弥富のガイドブック
弥富歴史探検隊
弥富小学校6年
歴史ある場所編
飯塚古ふん群
場所 飯塚
鹿島川と弥富川の合流する部分に突き出た場所にあります。古ふん群には前方後円ふん1基と円ふん15基があり、現在16基の古ふんが確認されています。その中の7号ふんは発掘調査されております。16号ふんについて形と
大きさは早稲田大学考古学研究室によれば、「古ふんは※宅造によってけずられたが、※石かんと刀13振が出てきた。」と記述しています。持ち主によれば2基の石かんが見つかり人の骨1体の他※直刀が14振見つかったそうです。
一番大きい前方後円ふんは38メートルです。前方後円ふんは、前が方形(四角)で後ろが円形をした古ふんで、6〜7世紀ごろさかんに作られました。
この写真は、国立歴史博物館のものです。この古ふんは古ふん時代後期に作られたものです。(250〜600年前)この形を前方後円墳といいます。
飯塚古ふんに入っているのは、飯塚地方を支配していた人だといわれています。このような歴史があるので実際に行ってみてください。
※宅造・・・・・家
を造ること
※石かん・・・人をおさめた物
※直刀・・・・・まっすぐな刀のこと
岩富城あと
場所 岩富町
1472年岩富城がつくられました。
1455年足利しげうじがこの地の※領主となりました。「弥富殿」とよばれたそうです。
この地域には千葉氏一族である白井氏が、領主として存在しましたが15世紀後半には原氏がこの地を※支配します。江戸時代には徳川家康によって北条氏勝がこの地に配されましたが、1613年の北条氏転封により、岩富城は廃されました。岩富城は岩富町にあるので、ぜひ行ってみてください。
※領主・・・その土地の主
※支配・・・ある人の命令で治めたりすること
岩富城
場所 岩富町
中心部は五角形をした平坦地です。その周囲には土塁が巡っています。東側と南側には空堀があり北側と西側に鹿島川に面したがけに細長い平担を設けて防街を強化しています。
東側の堀には出入口となる土橋を設けておりその両脇に土塁を設けて守りを固めています。
城は一族の原氏が居城としていました。
徳川家康が天正18年「1590年」小田原役の後に、関東に入封した徳川家康は、北条一族の北条氏勝に岩富城1万石で城主にしました。
慶長18年「1613年」に北条氏が下野富田に移封されて廃藩とともに廃城となりました。
歴史ある建物編
西福寺の大いちょう
場所 坂戸
坂戸地区には西福寺というお寺があります。この、西福寺には有名な大いちょうがあります。この大いちょうは、樹高23メートルで、幹周7,4メートルというとても大きな大いちょうです。樹れいは約800年です。
この大いちょうは、平成15年開催の第54回全国植樹祭記念事業「千葉・ふれあい緑100選」のひとつに選定されました。
佐倉市で選ばれたのは、この坂戸地区にある大いちょうだけです。
西福寺の六地蔵
場所 坂戸
六地蔵は、坂戸の西福寺にあります。寺院や、墓地に六体の地蔵ぼさつが、並んでいます。六地蔵と呼ばれる石仏です。「六」というのも、意味があります。それは、「六道」といいます。六道とは、人間をふくめたすべて生物が、生前の行いに応じて死後に行き着くと考えられた六つの世界のことです。一つ、地獄道 二つ、飢餓道 三つ、畜生道 四つ、修羅道 五つ、人間道 六つ、天道といいます。六地蔵は、必ずしも六体の地蔵として作られているのではなく、六角柱の各面に浮き彫りにしたものもあるそうです。
熊野神社
場所 岩富
熊野神社は岩富の土地の高い所にあります。
行事は、10月20日に行われるお祭りがあります。
内容は、新しいしめ縄をつけたり、秋の野菜を奉納したりします。
それに、1月20日には、おびしゃというものが行われます。一年のごこくさいじょうを願います。
熊野神社は、1961年に建てられたもので、もう40年も経っていることになります。
熊野神社の近くにある公民館に用事がある人は、ぜひ立ち寄って見てください。
水神様
場所 岩富
水神様という神様は、もちろん「水の神様」です。神様がいると言われている場所にある大きな石に【水神様】ときざまれています。
すぐ近くにわき水がわいていて、その水は、かれることがないそうです。
昔、井戸の水がかれてしまった時にこの水だけはかれなかったそうです。
それから「水神様」と呼ばれるようになったそうです。
しかも、そのわき水で「おもゆ」というおかゆに似たものを赤ちゃんに食べさせると病気にならず、丈夫な子に育つそうです。
(この習慣は今はもうありません)
水神様のお祭り
昔(約70年くらい前)は水神様の<お祭り>もありましたが、今はもうなくなってしまいました。
このお祭りは、1年に1回(春先)にあって、わたしの祖母が小学5年の時くらいまでは、やっていたそうです。
その日だけ、2,3けん店が出て、くずもちやせんべいが売られていたということです
また、その日は、おはらいもあったそうです。
来ていた人のほとんどが子どもだったそうです。
岩富の長福寺
場所 岩富
長福寺は昔、鐘のある上の方が出口で、椎名さんの家の方が入り口だったそうです。でも、そこの地域の人が坂がきついというので入り口と出口が入れかわったそうです。
長福寺は、500年以上前に、火事で焼けたそうです。でも、それからまた、建て直したそうです。他にもお墓や、昔亡くなった人を乗せたりリヤカーや梵鐘があります。
梵鐘
鐘は、今から1471年の戦国時代につくられました。江戸時代にいぼのような出っ張りが作られたそうです。出っ張りは五段五列あります。梵鐘には、「弥富」となった理由が、書いてあるそうですが、わかりませんでした。梵鐘は、高さ145センチメートル、直径76センチメートルです。
出っ張りは全部で、108つあります。「人の悪い心」をたとえてあるそうです。 昭和61年3月31日に佐倉市指定文化財に指定されました。
ノンノン様
ノンノン様というのは、長福寺のご先祖様の形をまねた神様で、約400年前の1603年に記念としてつくられました。
ノンノン様の前に丸い大きな石で作られた入れ物のような所に雨水がたまって、その水を痛いところにつけると治るそうです。
伝統ある地区行事
どんど焼き
このごろどんど焼きをやる地区は三区・坂戸・岩富だけになりました。
どんど焼きの「どんど」とは、火がいきおいよく燃える様子を表しています。
どんど焼きは、竹でやぐらを組み、落ち葉などを積み上げます。そして、正月のえんぎ物を燃やします。また、習字もいっしょに燃やすと、うまくなると言われています。
はじめは、火の粉がすごくとびます。そして、竹が焼けてたおれた時は歓声がおきます。
昔、戦争があったころは中止しましたが、昭和58年頃から今まで続いています。
どんど焼きで焼いたもちを食べると、1年間かぜや、悪い病気にならないと言われています。留守番の人にも、同じ効果があると言われています。
このごろでは、もち以外にも、するめやソーセージを焼いている人がいるそうです。
是非、行ってみてください。
坂戸の祭り
10月のはじめごろ、坂戸の祭りがあります。子どもは赤、大人はこん色の祭りばんてんを着てやります。
大人と子どもにわかれて、別々のおみこしをかつぎ、坂戸地区の中を歩きます。
毎年、小学生くらいから大人の人が祭りに来て、おみこしをかついでいます。
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地区に伝わる童話編
八幡神社のしし舞
岩富町の八幡神社の秋祭りは毎年1回、暦の8月15日に行われています。
五こく豊じょうを祈願して、第1日目は、宵祭りで宮ごもりをします。2日目は、本祭りで、祭典なので、山車をひくか催し物が行われます。3日目は、土がた祭り、4日目の昼間は祭りの後かたづけをして、しし舞がまつられます。
秋祭りは、青年団が中心となり、団長が一切の采配をふるいます。
岩富町の戸数は、約百戸ですが、一軒一軒しし舞をして歩きます。しし舞をやる家は、戸障を外し、家の中をきれいに片付け、電灯をつけて、できるだけ明るくして待ちます。
しし舞は、二人一組でかぶり、大きな家では、三人でかぶります。拍子木が鳴り、太鼓が鳴り出すと暗がりからしし舞が、勢いよく飛び出し、家の中に駆け上がり、部屋中暴れ回ります。外では、大勢の人がその様子を見物します。家族の人は、全員から見える座敷に並んで座り、しし舞が終わるのを待ちます。
頃合いを見て、拍子木が鳴り、太鼓が止むとしし舞は終わりです。座敷に座った家族の一人にししがパクパクと2回やります。これをやってもらうと、吹き出物ができないと言われています。
家の主人は、しし舞をしてくれたお礼を団長さんに渡すと、団長さんは、榊でお払いをしてくれます。こうして一軒一軒をまわって歩くわけですが、最後の家が終わり神社に帰ってお宮の中で納めの舞をすると祭りは終わりになります。
ノンノン様の話
「ノンノン様、ノンノン様」と言い、その後に痛いところを言いながらノンノン様の頭をなでた手で痛いところをなでると気のせいか痛みが少しとれた様でした。毎日お寺参りをしているうちに、いつのまにか、痛みを忘れてしまいました。 この話は、お医者さんも、あまりいなかったころの話だったので、人から人へと伝わり、大勢の人々がお参りに来て、ノンノン様には、お線香のけむりが絶えなかったそうです。お寺の周辺では、おもちをふるまったりして、人々との交流が深まったそうです。
ノンノン様の話は、岩富に伝わるお話です。
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おくり神の話
昔、身なりの汚い、お坊さんが旅をしていました。今で言う東金あたりを旅してると、石屋さんがありました。
お坊さんは、石屋さんが仏像を彫っているのを見ながら、何かお経を唱えはじめました。2時間ほど経って午後3時頃になって立派な仏像ができました。
石屋さんは、「お坊さんがいたので、立派な仏像ができました。何かお礼がしたいのですが。」と白湯をすすめながら尋ねました。するとお坊さんは、作業場の片隅の小さな石を指さして。
「これに※法界と彫ってください。」と頼みました。
石屋さんは、お坊さんのために小さな石仏を彫り、法界と刻みました。
ここからは、お坊さんの旅です。お坊さんは、石仏を背負うとまた、歩き始めました。
何時間か東金からずっと石仏を背負ってきたので町方で泊まれば良かったのですが、歩き続け、着いた時には、もう暗くなってしまいました。お坊さんは、お金がなかったので野良で夜を過ごそうと、田んぼに入っていき少し歩くと道がなくなってしまいました。仕方がないので一休みしようとしたら、石仏が重くて立てなっかたので不思議に思いながら仕方なくその場に石仏を置いて、山梨に向かってまた歩きました。
その時お坊さんは、宿屋を目にして主人に理由を言って、
「それは、良いことをしました。あそこは昔乞食が住み着いていて、流行り病で死んだところなので、その乞食は、普段は大変丈夫で、風邪もひかなかったので今では、風邪の神様になっています。その場に、石仏を建てていただき、ありがとうございました。」
と、いわれました。
お坊さんは、石仏が急に重くなって背負えなくなった理由がわかりました。
そして、宿屋にただで泊めてもらって次の朝、山梨へと旅だっていきました。それからは、その石仏は「おくり神」と呼ばれ多くの人からありがたがれたということです。
「おくり神」のお話は、鹿島川辺りに伝わるお話です。
※法界の意味 過去三世の世界など
下川の水神様
昔、岩富村の長福寺近くの水田わきに、いつも、こんこんと水のわきでる泉が、あって水神様がまつられていました。この泉の水は、日照りの年でも枯れることなく、大変御利益のある水だと言われていました。特に、お産の後乳が出ない時にはこの水でおもゆを作り、乳代わりに与えると病気にもかからず丈夫な子に育つと言われていました。
この泉の水を飲んで育った子がおもゆの世話にならなくなると、親たちは「大願成就」と書いた大きなのぼりを、泉のほとりに立ててお礼参りをしました。
御利益のある水なので、いつものぼりが何本も立っていました。この池にも胃や腸の病にも、大変よく効くといわれていました。また、ある時医者の奥さんが難病を患いました。熱にうなされ、うわごとで「水、水」と言うのでこの泉の水を飲ませたところ、すっかり治ったということです。この噂は、近郷近在まで広がり、人々が水を汲むためにいつまでも列をなしていました。
村人たちは、この泉をたいそうありたがって、泉のほとりに、お堂を建て水神様をまつったということです。
昔は、水神様の縁日には、出店もたくさん並んでたいそうにぎわったということです。
流れる仏の話
昔、岩富の貝掘というところに、今はない西福寺という真言宗のお寺がありました。
そこは、岩富城主、原氏の守護寺だったので、非常に大きく立派なお寺で見上げるばかりに大きな山門には仁王様、本尊には薬師如来様がまつられていたそうです。ところが原氏の奥方は、日蓮宗を信仰していたので、本土寺九世日意上人を迎えて、日蓮宗に改宗してしまいました。そこで、お寺は壊され仁王様も川へ流されてしまったそうです。流された仁王様は、鹿島川を流れ下り、いらなくなったご本尊は、坂戸の西福寺へ移されました。仁王様は最初は、内郷村の山崎というところに流れ着いたそうです。そこで、村中のみんなが拾おうと思ったのですが、仁王様は、重くて引き上げられず、岩名まで、流されてしまいました。
岩名では、仁王様は軽々と引き上げられ、人々によって毘沙門天宮に奉納されたという事です。
今では、佐倉の岩名というところは仁王様で有名ですよね。
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