銚子・川口神社の鯨碑


川口神社

千葉県銚子市の川口神社に鯨の墓があると云われているので出かけました。
2014年5月2日、好天に恵まれて午前中に現場到着、草木も青々と伸びだしてきていま
したが探索には良い一日でした。利根川の河口、かなり大きい巻き網船や多くの漁船
も見える所で、彼方の対岸には茨城県の波崎を望むことが出来ました。
長い参道を通り、二の鳥居を過ぎてダラダラの階段を上ると左右に傾斜のついた場所
があり、色々な形の石碑が待っていて呉れました。ウミガメの碑が殆どで、鯨の碑は
大きいのですぐわかりました。

鳥居と参道
  
            川口神社本殿        川口神社の扁額
お祭りがない季節に訪れたので寂しい感じの社と長い参道でした。
 
手洗い場の「歇盥石」              大きい石碑板がある池
 
かなり大きい四爪錨が数基錆びて細くなったいました。


大漁之神の石碑
 
正面の銘は「大漁之神」と大きく彫られております。
正面

正面から見た銘は「大漁之神」と読めます。
墓石はほぼ四角形、奥行は厚くドッシリとし、台座は凸凹の自然石が使われております。
台座は海中にあったものか珊瑚のような穴や空洞が沢山あります。
裏面

上から見た墓石の裏面です。
枠の中に左から「銘」「?顎・”あたま”か”あご”のことか」「鯨」「?(読めません)
やまいだれに米と土か」、よく似た漢字に「うめる」と云う意味がありました。
「鯨のアゴかアタマを埋めた墓という銘」とも思われます。
枠の下に小さい漢字が沢山書かれていますが読み取れず意味も不明です。
半分くらいは石面が欠けてへこみ字は削り取られた感じになっている。

裏面の漢文です。
裏の字

 
         鯨の字だけはハッキリとわかります。
側面
 
側面には触ってみても字らしいものは彫られていないようでした。

土台の石の感じが良くわかります。色は褐色のようです。
鯨の墓で「大漁之神」の「神」という字を使うのは珍しいと思います。
江戸東京湾 くじらと散歩 小松正之著
コピーを掲載させて貰いました。

絵馬と大漁之神の裏面の字をご覧ください。

海幸之霊・海亀之霊・海運亀之霊・大漁之神・海神の霊・小祠

右斜面の亀の石碑群  石ころ状のモノも多くあった。二十数基の亀墓と思われるが判読出来ないものがある。 
  
         不明                   海神之霊               海神之霊
 
      海神之霊                       海幸亀の霊
  
      海幸亀の霊                  海幸亀の霊               大漁の碑
  
      海亀の霊                  海亀の霊                海亀之霊
  >
  海亀の霊            屋根(傘)付き祠:不明            屋根(傘)付き祠:不明  

※銚子の鮨屋さんで鮮度がいい「地魚寿司」を食べました。すし店の店長は父親が漁師だったので、銚子では亀は
食べないし、網にかかると酒を飲ませて海に返すといい、子供のころ近くで小亀を捕まえると近くの地蔵池にもって
行って放せと親に叱られたと話していました。なお房総でも南の勝浦などでは亀を食べるので不思議だともいう。
尚、ここの寿司には大きい半円の伊達巻と、伊達巻の半円部くぼみに巻き寿司が付いていました。洒落た感じの
地魚寿司で彩も鮮やか、伊達巻が甘く、なめらかですごくおいしいデザート付の寿司といったところ。

これは銚子の漁師が愛する銚子名物の寿司といわれる。「明治初期、過酷な漁から帰港した漁師が、疲れをいやすため
甘い物を好んで食べていたことから、伊達巻をヒントに老舗すし店の初代が創案した。地元すし店に作り方を伝授
銚子の寿司店でしか味わえない名物になったという(産経新聞26年5月3日(土):検証!千葉の伝説・噂)」より
銚子に行かれた時には食べてみてください!、銚子に行った翌日の新聞に上記の記事を発見し、掲載しました。

      過酷な漁の疲れを癒す一品      銚子の漁師が愛するプリンとは?(記者:城之内和義氏)
吉田松陰来遊の地 銚子港 吉田松陰の漢詩

  
亀の供養碑がある反対側、左側に大きい碑が建てられています。

銚子港   吉田松陰     

巨江汨汨流入海
商船幾隻銜尾泊
春風吹送糸竹声
粉壁紅楼自成郭
吾来添纜壬子年
倚檣一望天地廓
遠帆如鳥近帆牛
潮去潮来煙漠漠
欧羅亜墨知何処
決眦東南情懐悪
眉山之老骨已朽
何人復有審敵作
仄聞身毒与満清
宴安或被他人掠
杞人有憂豈得已
閑却袖中綏邊略
強開樽酒発浩歌
滄溟如墨天日落
 
(詩解) 
利根の大河は滔々と流れて海に注ぎ 
商船は幾艘も連なり停泊している 
春風に乗って管弦の音が聞こえ 
白壁の妓楼が城郭の様に並んでいる 
     私は嘉永五年(1852年)ここに船を着けて 
帆柱に寄りかかり一望すれば天地は広々している  
遠くの船の帆は鳥の様に見え、近くの帆は牛の様であり 
潮は近づいたり遠ざかったりし、砕けて霧を発している 
ヨーロッパやアメリカはどちらの方向だろうか 
目を東南に移せばむかつく感じがする 
北宋時代の眉山の老泉(蘇洵)は既に無く 
これから誰が敵情を明らかにするのだろう 
インドや満州族の清朝(中国)の事をそれとなく聞くが 
安逸を貪っていると他国に侵略されるだろう 
心配症の者が要らぬ心配するのは已むを得ないのか、否そんな事はない 
辺境の敵を防ぐ対策が何もなされていないではないか 
無理に樽酒を開けて大声で歌えば 
大海原は日が落ちて墨を流した様である 
(ネット資料http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/kan_syouin.html)

吉田松陰:文政13年8月4日(1830年9月20日)〜安政6年10月27日(1859年11月21日)
長門国萩藩士杉百合之助の次男。 山鹿流兵学師範だった叔父の死後、吉田家を相続して
兵学師範となりました。 九州・江戸に遊学。嘉永4年(1851年)藩の許可なく東北行を敢行して
御家人召放となりました。
安政元年(1854年)ペリーが和親条約締結のため再航した時、密航を企て失敗して入獄。
1年後、叔父玉木文之進の松下村塾の主宰者となり、高杉晋作、久坂玄瑞、入江杉蔵、野村和作、
前原一誠、伊藤博文など、幕末から明治期に活躍した人材を教育しました。
日米修好通商条約の調印を批判し、藩に老中要撃の計画を提起したりしたため再入獄。
翌年、幕府から藩に松陰東送の命が下り江戸に送られ、訊問に際しペリー来航以来の幕府の一連の
政策を批判して処刑されました。
(ネット資料http://www.geocities.jp/bane2161/yosidasyouin.htm)

川口神社と大漁節
川口神社の創建は、寛和2年(986年)と伝えられ、明治3年まで白紙(はくし)神社と称しました。
安倍清明(平安時代の陰陽師)と銚子在住の長者の娘、延命姫のまつわる悲しい伝説があります。

♪九つとせ この浦守る川口の 明神御ご利益あらわせる この大漁船

大漁節に歌われているように、漁師の信仰がきわめて厚く、川口を出入りする漁船の守り神
として 今も昔も参拝者が訪れます。また、旧暦の6月15日に大潮祭りが行われます。(資料:神社の案内板)

※安倍清明と長者の娘の延命姫は結婚したという説と結婚出来ず延命姫が追い回したという説があります。
延命姫は美人でなかったので清明は逃げて隠れていたところ、姫が海岸で清明が脱いでいた着物を見つけ、
清明が海で死んだと思い込んでしまいました。姫も生きていてももう終わりだとおもい海に身を投げて
死んでしまいました。死後海岸に櫛と姫の歯が上がったと云われ、長者が祠を建てて歯と櫛を祀ったそうです。
歯と櫛⇒はくし・ハクシ⇒歯櫛明神(はくしみょうじん)⇒白紙(はくし)明神⇒川口明神⇒川口神社 と変わったようです。


神社の由緒、由来
  祭神は「速秋津比売(ハヤアキツヒメ)」の神。古事記では別名「水戸神(ミナトノカミ)」といわれる。
「水戸神」とは港の神の意味。港は河口に作られるものであったので、水戸神は河口の神でもある。
神名の「ハヤ」は川や潮の流れの速さを示し、かつ、河口の利用は潮の流れの速さに左右されることから
出た神名とみられている。また、「アキツ」は「明津」で、禊によって速やかに明く清まるの意とする解釈
もある。(資料:ウェキペディア)。まさに銚子の川口神社そのものの説明と受け取れます。

漁船の遭難史跡「千人塚」
さらに川口神社から数十b河口に下ると多くの遭難者を祀った供養塔が小高い小山に所狭しと建てられています。
昭和の年号の供養碑もあります。まさに大利根の広い河口、荒波が立ち、岬の突端、南からの流れ北からの波、
東の太平洋からの風波、利根川の吐き出しがぶっつかり合う場所で入港するのも難しく、操舵が儘ならず、
関東平野からの暴風に流され船もろとも転覆多くの命が失われた場所です。現在は港湾工事、立派な護岸工事も進み
事故は無くなったようですが大きい津波が来ればひとたまりもない場所と思われます。

 
千人塚の小山          説明
 
   供養碑群            供養碑群
  
   供養碑の絵:漁師と魚      歌碑

名洗不動堂

明王山 貝大師 御詠歌
ありがたや 海にかがやく 貝大師 うらはんじょうと まもる名洗
ありがたや ここは名洗  貝大師 大師の利益 もろ人のため
 
参道と全景               不動堂
 
不動堂内部           御詠歌

江戸東京湾 くじらと散歩 小松正之著
コピーを掲載させて貰いました。絵馬「大鯨屏風ヶ浦遊泳図」

絵馬をご覧ください。