番外 「心の同類」考(2)


モンゴメリのエミリー・シリーズを30年ぶりに読み直してみました。
エミリーの恋人テディ(Teddy)の本名は、フレデリック・ケント(Frederick Kent)っていうんですよね。
二巻目のラストで、突然明かされる(?)彼の本名を見た私の脳裏に浮かんだのは、モンゴメリが愛した「doric」のこと。
もしかすると、dori(木)をfrie(愛する)という意味を持つ「Friedrich」の英語名を、自分の分身であるエミリーの恋人の名につけたかったのではないでしょうか。

でも、なんでフレデリックの愛称がテディなの?

調べてみたら案の定、Frederickの愛称は通常は、Freddy、Fred, Fritzのいずれかで、テディになる名前はTheodoreとかEdwardとからしい。
そういえば、テディが愛称となる「Theodore」の語には、Theo(神の)+dore(贈り物)という意味があるそうなんですが、『赤毛のアン』の主要登場人物であるマシュウ(Matthew)の名も、その語源を辿ると「神(Jehovah)の贈り物」になるんですよね。
(両方とも『The American Heritage Dictionary』1980年より。)

で、私的に繋がっちゃったのがモンゴメリの独特(?)な男性観。
モンゴメリお気に入りナンバーワン・キャラのジム船長やマシュウ、そして文通相手だったマクミランに見られる「女性と関係を持たない男性たち」の存在です。

例えばマシュウ。

「マシュウは、マリラとレイチェル夫人のほかは女という女をいっさい恐れていた。この気味の悪い、生き物どもがこっそり自分のことを笑っているのではないかと、思えて仕方がないのであるが、その不安は的中しているとも言えた。というのは彼は体つきはがさつで、長い鉄色の髪は、前こごみの肩まで下がり、ふっさりした、やわらかい鳶色の、あごひげは二十歳のころからはやしている、という奇妙な風采をしていたからである。じっさい二十歳の時分から六十歳の今ぐらいにふけて見えた。ただ白髪が少ないくらいの違いだった。」
(『赤毛のアン』村岡花子訳 新潮文庫 p.16)

そんなマシュウにとって、「獅子の洞穴へはいって行くよりも、つらいこと---すなわち、女の子のところへ、しかも見知らぬ孤児の女の子のところへ、歩いて行って、どうしてお前は男の子ではないのかと、問いたださなくてはならないはめに」(p.18)なるところから、『赤毛のアン』のお話は始まります。

「マシュウはおずおずと日焼けした小さな手を握っていたが、即座にどうしたらいいか決心した。こうして目を輝かせているこどもに事のいきちがいがあったとは、どうしても言えない。家へ連れて行ってマリラに、そのことは言わせよう。どんな、いきちがいにしろとにかくこの子をブライト・リバーの駅に放っておくわけにはいかない。だから、問いただしたり説明したりすることはいっさい、『緑の切り妻(グリーン・ゲイブルス)』へ帰り着くまでのばしたほうがいいだろう。」(p.20)と判断するマシュウ。

馬車に乗り込み、喜びのあまりしゃべりまくるアンに、「自分でも驚いたことに、マシュウは愉快になってきた。無口の人々のつねとして彼も相手がしゃべるのを引き受けてくれて、こちらに相づちを求めたりさえしなければ、話をする人が好きだった。しかし、よもやこんな小さな女の子の話に、よろこんで耳をかたむけようとは夢にも思ったことがなかった。たしかに婦人連は苦手だったが、少女ときたらそれに輪をかけたものだった。女の子たちがただの一言でも、ものを言ったら、彼がぱくっと、のみこんでしまいはしないかと言わないばかりに、横目で彼のほうを見ながら、こわごわそばを通り過ぎていくようすが大嫌いだった。しかもそれがアヴォンリーの育ちの良い女の子の行儀だった。」(p.24)

『アンの夢の家』に出てくるジム船長もそう。
平底舟で眠りに落ち、海で遭難してしまう恋人マーガレットへの思いを大切にし、生涯独身を貫きます。

マシュウにしてもジム船長にしても、その人物描写からは作者の並々ならぬ愛情が感じられます。
なにしろモンゴメリは、アンの長男に二人の名前を与えているのですから。

「『ジェームス・マシューというんですの---わたしの知っている人たちの一ばん立派な二人の紳士の名前をとってね---あなたを前において、こう言えますの』と、アンはギルバートを小憎らしい目付きでちらっと見た。」
(『アンの夢の家』村岡花子訳 新潮文庫 p.301)

そして、モンゴメリの文通相手だったマクミラン。
モンゴメリ夫妻が新婚旅行で先祖の出身地であるスコットランドを訪ねた際、案内にたった英国人ジャーナリスト。
その時連れていた若い女性にマクミランが思いを寄せていたことは、モンゴメリの目にも明かだったようですが、その後女性は別の英国軍人と結婚してしまったそう。
時代は第一次世界大戦。
持病から従軍できなかった自分に後ろめたさを感じるマクミランを手紙で慰め続けたモンゴメリでしたが、マクミランが女性にふられたことは知らなかったようで、ずっと後の手紙でマクミランにその女性のことを尋ねていました。

「わたしは、今まで、あなたの友情とお手紙ほど大切にしてきたものはほとんどありません。」
(1941年12月23日『モンゴメリ書簡集I』p.252〜253)

と、マクミランへの最後の手紙に記したモンゴメリ。
しかしそんなモンゴメリ自身、若い時分には結婚相手としてマクミランのような男性をイメージできなかったわけですから、女心というのは複雑なものなのかも知れません。



ところで、クリスマスシーズンが近づくにつれ、頻繁にコマーシャルされるようになった映画に『マリア』という作品があります。


「イエス・キリスト誕生までの母マリアと夫ヨセフの物語。」

その広告文を読んだ私は、あっ!と閃いたんです。
ジム船長の台詞にある「ヨセフを知る一族(the race that knows Joseph) 」のヨセフって、大天使ガブリエルに受胎告知されたマリアの旦那さんのことなんじゃないの・・・って。

普通は、モンゴメリ言うところの「ヨセフを知る一族」のヨセフは、旧約聖書の一番最初の「創世記」に出てくる「エジプトに住んだヨセフ」のことだとされているようです。
なにしろ「創世記」に続く「出エジプト記」には、「ヨセフのことを知らない新しい王 “Then a new king, who did not know Joseph, came to power in Egypt.” Exodus 1:8.」という表現が出てくるのですから、それとの関連性を考えるのはごく自然なことでしょう。
でも、モンゴメリの魅力は「ユーモアの小悪魔」が作品の随所に顔を出すこと。
もしかしたら彼女一流のユーモアで有名な聖書の表現さえももじって、何かを表現してみせたのではないでしょうか。
肉体的な関係を持たずして、妻マリアとともに「神の贈り物」イエスを授かったヨセフ。
自らの血脈とは無縁のイエスを、わが子として守り育んだ父・ヨセフ。
性愛とは異なる次元の愛を知っている人たちを「心の同類(kindred spirit)」の最上格に位置づけるために、彼らを「ヨセフを知る一族」と名付けたのかもしれません。
そしてそのテーマを描くことに成功したからこそ、モンゴメリは日記で密かに、『アンの夢の家』は「一番の自信作」と喜んだのでは・・・と想像する私です。

なお蛇足になりますが、アメリカの風の季節である3月に定番のようにTVで放映されてる「オズの魔法使い」の主人公・ドロシー(Dorothy)の「doro」は、ギリシャ語の「doron」で「贈り物」の意味なんだそう。
はっ!
有名な映画俳優のアラン・ドロン(Alain Delon)の「ドロ」という音や、オードリー・ヘップバーン(Audrey Hepburn)の「dre」なども、もしかして「贈り物」の意?

それはさておき、「doro」とか「dori」とか「doru-」などは「木」を意味する、っていうことを前に書きましたが、だとすると「木=贈り物」ってことなのかもしれません。
そしてモンゴメリが好んで使った「kindred」の「dre」は、もしかしたら「木(dre)の一族(kin)」が今に伝える摩訶不思議な響きなのかも♪

それにしても凄いのは、「kindred」を「同類(dorui)」って、ちゃんと「dor」の音を生かして邦訳された村岡花子さん!
やっぱりセンスある〜♪(尊敬)



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