中国人は“仁義礼智信”を学んでいないと、非難している日本人がいた
(2009年9月1日)


  テレビで見ていたら、中国人は“仁義礼智信”を忘れて、学んでもいないと非難している日本人がいた。わざわざ紙に、仁・義・礼・智・信と書いてそう言っていた。そして中国人があまり道徳的ではないのは、それが原因だと言っていた。そこに中国人もいたが、その人が言うには、確かに中国人は“仁義礼智信”を、学んでいない。その原因は毛沢東による文化大革命で、文化、道徳が破壊されたからだと言っていた。文化大革命の時には、孔子は批判の対象になり、儒教どころではなかったのだと、それで現在に至っても、“仁義礼智信”による道徳教育は復活していないと釈明していた。

  どうもこの話はおかしい。中国人が道徳的ではないかどうかは別として、仮に道徳的ではないとしても、儒教の“仁義礼智信”を忘れてしまったのが、その原因と言うのはおかしい。

  その日本人が、中国人は“仁義礼智信”を忘れて、学んでもいないと非難しているのは、中国人は以前は“仁義礼智信”の儒教の素養があったのだが、それを忘れてしまったから、問題があるのだと言いたいらしい。それは中国に対する大いなる勘違いなのである。中国では二千年以上前に孔子や孟子が偉大な儒教の思想を書いたの事実である。だからといって、中国国民は今でも“仁義礼智信”を忘れてはならないという理屈を押し付けられたら、中国人にとって、はなはだ迷惑な押し付けである。

  中国人は以前は、本当に“仁義礼智信”を学んでいたのだろうか。日本人は「中国は儒教の国」と思い込んでいる人からが多いから、庶民も“仁義礼智信”を学んでいたと勘違いしているのである。

  確かに中国では、朝廷の官僚の登用試験の科目に儒教が含まれていた。いわゆる科挙制度で、論語などの勉強が必要であって、士太夫と言う階級の人達は儒教などについて勉強しなければならなかったが、中国の庶民が論語を勉強したとは思えないのだが。

  翻って、日本の江戸時代には、中国から儒教を取り入れ、武士階級には儒教の素養があり、寺子屋でも論語を教えていたようである。だから、日本の商人や農民の中には論語が読める人がいたのだろう。だからと言って儒教の本場の中国なら、当然儒教で道徳の規範を教えていたと考えるのは勘違いである。士太夫と言う階級とは関係ない大部分の人達は、儒教とは全く関係の世界にいたのではなかろうか。

  だから中国人が以前は学んでいた“仁義礼智信”を、学ばなくなったから道徳が乱れたなんてことは間違いなのである。先に書いたが、テレビに出ていた中国人も毛沢東が文化大革命で儒教などの文化を何もかも破壊したから、“仁義礼智信”による道徳教育が無くなったと、毛沢東のせいにしているが、これも出鱈目である。もともと一般庶民に儒教を学ばせるシステムなどはなかったのである。だから、“仁義礼智信”を学ばなくなったのは毛沢東のせい、と言うのはおかしい。しかい毛沢東の文化大革命によって文化とか道徳が破壊されたのは事実であるが。

  とにかく、日本人は、「中国は儒教の国なのに・・・・・・」という言い方をする人は多いのだが、そう考えるのは中国に対する誤解なのである。仮に「中国は儒教の国」だとしてもそれは支配階級に限られたことであって、中国の士太夫が儒教を勉強したしたからといって、下々の庶民が自然と儒教かぶれになるなんてことはありえないのである。

  日本では「孔子様がこう言った。だからこうしなければならない」と道徳の規範として教えたかもしれない。それは江戸時代の寺子屋のシステムに確かにあったようである。しかし中国では論語を道徳規範として教えたと言うより、国の支配のツールとしてとか、官吏の試験の受験の科目として儒教を勉強したのである。その官吏の受験に必要な儒教の素養も、清王朝の滅亡とともに必要がなくなってしまった。とにかく、中国人がゴミをやたらに捨てるとか、汚職が多いとかが本当だとしても、それは儒教教育が足らないとか、復活していないとかそんなことが理由ではない。

  しかし仮にであるが、中国が論語を道徳規範としてキチンと教えるとすれば、中国の汚職はずっと減るのだろうか。論語を道徳規範として教えなくても、別の道徳規範をきちんと教えれば、中国の汚職は減るかもしれない。しかし今でも中国に汚職が多いのは、どういう教育をしても中国では汚職が減らないということを示しているのかもしれない。とにかく汚職の多さと“仁義礼智信”の教育とは関係が無いように思える。

    実は、同じ内容のことをずっと前の日記に書いたかことがある。 
           中国は儒教の国じゃない