夏王朝のトルコ石象嵌の銅牌飾のルーツは斉家文化にある

大発見、上海博物館東館に、夏代晩期のものとして展示されている銅牌飾は
斉家文化のものだった


 最近(2024年2月2日)上海博物館東館に、新たに中国古代青銅館が開館となり、従来より百件近くの展示物が増え、その中には夏代晩期のトルコ石象嵌の銅牌飾の展示もあるとの二ユースを、中国語のネットサーッフィンで見つけました。下はその中国語のページのアドレスは下です。
https://new.qq.com/rain/a/20240202A00S6U00

 そしてその博物館に展示された銅牌飾は、実は、夏代晩期(文化年代では二里頭文化)のものではなく、斉家文化のものであることを、私が発見しました。私は「夏王朝の銅牌飾のルーツは斉家文化にある」という説を言っているのですが、博物館展に斉家文化の銅牌飾が二里頭文化のものとして展示されていることは、却って「夏王朝の銅牌飾のルーツは斉家文化にある」という説の証明にもなります。

 上海博物館東に展示された銅牌飾は、夏代晩期のものではなく、斎家文化のものであることを、九州大学の宮本一夫博士(中国古代史が専門の考古学者、著書多数)にメールでご報告申し上げたところ、早速翌日にご返事をいただいて、「これで、二里頭文化の銅牌飾が斉家文化に起源することはより有力になりました」と、新発見を認めて頂きました。

 上海博物東館に展示されているトルコ石象嵌は下のようなものですが、私はこの写真の右側のものを見て、これは夏代晩期のものではなく、斉家文化のものではないかと閃きました。



 実は2019年9月頃に、中国語のネットのページから、これも画像検索で甘粛省回族自治州の広河県阿力麻土郷から、銅牌飾が出土しているのを発見しました、下の写真がそれです。
アドレスは、https://www.doc88.com/p-1781306849194.html



 その広河県阿力麻土郷出土のものと、上海博物東館の展示された銅牌飾の右側のものを並べてみると、両者は、目の位置とかトルコ石の切片の形、トルコ石の形状、目玉の位置などが全く同じであり、広河県阿力麻土郷から出土した銅牌飾の錆や汚れを落とせば、上海博物館に展示された銅牌飾となることがはっきりと分かりました。恐らく広河県阿力麻土郷から出土したものが、骨董屋とかブローカーとかの手に渡り、出土地の情報が伝わらないまま、上海博物館東館に渡ったのだと思います。それを上海博物館東館は、従来の通説・斉家文化には銅牌相は無いという、ことで夏代晩期(二里頭文化)のものとして展示しいるのだと考えらます。広河県阿力麻土郷は斉家文化地帯です。だから夏王朝の銅牌飾のルーツは斉家文化にあると言えるのです。この事実が明らかになれば「夏王朝の銅牌飾のルーツは斉家文化にある」という説の証明にもなります。

甘粛省臨夏回族自治州の
広河県阿力麻土郷から出土した
銅牌飾
 上海博物館東館の
中国古代青銅館に
展示された銅牌飾

 広河県阿力麻土郷出土のものの中国語の説明では、「阿力麻土郷出土の斉家文化の銅牌飾は、二里頭文化のものより早期のもので、その芸術、歴史、考古学価値、夏文化の研究において重要な意義があるものである。このものは斉家文化のものであると同時に、夏王朝のものと重要な関係がある」と書かれています。この文章からも「夏王朝の銅牌飾のルーツは斉家文化にある」ことが分かりますが残念なことに、上海博物館東館には伝わらなかったようです。推測ですが広河県阿力麻土郷から出土した銅牌飾は、考古学者の目に留まることも無く、骨董屋とかブローカ―の手に渡ってしまったようです。再度強調しますが上海博物館東館に夏代晩期のものとして展示されている銅牌飾は斎家文化のものでです。従ってこの展示は、夏王朝の銅牌飾のルーツは斉家文化にあることを示していることになるのですが、上海博物館東館の学芸員はこのことに気が付いいていないようです。

私がどうして銅牌飾に興味を持ったか

 私がが北京で働いている2007年2月の、北京の厳寒の頃、会社の近くにあるお寺の中の骨董市で、偶然トルコ石象嵌の銅牌飾が売られているのを見つけて買いました。その後、岡本秀典博士の「夏王朝・中国文明の原像」という本をかって読んでみましたが、その本の表紙に使われている写真が、私が買った銅牌飾とそっくりだったのです。



 それで私の収取品は夏王朝の遺跡からの出土した銅牌飾とよく似ていることが分かりました。夏王朝の遺跡(二里頭遺跡)から出土した銅牌飾は、国宝級のものです。夏王朝の遺跡から出土したものは二里頭文化のものとも言います。私が手に入れた銅牌飾は二里頭文化のものとよく似ていますが、実は斉家文化のものでした。私が手に入れたものが斉家文化のものであることを説明する前に、夏王朝や、夏王朝の遺跡・二里頭遺跡から出土した三個の銅牌飾にについて説明しておきます。


私が手に入れた銅牌飾  二里頭遺跡(夏王朝の遺跡)
で出土した銅牌飾
 

銅牌飾と夏王朝ついて

 銅牌飾として考古学の論文に登場するものは15,6個位しか知られていません。そのうち出土場所が分かっている6個ぐらいです。夏王朝の遺跡である中国河南省の偃師二里頭遺跡から三個の銅牌飾が出土しています。銅牌飾とはトルコ石の象嵌のある青銅器で、高さ15㎝前後で、左右に四個の紐通しの耳があります。二里頭遺跡から出土した三個の銅牌飾とは下のようなものです。この三個は国宝級のもので、左のものと中央のものは実際に東京公立博物館で展示され、私も見に行きました。中国には国宝という制度は無いのですが、国宝級であることは確かです。


 夏王朝は二里頭文化の三・四期にあった中国最初の王朝で、今から3600年前位に中国の中原(河南省ほか)にありました。

甘粛省回族自治州の広河県阿力麻土郷から銅牌飾が出土していることを発見

 2019年9月頃に、斉家文化にも銅牌飾があると言う決定的な証拠を中国語のネットから発見しました。それが甘粛省回族自治州の広河県阿力麻土郷から出土した銅牌飾です。斉家文化はスエ―デンのアンダーソン博士が発見した文化ですが、アンダーソン博士は斉家坪遺跡を発見したので、斉家文化と命名されました。その斉家坪遺跡と広河県阿力麻土郷とはかなり近くで、広河県阿力麻土郷は斉家文化地帯のど真ん中とも言えます。


 ここで斉家文化と二里頭文化の位置関係を地図上に示しますと下のようになりますが、上海博物館東館に展示されている銅牌飾は、夏代晩期(二里頭文化)のものとではなく、甘粛省の広河県阿力麻土郷から出土したもので、斉家文化のものだったのです。



私が集めた銅牌飾はどうして斉家文化のものと言えるのか

 北京で働いていた2007年頃、偶然にも銅牌飾を手に居れたことは書きましたが、その後も似たような銅牌飾、数十個を手に入れました。それらは北京にいるイスラム教徒の回族の複数の「馬」さんから買いました。そして彼らの出身地は、黄河上流の斉家文化地帯でした。そのことは斉家文化を発見したアンダーソン博士の著書にも書かれていて、その辺りの住民は殆どが回族であり姓は馬であり、「馬」はマーと読み、マホメットのマーだと書かかれています。黄河上流地帯に住む回族の姓は殆どが「馬」であるらしいです。北京で斉家文化の出土物を売っている回族の馬さんと、斉家文化地帯に住む馬さんとは、何らかのつながりがあり、斉家文化の出土物が、回族の馬さんを通じて北京で売られているのだと考えられます。下は私が集めた銅牌飾。紋様は二系統あり、一つは人の顔、もう一つは角のある動物の頭部。



 下の牌飾は青銅ではなくて玉器、紋様は青銅器の紋様とよく似ている。黄河上流地帯の文化で玉く出土する文化は斉家文化だけです。

 銅牌飾を購入した経緯からみると、私が購入した銅牌飾は、斉家文化もである可能性が高いものでした。その古物商の中には売っている銅牌飾は斉家文化のものだと言う人もいました。北京の古玩城と言う骨董屋が集まっているビルの中の、齋博禄という骨董屋のパンフレットには銅牌飾が斉家文化のものだとはっきり書かれています。この骨董屋は黄河上流の出土物を扱う専門の骨董屋でした。黄河上流の出土物とは斉家文化とか馬家窯文化のものです。下の写真の壺は馬家窯文化のものです下ののパンフレットを見た時、斉家文化にも銅牌飾があるのではと考え、私の集めた銅牌飾は斉家文化のものではないかと考えました。







他にも斉家文化地帯から銅牌飾は出土している

 私は銅牌飾に関する論文を調べましたが、銅牌飾が出土している場所は、二里頭文化と長江文化(三星堆遺跡)だけで、斉家文化には無いとされています。例えば王青教授士の「镶嵌铜牌饰的初步研究 」には15個の銅牌飾が取り上げられていますが、その中に斉家文化のものとされるものはありません。しかしその15個の中には斉家文化地帯から出土したものがあります。それは甘粛省天水出土の銅牌飾ですが、王青博士の論文では二里頭文化のものが斉家文化地帯に運ばれたと説明されています。しかしこのものが展示されている天水市博物館では斉家文化のものとして展示されています。このことは斉家文化にも銅牌飾があるという証拠の一つと考えられます。下は天水市博物館の展示。



 先に斉家文化と二里頭文化の位置関係を地図上に示しましたが、その地図では甘粛省天水は斉家文化地帯の中にあることが分かると思います。

 更に中国アモイの上古文化芸術館には斉家文化のものだとして銅牌飾が展示されています。出土地は明らかにされていませんが、右の写真がそれです。下の説明には小さく斉家文化と書かれています。アモイの上古文化芸術館には銅牌飾が斉家文化のものとして展示されているだけではなく象眼の技術は斉家文化で完成していたとの展示や説明もありました。



 ここまでで斉家文化にも銅牌飾が存在したという証明は出来たと思いますが、夏王朝(二里頭文化))の銅牌飾のルーツは斉家文化にあることを、私の銅牌飾の収集品からも証明できます。紋様のルーツは龍であると多くの論文には書かれていますが、私の収集品や上古文化芸術館の展示物をみるかぎりそうではありません、紋様のルーツは二種類あり、一つは人の顔、もう一つは角のある動物の頭部であることが下の写真で証明できます。下は人面紋の紋様ですが、斉家文化の銅牌飾人の顔がが変化して二里頭文化の銅牌飾になったことが分かります。


 下の写真は獣面紋の紋様ですが斉家文化の銅牌飾の角のある動物の頭部が変化して二里頭文化の銅牌飾になったことが分かります。



銅牌飾が伝わったルート

 銅牌飾の祖型はシルクロードのハミ天山北路墓地から出土していることが知られています。そこから出土した銅牌飾や、他の出土地が分かっている銅牌飾を中国の地図上に並べてみると、銅牌飾が伝わったルートが分かります。ハミ天山北路墓地遺跡で生まれた銅牌飾は斉家文化に伝わり、そこで象嵌の技術が加わりトルコ石象嵌の銅牌飾が完成しました。そこから二里頭文化に伝わりました。南方の長江文化(三星堆遺跡)にも斉家文化から伝わったと考えられます。下は私が作った図です。



銅牌飾は二里頭文化で生まれたという間違った説

 次の図は陳国梁氏の論文「二里頭文化トルコ石象嵌銅牌飾の来現」の趣旨を、韓鼎氏が作図したものです。図の意味するところは、銅牌飾の構成要素、すなわち青銅の技術、象嵌の技術、紋様(龍だと言う説)などが中国の各地から二里頭文化に集まってきて(下の水色の矢印)そこで始めて銅牌飾が出現したことを示しています。斉家文化に銅牌飾は無いことも示しています。銅牌飾は二里頭文化で完成し、そこから斉家文化地帯の天水と、三星堆遺跡へ伝播した(下の黄色の矢印)ことも示しています。そしてこの図の中には斉家文化の名前が全く出てきません。銅牌飾の祖型がハミ天山北路墓地遺跡であることは下の図にもありますが、それが斎家文化に伝わることはなく、直接二里頭文化に伝わったとしています。しかし広河県阿力麻土郷から銅牌飾が出土していることなどから、トルコ石象嵌の銅牌飾は斉家文化で完成していたこは明らかです。


 斉家文化には銅牌飾は無いという説が、ほとんどの考古学者の説ですが、しかし九州大学の宮本一夫博士には私の説を認めて頂きました。前にも書きましが、上海博物館の展示についてメールでご報告申し上げたところ、早速翌日にご返事をいただいて、「これで、二里頭文化の銅牌飾が斉家文化に起源することはより有力になりました」と、新発見を認めて頂きました。「夏王朝の銅牌飾のルーツは斉家文化にある」のです。

 ということで、私は銅牌飾に関する新発見をしたのですが、どこにも発表できる場がありません、発表できる場があるといいのですが。

以上です