東北地方の寒さ

  旧満州の一部である吉林に住んでいたことがあるが、冬の寒さは本当に厳しかった。一番寒いときは零下30度にもなる。その様な寒さは年に数回だが、零下20度位の寒さはしよっちゆうであった。11月には雪が降り出し、12月下旬から2月初めの旧正月の頃までが、最も寒い季節である。そんな寒い朝に外に出ると、鼻からの寒い空気で鼻毛が氷り付くのが分る。風呂上りに髪の毛を濡らしたまま外出すると、髪の毛がパリパリに氷り付いてしまう。勿論洗濯物や濡れたままのタオルを外に出そうものなら板の様にカチンカチンなってしまう。この様な寒さになると、空はどんより曇り、人の吐く息や人家から立ち上る煙の水蒸気のせいで、あたりの風景はぽんやりと霞んでしまう。幸いな事にこの地方の冬はあまり風が吹かないが、霧はなかなか晴れないで一個所に止まる。この季節でも農家からは収穫したトウモロコシを、集積所に運んでくる。人もロバも真っ白い息を吐き出しながら集まって来て、計量の順番を待っているが、ロパや馬の体から発散した汗が霜になり、粉でまぶされたように真っ白になっていた。

  こんな寒いときは冷蔵庫がいらない。ここ吉林では、外気が自然の冷凍庫なる冬の期間だけ、冷凍の太刀魚が売られていた。太刀魚の銀色が剥げ落ち、こんがらかったまま凍りついて、地面に並ベられて売られている。家の日陰も天然の冷蔵庫代わりになる。私が食事をしていた食堂の軒下には、大きな鯉や、毛皮を剥がれた羊が山になって積まれていた。薄っすらと雪をかぷった羊の山から、硬直した足が突き出ていた。毛皮を剥かれた羊は、意外と小さいと感じた。羊の肉を氷らせて薄くスライスした薄肉を、シャブシャブの様にして食べるのが、この地方の冬の名物である。羊や魚の山に積もる雪は、直ぐに純白の雪ではなくなる。街の中の雪も、白銀の世界の雪とは言い難たかった。降る雪の回数は多くはなく、雪の表面は一週間もすると煤煙で薄汚れてきた。ここでは冬の暖房に石炭を使い、工場の煙突はもくもくと煙を吐いていた。特に冬の全く風の無い日には、上空に"逆転層"が出来てすっぽり空を覆い、排気ガスがその下に溜って、息も詰まるような日もあった。中国の公害は相当深刻である。日本と同じ様にスズメはいたが、中国の冬のスズメは煤煙で薄汚れていた。

  この地方では寒さを防ぐ為に、ガラス窓はニ重になっていて寒気の進入を防いでいた。しかしガラス窓は隙問だらけなので隙間風が入って来る。その隙間のせいで北側の窓には、結露した水分がニ重窓の内側に入り、氷となってビッシリと張り付いて、一冬中氷の結晶となっていた。この様な隙間の多いえ事は、確かに工事の技術が遅れていることにもよると思うが、それだけではないような気もする。何かいいかげんと言うかキチンと工事をしないというか、国民性なのかとも思え、寒さが身に応えるだけに一層腹立たしかった。それで部屋のガラスの目張りなどは人に任せず、日本人の凡帳面さを発揮して自分でやった。

  この寒さではタクシ一やバスにに乗っても、側面の窓にガラスに氷がぴっしりと凍り付いて、左右の風景は全く見えないのである。タクシ一は暖房があったが、パスの方は床や窓が隙聞だらけで、氷る様な寒気がスースーと入って来た。このような寒さに恐怖を感じたこともあった。松花江の河岸に樹氷が出たらしいとの事で、日本人4人で見物に出かけた事があった。樹氷が出るのは川から立ち上る霧が、木の枝で氷の結晶になるのであるから相当気温は寒いのである。その時も恐らく零下20度以下であったと思う。たまたまその日の前日に雪が降り、次の日は全市民総出の雪かきがあった。メイン道路はタクシ一パスも通行止めにして雪かきをしていたのである。市民が雪かきをしている側を、樹氷見物に出かけたのであるが、長い川岸を歩いているうちにすっかり足の先から冷えてしまった。そこで帰ろうとしたのであるけれど、タクシ一は殆ど通らず、バスも来ない。一緒に来た日本人も体が冷えてしまって不安げな様子になってきた。帰る交通手段が無いので、無事に宿舎にたどり着けるか心配になってきたのである。暫くしたら雪かきも終わり、タクシ一も走り出して事無きを得たのであるが、これも慣れない寒さの故に、異常な心理状態になったのだと思う。

  うっかり道端のツルツルの氷の上に足を乗せて、ひっくり返えり頭を打ったこともあった。倒れた瞬間、遠い異国の地で大変な事故を起こしてしまったのではないかと、一瞬恐怖が頭をかすめた。直ぐに何でもないことが分ったのであるがヒヤットした。この道端のツルツルの氷りは、子供が面白半分に、その上を滑る為に出来たものである。子供たちはこの氷の上で独楽を廻して遊ぶのである。日本と違い鞭でたたいて独楽に回転を与えていた。

  あたりが雪と氷の世界になると、吉林名物の"冰灯"と言われる氷の建物を作る。北山公園の池の氷りが50cm位の厚さになるのを見計らって、その氷を切り出し、別の公園(江南公園)に中国風、西洋風のお城を建てる。その中に赤、黄色、緑の電灯を埋め込んで、内部からの照明とする。これが吉林市名物の"冰灯祭り"である。これを春節(旧正月の休み)の頃の夜、見物に行くのだからその寒さは相当なものである。寒さの程度はと言えぱ、カメラの乾電池(中国製の電池であったが)が寒さの為すぐ使えなくなる位であった。

  こんなに寒い地方なのに、この地方の人は寒さに無頓着なところがある。寒い所なのだからそれに対応した対策を講じれぱよいものを、例えぱ耳は千切れるほど寒いのに、耳当ては使わない。帽子の使用も少ない様に思えた。せいぜいオ一パ一の襟を立てた位で、寒そうに自転車に乗って走っていた。それに反して、香港から来た冬の観光客は着膨れていて一目で分った。
又、部屋の入り口も開けっぱなしにする人が非常に多い様に思えた。町の中の料理屋でもドアが開けっぱなしのままであったりすると、我慢して食べていても何やら腹が立ってきた。宿舎の暖房なども壊れたままで暖房効果が良くない所も多かった。そのせいかこちらの人は仕事中でもコ一トを脱がないまま仕事をしていた。第一コ一トを脱ぎ捨てても掛ける設備が無いのである。コ一ト掛けを作るように会社に要求したが、購入するまで迄に何と一年を要した。既製品を探していたが結局無くて、コ一ト掛を挑えて作ったのである。たまに中国映画を見ても、綿入れの分厚いコ一トを着たままで会議をやっている場面が映る。私の周りでも会議や仕事中に、同じ様な光景が見られた。何故かこの場含、幹部達はコ一トの袖を通さないで羽織るだけの姿が多い。この様にするのが中国式では偉そうに見えるのか、格好が良く見えるのかもしれない。映画の解放軍の将軍が戦場を慰問する場面にもよくある姿である。寒さの話とは何も関係無い話であるが。

  私は寒がりであったが十分防寒対策を講じて外出すれぱ、寒さは何ら問題は無かった。零下10度以下でも休日は自転車に乗って買い物に出かけた。勿論日本で購入した暖かい下着や羽毛のコ一トや耳当てが必需品である。当地ではこんなに寒いのに暖かいウ一ルの靴下や下着も売っていなかった。セーターも極太の厚手のものは、相当探しても全く売っていなかった。市場が開放されたと言えども、まだまだ良い品質の商品は少ないようである。その代わり手作りの衣類が結構多かった。例えば現地の人の防寒用の股引は、殆ど全部が奥さんかお母さんが編んでくれた毛糸の股引であった。日本では母さんが手袋を編んでくれるが、ここでは股引を編んでくれるのである。