長兵衛道標

成田街道沿いには岩田長兵衛という人物が建てた五つの道標があります。すべて正面に成田山と大書してあります。

その一)船橋市滝台一丁目

 バス停薬円台駅入口から100mほど西寄りの街道南側路肩にあります。道標は地上部分が高さ51cmで正面は「成田山」の3文字しか見えません。半分は土の中に地下に埋まっているのか、折損して上の部分しかないのでしょうか。



(その二)八千代市萱田町 薬師寺横
この道標は、薬師寺境内から左の道に出る民家の脇に二つに割れた状態で置かれてあります。元からこの場所にあったとは思えません。街道沿いにあったのをここに移したものと思われます。道標に刻まれた文字については、沿線道標一覧表をクリックして見てください。










(その三)佐倉市井野1434 加賀清水入口
この道標も上下二つに折れたものをセメントで接合していますので、一部の文字が読み取れません。成田山常夜灯や市川団十郎・古帳庵道標と一緒にまとめられて建てられていますので、。ここでは目立たない地味な存在です





その四)佐倉市上座1237-1 西松屋向かい
ユーカリが丘駅から臼井方向へ約300mの路肩にひっそりと建っています。この道標も半分に折れて現在は上の部分が建て掛けられた状況にあります。「元上坐新田」と刻まれており、地元の人は今でもこの街道筋に住む家をを新田の○○家と呼んでいます。










(その五)酒々井町上岩橋859付近 福田商店斜め向かい


京成酒々井駅前、旧街道の中川集落から上岩橋に入り、国道51号線を横切って150m程行くと道は左に折れて急な坂にかかります。角に福田商店がありますが、その斜め向かいの土手の斜面に倒れるような状態で建っています。「宗吾道迄壱里」「酒々井迄三拾町」という文字が読み取れます。


 






いずれの道標も、もろい砂岩質なので折れたり摩耗して見えなくなったりの状態ですが、この五つの道標の文字を比較してよく調べてみると、型式も書筆も同一ですので個々の道標の不明な文字も凡そ類推することができます。今はこの5基しか確認できませんが、これらの場所を地図上に落して見ると、この外に臼井や佐倉町付近にもあったに違いない思えてきます。

道標はすべて明治27年5月に建てられたものですが、この後すぐ27年7月には総武鉄道市川〜佐倉間が開業し、東京と直結しました。そして佐倉・成田への交通は鉄道へと切り替わり、成田街道筋はいっきに寂れていったのです。成田山を歩いて参詣した人たちのために建てられた最後の道標とも言えましょう。

岩田長兵衛という人物は、銘文を見てもわかるとおり成田山新勝寺の「信集講」という講仲間の代表を務めた方と思われます。この時代に少なくとも5基の道標を建てられたことは、篤志家の講元あるいは先達として信望の厚い人物であったことは間違いありません。