二王ミち(道)道標


★京成電鉄の酒々井駅付近は江戸時代中川村といい、酒々井宿にも近く、

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nioumichi douhyou

当時は印旛沼の河岸として水運で賑わった村です。街道沿いには沼から獲れた鰻や鯰などを振舞う旅篭や茶店などが並んで繁盛していたようですが、現在は成田街道も付け替えられバイパスも通って、この辺りは駅前というのにひっそりと静まりかえっています。

駅東のロータリーを出て、その先の小道を左に折れ、50mほど行くと、小堂の残る西蔵院跡地の前方に火の見櫓が見えてきます。

ここはT字に交差している三叉路で、通称中川三叉路と呼ばれる成田道の旧道です。そこには2基の道標が並んで建っていますが、向かって左の古い道標は正面に彫りの深い文字で「二王ミち」と書かれてあります。

道標は折損してセメントで接いであるうえ、表面の損耗が著しく、「二王ミち」の文字以外両脇面の文字は、断片しか読み取れません。建立時期も不明なのですが、

道標の左面  拡大します
nioumichi douhyou2

僅か左面に残る「邑」「郷」らしき文字からおよそ江戸期以前のものと推定できます。


★この道標に関連すると思われる面白い資料があります。竹村立義という人物が文政七年に道中日記として著わした「鹿島参詣記」巻之上の中に、この中川村について触れた次のくだりがあります。

「中川村の鰻のかばやき名物也、左に岩名村二王道の石標有、太田南畝の銘にて表は北川真顔の俳諧歌を彫りたり」

わずかこれだけの文章に過ぎないのですが、道標が建っているこの場所は、旧中川村から分れて大佐倉、飯田を経て岩名村仁王尊(現在の佐倉市玉泉寺毘沙門堂の仁王門を指す)へ通ずる分岐点にあり、また「二王」の文字の使い方も道標の文字と符合し、この文章にある太田南畝銘の道標ではないかという期待がふくらんできます。

★太田南畝は江戸時代中期の幕臣で学者ですが、天明時代四方赤良(よものあから)の名で江戸中の人気を集めた狂歌師でもあり、後年太田蜀山人と称した人物として有名です。また北川真顔(鹿津部真顔ともいう)は、南畝の4大弟子の一人で、後に狂歌を排し俳諧歌を確立したこれまた有名人でありました。

この二人の銘と歌が刻まれているという。そう思って改めて標石を見直してみたのですが、残念ながら磨滅が進み今はもう確認できる状態にはありませんでした。
もしどなたか、かつて刻まれていた文字をおわかりの方があれば、ぜひ教えていただきたいと思います。



★以下道標のことではありませんが、蛇足を付け加えさせていただくと、この中川村の鰻のかばやきは当時評判の名物だったようで、他の資料にも出てきます。

文化11年(1814)に十方庵敬順が書き留めた『遊歴雑記』の記事を読むと、

「中川の食店に憩ひ、彼の鰻を食し見しに風味及び焼き加減中々江戸に及ばず、是醤油の種のあ(悪)しきによる処か」

と書いてあります。この十方庵という人は、諸国を歩いて舌も肥えていると見え、うどんで有名な本行徳の笹屋のうどんのことも、

「風味粗悪にて東武(ここでは武蔵の国のこと)にていえる馬方そばやに似たり、依って食する人より土産で干しうどんを買う族(やから)のみぞ多し」

と揶揄した記事が見えます。名物に旨いものなしでしょうか。

※ニ王ミち道標に関しては佐倉市在住の木村雅夫様から貴重なアドバイスをいただきました。