挨拶の言葉

  中国に行ってしばらくした頃、"ニンハオ!"とか"再見"とか言う言葉があまり使われていないことに気が付いた。毎日顔を合わせている招待所の小姐に、毎朝"ニンハオ!"といっても何の返事もない。同じ招待所に泊っていた顔見知りの共産党の書記長に、毎朝、"ニンハオ!"(お早ようございます!は使わないらしいので、今日は!と言った)と挨拶しても、困った様な顔をして口をもぐもぐさせるばかりであった。毎日顔を合わす人に対しては、今日は!さようなら!と几帳面に挨拶をすることはないらしのである。中国人どうしの様子を見ていても、お互いに"ニンハオ!"とは言っていないようであった。別れるときも、"再見"とは言わない。こう言った形式的挨拶は、日常顔を合わせている人との間では、わざわざ使わないらしい。久しぶりに会うときや長い間の別れになるとき(例えば、日本から中国へ行ったとき、又は帰国するとき)に、使う言葉のようであった。

  日本では基本的な挨拶用語であるオハヨウ、コンバンワの中国語を習ったが、この言葉は中国にいる間、殆ど聞いたことがなかった。中国語を教えてもらっていた中国人の先生は、"ご飯食べた?"とか、"ご飯終わった?"とか言って入ってきた。ある気のいい中国人は、仕事が終わって別れるとき、"回家了!"とか言って帰って行ったが、これも形式的挨拶用語"サヨウナラ"というよりは、"サー帰ろう"と言った掛け声のように感じた。会社への出勤、退社時にでも"オハヨウ"とか"お先に"、"お疲れ様"などに相当する挨拶などは無いならしかった。

  聞いてみたところ家庭内で、子供は親に、ゴチソウサマ、オハヨウ、オヤスミナサイとは言わないと聞いた。家族の間では、この様な挨拶を交わす習慣は無いらしい。日本人からすると、素っ気ない気がするが、中国人にしてみると、親しい間であるからこそ、何をわざわざ挨拶をする必要が有るのかという感じではないだろうか。語彙の点からもゴチソウサマ、タダイマ、お休みといって挨拶に相当する中国語は無いらしい。勿論中国でも、料理が美味しかった場合、美味しかったと感謝の気持ちを込めて言うが、日本人が形式的に使う"ゴチソウサマ"とは少し違うのではないかと思う。中国人から見ると、形式的な中身の無い挨拶用語は使わないと言うことかもしれない。

  これは本で読んだことであるが、"タダイマ"といって旦那が家に帰ると、外で何か浮気でもしてきたのではないかと、奥さんは疑ってしまうと書かれていた。つまり滅多に言わない言葉を言うからそのよなことになるわけである。中国語では、"回家了!"とか、"回来了!"の言葉があるが、これは"帰ったよ"とか"帰ったの"と言った言葉ではあっても、"タダイマ"、"お帰りなさい"と、セットになった定形的挨拶用語ではないから、言った言葉に何か特別の意味が含まれてしまうのではないだろうか。中国の家庭では"行ってきます"、"行ってらっしゃい"の掛け合いの挨拶も無いのかもしれない。更に中国的な状況(残業が無く、会社の帰りに飲み屋に立ち寄ることもない状況)下では、何時もより少し遅く、しかも明るい声で、"タダイマ"と言ったとすると、疑いを受ける可能性はますます高くなる。中国の奥さん達は、主人が遅く帰ることや、自分を置いて楽しんで来ることに対して、日本人ほど寛容ではないらしい。

  中国では、手紙の配達に来た郵便局員に"ご苦労様"(辛苦了!)などと言ったら言い過ぎかもしれない。仮に家庭の主婦が配達人にそう言ったとすると、彼女は彼に気があるといった、特別の意味があると風に受け取られる可能性があるような気がするのである。もっとも中国での手紙は、各家庭に配達されることは少なくて、勤め先(単位)に配達されることが多いから、その様な場面は実際には殆ど無い。中国では修理に来てくれて人に、ご苦労様とは言わないようである。中国社会は結構身分差が在るのも原因の一つかもしれないが。"ご苦労様"(辛苦了!)は対等な立場の人に本当に苦労をかけたときに使う言葉のようである。そう言えば、"謝謝"と言う言葉もなんだか少ないようであった。

  もっとも日本人が別れるときによく使う"気を付けてネ!"等は使い過ぎであるような気もする。大の大人が隣の市まで電車に乗って行くのに、"気を付けてネ!"とは大げさと言えば言える。中国で"気を付けて"と言われたときは本当に気を付ける必要があった場合であった。中国語の先生の家でご馳走になり、夜、帰るとき"気を付けて"と言われた時は、本当に心配してくれて言った言葉であった。中国のアパートの階段は電灯が付いていなくて、鼻をつままれても分からない様な暗さであるからでもある。

  確かに日本のこの様な挨拶用語は、本来の意味から離れてしまっていて、形式的になっている様である。しかし日本人である私にとっては、定形的挨拶を交わすことによって、他人との円滑な交流を図ってきたのであるので、中国式は冷たいような気がするのである。もっとも中国では人と人と真理的な距離が、親密か他人かの二極に分化していて、挨拶を交わすだけの中間の付き合いというものが、少ないような気もするのであるがどうであろうか。