銅牌飾の来た路
 
  佐倉市 本間崇義

 出土地が分かっている銅牌飾を、地図上にプロットすると、銅牌飾が中国の中原にまで伝播したルートが分かる。銅牌飾の祖型はシルクロードのハミ天山北路墓地で生まれ、それが斉家文化に伝わり、斉家文化で象嵌の技術が加わってトルコ石象嵌の銅牌飾が完成した。そこから銅牌飾は二里頭文化に伝わり、夏王朝の国宝的遺物とまでなった。中国の論文では銅牌飾は二里頭文化で始めて完成したとしているが、斉家文化で既に完成したいた。銅牌飾は斉家文化から、南方の長江文化(三星堆遺跡)にも伝わった。しかし二里頭文化や長江文化の後の文化には伝わらなかった
銅牌飾の来た路

 中国の論文に依れば、銅牌飾は下の図の様に、各地から青銅の技術、紋様、象嵌の技術、トルコ石を粘着する技術が二里頭文化に集まってきて、二里頭文化で始めて銅牌飾が完成したとしている。しかし斉家文で完成した銅牌飾が出土していることから下の図のルートは間違いである。銅牌飾は二里頭文化で完成し、二里頭文化から、斉家文化と長江文化(三星堆遺跡)に伝わったと言う説は間違いである。銅牌飾は斉家文化で完成後に、二里頭文化と三星堆に伝わったのである。

上の図は陳国梁氏の論文「二里頭文化トルコ石象嵌銅牌飾の来現」から韓鼎氏が作図したもの


銅牌飾の祖型はハミ天山北路墓地遺跡から出土している
ハミ天山北路墓地遺跡から出土した銅牌飾
スケルトン状銅牌飾 板状の銅牌飾
ハミ天山北路墓地出土 ハミ天山北路墓地出土の銅牌

 
銅牌飾は、斉家文化地帯でトルコ石象嵌の銅牌飾が完成した。斉家文化地帯の中心地(アンダーソン博士が発見した斉家坪遺跡に近い)の甘粛省の広河県阿力麻土郷から銅牌飾が出土している。しかしそのものが上海博物館東館に偽って二里頭文化のものとして展示されている。また天水出土のものは、考古学の論文では、二里頭文化から斉家文化地帯に運ばれたものと説明されていが、この説は間違いである。天水出土のものが展示されている天水市博物館では、斉家文化のものとして展示されている。
甘粛省の斉家文化地帯から出土した銅牌飾
甘粛省の
斉家坪遺跡から出土
甘粛省の広河県阿力麻土郷から出土
甘粛省天水から出土  


 
斉家文化地帯で完成したトルコ石象嵌の銅牌飾は二里頭文化の夏王朝に伝わった。下の左のものと中央のものは日本の東京国立博物館でも公開された。夏王朝の国宝的文物である。

二里頭文化の銅牌飾・夏王朝の圓師二里頭遺跡から出土


銅牌飾は南方の長江文化(三星堆遺跡)にも斉家文化から伝わった。中国の論文に依れば二里頭文化から
伝わったとしているが、斉家文化から三星堆に伝わったのである。
四川省三星堆遺跡出土

 スケルトン状の銅牌飾だけを下の様に並べてみれば、銅牌飾がハミ天山北路⇒⇒⇒斉家文化⇒⇒⇒長江文化
(三星堆遺跡)へと伝わったことが分かる。
 新疆のハミ天山北路
墓地遺跡出土
甘粛省・広河県の斉家
文化博物館の展示
 四川省
三星堆遺跡出土


上海博物館東館に二里頭文化のものとして展示されている銅牌飾は
斉家文化のものである


 下の写真の右の銅牌飾は、上海博物館東館で二里頭文化のものとして展示されいるが、実は斉家文化地帯から出土したもので、左のものと右のものは全く同じものである。このものは甘粛省回族自治州の広河県阿力麻土郷から出土したもので、二里頭文化のものではない。考古学界ではこの間違いに全く気が付いていない。
甘粛省回族自治州の広河県
阿力麻土郷から出土した
銅牌飾
上海博物館東館で、二里頭文化のものとして展示されている。
しかし、河県阿力麻土郷から出土したものと同じものである
ちなみに広河県阿力麻土郷は、アンダーソン博士が発見した広河県の斉家坪遺跡の近くである

中国アモイの上古文化芸術館には、象嵌のある玉器と青銅器とが、斉家文化のものとして展示されている。
玉琮と言われる斉家文化の玉器   象嵌のある人ん面紋の
銅牌飾
 


アモイの上古芸術館に展示されているものと私の収集品と、二里頭文化のものを
並べてみると、銅牌飾が斉家文化で変遷し、二里頭文化に伝わったことが分かる

 アモイの上古芸術博物館の展示品の中には斉家文化のもされるものがある。それらと私の収集品と、二里頭文化の銅牌飾とを並べてみれば、銅牌飾が斉家文化内で変化し、二里頭文化(夏王朝に伝播したことが明確に分かる。下は獣面紋の銅牌飾が変化した過程を示している。

 


 下は人面紋の銅牌飾であるが、アモイの上古芸術博物館のものと私の収集品、二里頭文化の銅牌飾を並べてみれば、銅牌飾が斉家文化内で変化し、二里頭文化(夏王朝に伝播したことが分かる。
アモイの上古芸術博物館の青銅器   斉家文化(私の収集品)  伝播 ⇒⇒⇒⇒⇒ 二里頭文化夏王朝のもの

海外に流失した銅牌飾の中には斉家文化のものがある可能性がある


 下は海外に流出している10個の銅牌飾であるが、出土地は不明なのに二里頭文化のされている。斉家文化に銅牌飾は無いということから、全て二里頭文化のものとされている。しかし二里頭文化地帯で銅牌飾が出土していることから、下のうちにも斉家文化のものがあると考えられる。
日本のMIHO
博物館

ハーバート大学サックラー
博物館
欧州で所蔵されて
いるとするもの
ポール・シンガー氏の
個人収蔵品
ホノルル芸術学院の
収蔵
<二里頭文化
 1  2  3  4  5

ハーバート大学
サックラー博物館
二里頭文化
ポール・シンガー氏の
収蔵品

二里頭文化
 
王青博士の論文には
無い
ドイツで2006年に
競売に出されたもの
王青博士の論文には
無い。一度も論文に登場していないかも。
王青博士がニューヨークので見たというもの
二里頭文化
ハーバート大学サックラー博物館
二里頭文化
 6  7  8  10

 上の海外に流出した10個を並べたが、このうちの4番、5番、6番などは、斉家文化のものと考えてもいいのではないだろうか。なぜなら二里頭文化のものと分かっている、夏王朝遺跡出土の三個と比べると、技工的に劣って見えるからである。

 
 青銅鏡
もまたハミ天山北路墓地で生まれ、斉家文化を通り日本に伝わった。
卑弥呼が中国から貰っという青銅鏡にも紐通しの穴がある


 
シルクロードのハミ天山北路墓地遺跡から青銅鏡が出土している。それは円形で中央に紐通しの摘まみがあり、その形状は日本製の鏡にまで伝わっている




家斉家文化文化地帯から出土している青銅鏡



中国の中原の殷墟でも青銅鏡が出土している。殷墟の婦好の墓から四個出土




卑弥呼が中国から貰ったという青銅鏡も、円形であり中央に紐通しの摘まみが付いている。



銅牌飾の来た路のまとめ

 銅牌飾の祖型はシルクロードのハミで生まれ、それが斉家文化に伝わりそこで象嵌の技術が加わり、トルコ石象嵌の銅牌飾が完成した。銅牌飾は斉家文化から二里頭文化と長江文化(三星堆)に伝わった。しかしその後の文化には伝わらなかった。



以上