「隅田川の捕鯨絵馬」 写真:佐藤快和氏
2012年グジラグッズ展で「隅田川の捕鯨絵馬」の写真が展示されていた。
隅田川でクジラが獲れるとは面白いと興味を持っていたところ海事研究家の佐藤快和氏
から「船員ほけん」2013年5・6月号vol.669の冊子を頂いた。
その中に「ぐるり海道歴史散歩『隅田川の捕鯨絵馬』第37回 足立区鹿浜7-19-3 押部
八幡神社」として連載され捕鯨絵巻絵馬の写真もついており、早速Webページで紹介を
したいと申し込みましたところ、この他にクジラに関わる資料を4件ほど送って貰いま
した。今回はその「隅田川のクジラ」です。
§1.隅田川のクジラの不思議
1.淡水の川にクジラがいたこと、どの付近か?
@ 普段は川には棲まない種類で迷いクジラ(寄り鯨)と考えられる。
A 東京の隅田川に架かる千住大橋の上流付近での出来事。
詳しくは、千住大橋(せんじゅおおはし)は、隅田川にかかる橋で、国道4
号(日光街道)を通して北岸は足立区千住橋戸町、南岸は荒川区南千住六丁
目である。
江戸時代の大橋は浮世絵にもあり、歌川広重作 名所江戸百景の「千住の大は
し」が有名である。
初めて千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府して間もない文禄
3年(1594年)11月のこと、隅田川最初の橋と云われる。
隅田川は武島羽衣作詞、滝廉太郎作曲の唱歌『花』でうたわれている。
B クジラは殆ど海に棲んでいるが淡水の大河などにいる種類もいます。
カワゴンドウ(2.1〜2.6m)はインド洋から太平洋の熱帯海域の浅い海岸に
主に分布し、大きい河川にも見られます。
カワイルカ類(1.3〜2.5m)のラプラダカワイルカ・ヨウスコウカワイルカ・
インダスカワイルカ・ガンジスカワイルカ・アマゾンカワイルカはそれぞれ
の大河の名称が付き河川に棲息し「口ばしが長い・小さい多くの歯を持つ・
目が退化し小さい・背ビレが小さく目立たない・首は自在・膨れたオデコが
ある」等コビトイルカ・スナメリ・その他クジラ・イルカ類も河川にいる場
合もある。
アマゾンカワイルカは上流のペルーにまで分布している(NHKの記録)。
2.どんなクジラがいたのか、大きさは 種類は?
@ 約3メートルの権蔵鯨(=ゴンドウクジラ)と絵馬の詞書にある。
A ゴンドウクジラ類(Blackfish)には6種類があり、ユメゴンドウ(少ない、2.1〜
2.6m)・カズハゴンドウ(2.1〜2.7m)・オキゴンドウ(少ない、4.3〜6m)・コビ
レゴンドウ(深い所3.6〜6.5m)・ヒレナガゴンドウ(大西洋、3.8〜6m)・シャチ
(大、5.5〜8m)がある。 ※注:(体長:m)
「歯を持った鯨」小型の鯨類でイルカ類に近い。体長だけでは種類の判断が難しい。
鯨類は3〜4mを基準に、大きいものをクジラと云い、小さいものをイルカと云って
いることが多い。
B 鯨博士の大隅清治氏によれば絵馬の絵のクジラは口先部・背部背ビレ・腹部などか
らイルカのような感じがするとのこと。
3.時代・時期は?
明治41年(1908年)3月28日午前7時頃 船頭が隅田川を下る途中にクジラの潮
吹きを見た。
4.誰がどんなものでクジラを捕えたか?
船頭 吉田勘次郎 船の舳先から長い竹竿を口中に刺して弱らせて捕えた。
普通は棲まない川に迷い込んでいたので鯨自体が衰弱していたのかも分からない。
5.獲ったクジラはどうしたか?
千住大橋のたもとで5日間公開し、後世に伝えるため「捕鯨絵巻絵馬」を神社に奉納し
た。その神社は足立区鹿浜7-19-3 押部八幡神社(写真)である。
§2.「隅田川の捕鯨絵馬」佐藤快和氏(海事研究家)を全文掲載します。
「ぐるり海道歴史散歩」を担当するようになって以来、次回の取り上げるテーマは何が良
いかとあっちこっち捜し廻ることが多くなった。この連載では必ず現地に足を運び自分
の目で確かめてから書くことを原則にしているのだが、こんな折に目に着いたのが「川越
夜舟」と呼ばれた江戸期の旅客船だった。これは埼玉の川越から新河岸川という水路を利
用して隅田川にいたる主要な物資輸送ルートだが、やがて物資だけでなく旅客も乗せる
ようになってこの名前がついたようなのだ。交通不便な江戸時代において川越を夜に発
つと朝には江戸の入り口である千住に着いたことから、とても重宝がられた船で言わば
江戸時代の「寝台特急・ブルトレ」のような存在だったらしい。
ある郷土史からこの事実を知ったのだが、いつか取り上げたいと思い、ことある毎に資料
を集めていたのである。そうしている内にふと思いついたのが千住大橋だった。と言うの
もこの夜舟の終着地点は千住だったからでこのあたりには当時は船宿もあっただろうか
ら、古老達の語りや船頭の話など興味ある資料があるのではと考え、足立区の図書館を訪
ねてみたのである。司書の助けを借りていろいろ調べ、相応の成果が上がったのだがその
折に目に飛び込んできたのが「今は昔千住の捕鯨譚」という目をむくような見出しだった
のである。「千住の捕鯨」とはそれが本当ならこんな面白い話はない。鯨も大好きなテー
マの一つだったから「川越夜舟」は一旦中断、たちまち興味は隅田川の捕鯨へと移ってい
ったのである。大分前置きが長くなってしまったが今回の「隅田川の捕鯨絵馬」はこんな
いきさつからうまれたのである。
捕鯨から絵巻絵馬へ
(第2回鯨グッズ展(2012年)主催:鯨文化交流会に掲載) イルカにみえる。
さて資料によれば明治の40年代後半にさかのぼる。肥料運搬のために隅田川を航行して
いた船頭は千住大橋上流浮き沈みしながら泳ぐ巨大な怪物に遭遇、苦闘の末これを美事
にしとめたばかりではなくその活躍ぶりを絵馬にまとめ神社に奉納したのだった。資料
にはその絵馬が載っていたのだが、これまで多くの絵馬を見てきたが「隅田川の捕鯨絵巻
の絵馬」とは珍しい。これは是非ともこの目でみたいと思うと矢も楯もたまらず再び「こ
れが奉納された神社は何処か」「今もそれはあるのか」そして「神社までのアクセスは」
と図書館の司書に矢継ぎ早に質問して調べて貰ったのである。さぞかし当方のせっかち
さに面食らったに違いないがともあれ親切に対応していただいた結果、その神社は足立
区内にある「押部八幡神社」であることが分かり、序でに付近の地図やバス路線マップま
で用意していただいたのである。
善は急げとばかりに翌日は地図を頼りにバスの路線を調べ、ようやく目指す八幡神社に
辿り着いたのだった。早速鳥居をくぐったはいいが社務所があるわけでもなく傍にある
集会所も閉まったまま。そう簡単に希望が叶うものではないことは百も承知だったが、と
りあえず近所の人に「鯨絵馬」のことを聞いてみると、そんな絵馬があるなんて初耳、と
驚く人ばかりで全然らちがあかない。いつも感じることだが「灯台もと暗し」の例え通り
地元の人ほど知らないというのは経験済みだから、なおもあきらめずに聞いてみるとこ
の近くに町内会長さんがいらっしゃるからとアドバイスして頂いたのはなによりだった。
結論から言えば夏の例大祭には神殿内の絵馬も見ることができるからその折にでもと再
会を約して訪問を終えたのである。
「捕鯨絵馬」発見
さて待ちに待った8月の祭りの日、忙しい中を町内会長「鹿浜氏」(このあたり一体は鹿
浜という地名だがその名前を名乗ることからもこの地区のまとめ役であることが分かる)
の案内で神社へ向かったのである。道々、船頭の吉田氏の子孫の方もこの近所に住んでお
られることやその時の錨も保存されているなど貴重な話を聞けたのも収穫だった。程な
く神社に着き、ささやかながら拝殿に御神酒を捧げてお詣りしたあと、ワクワクしながら
神殿内に掲げられた絵馬を見せて頂いたのである。中には大正時代の「富士講の絵馬」や
明治39年の「日露戦役凱旋紀念」額などもあってこの神社は小ぶりながらなかなか貴重
な資料の宝庫となっているようだ。
「日露戦役凱旋紀念」額 写真:佐藤快和氏
そしていよいよ目指すは本命の「捕鯨絵馬」である。絵馬には船の舳先から長い竹竿で口
中めがけて突き刺す臨場感溢れる場面が描かれていて、左上に詞書(小さくて読みにくいが)
が添えられている。それによれば「明治41年3月28日午前7時ごろ」船頭の「吉田勘治郎」
は隅田川を下る途中千住大橋の上流付近で汐を吹く怪しい怪物と遭遇、船頭たる者、謎の怪物
に怖じけづいて命からがら逃げ帰ったとあっては一代の名折れとばかりに、正体を確かめよう
と早速行動したのであった。
とはいえ槍や刀を積んでいたわけでもなく、やむなく彼は船の備品である長い竹竿を手
に怪物に立ち向かい、怪物の口中に竹竿を差し込んで弱らせ苦闘の末に船に引き寄せた
ところ、なんと怪物の正体は「身の1丈(約3m)丸身6尺(胴回り)の「権蔵鯨」(ゴ
ンドウ鯨のことらしいが)」だったのだから驚いた。彼はこの獲物を曳航し意気揚々と千
住大橋まで凱旋、物見高い人々はたちまち大騒ぎで5日間この鯨は橋のたもとで公開さ
れたという。
かれの得意はいかばかりだったろうか。男子としてこれほど痛快な事はない。何しろたっ
た一人で鯨をしとめたのだからこの『武勲譚(いさおし)』を子々孫々後世に伝えたいと
思ったのも当然だ。それにはあのときの「勇魚取」(鯨漁)の場面を再現した絵馬を神社
に奉納するのが一番と考えついたのだろう。明快でとても分かり易く百年以上経った今、
いささかも色褪せず活き活きと当時の模様を伝えているのだから、彼の絵馬作戦は大成
功、大正解だったといえるのではなかろうか。かって隅田川を舞台に繰り広げられた「勇
魚取」の史実を風化させず何時までも語り伝えて欲しいものである。
押部八幡神社 写真:佐藤快和氏