第5章 モンゴメリのありのままの恋愛(2)
さて、そんなモンゴメリは1924年に、『エミリー』三部作の二作目となる『エミリーはのぼる』の執筆に気が乗らなかったのは世間がありのままの少女を描くことを許さないからだ、とマクミランとウィーバーに対してほとんど同じ文面で愚痴っています。
「二月に『エミリー』物の二作目を書き終えました。--- でも、もちろん、出版されるのは来年のことです。
以前のように一日に二時間だけ執筆するというのではなく、三時間にしたおかげで、仕事も順調に進み、何年もの間悩まされてきたあの不快な息切れ感もなくなりつつあります。
もちろん第二『エミリー』(まだ題名はついていません)の出来具合いは『可愛いエミリー』の半分にも及びません。
シリーズものの第二作目は、とりわけ少女を扱うときはいつものことなのですが、どうにも思うように筆が運ばないのです --- 一般の人々にせよ出版社にせよ、わたしが少女をありのままに描くことは許してくれないでしょうから。
子供たちをありのままに描くことはかまわないのです --- ですから、子供たちを描いたわたしの本はいつもおもしろいわけです。
でも、《若い未婚女性》のことを書くということになると、かわいいけれども、おもしろ味のない少女----というか、はっきり言って、比較的大きくなった子供で、その上、人生のイロハも、それに対応する姿勢も全然知らない娘 --- を描かねばならないのです。
恋愛はほのめかす程度であっても望ましくないのです --- でも、少女たちには、生き生きとした恋愛事件のひとつやふたつはつきものなのです。
エミリーのようなタイプの少女なら、間違いなくそうなのです。なのに、一般大衆というのは ---
ヴァンダービルト家のある人物は、かつて、こう言ったことがあります ---『全く一般大衆ってのは』。
わたしは、ただ、ヴァンダービルト家のある人物が言ったことを言っているだけですよ。
わたし自身がそう言っているのではありません。
わたしには一般の人々を非難することはできません。
まだしばらくの間、その人たちの気に入るようにしなくてはならないのです。」
(1924年『モンゴメリ書簡集I』p.143〜144)
モンゴメリのいう「少女」とは、10代後半くらいを指すのでしょうか?
それとも「若い未婚女性」と言っているところから、20代前半くらいまでの女性でしょうか。
《若い未婚女性》に当たる箇所は、ウィーバー宛の手紙には 'flapper' と記されていました(『ウィーバー宛書簡』p.118)。
意味を調べてみたところ、「1920年代の新しい女性の潮流。礼儀正しい振る舞いをこばかにする。たばこを吸い、強い酒を飲む。念入りに化粧し、短い丈のスカートをはき、髪をボブ(ショート)にしてジャズを聴く女性」とあります。このイメージはティーンエイジャーっぽくないし、仮にそうだとしても二十歳にかなり近い感じがあります。
でも、最近のコギャルと大差ない特徴のようにも見えますから、『エミリーはのぼる』のエミリーの年齢設定である14〜17歳でも有りと言えば有りかも・・・とも思えますが、やっぱり 'flapper' というのはモンゴメリ流の大げさな表現のような気がします。
本当に 'flapper' を描くつもりだったとしても、それは異性を意識し始める頃にちょっと危ない行動をとったりする思春期の少女についての不易な真実を、エミリー自身にそういう振る舞いをさせるかどうかはともかくとして 'flapper' という流行を通じて描きたかったのではないかと思われます。
しかし、そんな自分の願いが一般大衆に受け入れられないと嘆くモンゴメリ。
そんな不満を抱きつつ書かれたエミリーですが、それでもアンよりも作者の実像に近いと評されているようです。
アンとエミリーそれぞれの少女像に果たして違いはあるのでしょうか。
そして、どちらの方がモンゴメリに近いのでしょうか。
アンの場合は『愛情』でギルバートが死にそうになったのをきっかけに、自分の気持ちに気付いたのが22才の頃。
そして3年後の25才(とはいえ当時としてはかなり遅めらしいですが)で結婚するのですが、出会ってからの10年の間はギルバートがどんなに友達以上の視線を送っても、アンは拒み続けています。
では、エミリーのティーンエイジはといえば、多少は老成(ませ)ているように描かれています。
例えば『エミリーはのぼる』のなかで、16才くらいのエミリーたち男女の一行が嵐のなかで空き家に避難するエピソードがそうです。
「一度エミリーは目をあげテディが不思議な表情で自分を見つめているのに気がついた。一秒間二人の目は合った、そして釘づけにされた --- ただの一秒間 --- けれどエミリーは二度と彼女だけのものではなくなった。彼女は何が起こったのかと戸惑って考えた。彼女の身も魂も包んでしまうように思えた、あの想像したこともない幸福感の波はどこから来たのだろう? 彼女はおののいた --- 彼女は恐れた。目の回るような変化への可能性がひらけるように見えた。混乱した思想の中から出て来たたった一つのはっきりした考えは、彼女がテディといっしょにこのようにして火の前に全生涯の毎晩すわりたいということであった --- それだったら暴風雨歓迎だ。彼女はテディを再び見られなかった、けれども彼の近さを感じる甘い感覚に戦慄をおぼえた。彼女はテディのまっくろな髪の毛、少年らしい剛直さ、艶を持った濃い青い目を強く意識した。」
(『エミリーはのぼる』p.393-394 村岡花子訳 新潮文庫)
とはいえ、エミリーはそのすぐ後には「まばゆいばかりの小説の構想」しか考えられなくなり、「テディと恋をしたことも忘れ」、「創作の喜び」という「不滅の酒に陶酔し」て、一睡もすることなくその夜を過ごします。
このあたりの展開が、ありのままの少女を描かせてもらえていないところなのでしょうか。
でも、テディの容姿を見て下さい。彼の「まっくろな髪の毛、少年らしい剛直さ、艶を持った濃い青い目」は、モンゴメリがかつて恋に落ちた「黒髪に、青い瞳、女の子と同じくらい長くつややかなまつげ」をして「二十七歳くらいだが年より若く見え、少年ぽかった」ハーマンを彷佛とさせるじゃありませんか。
自分が成人した後での恋愛を16、7才のエミリーに無理して体験させたんじゃあ・・・そう思った私は、同じ年頃のモンゴメリがどんな少女だったのか知りたくなって、その頃の日記を図書館で借りて来て読んでみました。