北京の城壁は毛沢東が壊した 2008年の北京オリンピックの頃、私は北京に住んでいたのだが、新中国ができた頃には、北京には巨大な城壁と城門があったはずだと気が付いた。実はその頃よりずっと以前、北京の城壁は毛沢東によって壊されたという噂を聞いたことがある。その一つは、ワン・チュアンという作家の「マオ」という本の中に書かれていた。もう一人は北京の古い屋敷(四合院)を見学に行った時、女主人が言った言葉である。古い屋敷の女主人は満州族の貴族の末裔で、文化大革命の時代には自分が住んでいた屋敷(四合院)を、追い出されたと言っていた。 その頃ネットを検索してみると「新中国成立後、毛沢東が古い城壁の取り壊しを命じた。今になってみると、これは非常に惜しいことだ。」という文が日本語で見つかった。こんなにハッキリ書いてもいいのかな、と思うが、「人民中国」(☜クリックすれば今でも読める)には、中国政府系の雑誌の中に邱華棟と言う作家が書いたものである。 更に中国語のネット検索を続けると、「毛沢東の一言が北京の古い城壁を破壊した」(今では見えない)という文章がネット上でいくつか見られるようになった。殆ど同じ文章が、8月5日から8月8日頃にかけて写真入りで転載されてた。更に別のページで、「毛沢東が北京の城壁の取り壊しを命令した。故宮ももう少しで花園に改造されるところだった」(今では読めない)という記事があった。また下の別の記事もあった。タイトルは(北京城墻大規模拆除記,毛沢東称是政治問題)で日本語に訳せば、「北京城壁大規模排除記・毛沢東はこれは政治問題だと言った」(今では読めない)である。 「北京城墻大規模拆除記」を読むと毛沢東が指示したことはハッキリわかる。その指示や実際の破壊は、大躍進政策の時代(1958年から1961年)と文化大革命(1966年から1976年)の時代のことであり、大躍進政策の時代にには外城の一部が、文化大革命の時代には内城の城壁城門が完全に取り除かれた。大躍進政策はその政策により中国人が2000万人とか3000万人が餓死した時代であり、文化大革命も政敵や知識人が大衆動員によって迫害された、大混乱の大変な時代だった。 下の図は新中国ができる前にはあった城門と城壁であり、内城と外城がある。紫禁城は内城の中にあり中央の四角の部分が紫禁城である。ちなみに私は外城の広安門の赤い丸のあたり(広安門内大街)に四年間住んでいた。 ![]() ![]() 北京城の東南角楼は唯一現存する楼閣。後に見える城壁は一部再建された。 ![]() 東直門の箭楼。これも破壊された ![]() 日本語の資料として、「北京」倉沢進・李国慶著、中公新書があった。それによれば北京の再開発案には、二つの案があって、中国の学者(梁思成等)が提案した案は、旧市内を歴史名城としてできる限り保全し、西の郊外に官庁街を造るというものであった。これに対しソ連人専門家が提案した案があって、それは天安門広場や長安街にそって政府機関を配置するという案であった。二つの案の間に長い論争があって、ついにソ連案が採用されたのだが、それは毛沢東の意向であったらしいと王軍と言う人が書いている。 その頃(北京オリンピックの頃)ネットで調べてみると、毛沢東が北京の城壁の取り除きを指示したのは、1953年8月12日であるらしい。毛沢東はこの日の全国財経会議で、北京の城壁撤去の大問題は政府によって決定し、政府によって実行されると講話した。そしてその年の12月から北京の外城の城壁と楼門の取り壊しが始まった。北京は城壁によって内城と外城とに分かれているが、このとき取り壊しが始まったのは外城の城壁であった。しかし楼門と城壁を取り壊すと言ってもそれは大変なことであったらしい。重機の無い時代、人力で取り壊すので、城壁の片側だけしかかレンガを外せなかったり、両側のレンガを外しても、城壁の真中の土は、残っていたりしていたらしい。それでも北京城の南側の外城の永定門、広渠門、広安門などは1957年頃に取壊されている。 一方この頃の時期、北京の城壁の取り壊しに反対した人物として重要な人物がいる。梁思成と言う人で、建築学者、古代築歴研究者、教育家であった。ちなみに梁思成は日本で生まれている。政府としても取り壊しに反対の声があり、1957年6月には国の文化部が北京の城壁の取り壊しは国際的にも影響が大きいとして、取り壊しは不賛成という意見を北京市に伝えた。これに国務院も賛成して、北京の城壁の取り壊しは中止になった。 ところが1958年1月になると毛沢東は南寧の会議で次のように言うのである。「我メン不軽視過去,迷信将来,還有什マ希望? 古董不可不好,也不可太好。北京拆牌楼,城墻打洞也哭鼻子。ツェ是政治問題」(骨董は悪すぎても良すぎてもよくない。北京の楼門は破壊され、城壁に穴を開けられ嘆いている。これは政治問題だ) 1958年1月、つまり同じ月に、第14回最高国務会議で、毛沢東は言う。「南京、済南、長沙的城墻拆了很好,北京、開?封的旧房子最好全部変成新房子」(南京や済南、長沙のように城壁を取ってしまったところは良い。北京や開封の古い家は全部新しくする方がいい) 1958年3月には成都会議で毛沢東は又言う。「拆除城墻,北京応当向天津和上海看斉。」(城壁を取り除いて、天津や上海のようにすべきである) 1958年4月には、周恩来が「毛主席の指示に基いて、今後数年内に北京市の都市の様子を徹底的に変えること」についての手紙を中共中央に送った。 そして1958年8月に北載河会議の後に大躍進運動が始まり、9月に北京市が「北京の総体規画説明」と言う案を出した。それは共産主義思想とその風格をもって、北京旧市街を根本的に改造し、旧市街が与えている制約と束縛から解放するというものであった。具体的には正陽門、徳勝門、鼓楼などを除き、全ての城門と城壁を取り除くという計画であった。尚且つ「根本的改造」という計画があり、それは故宮の改造も含むものであった。 このようにして北京の内城の城壁の撤去は1958年に始ったのだが、レンガの量は40万立方mもあり、レンガを取ってもレンガの間の土は更にその12倍もあった。しかも大躍進運動の時期の、農村では何千万人もの餓死者が出ている頃のことであるから、労働力が不足して、城壁は撤去しきれなかった。 その後、長い間城壁を撤去しきれなかったのだが、1965年1月に地下鉄を通すため、内城の城門と城門の間の城壁を取り壊すことが決まった。それ以前に既に内城の城門で壊されていたものもあったが、崇文門、和平門、宣武門はその時期まだ残っていた。地下鉄工事の方法は、地面から下へ掘り下げる方法であったので、家を撤去して住宅密集地帯に地下鉄を通すより、既に壊されたり、壊れかけている城壁の位置に地下鉄を作れば、コストがずっと安いと言うことから決められたのである。 地下鉄工事は始め、軍隊や専門の作業員によって行われていたらしいが、そのうち文化大革命に突入した、後で、北京人に城壁の取壊の義務を科す大動員令が出された。文化大革命がまさに狂気であったように、城壁の破壊もまた狂気の中で行われたらしい。北京の城壁の取り壊しは、文化大革命の中でようやく達成できたらしい。私は2008年の北京オリンピックの頃の新聞に「北京城壁の最後の取り壊し」という体験記が載っていたのを見つけた。この体験記は1969年の春の初めの頃のことある。 「復興門近くの城壁で、既に夕暮れに近く、土埃が舞う中で、各職場からの人々が、道具を手に蟻の如く城壁に取り付いて、レンガを剥がし落とし、トラック、三輪車、大八車、馬車、手押し車に積み運び出した」と書かれている。しかしことは城壁を破壊すれば済むことではなく、防空壕(地下鉄)を作る為に尚深く掘り進まなければならなかった。「穴を深く掘ること」は逆らえない「最高指示」であって、城壁はある一人が言うがままに決められた対象であった。「城壁を対象にした破壊は、文化大革命で醸された残忍な破壊欲を満たした」とも書かれている。 これを書いた人物は、その頃まだが学生で、城壁を破壊する狂乱の中で、陶酔して城壁を壊していくのであるが、その行為は北京人の血と肉である城門を破壊することであり、民族の魂をも破壊していることに気づく由もなく、まして城壁の取り壊しに反対している梁思成などがいることなど知らなかったと書いている。この文を書いた人物は、城壁の取り壊しに反対していた梁思成について後に知ったようである。 文化大革命の初期に、故宮を破壊して「人民休憩室」を造るなどの驚くべき計画もあった。このことは最初に紹介した「毛沢東の一言が北京の古い城壁を破壊した」の中に書かれている。これも毛沢東が指示したことであるらしい。これについて2005年10月14日に故宮博物館の院長の鄭欣氏が、《光明日報》に文章を発表している。それによるとこれらのプロジェクトの一部は実現して、「人民の休憩室」などはできたらしいが、その他の計画は余裕がなく、故宮は運が良く破壊を免れたとある。実際には天安門の東側にある一角の中に、労働人民文化宮とか労働劇場などという、およそ故宮とは似つかわしくない建物があるが、それが一部実現した「人民の休憩室」かもしれない。 故宮を取り壊して改造する計画については、周恩来も同意せざるをえなかったようでである。しかし地下鉄建設のさいには、周恩来総理の指示で正陽門と徳勝門の箭楼(矢を放つ砦)が一命を取り留めたと上記の文書の中にある。実際に北京の地下鉄2号線は、正陽門のところでカーブしていて正陽門を避けて通っている。正陽門が破壊されなかったのは周恩来のお蔭であるらしい。 実際の北京の取り壊しは1958年8月からの毛沢東の大躍進運動時代に始まり、毛沢東が発動した文化大革命のさなかの1972年に完了したようである。 上の体験記「北京城壁の最後の取り壊し」の中に防空壕という言葉が突然出てくるが、地下鉄と同時に防空壕も作ったのかもしれない。この当時、中国とソ連の関係が悪化し、中国はソ連の核攻撃を恐れ防空壕を作ったらしい。その防空壕には私も偶然潜入したことがある。2007年頃のことである。北京地下城として台湾や香港の人には解放されていたが、その後閉鎖された。下の写真は私が潜入した防空壕(北京地下城)の写真。 ![]() ![]() 以上 |