中国は儒教の国じゃない。第一、周りの中国人に聞いてみても、中国は儒教の国だなんて思っている人はほとんどいない。試しに「中国は儒教の国か?」と聞いてみるといい。「それは何のこと?」と怪訝な顔をされる。そしてそうじゃないと否定すると思う。確かに高等高等教育を受けた人は、儒教は孔子と関係あるでしょう、なんて答えが返ってくるが、「中国は儒教の国だ」と自ら言う中国人は居ないのじゃないだろうか。しかし、何故か解らないが、日本人で中国は儒教の国だと思っている人が結構いるようである。

  試しに「中国は儒教の国」とキーワードを入れて、インターネットを検索してみた。すると、この言葉を使ったホームページがたくさん見つかった。もう頭から中国は儒教の国だと信じているようである。「中国は儒教の国です」、とのっけから断定的に書いているページも多い。

  「中国は儒教の国ですが、一人っ子政策の今ってどんな感じなんでしょうね」。「中国は儒教の国です。悪いことは悪いと・・・・」。「中国は儒教の国なので、各家庭が幸せであれば国全体が幸せになれるという考えで・・・・・」。「中国は儒教の国ですから、やましいビデオなどに注意が強いようです」。「中国は儒教の国なので、縦の人間関係が非常に厳密です」。「僕は中国は儒教の国だと思っているので、一度結婚したら 離婚もほとんどせずに不倫もしないと思っていたのに・・・・・」。「中国は儒教の国で、なにか色恋を人前で演じることなどタブーなんだろうと勝手に思っていたが」。

  面白いのは、勝手に中国は儒教の国と信じて、勝手に儒教の国なのだからこういうことは有り得ないと思い込み、実際にそれに反する事実があると、儒教の国にしてはおかしいと、勝手に幻滅を感じているようなのが可笑しい。そういう人達は、儒教の国にしてはおかしいという事実があったのだから、中国は儒教の国ではないと理解できたのだろうか。多分、理解できなくて、儒教の国にしてはおかしいと言う自問が、今でも続いていうるのではないだろうか。

  儒教の国にしてはおかしいという疑問が、ホームページを見るとたくさん見つかる。「中国は儒教の国だから先進的な礼儀作法がある・・・と思ってたけれど」、「中国は儒教の国と聞いていたが、どうやら、それは昔の話のようだ!」。

  どうもおかしいと考える点は、やたらにゴミを捨てるとか、バスに乗るとき列を作らないで押し合いへし合いするとか、道に痰を吐き散らすなどの事実からであったりする。ほかにも、最近はサッカーの試合での騒ぎや、反日デモ、日本の侵略に対する執拗な宣伝のことなどを見て、儒教の国ではないのではないかという疑問が出てくることもあるようである。私がこの言い方で中国での見聞を語るとすると、「中国は儒教の国であるのに、男女が人前でべたべたするのはどうもおかしい」ということになる。この後半の部分は本当である。公衆の面前であるバス停で、硬く抱き合っていて動かない男女が結構いるのである。また、「中国は儒教の国であるのに、こんなに汚職が多いのは、どうもおかしい」と言うこともできる。

  もともと儒教の国ならば、こういうことが起こらないと言う前提がおかしいのであって、儒教の教えの中にゴミを捨てるななんて教えは無いかもしれない。反日デモについて言えば、本当に儒教的教えが残っている儒教国韓国でも、激しい反日デモが起こる。やたらにゴミを捨てる儒教の国もあってもおかしくないし、ゴミを捨てない非儒教の国もある。

  さらにインターネットを検索すると、中国は儒教の国だという理由に、老人とか血縁を大切にするということを根拠にしている場合が多い。「中国は儒教の国ということで、とにかく親、年長者を大事にしてくれると思います」、「中国は儒教の国である。父母,老人,血縁を大事にする」、「中国は儒教の国で年上は敬わなければならないから」、「中国は儒教の国ですから、老人の老後の問題については問題ないですようです」。

  父母,老人,血縁を大事にすると言うことは、日本人の家族関係よりは確かに大事にするようである。しかしそれだけで中国は儒教の国であるという根拠になるだろうか? 儒教の国じゃあなくても父母,老人,血縁を大事にするということはあるはずで、老人,血縁を大事にするというのは、もしかして道教のほうの影響かも知れないしれない。

  次の例はかなり酷い誤解の例である。中国では「仁義礼智信」など絶対に、学校で教えていない。これは日本の江戸時代の寺子屋の話としてならあったかもしれない。何処からこんな話を仕入れてきたのだろう。

  中国は儒教の国で「仁義礼智信」といった「五常の道」、また孔子の教えで徳、忠、孝などを大切にしてきました。これらは人間が生きていく上で欠かせない資質とされています。中国では小学校からこういった内容を分かりやすく子どもたちに教えるため、「五つの心」いわゆる、「孝心」―親に孝行する心、「忠心」―国への忠誠の心、「愛心」―社会を愛する心、「関心」―他人を思いやる心、「信心」―自分を信じる心としてまとめられています。 

  これはでたらめ! 但し「五つの心」という言い方はあるかもしれない。中国はスローガンの国なので、「三つの代表」とか「四つの大切」とか「十大不文明」などの言葉はよく見かける。だから「五つの心」があったとしても、それは儒教とは関係が無い話なのである。

  中国で教えているのは、儒教とは関係がない「愛国心」である。儒教の「忠心」で、国への忠誠の心を教えているなんてことはない。教えているのは共産党への忠誠心である。仁、義、礼とか徳、忠、孝なんて字さえあまり見たこともない。中国はスローガンの社会であるから、中国が儒教の国であるならば、もっとこの言葉がスローガンに表れてもいいと思う。そういえば「敬業」と言う言葉をよく見たこことがある。これは「職業を敬え」、と言う意味で、以前は中国は国営の企業ばかりであったので、親方日の丸で、真面目に働く人が少なかったからであろう。往々にしてスローガンと言うのは、現実に欠如している実相を如実に表している。ここで言いたいことは、儒教の中に「敬」という教えがあったとしても、「敬業」の敬は、儒教には関係がない単なるスローガンだということである。

  ならば、何故中国は儒教の国だなんて誤解が生まれたのだろう。日本は江戸時代に中国からの四書五経などの儒教を盛んに学んだ。それが理由かもしれない。それなら、やはり中国は儒教の国ではないのかと言うことになりそうである。しかしこれはやはり違う。あったのは、政治の道具としての儒教だけだった。

  確かに儒教ははるか昔の後漢の国教になって、隆盛を極めた。しかし黄巾の乱で後漢が滅び、秘密結社の信仰する道教が勢力を得ると、宗教としての儒教は消ええてなくなってしまったのだそうである。しかし儒教は統治システムとしては残った。国を支配するための重要な道具として引きつづき利用された。それを使いこなせる技術者が、儒教に基づく官吏任用制度(科挙制度)によって選ばれ、選ばれた官僚は、重要な位置を占めつづけた。儒教を学んだ士大夫という階級も文化の担い手となった。そうして儒教を中心とした官吏国家が二千年も続いた。ということであるらしい。その儒教に基づく統治システムも、中国の王朝がな無くなったので、今は影も形も無い。

  まして庶民の中に儒教が浸透しているということは、全く無いのである。だから「中国は儒教の国なので、親、年長者を大事にする」、というのはでたらめである。親、年長者を大事にしないということではなくて、枕詞のようにして言う「中国は儒教の国なので」と言う部分が間違いなのである。庶民が信じた宗教は、道教である。道教のお寺なら、今でもたくさんある。

  それでも信じられない! ならば、中国のことは中国人に聞け! ということで近くに中国人がいたら、聞いてみてください。

中国は儒教の国じゃない