されることがある。とりわけ、銀行でキャッシュを引き出すとき、あるいは、スーパーで大きな買い物をしたとき、さらには、東洋人の一人旅などでちょっとしたホテルに泊まるときなど、身分証明書が必要だ。しかも、写真入のものでないと意味がない。というわけで、Photo ID`は、絶対の必需品。通常は、免許証がこの役割を果たしてくれる。クレジットとこのドライバーズ・ライセンスはなくてはならないもの。

 

高速道路は滑走路兼用

  こちらの高速道路は、ほとんどが無料だ。ドライブをしていてこれほどありがたいことはない。何千マイルはしっても、また、何回、高速を乗り降りしても、賃金を払う必要がないから、たとえ、道を間違えても気楽なもの。また、高速道路で、レストエリアまでかなり距離があるときに眠気に襲われたら、ハイウェイを降りて、一休みできる。ガソリンでも、好きに補給することができるから、本当に気楽だ。そのハイウェイ、とにかく真っ直ぐなところが多い。しかも、場所によっては、ハイウェイの両脇には電信柱もなければ、木も植えない、かつ、色分けまでして立派に舗装してある場所に良く出くわす。それもそのはず、そこは緊急のの滑走路になっているのだ。だから、非常時には、アメリカでは国中、滑走路だらけになる。

 アリゾナを走っているときに、私のよこをパトカーが猛烈な勢いで追い抜いていった。その後を少し行ったら、なんとそのパトカーが通行止めをしている。聞けば、その先で事故があり、いま救急ヘリコプターがここに着陸するという。飛行機ではないが、こんな具合に道路がいつでも離着陸の場になるわけだ。なるほどと感心した次第。

 

まだ、南北戦争は終わってはいない。

  奴隷解放をめぐって、アメリカが南北、二つの分かれて戦争をした。南は奴隷を使わなければ、綿の栽培ができない。北は、工業化を進めており、労働者が必要。リンカーンは奴隷を解放してしようということで戦争がおきた。その名残は今でもアメリカのいたるところに残されている。テネシーやケンタッキーにいけば、戦場となったところがまでそのまま残っている。これは、テネシーでの話し。州の西のはずれに、Fort DonelsonというBattle field があり、ここがミュージアムになっている。南軍の砦のあとで、北軍を向かえうった砲台がそのまま残っている。このミュージアムのなかはまさしく南軍の残したものばかり。軍服、サーベル、鉄砲、そして、砲弾ばかりでなく、貨幣までも、当時のものが展示されているが、ここの職員はすべて南軍びいき。そして、言う言葉は、「南軍は、決して負けてはいない。まだ、われわれは降参したわけではない。」と、胸を張っていっているのである。南に住む人たちの間では、こうしたことは珍しくない。

 私の勤めていた会社がアメリカの南部に工場を建てるFSをしたが、そのときに、南部のひとは、自分の上司が北部出身の場合には、うまくまとまらないと忠告されたことがある。彼らは、未だに、北軍にたいして対抗意識を抱いているのだ。

 

北と南の価値観の違い

アメリカの東西は、真ん中に大平原があり、全く隔離された状態。しかし、機構的には、雨量の差はあるが、まあまあ似たような温度条件ということができよう。しかし、南北になるとそうは行かない。ノースダコタが雪と氷に閉ざされた季節に、南のテキサスでは、海水浴をしていることさえあるのだ。それほどまでに、北と南では、気候風土が違う。だから、当然のことながら、価値観も違う。北にはイギリスやドイツ出身のアメリカ人が多いが、南は、もともとフランスが統治していた地域。テキサスになると、そこはスペイン領だった。だから、ニューオーレンズのように、フランスの町に由来する名前の町は非常に多いし、テキサスや、ニューメキシコにいけば、公用語スペイン語と言っていいくらい、英語よりもスペイン語のほうがよく使われている。それほどまでにアメリカは多様性のある国だ。だから、アメリカがどんな国であるかということを一口で説明するのはおこがましいことだ。一言付け加えて、「自分の見てきたアメリカ」というふうに表現するのが妥当かも知れない・。

 

 アメリカ道路交通規則の合理性

 ドライバーライセンスの取得

アメリカをドライブするなら、アメリカのドライバーライセンスが必要。これは当たり前。ただ、一年以内であれば、国際免許ですむが、しかし、このドライバーライセンスは、Photo IDの機能もあるので、アメリカに滞在するのであれば、生活必需品だ。取っておくのが望ましい。免許証のとり方は、交通規則が州によってもことなるので、一概には言えないが、私の場合、ネブラスカでは、こんな具合であった。試験は、まず、試験センターにいく。国際免許があったので、自分の車でいくことができる。そうでない場合には、友人の車で行くか、公共機関で行くしかない。まず、試験センターでは、筆記試験を行う。簡単なものだが、交通ルールをしらないと、もちろん駄目。そこで、インターネットなどで、免許取得の解説書などを調べておく。基本的には道路標識、ルールなどはあまり違いがないので、どこの州のものでもよい。これで、おおよその知識は身につけでおけばよいが、より好ましいのは、経験者に聞くのが一番。交通規則のポイントを教えてくれる。大体は日本人の間違いやすいことは、皆さん経験しているから、二・三人の人にきけば、大体は要領がわかる。そして、筆記試験。これは日本人の沢山いる町などでは、日本語のものがあるが、田舎の町では、やはり英語が必要。でも、外国人用には、絵入りの問題用紙があるから、それほど英語の力は必要でない。これで、試験は大丈夫。後は、交通ルールだ。

 合格点は80点だったと思う。簡単な試験だから、まあまあ、合格ラインは一回でクリアーできる。ここで合格すれば、次は実施試験。試験の日を予約して、この日は終了。

 そして、決められた日に実施試験を受けにいく。試験は、自分の車でできる。試験管が助手席にのり、あらかじめ決められたコースに繰り出していく。このコースの種類は幾つもあるので、どのコースになるかは当日、車にのり、試験官の指示があるまで分からない。

試験官が助手席で、コースを指示するので、そのとおりに行けばよいが、このときには、試験官の言う言葉を理解できないと、即、アウト。日本人なので、聞き取りにくいといえば、ゆっくりと話してくれるが、どの試験官もそうであるとは限らない。

 試験官は、ドライブをしながら、要所要所で違反がないか、運転に間違いはないか、安全確認はできているか、などをチェックし、不都合があると、これを減点していく。違反の程度によって、そして、間違いの内容によって減点の程度が違うが、スピード違反、信号無視などは、とても厳しい。減点が一定のところまでくると、不合格の判定となり、即、その場で試験は中止。試験センターに戻り、もう一度、次の試験の予約をする。こうして、合格するまで試験は受けることができるが、三回、実施試験に落ちると、筆記試験をはじめからやり直しだそうだ。ちなみに私は、二度ほど実施試験に落ちた。あまり自慢にはならないが、それまで、アメリカの道路はかなり運転していた経験があり、すこし甘く見ていたことが原因。スピード違反と、信号の確認不足だった。とにかく、あわてず、少しもたもたして、できるだけゆっくりやるほうが良いようだ。

 試験に合格すると、すぐ、その場で写真を撮り、写真入りの免許証を発行してくれる。これが手に入れば、もう、一人前のアメリカ生活ができる。この免許証の威力は絶大。

 アメリカ中どこの州で、違反をおこしても、たちまちパトカーから、その人の違反履歴、身元確認などができる仕組みになっている。

 

 交通ルール

  スピード制限

どうしても気になるのはスピード制限。アメリカには、高速道路はインターステーツといい、アメリカを縦横無尽につなげているハイウェイで、州を越えて走ることからこのように呼ばれている。このハイウェイは、立体交差であるので、信号はなく、ただただ走るだけと言うかんじ。スピード制限は、工事区間出なければ、自家用車は、75マイル。場所によっては、80マイルなんていうところもあるが、通常、5マイルオーバーくらいで走ってもスピード違反で捕まることはないから、80マイルで飛ばす。時速、130キロくらいになるから、スピードはかなり出ているが、周りの車もみんなこのくらいではしるからスピード感はほとんどない。注意しなければならないのは、実際のスピードがかなり出ているということぐらいか。トラックは、走行車線を走ることになっており、スピードも65マイルで、厳しく制限されている。よく、トラックがパトカーに捕まっているので、少し気の毒な気もするが、あの大きなトラックで事故をおこされては、周りの車が危険であるのが、まあ、仕方がないだろう。

 そのほか、各州が管理しているカウンティーハイウェイがある。これもいろいろなレベルのものがあるが、田舎みちでも、車の少ないところは、65マイルの制限だ。しかし、街中に近づくと、55マイル、そして、さらに45マイル、30マイルと下がっていく。最後には、スクールゾーンに入り、25マイルまで落とさなくてはならない。でも、長い距離を走るときには、町なかで、このくらいのスピードにおとして少しノンビリするほうが、安全のためにはなっている。

 スピード制限には、大体、5マイルオーバーであれば、まずパトカーは見逃してくれるとのこと。10マイルになると、たまにつかまることがある。その日のボリスの気分次第ということか。そして、15マイルとなると、これは必ずつかまり、また、罰金の額も大きい。特に、工事区間でスピード違反をすると罰金が2倍になるので、これは注意が必要。たとえ5マイルでも、スピード違反には違いないから、こんなときに捕まるのは不運としかいいようがない。

 

 交通ルール

  交通ルール、とくに道路標識ではいろいろな違いがあるので注意が必要。まず、とても驚くのは、街中での、右折。もちろんアメリカは車が右側通行。そして、歩行者も少ないことから、よほど大きな町のダウンタウン出なければ、信号が赤でも右折は許されている。事故が起こらないと確認できれば、赤信号でも進んでよいのだ。これは、慣れるまでかなり時間がかかる。でも、もたもたしていると後ろの車に迷惑がかかるので、時には、「えい、やーっ」とばかり、信号確認もそこそこに交差点に入る。そんなときに限り、横にパトカーがいて、心臓が止まりそうになるときがある。曲がったあと、しばらくはバックミラーで追いかけられないか見ながらの運転となる。

 街中でも、ほとんど歩行者がいないから、信号のない交差点が非常に多い。そんなときには、行った停止のカンバンがあるから注意が必要。優先順位のついた交差点であればよいが、四方向とも、一旦停止になっているところがある。このときに、優先順位は左回りになっている。自分の左側の車が先に進むことになっている。しかし、これは同時に一旦停止をしたときで、そのほかは、早く一旦停止をしたほうが、先に交差点に進入するのだ。この違いがややこしい。でも、一番安全なのは、相手に道を譲ること。この気持ちがのゆとりが安全には是非必要。

 一方、左折のときは、また違った配慮が必要。左折レーンがあればここで、反対車線の車が途切れるまでまっている。左折の専用信号のあるところでは、ここで待機と、青になるまでまつが、アメリカでは、日本と違い、まず、この左折の信号が一番早く青になる。だから、クロスの信号が赤になると、まず左折が始まる。そのあと直進が青になる。日本と反対である。だから、直進が終わった後、左折をするつもりで交差点の中に入っていると、自分が進む前にクロスの信号が青になり、たちまちのうちににっちもさっちも行かなくなり、交差点のなかに立ち往生になるから、注意しなくてはならない。

 

町中のスピード、2530マイル。空いてするところなら40マイルというところもあるが、こういうところの信号が非常に良くできている。信号と信号の間をスピード制限を守っていれば、大体はどの信号にも引っかからずに進むことができるのだ。もともち道路が空いていることが条件なのであろうが、これがまた見事に連結しているから、走っていても楽しくなる。

  それぞれの信号には、車の込み具合を監視しているカメラが着いているのだろうか。交差点の信号は車の流れが途切れると青に赤に変わり、クロスの方向が青に変わる。少しでも交差点での車の流れをスムーズにしようという配慮。だから、安全のためと、前の車との車間距離をあけて走っていると自分の前で信号が変わるから注意が必要。青だからといってノンビリ走っていてはいけない。ついで車間距離について。こちらの交通ルールでは、車間距離は、2秒が正解。ハイウェイはもちろん、普通の道でも車は車間距離をあまり開けない。3秒も開いていたら、この間に必ず車が割り込んでくる。それが、ウィンカー無しでもどんどん車線変更をするからびっくりしてしまう。たしかに、これだけの間が開いていて、自分が他の人よりスピードを出していれば、ぶつかることはない。ご存知のように200マイル以上で入っているNAS Carのレースで、車と車との間が数十センチ程度なのに、ほとんど追突事故が起こらないのは、前を走る車がより早いので、後ろの車は追いつかないのだ。こんな風に考えてか、アメリカのドライバーは、60マイルくらいでもほとんど車間距離、5メートルくらいで直ぐ後ろについてくるから、注意が必要だ。彼らは、前の車はブレーキを踏まないということを前提にして走っているからだ。

 

アメリカ中の張り巡らされているハイウェイ。これは、また、国民の生活を支えている輸送網でもある。生活に直結しているから、このハイウェイの整備は非常によくなされている。雪が降っても、止めば直ぐに、砂と塩の混じったものを蒔いてくれる。これは、もちろん滑り止めでもあるが、これだと、雪は一度融けても、マイナス18度まで凍らない。凝固点降下のためだ。理屈はそうであるが、塩をまいた水はなかなか凍らないので、直ぐに排水される。こうして、道路の凍結を防いでいるのだ。雪かきも夜の間に積もったものは、次の日の朝、夜明け前には、除雪されている。雪が降ったからといって仕事をとめるわけには行かないからだ。こんなぐあいだから、雪は大して怖くない。ただ、怖いのは、フリーズド・レインと呼ばれる雨だ。これは、道路が、マイナス数度になっているのに、雨が降るとき。このときには、降った雨は、瞬時に道路上で氷になる。と道路がたちまち、スケートリンクになる。車は5マイルでもハンドは全く聞かない。信号でも、20メートルくらいは術っていく。坂道なら、もう、側溝にはまらないと止まらないというほど。このときに、どうしても車の運転をしなければならないなら、もう、事故にあわなかったら幸運と思っていくしかない。まずは、外に出ないことだ。この怖さを経験したものでないと分からない。

 

 もう1つ危険なのは、凍った道路の上に雪が積もったとき。雪の上は車はあまりスリップしないが、したの道路が凍っているときは別。こんなときには、どうして滑るのか分からず、数十メートル滑り、道路からはみ出て、一回転して車が止まったという経験をしたことがある。乗用車は車体が軽いので、余計すべり安い。だから、アメリカ人の中には、燃費がわるいのにピックアップトラックを運転するという人もいた・

 

道路地図帳のはなし

 アメリカのハイウェイは、番号性になっている。州により。西から、あるいは、南から順に番号がついている。東西が偶数、そして、南北が奇数。道路は碁盤目に走っていることが多いので、非常に明解だ。主要な道路からの視線は、百番台の数字となる。だから、番号を見れば、どの辺りを走っている道路かが分かる。数字だから、道順を覚えるのに簡単だし、道案内も楽というもの。 

 そして、インターステーツの出口は、東西なら、州の西のはずれからの距離数になっている。出口と出口の数の差は、そのインター同士の間の距離になる。自分の出ようとしているインターの番号がわかれば、走っていて、あと何マイルあるかが分かる。時速60マイルで走っていれば、のこり、60マイルに一時間かかる。つまり、残りのマイル数と、所要時間、分が同じなのだ。だから、いちいち地図をみて、残りの距離を計算する必要もないし、到着時間も簡単に分かるというわけ。高速道路を現役リタイアの老人が一人で運転しているなんていう光景はザラ。こうした、道路標示なら、誰でも簡単に道の確認ができるから便利だ。同じようなことが、住居表示にも工夫されているから、一度アメリカに住んで確認してもらいたい。

 

 ハイウェイは無料

 インターステーツは中央分離帯がしっかりしており、また、信号がないから。とにかく気楽にスピードを味わいながら走ることができる。このほか、州が管理するハイウェイ、郡が管理するハイウェイがある。州の管理下にあるものは、その州の道路行政や、予算により舗装の状態が全く違う。ちなみに私が生活していたネブラスカは貧乏の州であり、観光もあまりない生活オンリーのハイウェイだから、舗装が極めて悪い。他の州からネブラスカに入った途端にがたがた音がして、まるでバンクをしたのではと勘違いするほど。これに比べ。、カンザスやコロラド、それに、サウス・ダコタなどは舗装が非常にいい。なかには、ツートンカラーの舗装になっているところもある。これは、州の財政が豊かなことと、州政府が観光に力を入れているからではないかと思う。

 州のハイウェイにも、中央分離帯のあるのものがあり、これは立派だが、インターステーツと違うのは、まず、脇の野生動物進入防止のための柵がないこと、そして、立体交差点ばかりでなく、生活道路と平面交叉をしている交差点があること。とくに、平面交叉で信号があるところでは、注意がひつよう。道路が良すぎて、スピードが出ているのだ、赤信号でも、停止することをついうっかり忘れてしまうことがある。

 さらに郡の管理するハイウェイ。これは、もう、田舎道。農道ともなっている。しかし、車の数はすくなく、また、何マイルも真っ直ぐな道路で、まことに見晴らしが効くから、これはこれなりの味わいがある。体面交通になっているがダウンタウンを出れば、65マイルの制限速度で走ることができる。もちろん、ガードレールもなければ、信号もない。こういう道路は、馬でこそないが、まさしくカウボーイになった気分で走ることができる。でも注意が必要だ。どんな田舎道でも、どこかにバトカーがスピード違反を監視しているのだ。

  バトカーだけでなく、この道を走るときには、野生の動物の飛び出しにも注意が必要。田舎を一日中ドライブしていると、一回は必ず大型動物が跳ねられて飛ばされているのと出くわす。特に春先には多いらしい。夜走っていると、ライトめがけて突っ込んでくることもあるようだ。私の友人も、これで、前のライトをぶっ飛ばされた。夕方とか明け方に動物が出てくることが多いとのことで、夜はなるべく田舎道は走らないように心がけたほうがいい。

 大型動物とおなじで、小さな動物も良く出てくる。リス、ラクーン、いたち、雉など、はねたら、こちらも気分が悪いので、油断をしてはならない。

 

こうしたハイウェイは、ことごとく無料で走ることができる。何マイル走ろうが、何回乗り降りしようが、そして、目的地を間違えたって引き返せばよい。料金のことを全く介せずに走ることができるなんて、まるで夢のようだ。おかげで、私は、アメリカを10マイル走りまわることができた。

 

 でも、アメリカに有料道路がないわけではない。ターンバイクという、それこそ、急行ハイウェイという道路。カーブが少なく、スピードも75マイルが制限速度。途中にはサービスエリアもある。でも、料金は、高くて、数ドルの世界。一区間なら、25セント程度。こうなると、料金の徴収に人手を掛けることができない。どうするかというと、ゲートのところにバケツがつるしてある。これに、コインを放り投げると、信号が青になる。たったこれだけだが、その仕組みがうまくできているので、楽しくなる。

 カードで支払うゲートに間違って入ると、料金を払うことができない。田舎者はそんな間違いを起こしてします。一度、仕方なく、そのまま、無料通行をした。ところが、そんな時のためにカメラがしっかりと証拠写真を撮っているそうだ。初めてのケースでは、まず請求書は来ないそうだが、常習犯は追徴金まで取られるそうだ。ご注意ください。

 

 往きはただ、帰りは有料  

アメリカは州が独立した国家のようなものとよく言われるが、こんな話がある。どこの州も、自分の州に来てくれる人は大歓迎。地元にお金を落としてくれるからだ。インターステーツを走っていると、各州の入り口には、ビジターセンターというのがあり、州内の観光案内、宿泊所、レゾート施設を事細かに説明している資料がどっさりある。さらには、州のステーツマップというのがあり、これがまた実によくできている。これらはすべて無料。そのうえ、立ち寄ったひとにはコーヒーのサービスをしてくれるところもある。すごいサービス精神だ。ところが、州を出る路線のほうには、何もない。よその州に行く人には、「ありがとう。次の機会を待ってます。」というカンバンがあるだけ。その差があまりにも極端だから、思わず噴出してしまう。

 もっと極端な例。これは、カナダのプリンス・エドワード島に渡る時。ここに最近、立派な橋ができた。有料の橋であるが、この橋、プリンス・エドワード島に渡るときには無料だ。でも帰りにこの橋を渡るときには、料金を取られる。往復分をまとめて払う形になっているのだろうが。この町に入ってくるひとは、ここで、お金を使ってもらえばよいわけだから、料金はとらず、出て行く人は、この島で楽しんだ分は、通行料を支払ってくださいということらしい。こうすれば、料金を徴収する人件費も合理化できるし、支払う側も、島のなかを存分に楽しんだのだから納得ということ。なかなかウィットがあり、合理的なシステムと感心したしだい・

 ほかにも、ルイジアナでたまたま乗ったフェリーは片道が只。これでいいのかと尋ねたら、反対向きに渡るひとから、徴収するからいいんだといっていた。

 

   

   ガードレールがない。

随分、田舎道を走ったのでないかと思われるかもしれないが、山岳ハイウェイを走っていると、狭い路肩の向こうが何百メートルも崖になっているのに、ガードレールがないところが随分とある。

 極めつけは、ユタ州のハイウェイ261号にある、Mogi dagwayという崖を下る道路。White Canyon から Monument Valleyへと行く道。ブッシュの森のなかの一本道を走っていると、突然前方の道がなくなる。如何したのかと思ったら、その先を崖を下るジグザグ道路になっていた。舗装はしてない、かなりの急な坂道、すれ違いはできない、道は崖を削ったところで、谷側は、数百メートル下まで、まっしぐら。これがまたよく展望が効いている。下るときには、運転席側が崖側の時にはいいが、助手席が崖側の向きに下るときには、はたして脱輪していないかどうか確認できない。それでも、ここにはガードレールがない。その上、砂利道道路。舗装をしてないから、スピードが出ていると、車が滑る。なんてこった。私の前にここにたどり着いたご婦人のドライバーは、震えて下ることができないで立ち往生をしている。それもそのはず、ガイドブックには、「この道、運転未熟者には危険」と書いてある。とんでもないところに来たものだと思っても、ここをくだらないわけにはいかない。エンジンブレーキをかけ、そして、できるだけ山側により、恐る恐るの運転。半分までくだり、やっと息がつけるところまで来たという感じ。しかし、それにしてもよくもまあ、これがハイウェイだというよ。

 同じような経験をここ以外にも沢山しましたので、運転に自信のある人は是非、一度挑戦してみてはどうでしょうか。存分にスリルを味わってください。

 

    Colorado    Ridgeway 〜 Durango に抜ける道路 550号線

           Ouray から Red Mtn. .Pass まで。

    Montana    Browning から East Glacier Park まで 49号線

    Wyoming    Rowell から Sheridanに抜ける Alt 14号線

            特に、Medicine Wheel にいく道路 

    Arizona     Carrizo   〜 Globe    60号線

           Salt River Canyon

    Utah       Zion National Park    9号線

    Colorado   Pikes Peak

                      頂上までの山岳道路

    Colorado    Royal George Toll Bridge

                  これは、ガードレールがないのではなく、つり橋です。

          ただし、下は、1053 feetの崖です。ゆれる橋を渡るスリルは満点。

 

    そのほか、あまりの景色のよさに見とれて知らずうちにやせ尾根を60マイルで飛ばしていたなんてことはザラです。一度は走って見たいそんなシーニックハイウェイを紹介します。

 

   Oklahoma 〜 Arkansas    1号線

        TALMENA SCENIC BYWAY  

     Virginia            

             Buena Vista  〜 Atron

Blue Ridge Pkwy   APPALACHIAN TRAIL

    Utah    

             Escalante  〜  Boulder      12号線

 

「自分の安全は自己責任で」、まさにこれを地で行く、ハイウェイである。   

 

  どこにもInformation Center

そこはいるのはボランティアの人たち

    インターステーツのみならず、ちょっとした町なら、どこにもインフォメーションセンター、あるいは、ビジターセンターというのがある。州の中の観光地、ミュージアム、宿泊ホテル、ゴルフや遊園地などのレゾート、そして、ご丁寧にカジノのパンフレットまで置いてある。こういうところで、われわれの応対をしてくれるのは、シニアの方々。すでに現役を引退し、ボランティアでやっているのだ。生活にゆとりがあるかどうかはわからないが、とにかく、精神的にはゆとりのある人たちばかり。とても気さくで、物知りで、面倒見がよい。知らない土地でもこんな人たちにあって、町の様子やその土地の由来を聞くのはとても楽しい。親切にされると一遍にそこのファンになってしまう。そういう町には何度でも行きたくなるから不思議だ。

 

  モーテルが安い

アメリカの大平原のなかをドライブするときには、どこに宿泊するかはその日の行動範囲を左右するので、なかなか気を使うところ。大きな町や観光地なら、200ドルくらい出せば、たいそう立派なホテルもある。が、われわれは、こんな料金が高いホテルに泊まっていたら、ゆっくり休めない。気楽な一人旅。次の日の朝ははや立ちするし、とにかく、ゆっくり寝ることができるなら、それで十分。もっとずっと安いモーテルで十分だ。と言うわけで、料金の安い、全国ネットのモーテルチェーンを探す。ただし、あまり安いモーテルは、安全上の問題もあるので、そこそこしっかりしたところに止まりたい。そんなモーテルとしてよく利用したのは、スーパー8、か モーテル6と言う、格安モーテル。料金は前者のほうが数ドル高いが、朝食のサービスと、インターネットを使えることを考えれば、こちらのほうがお勧め。そのほか、カンフォートイン、ベストウェスターン、ホリディインなどがある。この辺りになるとホテルもすこし格が上がる。でも、どこの町に行っても、こうしたモーテルは、場所がお互いに近くにあり、交通の便は全く同じ。

料金は、2ベッドでも、1ベッドでも同じ。二人で泊まるときには、一部屋の料金が少し上がるだけ。だからそんなときには、すこり料金の高いモーテルに泊まって、ちょっとばかり優雅な雰囲気を味わうことができる。こうした格安のモーテルはアメリカ中にあるから、あらかじめ、その場所を確認してから、走るコースを決め、できるだけ夕方明るいうちに現地に到着するようにスケジュールを組む。

ナショナルパークなどでは、公園のなかにロッジがあり、また、料金も普通のモーテルと比べてもさして高い感じがしない。ただし、こうしたモーテルは、パークをゆっくり楽しむことを前提としているから、一泊だけでは予約がとりにくい。それに、人気があるので、一年くらい前から予約をしないと取れないようだ。われわれの駆け足観光では、ちょっと無理のような気がする。

スーパー8、あるいは、モーテル6の予約はインターネットでできるので、初めての場所に行くときには、予約をいれ、しっかりと地図で場所を確認していくこと。いざというときには、自分で探さなければならないようなこともあるので、走るコースをよくイメージトレーニングしておくと良いだろう。

 

 テーマを持ってドライブすれば、飽きることがない。

 これだけ広いアメリカをドライブするのは、なかなか容易なことではない。とにかく、長い距離を走らなければならないので、ただ、走っているだけでは、何のためにドライブしているのか分からなくなるときがある。そんなときには、新しい発見を求めて次に行く場所をいろいろと想像しながら走ることだ。そのためには、やはり、ある程度の目標を持つことが大切。私の場合には、日本にはあまり見られないもの、アメリカならではの話題性のあるもの、そして、自分の趣味に合わせて、それを探しながら行くことにしている。そうすれば、それを見つけたときには、感激が違うし、また、新しい発見があったときには、満足感がちがう。想像したとおりなら、これまた、やっぱり着てよかったとうれしくなってしまう。

 そんな気持ちて、私の印象にのこった素晴らしいテーマは。

 

 Lewis and Clark Expedition Trail 

   これは、もちろん、ルイスとクラークの探検したコースを辿るというもの。ネブラスカから、オレゴンまでのミズーリ川とコロンビア川にそってドライブすること。コースには、沢山のミュージアム、モニュメントがあり、もっとも充実しているテーマだった。

National Park めぐり

  アメリカには、約80のナショナルパークがあるが、いずれもが、重要な文化遺産という感じ。地質額、植物学、そして、生物学、さらには、考古学などの研究の対象となっており、パンフレットなどを見るだけで、物知りになったような気がする。まさしく、ナショナル・バークは学術研究の対象と言う感じがする。

 Covered Bridge

   アメリカの東部海岸から、太平洋の海岸まで、広く普及している。独特の形をしているが、これは、この橋を作る技術が、インディアナに本社を置く、二つの会社が保有していたからといわれている。この橋の屋根の意味については、いろいろな説明があるが、アメリカには、この橋を研究の対象にしている学会もあるほど。イリノイには、ベストセラー小説となった「マディソン郡の橋」のモデルになったかバードブリッジが今でも残っている。ちなみにこの橋の直ぐ近くに、John Wayne の生まれたうちがある。

 Cave , Cavern

   もう1つ、アメリカ中にあるのが、Cave, Cavernだ。とにかくその数の多いことに驚いてしまう。アメリカ大陸の地質が石灰石からできているからか。もちろん、このCaveの学会もあり、その観光もとても人気がある。もちろん、今でも若い探険家たちが、穴にもぐって新しい発見に挑戦している。ちょっとしたCave であれば、レンジャーが説明をしてくれるツァーか、あるいは、多分、大学で地質学の研究をしているのであろう、若い研究者の説明員が必ずついてくれる。このCave めぐりはアメリカ人にもとても人気があるテーマだ。

 

Observatory 天文台めぐり

  私の個人的な趣味だが、アメリカには、世界的に有名な天文台が沢山ある。南の地域は、天気もよいし、また、空気もきれいなので、星空観察には絶好の場所だ。世界中から、研究者が集まってくる、Kitt Peak Observatory、長い間、世界一の天文台といわれた、Palomar Observatory , 天文学の最先端を行く電場望遠鏡で、もっとも遠い宇宙を探索している、New MexicoVLA Telescope, Texas McDonald Observatory などなど、天文ファンにとっては、喉からよだれのでるような名前が次々に出てくる。

  Indian’s History

アメリカで生活し、始めてアメリカにどれだけ沢山のインディアンが住んでいたのか良くわかった。彼らは、今は保護居留地区に住んでいるが、独特の文化をもっている。彼らの伝統の文化はまだあまりよしられていない。彼らの価値観を知ることがアメリカの側面をしることになると思い、インディアンの歴史、文化などを知る目的で、ミュージアムや、ヒストリックサイトを訪ねた。

 

などが、ドライブしている私の頭のなかにいつも刺激を与えてくれた。長い道中、少しも飽きることなくハンドルを握ることができたのは、こんなテーマのおかげである。

  

天と地の別世界

  標高の全く違うところに、もう一つの世界がある。

 アメリカの大地は、とにかく途轍もなく大きい。西部をドライブしていると、いま自分が走っている見渡す限りの大草原は、ついつい普通の平地であると勘違いをする。ふと気づいて町の標高をみると、これが、6,.000フィートとか、8,000フィートになっている。おもわず、「えっ、ここが、標高、2000メートルなのか。」と、驚いてしまう。そして、そこで、われわれが平地で生活しているのと、全く同じ感覚で日常生活を送っているのである。そういえば、アリゾナのグランド・キャニオンの近くに、フラグスタッフという町がある。かなりの人口の町であるが、ここで、日本のマラソン選手が高地トレーニングをしているというニュースが流れた。しかし、言ってみれば、ここは、インターステーツ40が走っている、なんの変哲もないふつうの学生町なのだ。誰もが、平然と日常生活をしている。緑あふれる風光明媚な町で、確かに、空気は薄いのかもしれないが、一体、ここで高地トレーニングのどんな効果があるのか疑わしい。デンバーでも同じように高地トレーニングをしているとのことで、ここの標高を調べたら5,200フィートだ。いくら、日本よりも標高が高いとは言え、アメリカ人にしてみれば、別に普段の生活に空気が薄いなんてことは全く関係なく生活している。こういうところで、体力が極限状態になると、空気が薄いことが体の持久力に影響するということなのか、これに耐えるためにここでトレーニングをしているのであろうが、おそらく、一年や二年ここでトレーニングしたって、体質には何の変化がないのではないかと思う。アメリカ人は、何世代もその場所に暮らして、その地の気候にマッチするような体質になっているのだ。インディアンは、毛皮一枚で、マイナス40℃の極寒にも耐えるだけの体質になっている。そういえば、アメリカの大平原に住む人たちは、真冬でも半そでで生活している。彼らにしてみれば、その程度は当たり前のことで、これを寒いとするかどうかは、生まれたときの環境によるというもの。

  そんな意味で、アメリカをドライブして百マイルも走れば、台地から突然、崖をくだり、数百メートルくらいさがったところに、まったく別の世界で生活ひといる人たちがいるなんていう光景がザラにある。California Death Valley にしても、Salton Sea にしても、標高は、水面下-230フィートもある。でも、そこは、ただの平原に過ぎない。まさしく、天と地の差ほどあるような両方の世界で、彼らは平然と暮らしているのである。地球の歴史が造ったこのような変化に、昔から順応して、当たり前に生活しているところにこの国の不思議さを感ずる。ただ、日本人に不思議に思えることが、アメリカにしてみれば、当たり前のこと。さあ、貴方はどんな風に感ずるのでしょうか。

 

さいごに

Geopoliticsという学問があります。「地政学」というものですが、これは、われわれの価値観というものが、自分の生活する土地の気候・風土により、確立されており、これに基づいて治世を進めていくというものです。すなわち、この地球上には沢山の人たちが違った価値観で生活をしていますが、その価値観というものは、その土地の気候・風土に裏付けられたものだということです。こうした見方をしますと、実に、アメリカの国というのが明るく見えてくるような気がします。先住民であるインディアンがこれだけ沢山いますが、自然の中で生活をしてきた彼らの価値観は、気候風土で支配されているといえるでしょう。その意味で、アメリカの地質学者、考古学者たちが、アメリカを年間降雨量で区別し、解析していることはとても興味深いものがあります。あれだけ広い大地では、年間の降雨量が全く違います。もちろん、地形の差などもありますが、その降雨量により、自然界の姿がお互いに似ても似つかぬものになっています。そんなことを考えながら、インディアンの歴史を尋ね、彼らの価値観をさぐり、その価値観が西洋人のもちこんだ価値観とどんな形で融和していったかというのは、アメリカ人の価値観を理解するのに、とても貴重な手がかりを与えてくれるのでは思っています。ますます、アメリカという国に面白さを感じている次第です。

 

 2009/07/08

  

 

   

   

   

   

     

   

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