吉林の四季

  吉林の冬は長く、春はなかなか来ない。春節が終ると、零下30度近くの寒さは無くなるが、千里冰封万里雪飄(吉林から貰った年賀状の一節、吉林の冬はまさにこのとおり)の世界に変わりがない。それでも3月も末になると、窓から見える柳の芽が、ほんの少しづつ緑色が増してくる。遠くに見える柳の並木の枝は、わずかな黄緑色で霞んだ様に見えてくる。街の自由市場で売っていた一束0.5元の枯れ枝の様な木の束も、窓際の花瓶に差して置くと、二週間位でつつじの様な花が咲き出し、春が近い事を感じさせる。しかし四月の始め頃までは、雪が降ったりしてなかなか春にならない。それが四月の末になると、様々な花がいっせいに咲き出し、あっという間に春になる。

  吉林市には桃源路と言う名前の大通りが有り、名前の通り、桃の木(本物の桃ではない)の並木があり、この街路樹の花が一斉に咲き出す。少し遅れて吉林大街と言うメインストリートの両側でも、桃か桜に近い白とピンク色の花が咲きだす。この広い大通りが満開の花で埋まる時は確かに春が来たと言う実感が沸くが、花は瞬く間に散ってしまい、又冷たい雨が降ったりする。そして五月になると、本当の春になる。私の住んでいた学院内には、三つもの庭園が有り、黄色やピンクの花が一斉に咲き出して、それは綺麗であった。黄色の花は日本のレンギョウに似ていた。ピンクや白の小さい花は桜や梅の花に似てはいるが別物である。日本では少しづつ時期がずれて咲く花が、ここでは一斉に咲き出す。庭園は職員や学生にも解放され、いかにも春が待ちどうしかったという感じで、大勢が散歩に訪れるのである。

  吉林の春には強風がよく吹く。砂埃で髪の毛がジャリジャリになり、砂が喉や目にまで入だけでなく、部屋が砂埃だらけになってしまったりする。しかしこれも春の訪れの印である。大風は春にだけ吹くのである。この頃今迄穿いていた厚い下着を脱ぎ捨てると、ズボンの下から入った空気が、直接肌に触れて、その感じはなんとも言えないくらいすがすがしい。しかしこちらの人は慌てて衣更えをすると体に悪いと言う諺があるとか言って、ズボンの下の、太い毛糸で編んだ厚ぼったい股引をなかなか脱がない。

  5月も中旬になると、ほんとに暖かくなり、リラの花が咲き匂いで満ち溢れる。花は目立たない(木は雪で押しつぶされて、あまり大事にされていない)が匂いでそのありかが分かり、気分もなんとなく浮き立っくる。そして5月の末には、柳の綿毛が一斉に飛び出す。その綿毛は絨毯の様に厚く積もったり、風に吹かれて建物の角でくるくる舞っていたりする。綿毛をはき出す木は数種類在り、中には天気の良いぽかぽかした日に、見る間に綿毛が膨らんで飛び出す種類もあった。当地の人は、この綿毛を邪魔臭いと言って嫌うようであったが、私には、中国の春の風物詩の一つに思えた。特に今となっては忘れられない光景の一つである。

  だがなんと言っても忘れられない風景は、吉林郊外の小山迄ハイキングに行った時の、山村の桃畑の様子であった。はるか彼方に見える桃の林はピンク色の雲の様であった。眼下には農家が点在しそこから煙が立ち上り、未だ芽吹く前の唐松の枯れ葉色と桃の花が調和して、のんびりとした山村の一幅の絵の様であった。あまり綺麗であったので、次の週にも一人で写真を撮りに行った。しかし今になってその写真を見てみると、あれ程感激した美しさは写真には表れていない。外国に居て感傷的になっていた為に、ああも美しいと思えたのかとも思え、何んだか幻であった様な気もしてくる。


  春は短くあっという間に夏になる。吉林では、梅雨が無いから6月は夏と同じ暑さで、東京の6月よりは暑い。しかし空気が乾燥しているせいか、日陰は涼しい。その頃、川岸や街路樹の柳は、十分に葉を伸ばし、ゆさゆさと重そうに風にゆれていて、長く伸びた枝葉は、自転車で行き交う人の頭に触れてしまう程になる。中国では夏の始めが運動会の季節らしく、大学では二日間に渡って運動会が毎年開かれた。学部別の学生の入場行進の他に、職員の入場行進もあった。幼稚園の先生達も、看板を持って入場してきたが、皆背が高く、スタイルが良く、何か誇らしげに背筋をピント伸ばして行進していた。現地の人の話に拠れば、幼稚園の先生は美人が多いと言っていた。中国の大学には、幼稚園のみならず様々な施設が付属しているのである。付け加えて言うならば、中国の北の人は、かなり背が高くすらりとした人が多い。

  夏になると松花江に渡し舟が出て、人間は一元、自転車も一元で対岸迄運んでくれた。休日にはこの船に乗って、対岸の江南公園まで行って、東北虎を見に行ったりした。休みの日には、松花江川岸の柳の並木の下を、爽やかな川風に吹かれながら、自転車に乗って、3、4Kも先のホテル巡りによく出かけた。当地ではウイスキーは殆ど売っていないので、飾りものとして並べてあるウイスキーを探しに、ホテルの梯子をして買いに行ったものである。この頃には、スカートのすそを自転車のハンドルに掛けて、下半身に涼しい風を入れながらさっそうと走る女性の姿も多く見られた。この格好は日本では絶対に見られない光景であったが、下着はみえそうでも見えなかった。たまには夕立の様な雨が降る。ここの人はあまり雨に濡れることを嫌がらないのか、傘もささずに自転車に乗って走って行く。その姿は久しぶりの雨を楽しんでいるようでもあった。

  宿舎の裏山には、解放軍の砲兵隊の射撃場が有り、毎年夏になると、大砲の実射訓練があり、夜になっても、夕立の雷の様にその音が轟き、それが何日も続いた。軍隊の施設の所在地は、市民の誰でもが知っていることであるが、地図には一切書き込まれてはいなかった。

  吉林の近郊の観光地は松花湖である。夏になればここで泳げるようになる。自動車で3〜40分の距離である。公司が社員の為に用意してくれたバスで出かけたり、社員と一緒に出かけたり、ロシア人を誘ってタクシーをチャーターして泳ぎに行ったこともあった。時には一人でタクシーをチャーターして、泳ぎに行ったこともあった。テレビを見ていても面白くないし、娯楽になるようなものが殆ど無い所なので、しょっちゅう出歩いていた。

  夏の夜は何といっても"夜市"である。それこそ老いも若きも、夕方になると"リュウダリュウダ"と、大勢の人が夜店を冷やかしに出かける。"リュウダリュウダ"とは、ぶらぶら歩きのことを中国語でこの様に言うらしいが、意味も無く出歩く感じが表れていて、この言葉を直ぐ覚えてしまった。夏の夜の毎晩の賑わいで、吉林の人口が100万人以上であることが良く分った。住宅が狭く、風が通らない(家の造りは、冬の厳しい寒さに耐えられるようになってはいるが、風通しは悪い)ので、全員が外で涼んでいるのかもしれなかった。食べ物屋も沢山並んでいた。いくつか旨そうに見えるものがあったが、夕飯を食べて終っての、7、8時頃では未だ腹が空かないので、食べる機会が無かった。周りの人からは衛生状態に問題が在るので、食べないように言われていが、食べてみたいものを食べなかったのは少し残念な気がする。

  夏の日曜日の午前中には、松花江河畔の青年公園で、日本語コーナーと英語コーナーが開かれ、語学を勉強している人達が集まって、交流をする場所が有った。英語の方が日本語よりずっと人気があったが、日本語のコーナーにも、戦争中に日本語を習った老人や、これから日本に行く予定の若者が集まって来ていた。ある日曜日のこと、この日本語コーナーに30才位の背の高い美人が現れ、何語とも分からない言葉で話し出した。確かに英語ではない、ロシア語と似た部分も全く無い言葉である。中国ではチェコの自動車が走っている事があるので、チェコ語かもしれないなどと考えたりました。後で周りの人がそっと教えてくれた事実は、その美人は気功のやり方を間違えて、自分で発した"気"が自分に向かって気が狂ってしまっているとのことである。その結果自分で作った言語を話しているので、周囲の人は全くその言葉を理解出来ないのである。しかしその話し方が、流暢で自信に満ちていて、なおかつ知的な美人であったので、始めはそうとは気が付かなかった。中国には不思議な話もあるもである。夏の日の中国での不思議な体験であった。

  そのコーナーで顔見知りになった人から、家で食事をしようなどとよく誘われた。しかし商売の儲け口を紹介させられるかもしれないなどと、心配して行ったことはなかった。後になって考えてみると、そんな心配はしないでもよかったのかもしれない。せっかくの好意や機会を逃してしまったのかもしれかった。風の噂では、その日本語の方の主催者の陳さんも、もう亡くなってしまい、その会も廃止になったと聞いた。そう言えばその陳さんから、中国で育てた亀を日本に持って行って、売ってくれないかと頼まれたことは確かにあった。その亀は特殊な方法で育てることによって、甲羅に藻を生やし、万年も生きたような姿にしたものであった。


  吉林の秋は何故か"てんとう虫"で始まる。それこそ無数のてんとう虫が飛びかい始めると、秋なのである。暖かい日だまりとなる軒下などに、無数のてんとう虫が集まってくる。そのうちの数匹かは、二重になっているガラス窓の隙間をかいくぐり、運が好ければ、室内で翌春迄生き延びることになる。その頃うっかり窓を開け放そうものなら、部屋中がてんとう虫だらけになってしまう。吉林郊外の朱雀山は紅葉の名所でもある。ここにも天を覆うばかりのてんとう虫の大群が居た。そこに出かけた日は、日本の休日と重なったので忘れもしない10月10日であった。険しい頂上付近迄登ると、日本の10月と違って、既にかなりの寒さであったが、朱雀山の紅葉は秋天に映え、日本の秋の紅葉を思い出させる景色であった。眼下にははるかに松花湖、松花江が見えた。その後、松花湖に向かったが、既に観光地の店は殆ど閉じてしまい、観光シーズンはもうおしまいの様であった。当地の人にとっての観光シーズンは夏だけで、秋の紅葉を愛でる習慣は少ない様に思えた。

  松花湖から降りて来る時には、路の両側にある街路樹から、落ち葉がはらはらと秋の日の逆光を浴びて降り注いでいた。ここの黄金色もまた、とても綺麗であった。しかしここ吉林の寒さは樹木が優雅に衣を脱ぐ暇も与えないくらい厳しいのである。いきなり訪れる冬の寒さによって、落葉する暇も無く、枯れ葉が汚らしそうに枝に張り付いたままの木も多いのである。

  もっと寒くなると、葱を山の様に積だリヤカーを引いて、農家の人が都市の町角まで売りにくる。自由市場には葱を積んだリヤカーでいっぱいになる。又暫くすると、今度は白菜を山の様に積んだリヤカーが現れる。その様子は大通りの道端からはみ出して交通の邪魔になる位である。街の人達は、葱は戸外の軒下に吊るして保存し、白菜は大きな甕に漬け込むのである。いずれも一冬分の葱や、白菜を買うのであるから相当な量を買い込むことになる。以前は冬になると市場から新鮮な野菜は殆ど無くなり、人々はこれらの保存食を食べて生活したらしい。その頃はリヤカーの半分程の白菜を、一冬分として買い込んだものだとある人が教えてくれた。私が初めて吉林で冬を過ごした1993年頃は、葱もジャガイモも、キャベツも冬になると市場から無くなり買うのは困難であった。

  町角の靴の修理屋、自転車の修理屋、果物売りの小屋からは、暖房の為の煙突が突き出され、そこから石炭の煙が吐き出される様になり、小雪が舞う中で、寒そうに白菜を売る人がリヤカーを並べている町角の風景は、もう冬が始まった事を告げている。


  吉林の冬というと、何故か暖かい食べ物を思い出す。冬の食べ物は何と言っても羊のシャブシャブである。火鍋に炭を入れて、お湯を沸かし、その中に羊の薄切肉をさっと付けて、ゴマダレを付けて食べる。お湯の中には、店によっては様々の"調料"を入れる。木や草の香辛料だけではなく、干した貝やエビ、渡りガニの切り身等も入れる。店によっては20種位の"調料"を入れるところもあり、それがその店の売り物になっている。肉は何と言っても羊が一番旨い。肉の他に白菜の漬物、春雨、最近では温室物の春菊等も入れたりする。これを大勢で箸でつつきながら食べるのが、酷寒の季節に相応しいのである。その他に、小竜包、シュウマイ(焼麦)、シェルピン(焼餅)等の小吃はどれも旨くて安かった。特にシェルピンは煎餅状の小麦粉の薄い皮の間に、羊の挽肉を挟んで、油を使って鉄板で焼いた物で、これをビールを飲みながら三、四枚も食べると5、6元で腹いっぱいになった。

  11月になれば地面も道路も、当然畑も凍りつく、こうなると建設工事も中断してしまう。12月も末頃になると、寒さはますます厳しくなり、松花江のほとりの柳の木の枝に樹氷が現れる。これは松花湖ダムから流れる暖かいダムの水が、蒸気なって立ち上り、川岸の木の枝に付いて樹氷になるのである。この現象は、昆明の石林、桂林、長江の三峡と並んで中国の4大奇観の一つであると地元の人は言うが、他の三つと比較するといかにもスケールが小さい。しかし吉林市民が自慢するだけあって、朝日に当たって氷の結晶がキラキラ光る様は、確かに一見の価値はある。これを見に行くには、気温が零下20度以下になっているはずであるから、当然頭から爪先まで防寒用具は完全にして出かけなければならない。

  冬の吉林では町角の自由市場や、中央市場の喧騒も一見の価値はある。自由市場では付近の農家の人が運んできた野菜等を売っている。本当に寒い時には野菜が凍らない様に、野菜を綿入れの布団で包み、その上には、凍ってしなびたナスなどが見本として載せてあった。冬だけは天然の冷蔵庫を利用して、魚の冷凍物が並べられていた。ある雪の降る日には、野外の市場の板の上に、ロバの首が並ベられていた。その横には肉の塊が並んでいるのであるが、そのロバの首は、横にある肉が本物のロバの肉(他の肉類より高価であり、体に良いとか)である事を証明する為のものである。思いのほか長いロバの睫毛の上に雪が降り積もり、何か悲しげな様子であった。

  土日は休日であったが何も娯楽が無いので、零下20度で雪が降る中でも、自転車に乗って街の見物によく出かけた。その結果、周りの中国人も知らない街の様子も分った。例えばステンレスパイプや電熱器のニクロム線や切花(鮮花と書く)はどこで売っているとか等である。
これらの知識はこちらの人には必要無いかもしれないが、わたしにとっては重要な知識であった。ステンレスパイプは物干し竿(中国では物干し竿を使わないで、紐を使うらしい)として、ニクロム線はしょっちゅう故障する電熱器の為に、鮮花は冬でも花を部屋に飾る為に。しかし冬のバラはうどん5杯分位の値段であってとても高価であった。その高価なバラを買う日本人の顔を、花屋の人はすぐ覚えてくれた。

  氷が張っている路面は自転車でも危険である。それなのに、この凍り付いた道路をタクシーやバスはチェーンを付けないで走っていた。タクシーでスキー場に遊びに行くときなど、タクシーが雪の中に突っ込んで、動けなくなったらどうしようなどと、不安一杯で出かけたこともある。そう言えば中国語が殆んど話せない頃、バスに乗ったのはいいが、横の窓に氷が張りついていて外が全く見えないので、どこを走っているのか分からず、降ろしてくれとも言えずかなり不安になったこともあった。この寒さの中に放り出されたらどうなるかと言う心配は結構あった。

  中国の冬は何と言っても春節であろう。ここ吉林の春節の名物は、公園で開催される"冰灯"祭りである。池から厚い氷を切り出して来て、数々のお城の様な建物を作り上げ、大勢の観客に見せるのである。氷の中には赤、緑、黄色、の電灯を光らせるので、夜は特に綺麗である。
ただ、私には中国でよく使われる赤、緑、黄の三原色の組み合わせは、あまり趣味が良いとは感じられなかったが。他に"河灯"と言って日本の灯篭流しみたいな催しもあった。いずれも寒い寒い夜に見物に行くのである。

  中国の春節(旧正月)は大晦日に餃子を食べて、爆竹を楽しむのである。夜の12時がそのクライマックスで、爆竹の音はまるで戦争が始まったみたいなすごい音であった。その音を聞くと、私も何故か心が浮き浮きして楽しかった。大晦日には日本人の残留婦人の家に招待されたり、公司の社員の家に招待されたこともあった。しかし正月休みの後半は、皆、家庭内に引きこもってしまい、付き合ってくれる人もなく、外国での一人暮らしであることをしみじみと感じた一週間であった。