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古帳庵の句碑

◆ 佐倉市井野の加賀清水近く、成田街道筋の一角に3基の石碑と常明燈があります。ino douhyo
その中に「古帳庵」「古帳女」という俳号の道標を兼ねた句碑が建っています。
  
(表面)
  船橋へ四里 成田山五里半    
    春駒や ここも小金の 原つづき 
江戸小網町 古帳女
    立とまり たちとまる野や 舞雲雀      古帳庵
(背面) 天保十一庚子年正月吉日 日本廻国六十六部 鈴木金兵衛
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千葉県銚子市の円福寺境内にある「ほととぎす 銚子は国の とっぱずれ」という句は、NHK朝のドラマ「澪つくし」で有名になりましたが、これも古帳庵の作です。この外にも古帳庵の出身地である埼玉県内に8基、東京王子稲荷神社、神奈川江ノ島神社、香川金毘羅宮の各地に、全部で13基の句碑が確認されています。

◆ この古帳庵・古帳女とは、どういう人物なのでしょうか。これまでは江戸の豪商で晩年になって日本諸国を行脚したことくらいしかわかっていませんでしたが、古帳庵の出生地である埼玉県入間郡越生町教育委員会の最近の調査で、少しづつ新しい事実がわかってきました。

 それによると、古帳庵こと鈴木金兵衛は、天明元年(1781)に現在の越生町黒岩で生まれ、江戸に出て商人として身を立てました。江戸に出た年代は明らかではありませんが、ある時期箱崎町1丁目、霊岸島、小網町3丁目に居を構えていたことがわかっています。

◆ 古帳庵の商売については、見つかった資料の中に「箱崎町1丁目 婦る帳類買入所 鈴木金兵衛」と書かれた文字があり、当時古帳庵こと鈴木金兵衛は、ふる帳類の買入れ、つまり古紙の回収を業としていたことがわかったのです。「古帳庵」という俳号の由来はこの商売から付けられたものと言えましょう。
このことから、越生町教育委員会の仲静治さんは、著書の中で『今まで「こちょうあん」と呼んできた鈴木金兵衛の俳号「古帳庵」は、「ふるちょうあん」と読むべきであるのかも知れない』と述べておられます。

◆ 鈴木金兵衛はこの後何らかの理由で51歳の時発願し、商売を捨てて六十六部となり、 約10年をかけて日本国中の神社仏閣霊場を巡拝して歩きます。信仰とはいえ老境に踏み込んだ身には、大変な試練の期間であったと思われます。 
自ら後の句碑に刻んだ銘文には「・・・富士浅間、木曾御嶽山、出羽湯殿山・羽黒山・月山、鳥海山越中立山、加賀白山、大和大峰、伊予石槌山、肥後阿蘇山・・(中略)・・高千穂峰、其の外四国八十八ヶ所、西国・秩父・坂東百番札所、総て山々峰々霊場、津々浦々嶋々、名勝旧跡残る所なく廻りて帰国す、その間の辛苦挙げてかぞふべからず、就中、日向高千穂の峰にて寒の節に入り・・(中略)・・川々の寒行、或は風雪、或は大風、厳寒骨に徹し艱難言語に述べがたし・・・」と記しています。

◆ 心願成就して江戸に戻った鈴木金兵衛は、天保11年から弘化4年にかけて、各地に句碑や順拝碑を建てます。その数も尋常なものではありませんでした。
句碑は上に述べた13基ですが、その他に越生町の黒岩五大尊境内には、芭蕉翁百五十年忌碑をはじめ、四国八十八ヶ所札所写、西国・秩父・坂東百札所写の石碑など、併せて百数十基の順拝碑を建てたのです。
その多くは、鈴木金兵衛が商売と俳句で知り合った江戸の商家や知友に勧化状を出して、寄進して貰ったものですが、石碑から読み取れる関係者だけでもその数は400名以上に達しています。
◆ まだまだ古帳庵・古帳女についてはわからない謎の部分が多く残されてあります。古帳女は金兵衛の妻と思われますが、石碑に刻まれた俳号以外は一切の手がかりはなく確認できません。
嘉永2年(1849)に川越市観音寺に建てた石碑を最後に古帳庵・鈴木金兵衛の消息(この時68歳)は途絶えてしまい、これほど信仰に尽くした本人の墓所はまだ見つかっていません。
◆ 佐倉市の句碑に隣接して歌舞伎役者七代目団十郎の建てた句碑がありますが、古帳庵はこの団十郎とも五大尊堂奉納狂歌を通じて知己であった可能性が強く、古帳庵と団十郎の句碑がここ同じ場所に建てられたのも、あながち無縁ではなかったようです。

kuroiwa godaison越生町の黒岩五大尊堂

堂内厨子に五大明王の像が安置してある。「新編武蔵風土記稿」の地誌に行基の作なりといふとあるが、由来等詳しいことは不明
現在、付近一帯はつつじ公園として整備され一万本のつつじが咲き乱れます。
JR・東武越生駅から徒歩15分


埼玉県入間郡越生町教育委員会発行の「古帳庵 鈴木金兵衛をめぐって」を参考にさせていただきました。