第2章 『アン』とモンゴメリ ―本当に「結婚は『降伏』」だったの?(1)
『アン』の構想に入った頃のモンゴメリは、どのような考えを持っていたのでしょうか。
1904年の11月にマクミランに送った手紙には、次のような一文があります。
「わたしは《恋人の小径》を通り抜けました --- 娘らしい愛らしさをたたえた、六月の《恋人の小径》ではなく、つらい涙を流しては齢を重ね、賞賛という衣をまとうように悲しみで全身をおおった婦人の美しさを持つ《恋人の小径》を。」
(『モンゴメリ書簡集I』p.9)
また、『アン』の執筆に入っていた1905年12月の手紙には次のような考え方が示されています。
「大多数の人々は時と分別にかなった事柄だけを問題にして生きており、わたしの空想の世界での生活など理解できそうもない」
「理想の世界を現実の世界となにからなにまでぴったり一致させて、現実の世界を向上させることができるなどと思わないで下さい。そういうことは不可能です。」
「たいてい、わたしは努めて表面的で月並みであろうと心掛けています。どうしようもなく絶望的になると、空想の世界に逃げ込んで、そこで出会う架空の気心の合う人々と心たのしい想像上の会話を交わすのです。現実に経験できるものほど満足のゆくものではないかもしれませんが、他の人々の知性のひらめきやそういう人々との出会いがもたらす刺激がないために、知らず知らずのうちに自分の魂を眠りほうけたような状態に陥れるよりははるかにましです。」
(『モンゴメリ書簡集I』p.19〜20)
『若草物語』を書いたオルコットの大ファンだったというモンゴメリ。
人生における苦難を心の成長の糧とする積極さを持ち、現実への絶望が強ければ強いほどそれを空想の力にして、『アン』の物語を綴っている様子がうかがわれます。
ところで先に書いたように、アンやモンゴメリについて解説するHPや本には、徐々に社会的な活動から退き家庭に入っていったアンを、否定的に解説するものが目につきます。
なぜそういう見方ができるのか、不思議になってしまうくらいに。
「いまにあなたは有名になるわよ、ポール(アンの台詞続く)」
「ご自分だって有名になるかも知れないじゃありませんか、先生。この3年間、先生の作品をずいぶんたくさん拝見して来ましたよ」
「いいえ、あたしには自分の限界が分かっているの。あたしには詩は作れるのよ。それから子供たちが愛して読んでくれて、編集者が喜んで原稿料の小切手を送ってくれる程度の、ちょっとした空想的な短編は書けるわ。でも大きなことは出来ないの。あたしがこの世で不滅であり得るたった一つのチャンスはあなたの『追憶』の片隅に名をとどめることなのよ」
(『アンの夢の家』(以下『夢の家』)p.29 村岡花子訳 新潮文庫)
これはモンゴメリがシリーズ4番目の作品として1916年、41歳の時に書いた『夢の家』(後に1936年に書いた『アンの幸福』がシリーズ4作目に位置づけられるので、シリーズ構成としては5作目)に出てくる、アンとポールの会話です。
「『お見せしたいもの』とは詩をいっぱい書き付けた手帳であった。ポールは心に湧く美しい空想を詩に綴っていた。(中略)アンは心からの喜びを味わいながらポールの詩を読んだ。その詩は人を惹き付ける力と天分にみちていた。」
(村岡訳 『夢の家』p.29)
というように、モンゴメリはアンの教え子・ポールに、アンを遥かに超える創作の才を与えました。
ファンの人たちはこのことをもって「自分の才能のなさ」とか「才能の限界を感じて創作を断念するアン」と、書いているのでしょうか。