第1章 文通相手がモデル!?(1)
1908年に出版された『赤毛のアン』(以下『アン』)の著者L. M. モンゴメリは、『アン』の執筆に取りかかる以前から、2人の男性と文通していました。
祖父の死を機に1898年に3年間勤めた教職を捨て、故郷のキャベンディッシュへ戻って自分を育ててくれた厳格な祖母の面倒をみながら、小さな作品を書いては出版社に売り込み始めたモンゴメリ。
再婚してサスキャチワン州プリンス・アルバートに離れ住む父が1900年1月に死亡した時には、最愛の人を亡くして深く落ち込んだモンゴメリでしたが、5月の日記では、
「ああ、働けるかぎり、私たちは人生を美しくできる! そして、人生は、悲しみと苦労に満ちているにもかかわらず、美しい。【中略】この世界には、私たちがそれを見る目やそれを愛する心や自分自身で集める手を持ってさえいれば、こんなにも多くの素晴らしいことがある --- 男にも女にも、芸術や文学にも、そして生活のいたるところに、この上なく狭く、限られたところにさえ --- 喜び楽しみ、感謝すべき多くの素晴らしいことがある。」
(『モンゴメリ日記(1897〜1900)』p.186 桂宥子訳 立風書房)
と、再び書くことへの情熱と、必ず成功するという信念を取り戻しています。
そして、美や文芸についての意見交換をしたり、互いに励まし合うことを目的に始まった二人の男性との文通。
それは生涯に渡って続けられます。
文通相手の1人は、スコットランドに住む詩人を目指すジャーナリスト、G.B. マクミランという人物で、彼との文通は1903年から始まります。
昭和56年に日本でも出版されている『モンゴメリ書簡集I』は、モンゴメリのマクミラン宛ての手紙を編纂したもの。
「マクミランに宛てた手紙は親密であり、かつ真情を吐露している。」
(『モンゴメリ書簡集I』宮武潤三・順子訳 p.vi 昭和56年発行 篠崎書林)
と『モンゴメリ書簡集I』を編纂したボールジャー・エパリーが記すとおり、モンゴメリがマクミランとのやりとりをとても大切にしていた様子が随所から伺われ、読んでいて心穏やかになる本です。
もう一人の文通相手は、イーフレイム・ウィーバーという人物。
『The Green Gables Letters: From L.M. Montgomery to Ephraim Weber, 1905-1909』や『After Green Gables: L.M. Montgomery's Letters to Ephraim Weber, 1916-1941』(以下、『ウィーバー宛書簡』)は、ウィーバー宛てに書かれた手紙を編纂したものですが、まだ邦訳がありません。
ということは、『ウィーバー宛書簡』は日本でのモンゴメリ研究ではあまり評価されていないということ?
でも、マクミランよりも早い1902年から交わされたウィーバーとの文通は、マクミランと同様、生涯に渡って続けられたんですよね。
ウィーバーとはどのような人物なのか、なんだか気になった私はネットで検索。
すると『ウィーバー宛書簡』の編者の一人であるPaul Tiessenという研究者が書いた論文(以下『Tiessen論文』)が見つかりました。(http://www.bluffton.edu/conf/teachingpeace/Tiessen.html)
『Tiessen論文』によると、ウィーバーはメノナイトという昔ながらの農業を営む禁欲的コミュニティの出身で、モンゴメリより4歳年上。第一次世界大戦の時期には、書簡で論争を交えたとのこと。
ウ〜ン、論争!?
なんだか面白くなってきました。