| 斉家文化に銅牌飾があることを発見するまで・夏王朝の銅牌飾のルーツは斉家文化にある 佐倉市 本間崇義 トルコ石象嵌の銅牌飾についての研究の出発点 私が初めて「銅牌飾」を見たのは2004年頃、中国の北京で働いている時に、潘家園骨董市場で、トルコ石の象嵌が施された人面紋様の青銅器を目にしたときだった。その後、2007年に北京の報国寺骨董市で同様の品を入手し、後に宮本一夫博士の著書『神話から歴史へ』や岡村秀典博士の『夏王朝・中華文明の原像』を通じて、それが夏王朝の貴族墓から出土した銅牌飾と酷似していることを知った。下は北京で入手したトルコ石象嵌の銅牌飾。二里頭遺跡から出土した人面紋の銅牌飾と紋様がソックリである。 ![]() 下は夏王朝の二里頭遺跡から出土した三個のトルコ石象嵌の銅牌飾 ![]() その後、北京の骨董商のパンフレットに、斉家文化のものとする銅牌飾があるのを見つけ、また甘粛省の天水博物館には銅牌飾が斉家文化のものだとして展示されているのを見つけた。これらのことから斉家文化に銅牌飾があるのではないかという疑問を持つように至った。このことをきっかけに、私は中国語のネット資料や画像検索を用いて、銅牌飾の形状や技術的特徴の調査を続けた。 特に注目したのは北京の骨董商のパンフレットで、そこには考古学者が無いとしている斉家文化の銅牌飾が、二個も載っていた。そしてその銅牌飾は斉家文化ものものであると信じられる根拠があった。何故ならその骨董商の主な商品は、甘粛省黄河中流地帯で出土するアンダーソン土器などであり、この骨董商の出身地はアンダーソン土器が出土するあたりであった。つまり骨董商はその故郷の出土物を売っているのである。その辺りの出土物と言えばアンダーソン土器の他、石器、青銅器、玉器であったが、青銅器、玉器であれば斉家文化のものである可能性は高い。斉家文化では青銅鏡が出土している。玉器では玉璧などが出土している。だから骨董商がパンフレットに載っている銅牌飾を斉家文化のものとしているのは、本当ではないかと考えられた。 北京の潘家園という巨大な骨董市場の周辺には、アンダーソン土器を売っている少数民族の回族の骨董屋が大勢商売をしている。その骨董屋の殆どが、アンダーソン土器が出土する辺りの出身であり、アンダーソン土器を売っていた。その回族の姓は殆どが「馬」である。一方アンダーソン博士の著書「黄土地帯」の360ページに次のような記述がある。「この河の住民は全部とは言わぬまでも、主として回教徒だった。彼らの姓はいずれも馬(マー)であるが、それは教祖マホメットの頭文字に由来するということだった」と書かれている。パンフレットの骨董屋の姓も馬であり、回族特有の白い帽子を被っていた。つまりこの骨董商は故郷の出土物を売っているのであり、そのパンフレットに載っている銅牌飾は間違いなく斉家文化ものであると考えられた。この骨董商は、考古学者には知られていない斉家文化の銅牌飾が、斉家文化のものだと知っていたのである。 下は北京の骨董商のパンフレットで、銅牌飾が斉家文化のものとして載ってる ![]() 天水博物館には銅牌飾が斉家文化のものだとして展示されている
その後の私の発見について 発見の① 斉家文化地帯である甘粛省の広河県阿力麻土郷から銅牌飾が出土していることを発見 2019年9月頃のことであるが、甘粛省臨夏回族自治州の広河県阿力麻土郷から銅牌飾土しているのを、中国語のネットサーフィンで発見した。広河県阿力麻土郷は斉家文化地帯のほぼど真ん中である。斉家文化地帯から銅牌飾が出土していた。斉家文化に銅牌飾はあったのである。下の写真がそれで 中国語のページのurlは https://www.doc88.com/p-1781306849194.html ![]() ![]() 写真と共に載せられている説明に依れば「広河県阿力麻土郷出土の斉家文化の銅牌飾は、銅板上に動物紋様があり、斉家文化のものであり、二里頭文化のものより早期のものであり、その芸術、歴史、考古学価値は、夏文化の研究において重要な意義があるものである」と書かれている。このことは斉家文化に銅牌飾があること示していて、夏王朝のトルコ石象嵌の銅牌飾のルーツが、斉家文化にあることを明確に示している。 もし上のURLが消えたり、ページが表示できなくなったりすると、広河県阿力麻土郷出土の銅牌飾の証明が出来なくなるので、念の為そのページのコピーを下に張りつけておく。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 甘粛省の広河県阿力麻土郷から銅牌飾が出土しているとする情報は、別の中国語のページでも 確認できる。 URLは https://history.sohu.com/a/782661809_121119349 タイトルは 为何齐家文化出土文物和二里头极其相似,难道它是先夏?真知堂 タイトルの訳は 「斉家文化から出土した遺物が二里頭遺跡のものとこれほど 似ているのはなぜか?夏王朝以前の遺物である可能性はあるのか?」 その中国語のページにも広河県阿力麻土郷から出土した銅牌飾の画像がある。 画像の下の説明には、これは広河県阿力麻土郷から出土したトルコ石象嵌の銅牌飾であると書かれている。 (这面广河县阿力麻土乡出土的镶绿松石青铜牌饰,长15.5厘米、宽10.5厘米,) 下が上のぺージにある広河県阿力麻土郷から出土したトルコ石の象嵌のある銅牌飾。 ![]() このように斉家文化地帯の広河県阿力麻土郷から銅牌飾が出土しているのは明らかである。 発見の② 上海博物館に展示されている銅牌飾のうちの一つは、甘粛省の広河県阿力麻土郷から 出土したものと全く同じものであることを発見。 上海博物館東館が2024年2月2日新たに開館になり、そこに今までには考古学界に知られていない銅牌飾が二個展示されているのは見つけた。しかしそのうちの一つは甘粛省臨夏回族自治州の広河県阿力麻土郷から出土した銅牌飾と全く同じものであることを発見した。両者の写真を並べてみればの目の位置とかトルコ石の形状、紋様は獣面紋様であることなど全く同じである。広河県阿力麻土郷から出土した銅牌飾の錆や汚れを落とせば、上海博物館東館に展示された銅牌飾と同一であることがはっきりと分かる。上海博物館東館に展示された銅牌飾の一つは甘粛省の県阿力麻土郷から出土したものである。またここは斉家文化地帯である。
発見の③ 上海博物館に展示されている二つの銅牌飾は、甘粛省の温泉坪斉家文化遺跡出土だとする 収蔵記録があることを発見 ChatGPTを使って、二つの銅牌飾りについて、このものの出土記録か収蔵記録はありませんかと、チャットで質問してみるた。すると上海博物館の公式データベースに「来源:传为2003年6月甘肃临夏广河县城关镇温家坪齐家文化遗址出土」との収蔵記録があることをを発見。上海博物館に展示されている銅牌飾は二つとも斉家文化地帯出土のものであることが分かった。
上海博物館の記録を見れば、 「来源:传为2003年6月甘肃临夏广河县城关镇温家坪齐家文化遗址出土」とあり、甘粛省臨夏広河県の温家坪斉家坪文化遺跡から出土したとある。出土したのは2003年3月との記録もある。CopilotでもGminiでもチャットで聞いてみると、確かに甘粛省臨夏広河県の温家坪斉家文化遺跡出土との記録があることが分かった。 しかし①の発見で述べた広河県阿力麻土郷と、上海博物館の記録にある温家坪齐家文化遗址とは一致しない。甘粛省臨夏広河県にはアンダーソン博士が発見した斉家坪遺跡がある。アンダーソン博士は1924年にこの地方を調査し数々の遺跡を発見した。斉家文化の命名はアンダーソン博士が斉家坪遺跡を発見した所以による。下は私が作図した地図だが、広河県阿力麻郷と斉家坪遺跡は非常に近く、斉家文化の中心地である。一方温家坪齐家文化遗址という正式な遺跡は無いようである。この銅牌飾の収蔵記録には「傳」の文字があるので、正式な発掘記録ではなく、骨董商から仕入れたもののようである。骨董商が博物館に売り込む際に、出土地はよく知られている斉家坪遺跡の近くですよという意味で伝えたのかもしれない。出土地が広河県阿力麻土郷であっても、広河県温家坪であっても、いずれも斉家文化の中心地であることに間違いはない。上海博物館の二つの銅牌飾は斉家文化地帯から出土したものである。 ![]() 九州大学・宮本一夫博士からのメール 宮本一夫博士に今回の発見をお知らせしたとこところ、以下のメールを頂き大変心強いものだった。なお私は宮本博士の『神話から歴史へ』の著書によって、私が入手したものが「銅牌飾」と呼ばれる類型に属することを知った。 「新しい資料をお教え頂きありがとうございました。上海博物館のものは出土地が分かっているようなので、興味深いところです。上海博に知り合いがいますので、今度会ったらそのあたりを聞いてみたく思っています。天水出土のものと形態や文様がよく似ていますので、斉家文化で作られたとみるのが妥当でしょう。私も、銅牌飾は新疆の銅枠のみのものが最も古く、それが斉家文化でトルコ石と組み合わさり、二里頭文化に伝わったと、最近考えるようになりました。ちなみに、三星堆のものは新疆から斉家経由で伝わったものと考えております。また、新しい資料が分かりましたらお教えください。」
なお黃翠梅博士の論文の図の中には、天水博物館にある銅牌飾も載っている。この銅牌飾は天水博物館の展示には、斉家文化のものとの表示がある。黃翠梅博士の論文の故宮博物館収蔵の銅牌飾も天水、同じ図の中の天水博物館の銅牌飾も天水で、この二っつは斉家文化地帯の天水から出土したもである。下は黃翠梅博士の論文の中の天水博物館のもの。 ![]() 凹型二重紋様は斉家文化のものである 凹型二重紋様とは凹の字が上下二重に重なった紋様で、私が故宮博物館収蔵の銅牌飾を見て勝手ににつけた名前である。この紋様の特長は動物の頭部と角が、上下に分離していることである。この凹型二重紋様は、二里頭文化遺跡から出土した三個銅牌飾のどれとも似ていない。このことから凹型二重紋様を二里頭文化ものとする根拠は無い。 また凹型二重紋様は他にもあり、例えば山東大学の王青博士の論文「紐約新見兩件镶嵌銅牌飾辯僞」(ニューヨークで見た二件の象眼銅牌飾は偽物であると訳せる)には二個の凹型二重紋が載っている。王青教授はこの凹型紋様の銅牌飾を偽物だと断じている。しかしこの二件は故宮博物館にある凹型二重紋とソックリであるので、これも斉家文化ものと考えられる。
また台湾の黃銘崇博士の論文「 邁向重器時代──鑄銅技術的輸入 與中國青銅技術的形成 黃銘崇」にも凹型二重紋が三個も載っている。下の右から1番目、2番目、4番目のものである。この三個も斉家文化ものものと考えられる。なお1番目(右)のものは、王青博士がニューヨークでみたものの一個(右のもの)と全く同じものである。 ![]() 上海博物館の銅牌飾の上部の紋様は、凹型ではないが動物の頭部と角の部分が上下に分離している。動物の頭部と角の部分が分離している紋様は、上海博物館の銅牌飾とよく似ている。凹型二重紋様であっても、頭部と角が上下に分離している紋様でも斉家文化の紋様といえる。
アモイイの上古文化芸術館には象嵌の技術が斉家文化で完成したとの展示がある アモイの上古文化芸術館には、象嵌のある玉器、青銅器の展示があり、象嵌のある玉器、青銅器が斉家文化のものとして展示されている。しかし考古学者はここの展示に気が付いていないらしい。ここが私設の博物館だからのだろうか、収集家のコレクションとしての位置付けなのか? もし考古学者が、アモイの上古文化芸術館に行き、象嵌のある玉器や青銅器やパネルを見れば、斉家文化には高超的(Excellent)な象嵌技術があったと理解できると思うのだが。 ![]() アモイの上古文化芸術館には、象嵌のある銅牌飾(人面紋)が、斉家文化のものとして展示されている。斉家文化には銅牌飾があることの証拠になる。二里頭文化の銅牌飾のルーツは斉家文化であることの証拠でもある。しかしこの銅牌飾は考古学の論文には載っていない。 ![]() 展示の中には、斉家文化の象嵌技術は高超的(Excellent)と説明されたパネルもある。 斉家文化の象嵌技術が高超的(Excellent)であることを考古学者は知らないようである。 ![]() 上の説明によれば「斉家文化の玉器に現れた象嵌のトルコ石や宝石の、このような工芸には人は驚かざるを得ない。通常玉器の表面に溝を作りそこに不規則な宝石をはめ込み、その輪郭で紋様を構成している。玉器に嵌め込まれたトルコ石は隙間のない縫い目のようなり、密着していて、数千年たっても脱落が無い。このような工芸には驚くばかりである」と書かれている。 銅牌飾の紋様のルーツは、人の顔、又は角のある動物の頭部である 私はトルコ石象嵌の銅牌飾の収集品したのだが、これらは北京の回族の馬さん(複数)から購入したもので、斉家文化のものと考えられる。紋様は人面紋と獣面紋とに限られている。下の様にアモイの上古文化芸術館の銅牌飾、私の収集品、二里頭遺跡からの出土品と並べてみれば、人面紋の銅牌飾が斉家文化内で変化し、二里頭文化(夏王朝)に伝播したことが分かる。 なお、私の収集品の銅牌飾が斉家文化ものである根拠は「私が収集した銅牌飾を斉家文化のもの」を参照。
斉家文化では玉器も出土することでも知られているが、その玉器に於いても青銅器である銅牌飾とソックリな紋様の玉器が斉家文化にある。斉家文化の玉器と二里頭部文化(夏王朝)の銅牌飾を並べてみれば、紋様はのルーツは人の顔であることが分かる。このことからも人の顔が、二里頭文化の銅牌飾(M5:4)のルーツであることは明らかである。
獣面紋の銅牌飾においても、アモイの上古文化芸術館の玉器、私の収集品、二里頭遺跡からの出土品、と並べてみれば、斉家文化の牛(山羊かも?)の頭部が斉家文化内で変化して、二里頭文化の銅牌飾(M5:117)となったことは明らかである。夏王朝の銅牌飾のルーツは角のある牛の頭部である。
斉家文化には写実的な人面紋と、写実的な獣面紋があった。その斉家文化の銅牌飾が夏王朝の抽象化された人面紋と獣面紋のルーツである。中国の考古学の論文では、夏王朝の銅牌飾の紋様は中華のシンボル的な龍だとしているが、斉家文化の銅牌飾や玉器と並べてみれば、やはり人の顔、角のある動物の頭部がルーツである。 銅牌飾の来た路 獣面紋の出土地がハッキリしている銅牌飾を、中国の地図上にプロットすると、銅牌飾が中国の中原にまで伝播したルートが分かる。銅牌飾の祖型はシルクロードのハミ天山北路墓地から出土している。ハミ天山北路墓地遺跡で生まれた銅牌飾は斉家文化に伝わり、象嵌の技術が斉家文化地帯で加わりトルコ石象嵌の銅牌飾が完成した。銅牌飾が二里頭文化に伝ったのは斉家文化からである。南方の長江文化(三星堆遺跡)にも斉家文化から伝わったのである。しかし銅牌飾の伝播は二里頭文化や長江文化までで、次の文化には伝わらなかった。 ![]() 上の図の中のスケルトン状の銅牌飾だけを取り出して出土地を辿ってみれば、スケルトン状の銅牌飾はハミ天山北路墓地遺跡で出現し、斉家文化に伝わり、斉家文化から三星堆遺跡に伝わったことが分かる。考古学界の説のように銅牌飾が二里頭文化から直接三星堆遺跡に伝播したという説は間違いである。
尚、従来の考古学界の説は下の図のようで、紋様、精銅の技術、象嵌の技術などが二里頭文化に集まってきて、二里頭で始めて銅牌飾が出現し、その後二里頭文化から三星堆遺跡や、斉家文化地帯の天水に伝播したという説を図示したものである。銅牌飾は二里頭文化から斉家文化に伝播したとする説である。しかしこの説は上に述べたような根拠によって否 定されるべきものである。 ![]() 上の図は陳国梁氏の論文「二里頭文化トルコ石象嵌銅牌飾の来現」から韓鼎氏が作図したもの 以上 |
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