吉林の長春路

  私は吉林市の市内に在る大学の、招待所に住んでいたのであるが、その大学の前の道は"長春路"と呼ばれていた。片側ニ車線の車道、自転車道、更には歩道と三種の道を持つ、巾の広い道で、自転車道も歩道もゆったりとして十分の巾があった。その三種類の道の間には柳が街路樹として植えてあった。その柳は三月頃から少しづつ芽が膨らみ始る。長い時問をかけて柳の木全体ががぽんやりと黄緑色に霞んだようになり、ようやく5月の中頃に新緑となるのである。
6月になると柳の綿毛が飛び出す。そうなるとその綿毛が、風に吹かれてクルクルと路の片隅で回っていたりする。晴れたぽかぽか陽気の日には、見ている間に柳の枝から綿毛が飛び出すのが分った。

  その道の歩道の側は、自然発生的に近郊の農民が持ってくる農産物の自由市場となっていた。ー人が販売する量や種類は、自転車やリヤカーで運んでくるだけの量であるから、種類も量もそんなに多くはない。だから同じ様な野菜を、多くの農民が地ペたに並べて売っていた。しかしここは日本と違って季節感に溢れていた。例えば夏になると、本格的にここで商売をしようとする人もいて、トラックー杯分の西瓜を地面に積上げ、小屋がけをしてそこに泊り込み、品物が盗まれない様にして商売をしている人もいた。夏の西瓜はとても安かった。秋も深まった頃、葱売りや白菜売りが表れる。雪が降り出す頃であるので、白菜の上に雪が積もり、人も頭の上に雪をかぷったまま、通る人に声をかけて売っていた。ここでは野菜の他に魚や豆腐も売っていた。魚は淡水魚が多く、鯉などは簡単な水槽を作り、そこに活きたままで泳がせていた。真冬の零下1Oから2O度の時期には、水槽の表面に直ぐに氷が張るので、金網で氷を取り除きながら売っていた。
又魚の冷凍物が並ぶのは冬だけであった。これは外に並べておいても溶けなかった。

  中国の人が運搬に使うリヤカーは、本当はリヤカーではなく、リヤではなくてフロント側に荷物を乗せる荷台があって、自転車のー輪が後に付いた三輪車であった。後の自転車のー輪をペタルで漕いで、前の荷台に付いているハンドルで舵を取って、荷物を運ぷ方式である。運搬にはロバやラバも、勿論馬も使われていた。大学正門前から、バスのー駅で長春路が終わり、市内パスもそこが終点である。そこから先が農村地帯ヘの出口といった様子で、終点の地名は"フンジャートン"と言って、いかにも田舎の様な名前であった。この出ロは又都会ヘの入りロでもある訳であが、その長春路の入りロに一つの交通標識があって、それには丸の中に馬の首の絵が書いてあり、その丸に斜線が入っていた。つまりロパや馬車類の進入禁止の意味らしかった。しかしそのためにロパの進入をためらう農民などは誰もいないので、長春路はロパに引かせた馬車が自由に往来していた。本当に寒い真冬になると、ロバの体から出る汗が直ぐに霜となり、霜でロパの体中がまぶされた様に真っ白になった。綿入れの服を着た御者のおじさんの髭にも、つららが下がっていたりする。その頃には市内の公衆トイレの排泄物は、凍ったまま塊として馬車に積み上げ、農村に運ぴ出して(多分肥料として)いた。こんなに寒いと排泄物は凍り付いているので全く匂いはしなかった。

  冬の長春路で危険なのは道路の氷であった。道路が鏡の様に凍り付いているいると、はなはだ危険である。自転車に乗っていて、氷の上でうっかりブレーキをかけようものなら、ものの見事にひっくりかえる。慣れているはずの現地の人も、結構ひっくり返っていた。道路がそんな状態でも、チェーンを付けたバスやタクシーは全く無かった。パスはスリップの距離を予測して、巧い具合にバス停のあたりに停車した。雪が降った場合、氷りだらけになっては大変なので、雪が降った翌日には"単位"に、雪かきの義務があった。"単位"とは企業や学校のことで、仕事を休んでー斉に雪かきをするのである。道路際の塀にはよく見ると、"単位"毎に割り当てられた、雪かきの義務の巾を示す印が付いていた。この雪は日本の雪と違って量は多くないが、零下20度にもなる寒さで直ぐ道路に張り付き、掻き取るのが大変な様子であった。

  長春路には思いもかけない危険もある。自転車道の中央にあるマンホールの蓋が何者かに盗まれたらしく、数ケ月もの問、2メートルもの深さでパックリと口を開けたままであった。この外灯の無い道を、無灯火の自転車で、夜走るのは相当恐い。自転車は全て無灯火であった。
この長春路は広くて、かなり交通量も多いのに、交通信号は一つも無く、交差点近くでは自動車、人、自転車、が入り乱れて通っていた。やはり中国の道路事情は混沌と言った印象を与える。
交通量はかなり多い。人ロ百万都市の大通りのことであるから、当然とも言えるが平日の日中でも、なんとなく行き来している人が多かった。やはり国営産業の不振で、失業状態やまともな仕事が無い人が多いようであった。

  町中では喧嘩も多かった。喧嘩が始まると周囲に直ぐ人が集まり、喧嘩をしている当人は周囲の人の同意を求めて、早口でまくしたてた。見物している人の中には、相づちを打ったり、何か掛け声をかける人もいた。スリもいた。商店で見かけるスリは、そぷりでなんとなく分るので、そんなに高度なテクニックを持ったスリではないようであった。後ろからバツクやポケットを覗いたり、必要以上に体を摺り寄せてくるので分るのである。それに比べてパスの中のスリは、剃刀でズボンやコートのポケットを切ったりする技術を持っているので、少し恐い気がした。

  この吉林でも通勤時間になると、自転車の大部隊が現れるのは、中国の他の都市と同じである。その自転車を修理する修理屋が、ほんの少しの工具を並べて道端に佇んでいた。簡単に開業出来るせいかこの商売は多かった。自転車の修理屋は散在していたが、靴の修理屋はー個所に固まって商売をしていた。この商売はミシンを要としていて、技術も必要な為かー応掘建て小屋の中で商売をしていた。中国では靴や自転車は品質が悪いせいか、常に修理が必要であって、無くてはならない商売であった。

  初夏の風に柳がサワサワとゆれている風景を写真に撮って見ると、結構奇麗であった。しかし町全体の印象は雑然としていた。商店は在っても、ショーウィンドウは殆ど無く、鉄格子をはめた硝子窓が有るだけであった。しかも冬になると商店の出入り口には黒い毛布の様な分厚い布をぷら下げて、冷気の進入を防いでいたので、デパートの入り口も分らないのである。この毛布の様なものは、寒さが厳しくなるに従って汚れが目立ち、そこをかき分けて中に入るのに、その汚れが気になった。一方最近の経済の発達と共に、ー番先に派手派手になってきたのはレストランであった。そこでキラキラ光るネオンの色は、赤や緑で、いかにも中国的であった。この様な店で真冬に食べる羊肉のシャブシャブは結構美味かった。この料理は東北地方での名物であった。回族が経営する店には、濃紺色の看板にアラビヤ文字の様な装飾があった。ここで1O人位で食べても、5〜6OOO円であったので、よく若い会社員を連れていって食べに行ったものである。

  町には物売りの人は多かったが、何故か自転車やリヤカーに果物や野菜を積んで、車道まで張り出して商売をしていた。その為交通の妨害になっている場所もあった。なぜ交通量の多い所まで物売りが張り出して商売をしようとするのか不思議であった。多分少しでも多く売りたい一心でそうなるのかと思えた。開放経済の社会に変わり、競争が激しくなったせいもあるかもしれないが、こんなことも混沌とか無秩序と言った印象を与えた。自由市場が終った後は、野菜屑などが思い切り散乱していて、この面でも無秩序であった。中国の汽車旅行の車内で見たのと同じく、私捨てる人、あなた掃除する人と役割が分離しているから、物を道路に捨てるには躊躇が無い。しかしこのゴミは何時の間にか、専門の道路の掃除人が出てきて、翌日までには掃除されていた。日本と同じ様な竹幕で掃除をしていたが箒の使い方が日本とは逆で、穂先の方にゴミを押していくので、その掃き方が気になった。そのせいか掃除した後でも相当の土砂が残っていいて、掃除をする人は、もうもうと舞い上がる土煙の中で掃除をしていた。

  春は引越しの時期なのか、住宅を交換する時期なのか、越しの際に不要なものを処分しようとする為らしく、ガラクタ市がゲリラの様に突然道端に湧き出したりする。引殆ど使いものならない古物を地面に並べて売っていた。錆だらけの金槌、おんぽろの靴、水道管の折れ曲がったもの、木の窓枠、曲って錆びた釘、ボルトナット類、様々なものが並んでいた。この、商売になるとも思えないガラクタ市が、延々と500mも続いて現れたりする。しかしーケ月もすると当局の取締によって、一斉に道路から消えてしまったりする。この様に、誰でもが気安く商売を始めてしまうこと、取締が突然であること、取締が無ければその隙をついて無秩序状態が直ぐ現れること、などなど長春路は極めて中国的なのである。

  この混沌とした長春路にも、たまには交通のルールを守らせる為に、警察が出てきたり、警察を退職し人がボランテアとして、交通整理に現れたりすることがある。しかしどの様に整理しているのか、どのようなルールで指導しているのか見ていてもサッパリ分らなかった。おまけに大きな交差点は、ロータリーや広場になっていて、綾取りの糸の様に入リ組んで人が横断するので、ここを横断するには、十分な気合が必要であった。

  この長春路がー番にぎやかになるのはなんと言っても夏の夜である。食事を終えた人達が涼みがてら散歩を兼ねて家から出てくる。その人達を目当てに繁華街には"夜市"が出る。食べ物屋や、衣類を売る露天の夜店である。その外に街頭カラオケ、盆踊りの様な農民風の踊り。この踊は農民の踊りに起源があるようであるが、踊るのは農民ではなく年を取った市民である。赤や黄色の専用の衣装を着けて、チャラメラの様な笛、ニ胡などの楽器の伴奏で踊るのである。白粉で化粧している人もいた。踊りが佳境に入ってくると、テンポが速くなり、踊はますま盛り上がってくるのである。この踊りは、日本の盆踊りの様に一時的なものではなく、厳寒の頃にもなお踊りが続いている場所もあった。ダンスも盛んで街頭でのダンスホールが出現したりする。

  朝になれぱ町角には朝の顔が有る。柳の下で太極拳の練習をする人、老人デスコという老年向きの改良デスコダンスを集団で踊る人、この様な鍛練はやはり夏に多い。そして物売りの声。べツトでうつらうつらしている時に聞こえる"ジータン"と甲高い声。これは卵売りの声である。朝食用の肉鰻頭や揚げパンを道端で作りながら売る人。自転車に乗せた豆腐を売る人。日が高くなると、シンパルの様なものを鳴らしながら、廃品回収のリヤカーが通り過ぎる。
 このほかに様々な生活がこの道端で行われていた。私は1992年の秋から1996年の春まで、この長春路に面する大学の構内に暮らしていたのである。道端には季節毎に様々な行事があった。日本のお盆の送り火の様に、紙のお金を燃やして、死んだ人にお金を送る行事。旧正月前になると、正月用の飾り物を売る店、訪問用の酒を売る店、当然爆竹を売る店も道端に現れた。そして大晦日の爆竹。クライマックスは大晦日の12時の爆竹で、この音は凄かった。
その音も光景も、今思い出してみると長春路の様子の全てが懐かしい。