趣味が役に立ったという話し

  外国人と話をするには、お互いに意志が通じる外国語が使えるにこしたことはない。しかし、お互いに共通の言語を持たない外国人どうしでも、結構話が通じたのである。
我々三人は言葉もよく分らないのに、よく集まって飲んだり食べたりしていた。我々三人とは、ウクライナの若者とロシアの中年婦人と、それに私である。ウクライナ人は最近までロシア人であったのが、突然ウクライナ人になってしまったのだとか。ロシアが崩壊した頃の事で、私が中国の吉林に滞在していた頃のお話である。

  ロシア人の女性はロシア語の先生として、私と同じ大学の宿舎に滞在していて、オルガといった。ウクライナ人は、手術の技術指導の為に吉林に滞在しいる眼科医で、セルゲイといった。当然二人はロシア語で話していた。セルゲイと私は下手な英語で話した。セルゲイはシャイなせいか、英語を話す時だけはかなり吃って話した。私の方英語はが単語を並べるだけで、相当下手なのであるが、相手が緊張する分、私の方はかえって気が楽になった。

  そのうちロシア語と日本語を、お互いに教え合おうということになり、挨拶や食べ物の単語を教え合った。オルガと私もロシア語の辞書を指差して、やり取りしているうちに、簡単な言葉は通じるようになってきた。ロシア語は言葉が女性男性中性によって変化する言葉であるのに、私のロシア語は変化が出来ないままに使っていたのだから、相当変な言葉であっただろう。我々だけにしか理解出来ない言い方を作って、話していたのかもしれない。だからロシア語の会話が出来る様になったとは到底言い難いが、かなりの意志は通じたのである。

  このあたりの中国料理は旨くないというのが共通の話題になり、自分達で簡単な野菜サラダ等の料理を作って食べたりした。吉林では手に入らない日本製マヨネーズを提供して作ったサラダは、格別に旨かった。満足に話せない言葉でも通じたのは、ウイスキーやコニャック(ブランディーのことをロシア語ではこの様に言う)を飲みながらであったせいもあるかもしれない。今になって考えると、ここで飲んだり食べたりしたものは、西洋風か日本風であって、中国式ではなかった。中国料理では生野菜のサラダは殆ど出てこないし、ここではウイスキーやブランディーは手に入れるのが難しい貴重品であった。

  料理といえば、吉林にも日本料理屋が在った。或時、ロシア人達に日本料理をご馳走しようと思って、その吉林唯一の日本料理屋に一緒に行ったことがある。ここは日本料理屋と名前が付いているが、日本的な料理は殆ど無く、キュウリとワカメの酢の物が日本風と言えたくらいである。畳(実際は茣蓙)の部屋が一つ有ったのと、"小姐"が日本の浴衣風着物と貧弱な帯を締めていたのが、せめてもの日本風と言えた。ロシア人にはやはり畳の上での会食は少しつらそうであった。私の誕生日にはロシア料理店でお祝いしてくれた。ここではロシア料理のボルシチ等が出た。その外にイナゴのから揚げも食べたのを憶えている。これは中国料理であったかもしれない。ここで水餃子も食べたが、水餃子はペルメーニェと言って、ロシアでも常食として食べているものであることが分った。ロシアの餃子の方が中国より本場であると言いたげであった。

  話題というと、家族のことや食べ物の事であった。セルゲイの故郷はウクライナの古都キエフ、オルガの故郷はスタボロポリであった。スタボロポリはグルジアに近い南ロシアにあり、周りを山で囲まれていると聞いたような気もするが、つたない会話によってでは、南ロシアの小さな街を想像するのは難しかった。セルゲイはパソコンも使えたので、ゲームを交換し合ったりもした。オルガは文学の専攻とかで"歌舞伎"と言う日本語も知っていたが、これを話題にするには難かしすぎた。

  言葉が不自由でも交流に役立ったのはやはり音楽である。私は偶然にもロシア民謡をよく知っていたので一緒によく歌も歌った。昔の私の趣味はコーラスであったのである。そしてハーモニーまで付けて歌った。実際ロシア人は歌によくハーモニーを付けて歌うし、ロシア民謡のハーモニーは比較的簡単であった。吉林で聞いたロシアの深夜放送の流行歌にも、デュエットのハーモニーが付いている歌は多いようであった。

  その外の音楽と言えばロシアの音楽のテープや、私が持って行った五輪真弓のテープを聞いたりして過ごした。チャイコフスキーやラフマニノフのクラシックのテープも、吉林に沢山持って行ってあったので、これもよく一緒に聞いた。私の好みはチャイコフスキーやラフマニノフ等のロシア音楽や五輪真弓、高橋真理子が好きであったからである。外は零下20度にもなる吉林の冬の雪の夜のことであった。

  私が滞在していた大学の招待所には、ロシア人の他に、日本人とアメリカ人の外国語教師が、共に夫婦で滞在していた。その人達とも交流があったが、我々三人ほど暇ではなかったのか、酒を一緒に飲む程ではなかった。特にアメリカ人は毎年派遣されるて来る人が、モルモン教のボランテアであったので、どの人も酒は駄目であった。もっとも後から来た日本人の先生とは、中国人の日本語の先生達も含めよく宴会を開く様になり、酒とカラオケとでまた楽しい日々を過ごすことになるのであるがこれは後のお話である。

  日本へ一時帰国した際には、ロシア語会話の本や英語とロシア語の辞書を、日本から用意して持って行った。辞書はとっさの会話に殆ど役に立たないけれど、暇がたっぷり有る我々には有効であった。例えば、"私、知っている、トルストイの戦争と平和"という具合で、判らないところは辞書の単語を指差すのである。ロシアの古典小説の題名は知っていたので、知識人と思われたかもしれない。話題に出た小説は、忘れていたり読んだことも無い小説もあったが、話が小説の内容迄及ばなかったのが幸いだった。しかし"戦争と平和"の主人公の三人の名前くらいは憶えていた。そしてロシア人の名前を覚えるのに、小説の中の登場人物の名前とダブらせて憶えると憶えやすかった。遠い昔読んだ本が思わぬところで役に立ったのである。

  日が立つに連れてオルガは、五輪真弓の日本語の歌詞を殆ど覚えたし、日本語も少し話せるようになった。一方向上心の無い私のロシア語は殆ど上達しなかった。ロシア語会話集を何時も持参して利用はしたが、結局ロシア語の変化と語順などは修得できなかった。しかし、ここで使ったいいかげんなロシア語でも、後からこの吉林に来たロシア人とも結構交流出来たのである。
東洋医学を勉強に来ていて、同じ招待所に滞在していた小児科の女医達さんや、レストランで働いていた奇麗なロシア人との交流にも、それなりに役立った。それにしてもつたない言葉であっても、お互いに何とか相手の言葉を理解しようとすれば、その熱意によって結構通じるものである。しかし中国のある所の、国営の店の店員の様に、口を利くのもいやだと言う態度を取られると、通じるはずの単語も通じなくなってしまう。現在ではこの様な人はずいぶん少なくなったようであるが。

  中国の学期の終わりである7月になった頃、セルゲイもオルガも任期が切れて、帰国してしまい、このグループは解散になったしまったが、帰国する時には、ロシアの木の小箱と、銀のスプーン、ホーク、ナイフ(一緒に食事をした時に使っていた物)を、記念にプレゼントしてくれた。今日本で、そのフォークにクルクルとスパゲッテーを巻き付けて食べると、ロシア人との長い冬の夜(北国は夜が長い。4時頃には真っ暗になる)の事を思い出す。中国の吉林ではスパゲッティーもブランディーもキュウリに付けるマヨネーズも、酒のつまみのチーズも、日本から持って行ったもので、貴重品でだったなー、そしてそんなに言葉が自由ではなかったのに結構楽しかったのは、酒のせいばかりではなく、ロシアの歌を知っていて、一緒に歌を歌ったせいかなー、などと時々思い出すのである。

  その後、アメリカ人の奥さんや、花が好きな中国人のおばさんとは、日本から持って行った球根や花の種を通じて話をするようになった。歌や花の趣味は、万国共通で心を通わせる架け橋になり得た。異郷で過ごすには、日本から持って行った音楽テープや、花の栽培が慰めとなったが、それだけではなく、異国人との交流にも思わぬとところで役に立っのである。しかし確かに趣味は友好に役立ったのであるが、魚釣りではあまり友好の程度が発展しなかった。魚釣りは現地の中国人に一緒に連れていって貰ったのだが、これが一昼夜以上の体力勝負の釣りであったので、一度で懲りてしまった。