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地域 | くじら伝説など | 言伝え内容 |
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北海道登別 | 抜海地名伝説、 クジラ神、鯨岩 |
大津波が襲ってきた時に、大きなポロフンベ(親クジラ)と小さいポンフンベ(子クジラ)が津波の盾になって抜海岬付近は難を逃れることができました。 親クジラが子クジラを背負 おうような形で岩になったそうです。 その岩を、コロポックルはフンベカムイ(クジラ神)と崇めました。 アイヌはこの地名をぱっかいぺ=ポ・カィ・ペ(子供を・背負う・もの)と呼んでいたのが現在の抜海の地名の由来だそうです。(サルル 創作 抜海伝説) |
北海道サロマ | サロマ地名伝説 |
「シャルマ(サロマ)ノ高山ノ上、鯨ノ首アリハロ(芭露)ノ水底ニ尾ノ方アリ山上ノ首ハ
苔蒸シテ青シト云」による。 クジラはサロマ湖で苔むした身体を洗いたくなって沢を下り、コタン、部族間の争い、若者の悲恋をも一瞬に蹴散らしてしまった。 湖につかり心地よくて潮を吹くと、潮吹き穴の草木の種が空高く吹き上げられて、荒れ果てたコタンに降り注ぎ、 芽吹く…と言う。(釜爺の丸太小屋便り(19) |
沖縄県那覇市 首里 | 龍潭(りゅうたん)伝説 |
昔、海から小さなクジラが龍潭に、川を上ってやってきました。 エサを食べ過ぎて、体が大きくなり海に帰れなくなったそうです。(龍潭(りゅうたん)くじら伝説) |
福岡県糸島郡 志摩町芥屋 | 鯨穴 |
芥屋大門(けやのおおと)の洞窟の東側に鏡岩(天御柱石)という直立した岩がある。 その伝説。糸島伝説集を参考にしてあらましをまとめてみると・・・。 昔々、あるうららかな春の日、この鏡岩に数人の天女が舞い降りてきて、美しい鈴の音のような声で合唱を始め、や がて羽衣の舞を始めた。 天からは絶えず芳香が降り注ぎ、天女たちもわれを忘れて歌い、舞い続けた。 ところがそのとき、一人の天女が禁じられていた下界の俗謡を歌い出したので、他の天女たちは恐れて逃げるように天に昇っていってしまった。 歌い終わった天女はたちまち神通力を失い、羽衣はみるみる石と化した。 その天女は毎日天に向かって許しを請うたが、その甲斐も無く、とうとう悲しみに心乱れて荒れ狂う海に身を投げた。 その隣の岩には鯨穴というくぼみがあって中には鯨が住んでおり、その餌食になったのか、とうとう死骸は出 てこなかった。 その後幾千年かすぎた今も、鏡岩の頂上には天女の足跡と化石になった羽衣が残っているという. (Basan World)(参考資料:糸島新聞社刊「糸島伝説集」) |
北海道白糠町 | 義経の尻もち跡伝説 |
知人岬で弁慶と弓勢争いをしたとき、弁慶の矢は大楽毛を越えた辺りで落ちたが義経の射た矢は白糠の海岸まで届いた。 義経が得意になっていると、沖の方でクジラが「そんなに威張るな」と笑っていた。 義経は怒ってそのクジラを射殺して食べようとクジラの尻から串を刺 して地に立て火にあぶり義経も寒いので火にあたっているうちに居眠りをした。 クジラの油が串を伝わって火に落ちて串が燃えていたが、そのうち焼け落ちてクジラがどすんと火に落ちた。 義経は、ビックリして尻餅をついた。そのために凹んだので、この地がオショロコツ (尻餅)と呼ばれるようになった。(くしろ義経伝説めぐり) |
瀬戸内 | 源平合戦イルカ占い伝説 |
『平家物語』や『源平盛衰記』には,瀬戸内海での源平合戦の際に,2000頭ものイルカの大
群が現れたとの記述があります。 それによると,イルカの大群に驚いた平氏の占い師が占ったところ,イルカたちが平氏の前で引き返せば平氏の勝利,平氏の下を通過したら源氏の勝利とでました。 イルカたちは,平氏の舟の下を通過。結局,源氏の勝利となりました. (鯨ポータル・サイト) 義経が,兄・頼朝にうとまれた際に送った弁明書「腰越状」にも,「鯨」をたとえにする記述が残っています。 原文は, 「或時漫漫大海凌風波之難。不痛沈身於海底。懸骸於鯨鯢之鰓。」 意味は「あらしをおそれず,たとえ海底に沈み,鯨のえじきになろうとも臆(おく)することなく戦いました」ということです。 ちなみに原文にある「鯨鯢(げいげい)」は,オスのクジラ「鯨」と,メスのクジラ「鯢」のことです。(鯨ポータル・サイト) |
北海道北見市 | 義経伝説 |
オショロマウのところに「昔,義経が,ここに流れついた鯨(くじら)を拾って,ヨモキ゛の串にさして焼いている時,突然ヨモキ゛の串が折れたのにおどろいて尻もちをついて,そこにくぼみが出来た」,イコイヘ゛ウシは「弁慶(べんけい,義経のけらい)がいつも魚を焼いた」,オヘケフ゜では「義経が,船を洗う道具を落とした」,マクオイでは「義経が,幕を張った」などの伝説があります。 (松浦武四郎の記録の「しれとこ誌」) |
長崎県 | イルカ・平家伝説 |
イルカは平家の落人が化したものだという。イルカの体には平家の紋があり、人のような鳴き声を立て、人間のような血が出る。 (西郊民俗:長崎県対馬西北部の見聞(3):井之口 章次) |
日本各地 | エビス | 鯨・鮫やイルカのことをエビスという。魚群がこれらに追われて、海浜近くに出てくることから、霊力ある神と考えられたという。(みなみ:二十八社めぐり(二):沢田 平太郎) |
新潟県各地 | 俗信、漁兆 |
漁兆に関する俗信。春のナガセは鰯がくる。イルカが来ると魚が来るとも、鯨やイルカが来ると鰯がいなくなるともいうなど。 (新潟県史 資料編22 民俗1:第4編 2 第2節 2海の民俗知識:漁兆(一):佐久間惇一) |
北海道? | 鰊,寺の鐘,鯨,狐,蚫 |
鰊は蝦夷の物産であった。シーズンになると、祈祷に出かけて漁の成功を祈った。 特に2月中旬からは、寺の鐘を打ってはならないことになった。もし鐘の響きが海底に伝わると、恐れた鰊が近寄らなくなるからだと言われていた。 鯨や狐、蚫などという言葉も、鰊の敵なの で、絶対口にしてはならなかった。(旅と伝説:鰊に関する伝説) |
石川能都町 | 海蔵院恩返し鯨伝説 |
昔、藤波の海蔵院に居候をしていた男が死後、鯨になって恩返しにやってきたという伝説 (能都町鯨物語) |
石川能都町 | 庄次兵衛お礼鯨伝説 | 昔、庄次兵衛という男が死後くじらになってお礼をしたという伝説(能都町鯨物語) |
日本非捕鯨地域 | 鯨,恩返し,罪ほろぼし |
非捕鯨地域では、村に迷惑をかけた人や、村から恩恵をもらった人が、罪ほろぼしや恩返しのために鯨となってやってくると言われることが多い。 (日本常民文化紀要:鯨鯢供養の地域的展開−捕鯨地域を中心に) |
石川県珠洲市 馬緤町 | おばあさん,鯨、お詫び |
火の不始末で家を燃やしてしまったおばあさんは後悔して、死んだら鯨にでもなってお詫
びしたいと言っていた。 おばあさんが死んだ数年後に、村が大金を返せと訴えられた。 翌年、大きな鯨を浜に引き込み、それを売って金を返すことができた。この鯨はおばあさんだったのだろうと言われた。 (日本常民文化紀要:広岡 万治『馬緤の里』馬緤町観光協会1984) |
石川県鳳至郡 鵜川 | 生れ変わり、恩 |
白痴の者を大切にする風習がある。面倒を見る家族がいなければ村中で面倒を見る。 白痴の者が命尽きて死亡すると、次の世に鯨に生まれ変わってこの浜に上がり、世話をしてくれた村人に多大な利益を与えて恩を報じるからだという。 その証拠に鰭の下にその者の名 が現れているともいう。(郷土研究:白痴者を大事にする風習:松川 碧泉) |
石川能都町 | 角力「鯨波」伝説 |
江戸時代、くじらの親子を助けた夫婦が褒美に子を授かり、その名を鯨波にした云う伝説 (能都町鯨物語) |
東京都新島 | イルカのイソベサマ参り | 海に投げられた船頭がイソベサマ参りに行く途中の海豚に助けられ、送ってもらったという伝説 (御蔵島の旅人) |
青森市・諏訪神社 | イルカの諏訪まいり |
青森市に有る「諏訪神社」はイルカも参拝に訪れたと言われている神社。 「イルカの諏訪まいり」と言う絵馬も見る事が出来ます. 昔は月に1度ずつ、上磯(津軽半島の陸奥湾沿い東浜一帯)の海にいるイルカが、10頭、20頭とそろって堤川をのぼってこの神社 のほとりに参詣に来たのだという。諏訪神社に「海豚の諏訪詣」図がある。 (青森の伝説:イルカ参詣) |
三重県富田 | 鯨の伊勢参り |
昔、熊野灘に信心深い鯨の親子が住んでいました。お伊勢参りをしようと伊勢湾にはいってきました。 湾内を見物していたときのこと、富田の漁師に出くわしました。 その漁師、朝から漁がなくこれはいい獲物だとばかりにモリの準備をすると、親鯨は「お伊勢参りに きたのです。 見逃してください」とたのみました。でも漁師は願いを聞きいれず、親子を仕留めてしまいました。 それからというもの、富田の漁師の網には一匹も魚が入らず、浜はだんだんと寂れていきました。 あの親子鯨のたたりに違いないということになり、富田 の漁師たちは、鯨の供養をし、それ以来鯨を捕ることをやめ、勇ましかった鯨取りを偲んで祭りには陸上で鯨を追うことにしたということです。 要約:春になると鯨が子どもを連れて伊勢参りに出掛けるので、その頃の鯨は捕ってはならないという事であった。 (富田の鯨船) |
山口県下松沖 瀬戸内 | 子連れで伊勢参り |
勇壮な網捕り式捕鯨を、三国さんは伝え聞いている。「クジラが見えたら、八挺櫓(ちょうろ)か十挺櫓の鯨船二隻が追尾して網をかぶせる。 さらに三、四隻が加わり幾重にも網をかける。仕留めのモリは、男が海に入り、網をかずいて打ち込む。 最後は包丁を手に海中で血を抜いた」ただ、子連れの捕獲はたたるとされた。 下松から西へ六十キロ余りの小野田市刈屋漁港。ここにも「クジラが夢まくらに立ち、子連れで伊勢参りするから捕らんでくれ、と頼んだ」という話が伝わる。 周防灘には親子クジラが多く、その捕鯨はタブー視されていたことが分かる。(中国新聞:新せとうち学) |
東京都式根島 | 鯨の富士山参り |
昔33尋もある鯨が富士山参りをする途中に漁船に出会いました。鯨は「富士山へ参るところだから帰りにとってくれ」といいました。 それでも漁師が鯨にモリをたてるので鯨は怒って漁師を一人のこらず食べてしまったという伝説。(御蔵島の旅人) |
新潟県上越市 柿崎区 上下浜 | クジラ学校 | 海岸に、全長三十メートル、重さ百トンものナガスクジラクジラが打ち上げられ、それを売った金で、大風でたおれた学校をたてなおした。 村の人たちにとって、海からのおくりものになった。 |
秋田県男鹿市 船川港 | クジラ学校 | 明治22年03月10日この地に鯨百十数頭が打ち上げられ、 半分を売却、その代金を元金に、 この地に学校を新築した。 |
熊本県水俣市 丸島町 | クジラ学校 |
明治17、8(1884、5)年頃、台風による激しい風雨、高浪が丸島沖を襲い、台風の去った翌朝、波打ち際の砂地に一頭の鯨が小山のように黒々と横たわっていました。 神様が丸島の村に下さったお金だから、私ごとに使ってしまっては神様の意に反するのではないか、それより丸島から立派な若者を出すために学校を建てたらどうだろうということになり学校がたてられた。(資料丸島鯨学校跡碑) 全国には、クジラのおかげでできたクジラと関係の深い小学校が7校あり、クジラ小学校とも呼ばれています。 上下浜小学校(新潟県上越市)、船川第一小学校(秋田県男鹿市)、木本小学校(三重県熊野市)、和白小学校(福岡県福岡市)、丸島鯨小学校(熊本県水俣市:廃校)、広田小学校(岩手県陸前高田市)、鷺沼分校(千葉県習志野市・現・津田沼小学校)の7つの学校です。 |
島根県邑智郡 大和村 | 鯨石 | 川の鯨石が一年に米一粒分ずつ動いているという。そして鯨石が近くの淵に沈む時、この世が終わるという言い伝え。(目玉の散歩 289 ) |
青森・八戸の 西宮神杜 | 鯨石(鮫浦太郎伝説) |
鮫町の西宮神社に八戸太郎が陸に上がって石になったという鯨石出説がある. @昔々、南部の国の鮫浦は連日のシケで漁が出来なかった。このままでは村人が倒れてしまうと、ある若者が果敢に荒れ狂う海へと挑んでいった。 若者は遭難しそうになったが、そこへ一頭のクジラがこの若者を助けてくれた。 村人たちはこの鯨に感謝し、このクジラを「鮫浦太郎」と名付けて村の守り神とした。 その後、鮫浦太郎はこの村に毎年春になると取りきれないくらいのイワシを追い込んできて、村はとても栄えた。 そして33年目になったとき、どうしたわけか鮫浦太郎は姿を見せなかった。 じつは紀州のクジラ捕りに攻撃されてしまったのでした。しかし鮫浦太郎は頑張った。 頑張って、鮫浦の浜にたどり着き、そして、そのまま、息をひきとった。。。。村人たちは悲しみ葬ろうとした。すると鮫浦太郎は「石」となった。(鯨石と種差海岸への旅) A日本昔話の一つ。昔、鮫の恵比寿浜に大漁をもたらした紀州熊野灘の大鯨があり、浜の人々は大漁の神様として篤くもてなしていたが、そのうち鯨は紀州に帰った。 ところが紀州に帰った鯨の棲む所は無く、かえって追われてしまう。 再び八戸に戻り恵比寿浜の人々の守り神になろうと、傷ついた体で八戸にたどり着き浜にあがって石になり、浜の守り神になったという。 マリエント隣接の西ノ宮神社に祀られている鯨形の石がそれであると伝えられている。(鯨石と八戸太郎伝説 No.02100004) |
青森県 | 鯨石・鯨の八戸太郎 |
その昔、毎年夏になると、八戸の鮫の海に姿を現す、一匹の大きな鯨がありました。 鯨が来ると、イワシの大漁が続きましたので、土地の人々は神様のお使いとして、大切に見守ってきました。 この鯨は、人々から「八戸太郎」と呼ばれ、浜では毎年その姿を現すのを 楽しみにしていました。 実はこの鯨は、毎年海から伊勢参りを続けていて、そのお蔭で仲間の鯨からも認められ、人々からあがめられる、神様の仲間入りが許される事になっていました。 ところが運悪く、紀州の熊野浦で、鯨取りの漁師の「もり」を突き刺されてしまいました。 鯨は必死になって海に潜って逃げました。八戸の鮫の海岸では、夏になっても姿を見せない「八戸太郎」を、皆んなが待っていました。 ある日の事、漁師たちが岸辺に傷ついて打ち寄せられている大きな鯨を見つけました。 それは必死になって、八戸にたどり着いた「八戸太郎」でした。 鯨はそのまま、黒い石に変わりました。浜の人々は、その意思の鯨を、今でも守り神としてあがめつづけています。 現在も西宮神社の社前に「鯨石」として残されています(青森県の昔話) |
三重県志摩郡 大王町 | 鯨石 |
波切神社には、鯨石がある。鯨石は、鯨の腹の中から出てきたものだという説がある。 この鯨石は、ある日捕まえた鯨を解体していたら、大きな卵型の石がでてきて漁師達を驚かせたものです。 漁師達は、神のたたりを恐れてその石(鯨石)を波切神社に祀りました。 (ネット情報:波切神社) |
福島県福島市 (福島県飯野町 ・鯨石) | 鯨石 |
鯨石は福島市内、国道114号線の旧道と思われる道の傍らにある。一円寺というお寺に縁があり。 上部の石は鯨が噴いた潮の形をしている部分は明らかに人工物で、漢文が刻まれている。 そのため、説法石という別名もあり、左側にある説明版にもその名前で紹介されている。 (ネット情報(千貫森探検)) |
和歌山県東牟婁郡 | 鯨石(那智山) | 那智山には”鯨石(くじらいし)”と呼ばれる大きな岩があります。鯨の頭にそっくりです。(ネット情報) |
長野県 | 鯨石 |
海野宿の入り口では、鯨石(くじらいし)の噴水が迎えてくれます。白鳥神社の境内です。 (ネット情報:海野宿) |
島根県美郷町 都賀 | 鯨石 |
くじら石には霊魂が存在していると信じられ、毎年少しずつ移動しているという。 また、この石を斬ると生き血がほとばしると言われ、昔、ある男が試しに斬ったところ血があふれ出したという話があり、今でもその傷跡が残っている。 これら大きな石や特徴ある形をした 岩は、川で生きる人々にとって大切な目印でもある。(ネット情報:巨石にまつわる話) |
松山市久谷町 | 網かけ石(鯨石) |
昔、農作業の邪魔になる二個の岩を村人総出で動かそうとしたけんど、びくともせんで困っておった。 そこへ丁度通りかかった弘法大師が網を被せて棒で担って運ぶ途中、棒が折れてひとつは後ろの川に落ちてしもうて、もうひとつが今の場所に残ったと言われとらい。 (弘法大師にまつわる話) |
壱岐市石田町 射手吉触 | 鯨石 |
西崎浄水場前の水田に巨大な玄武岩が覗いている。地上に出ている部分の長さはおよそ7m。 その黒々とした質感は、大海原に浮上した鯨の背のように見える。 かつて鯨組の羽刺(漁師)たちは大漁祈願のためこの石に参詣したという。 (ネット情報:IKI File ) |
三重県尾鷲市 | 小梶賀の鯨石 | 1月15日曽根町安定寺の僧を迎えて、大般若経の転読を行ない、大漁祈願と鯨供養をする安定寺の僧は転読のあと「はらそ」船に乗って送られるが、このあと「はらそ」船は曽根浦の青年宿・飛鳥神社・浜に銛を突き納めた梶賀へ帰ると、小梶賀の鯨石から突きはじめ梶賀神社2回 ・浅間様・若宮様・空神様・竃神様・恵比須様・稲荷様・漁協組合長宅・入札場・青年宿・浜を突き終了する。(ネット情報:三重県) |
岩手県山田町 ・大槌町 | 鯨山 |
鯨とつく山は一般に「表面がごくなだらかな形状」となっている。 当山と小鯨山は「昔、大津波の時に雌鯨と雄鯨が潮のまにまに寄せてきて、二つの山にとどまった」という伝説があり、この名がついたという。 鯨山と小鯨山の鞍部に「鯨山神社」が祭られている。この地で流行病が発生した時に、浜に打ち上げられた鯨を食べたら元気になった。 飢饉の時、浜は鯨の大漁で、肉をもらう人々は鯨に似たこの山を目当てに集まった、などがある。 鯨山の隣りには小鯨山、鯨峠がある。(いわての山々鯨山) |
高知市高須 | スモモ「鯨山」 |
「鯨山」というスモモの品種名は、その育成地が五台山(高知市の東南にある標高138mの風光明媚な山)でその山の近辺の人はこの山を鯨山というからである。 (スモモ「鯨山」現地調査) |
静岡県掛川市 日坂 | 雄鯨山・雌鯨山 |
三十七代孝徳天皇の御代(西暦649年ごろ)のお話。昔、宮村には嫁石権現(ヨメイシゴンゲン)という神様がいました。 この嫁石権現には、美しい姫がおりました。あるとき、権現は日坂の八幡様を囲碁に誘いました。 そのとき、竜宮の使者として雄雌二頭の大鯨がやってきて、権現様の姫を嫁に欲しいと言いました。 権現はこれを断り、姫を大沢というところに隠してしまいました。 すると、このあたりは七日七夜の間、真っ暗になり、このあたりを倉見(クラミ)と呼ぶようになりました。 雄鯨と雌鯨は、使者としての役目を果たすため、必死になって請願しましたが、権現様は聞いてくれません。 そのとき、日坂の八幡様が碁石で二頭の鯨を撃ち殺してしまいました。 鯨は五百間余りの長さでありましたが、一念凝りかたまって巌となり、八幡宮の向かい側の山となったのでした。 さて、雄鯨と雌鯨を失った竜宮王は、大層ご立腹になりました。 八幡宮の氏子たちが、汐ごりにやって来ると一人も帰さないように邪魔をしたので、人々は大層苦労しました。 これを聞いた八幡宮は、氏子のために此の地から十二、三町ほど西にいった川べりに1日に昼三度、夜三度汐が湧き出るようにしました。 そこの守り神が汐井の宮で氏子達はこの地を「汐こり」とよんでいます。 (参照 『東海道小夜の中山』(社)中部建設協会発行) |
三重県鳥羽市 松尾町 | 鯨,観音・鯨山 |
鯨山出現観音という伝説では、鯨に乗ってきた観音は十一面観音菩薩であり、後には本尊として祀られるようになった。 (日本常民文化紀要:寄り鯨の処置をめぐって−動植物の供養−) |
北海道登別 | フンベ山(鯨山伝説) | 巨大なお化けクジラをカワウソのカムイが2つに切って、登別と鷲別に置いた。それが登別のフンベ山などになった(くじら半島) |
北海道勇払郡 むかわ町穂別 | 鯨山 |
このチャシの北側には鯨山と呼ばれる双瘤の丘があり、昔この付近が海だったとき鯱に追われた鯨が逃げ場を失って陸に上がってしまい、そのまま鯨と鯱が双瘤の丘になってしまったという伝承があるそうです。 また、鯨山は古戦場であるという伝承もあるようです. 穂別川をはさんでこのチャシの対岸には隆農(たかのう)チャシがありますが、農道の改修工事のために削られてしまったそうです。(2000.7.9)(オビラルカのチャシ) |
長崎県野母崎 | 鯨山 |
野母港入り口にある通称、鯨山です。「よぼっぜ」の反対側にあります。 港の内側、大きな鯨に見えるのでこの名前です。(鯨山) |
愛媛県今治 | 鯨山古墳 |
半井梧菴著「愛媛面影」には「入り江の中に在る鯨鯢の跳がごとし、因て鯨山と名けたるなるべし」と記され、鯨の姿に似ていることから、地元の人々から「鯨山」とか「鯨ヶ丘」と呼ばれたとあります。(越智氏の墓?鯨山古墳) この古墳は、天正七年(一五七九)に書かれた三島大祝越智安任の手記によると「小千(=越智)御子墓在馬越邑」と記されています。 小千命(おちのみこと)は、物部氏の流れを汲む古代祭祀氏族。5世紀頃の応神天皇の御代に、小千国造(くにのみやつこ)として伊予の国に下向したと伝えられる豪族です。 この伝承が本当とすれば、越智氏は、この時代に大きな勢力を持っていました。(今治おもしろ百科) |
愛媛県今治 | 鯨山 |
吾岡山は昔は地元の人から鯨山(げいざん)と呼ばれて親しまれた山だったのですが、高知空港を拡張するときに山の上の部分をけずりました。 その理由は、飛行機が飛んだり降りたりするときにちょうど吾岡山の上を通り、そのときの高さがぎりぎりだったので、安全に飛べるようにするためでした。 けずった石はセメントの原料の石灰石で、土と一緒に売られたそうです。 (第11回移動高知新聞) |
広島県三原市 木原町 | 大鯨島、小鯨島 年頭鯨(ねんとうくじら) |
木原町内畠から対岸の岩子島との間の海に大小の島がうかんでいます。 この島は昔から大鯨島、小鯨島といわれ、そこへ毎年正月近くになると鯨がやってきて正月が過ぎるとどこかへいってしまうということがあったらしい(今川貞世の『道ゆきぶり』にもとりあげられているらしく、相当に古い伝承です)。 現在でも大鯨島の方にまつってある鯨明神で祭りが行われています。(年頭鯨) |
長崎県平戸 | 鯨島 | 鯨の尻尾の形に似てるところから鯨島と呼ばれています。(田中牧場) |
宮城県松島湾 | 鯨島 |
双子島。細長い方は鯨に似ていて鯨島、半丸い方は亀に似ていて亀島、それで鯨と亀の双子島 (松島湾バーチャル島巡り) |
宮城郡浦戸村 朴島 | 鯨島 |
時折付近を航行する舟人が、島の上から上手な浄瑠璃の流れてくるのを耳にすることがあったと言われている。 たぶん古狸の仕業であったろうと、今に言い伝えられている。 (朴島の昔話・伝説(鯨島の浄瑠璃)) |
広島県尾道市 岩子島 | 「鯨島神社」 | 岩子島厳島神社・鯨島神社にお神酒を供え、海運の隆盛を祈るとのこと(山陽日日新聞) |
石川能都町 | 波並:鯨島の地名 | 昔、波並の村はずれに乗り上げた鯨にちなんでつけられた地名です。(能都町鯨物語) |
日本各地 | 鯨神社 |
その頃、日本には大きな船もなく漁村は貧しかった。そこは離れ島でありある年、魚もとれぬ、畑のものも不作の飢饉になった。 木の実、草の葉を食い飢えをしのいでいた。/島民は海を望み、天を仰いで嘆いていた。/「どうか、食物を恵み、村を助けてください」/これを海の神は聞いた。 /「う・・・これはほうっておけぬな」/「ほうっておけぬ」/「よし、鯨を一匹ここに寄せよう」/ 海の神は鯨に言った。 /「鯨よ、あの村を救うために犠牲になってくれ、苦しいではあろうがあの島に行きそなたの肉をあの飢えている島のために献げてく れ、わかってくれるな」その時鯨はなんと言ったかわからないが何かうなづくような声を発して大きな体をくねらせ海の神が言われた島に向かって行った。 /このように海の神は計らいになりある日とてつもない大きな鯨がその飢饉に見舞われた島に打ち寄せられた。 /「お- い、でかい鯨だぞ、こんなでかい鯨見たことない、みんな集まれ」/「これは、すげ-や、これを食ったら当分は腹は満たされるぞ」/「そうだ、そうだ、これは海の恵みだ」/こうしてこの島の村々はこの鯨の肉を分け合い食って飢えをしのぐことができたのです。 そして海の 神に感謝して鯨神社を島に作り奉納しました。/寄り鯨というのは今でもありそれは昔は貴重な村の食料となっていた。海の神のからの恵みだったのです。/(鯨の話(捕鯨の是非) (鯨の話−東北と関西)(鯨神社の由来) |
北海道登別市鷲別 | 鯨明神 | 鷲別神社は飢饉のときに寄り鯨によって救われたこと祈念して建立されたことから「鯨明神」と呼ばれている(ウィキペディア(Wikipedia)) |
福島県南相馬市鹿島区 | 鯨大明神 |
南相馬市(鹿島区)の鳥崎の津神社には、鯨の霊をまつる鯨大明神の石塔があります。 その隣には亀の霊をまつる亀明神の石塔があります。 (くらしに関する言い伝え:福島県生活環境部環境活動推進グループ) |
北海道室蘭市 | 鯨八幡 | 寄り鯨を売った一部を寄進し建てられた室蘭八幡宮。鯨絵馬もあり、「鯨神の舞」が伝承され祭りに披露されている。 |
石川県珠洲市蛸島 | イルカを祭る神社 |
高倉彦神社は、イルカをもたらす神として古代から崇敬を集めていた。 高倉彦神社というイルカを祭る神社があって、そこには、「初穂」といってその年、最初に獲れたイルカが奉納された。 明治以降、「初穂」を奉納しなくなると、とたんにイルカは姿を見せなくなり、以後、イルカ漁の記憶も薄れていく。(イルカの夢) |
三重県富田 | 徐福伝説 (富田の鯨船) |
鯨取りの本場は熊野灘です。尾鷲地方には、秦の始皇帝の命令で不老長寿の薬を日本に求めてきたという徐福によって、捕鯨の技術が伝えられたという伝説があります。 それで鯨取りや鯨船祭りでモリを打つ人を秦氏(はたし、はだし)という由来になっています。 実際の捕鯨は慶長年間からはじまり、和歌山県太地を中心に盛んに行われたそうです。 (富田の鯨船) |
和歌山県太地 | 旭鯨伝説(吉祥鯨) |
九鬼水軍の水先案内を無事果たした太地浦の鯨達は、村上水軍を見事に打ち破った九鬼水軍の勝鬨を聞きながら、折柄昇る旭に向かって躍り上り躍り上り太地浦へ帰っていきました。 旭に躍る鯨は吉祥とされ、見た人に幸福がもたされると伝えられております (南紀太地浦 抱壺庵) |
和歌山県新宮 | めおと鯨(白鯨) |
昔、南の海に、一群れの鯨がおりました。その群れに、ある日、一頭の白い雌鯨が生まれました。 ちょうどその頃、鯨の餌になる鰯や、エビや、その他の小魚が潮流の加減でしょうか、回遊して来なくなり、その群れの鯨達は飢えかけておりましたこれは、白い鯨が生まれたためだと、群れの長老達が相談して、その不吉な白鯨を追放することに決めました。 ところが、その白い鯨をかわいそうに思い、陰になりひなたになりして、かばっていた若い雄鯨が、おれもいっしょに出ていくといって、白鯨をつれて、その群れを出ていきました。 何年かたって、その若鯨と白鯨との間に子供が出来、孫が生まれ、何百頭かの大群になりました。 その「めおと」鯨が、群れの王者として、南の海、北の海に君臨したという民話がつたえられています。なお巴の紋は、古式捕鯨の宗家、和田家の家紋です。 (和歌山県) |
エビス、くじら船 |
紀州くまの浦は古式捕鯨発祥の地である鯨を網捕り法で、捕獲する舟の体勢は各々の任務により、勢子舟、網舟、持左右(もっそう)舟、樽舟、道具舟があり、その中でもっとも大切な舟は、鯨を追って銛を打込む、15人乗り八挺櫓の軽快な勢子舟であった。 その舟べりには桐に鳳凰や割菊、松竹梅、菊流し、蔦模様など極色彩の美しい模様を施して舟の順位をあらわしていた、また当時は、鯨一頭で七浦をうるおすといわれた程、貴重な生活の糧であり、昔はエビスさまとして畏敬すると共に、鯨に対する「いつくしみ」の気持も決して忘れはしなかったといわれている。(南紀物産 切土清之) | |
熊本県球磨盆地 | 鯨と猪 |
昔、猪ゃ海におって鯨は山におったげな。猪はウナギが好きで毎日食いおったいどん、山におってどぎゃもこぎゃも体の動かれんごとしなった鯨が、猪に住み場所ば替わってくれ、て言うたとげな。 そっで猪は鯨と替ってやって山でウナギのかわりにマムシば食うごと なっとげな’(参考:「新・球磨学」熊本日日新聞社 1983年) |
福井県 | 女郎いるか亡魂 |
昔、女郎はタンスの底を叩いて御神島に参るのが普通だったが、ある年、不浄の女郎がいて、船が沈没し、その女郎の亡魂がイルカになったという。 現在ではこの島は、女が行ってはいけない所になっている。 島の宮には悪い獣がいて、女の子をあげぬとあばれた。 (近畿民俗:若狭常神小集(三方郡西田村)―十年九月末調査:玉岡 松一郎) |
長崎県 | 海馬(いるか) |
小茂田の地名に「海馬の町」というのがあり、この海馬も妖怪だという。 (西郊民俗:長崎県対馬西北部の見聞(7):井之口 章次) |
新潟県佐渡郡相川町 | いるか:怪異 |
人間のことばを話し、舟べりに寄ってきて「某居るか」とはっきり言うイルカが出る。 某の部分には人の名前が入り、旅人を騙して舟にのせ、沖合いで殺して金品を奪ったといわれる.資産家や旧家の場合が多い。 「某はいない」と言うとイルカは海中に姿を消す。 (季刊民話:外海府物語その2:児玉 宗栄) |
日本各地 | 親子クジラ伝説 | ふだんはおとなしいメスのセミクジラも,子連れ時は気も荒くはげしく戦うので,「セミの子持ちは夢にも見るな」との言い伝えです。(鯨舟2) |
新潟県 | 母クジラ,子クジラ |
三ツ屋浜で、子クジラが打ち上げられた。夜になると沖のほうで泣き声がするので人が出てみると、母クジラが陸を見ながら泣いていた。 人々はクジラの親子の情愛を知って、子クジラを海に戻した。(日本常民文化紀要:竹内 彰編『クジラの学校』) |
三重県紀北町白浦 | 海幸神社・鯨の石碑・祟り |
捕鯨ができていた頃、お寺の住職が親子鯨のお告げを聞き、当時の見張り台(現在の白い灯台あたり)まで駆け上って、「鯨を捕ってはいけない」と言いにいったが、時既に遅く、親子の鯨は殺されていました。 その後疫病が流行し、鯨が姿を見せることはなかったそうです。その鯨の下あごの部分が長く、現在の大白神社鳥居横にあるお寺に置いてあったそうですが、今はないそうです。 またお寺の裏に鯨の碑が建てられましたが、その碑は、白浦の入り口にある神社に移されているそうです。 |
夢枕、親子鯨、祟り |
不漁の時、海山町白浦にある寺の住職の夢枕に女に姿を変えた鯨が立った。私は龍神に仕える鯨だが、出産する場を探して明日この町の沖を通るので、見逃して欲しいと哀願した。 やがて船は一頭の鯨を取って引き上げてきました。それを陸に上げて解体したところお腹の中に子供が入っていました。 それから白浦には悪疫が流行してたくさんの人 が亡くなり、海は不良続きになったので、母子鯨の菩提をあつく弔ったといわれています。(紀北町) | |
三重県北牟婁郡海山町 | 祟り | 三重県にある腹子持鯨菩提塔は、疫病が流行したのは鯨の祟りだということから建立されたものである。(日本常民文化紀要) |
夢枕、女,祟り |
女に姿を変えた鯨が住職の枕元に立ち、明日は出産の為に沖をとおるので見逃して欲しいと言った。 漁師は不漁続きだったため、子持ちの鯨を仕留めてしまった。その後、不思議なことが起こったという噂や、悪疫が広がったため、子持ち鯨の祟りだと言う事になり、供養塔を建てた。(日本常民文化紀要) | |
夢、祟り |
夢のお告げを無視して子持ちの鯨を捕獲した為に、悪疫が広がったので供養塔を建てた。 この村にある寺の過去帳には、当時二人の子供が死亡していた事が記載されていた。 (日本常民文化紀要:堀口味佐子「鯨の伝説」 (『海と人間』4号1976)『志州天朗峰福寺縁起』) | |
山口県長門市 | 夢枕、命乞い、祟り、竜宮の使い |
九州や山口県長門市では、竜宮の使いである鯨が枕元に立って命乞いをしたにも関わらず、漁師が無視して捕獲してしまったので、貧乏になったり不幸になったといった話がある。 (日本常民文化紀要:堀口 味佐子「鯨の伝説」 (『海と人間』4号1976)『志州天朗峰福寺縁起』) |
佐賀県唐津市 | 夢、祟り |
夢に鯨が現れて「今日はお参りに行くから取らないでくれ」と言ったが、聞き入れずに出漁したら、大風が吹き、船は沈没した。 (佐賀県東松浦郡呼子町 調査報告書)(常民) |
佐賀県 | 夢枕、祟り,大宝山参り |
鯨がある漁師の夢枕に立ち、明日は大宝山参りでこの沖を通るから、どうか自分を捕らないでくれと頼んだにもかかわらず漁師はその鯨を網にかけた。 すると物凄い雲が現れ、その雲の中で女の顔が笑った。とたんに暴風雨となり、鯨組全員は海の藻屑と化した。 (旅と伝説:鯨と鯨組) |
長崎県新魚目町 | 夢枕、祟り |
与五郎の夢枕に鯨が出て、出産のために沖に行くので捕獲しないでほしいと懇願した。 しかし漁師たちは海に出て、鯨を捕まえようとした。その時、突然暗い雲が出て風が押しよせ、船を沈ませた。 これは子持ち鯨の願いを聞かなかったからだと言って、与五郎は鯨碑を建て、死ぬまで念仏し続けた。 (日本常民文化紀要:福田・深江共著『長崎の伝説』(角川書店1978) |
千日参り、祟り |
出産をするので捕獲しないでほしいと言う鯨の願いを聞かず、海で鯨を獲った深沢家の子孫には不幸が続いた。 二百年後に夫婦が千日参りをして、やっと不吉なことが去っていった。(日本常民文化紀要:福田・深江共著『長崎の伝説』(角川書店1978) | |
長崎県前船津 | 祟り |
出産をするので捕獲しないでほしいと言う鯨の願いを聞かず、海で鯨を獲った深沢家の子孫には不幸が続いた。 深沢家の墓を取り壊した際に出た石垣などを持ち帰った人たちの家にも不吉なことが起こった。これは鯨の祟りだろうとみんなが恐ろしがった。 (日本常民文化紀要:福田・深江共著『長崎の伝説』(角川書店1978) |
宮崎県日南市 | 祟り |
身ごもっている鯨が浜に打ち上げられた。これを供養しないと、祟りのため不漁が続くと言われ、寺の境内に胎児を埋葬して石碑を建てた。 (日本常民文化紀要:寄り鯨の処置をめぐって−動植物の供養−那須 敬二「鯨の墓」 (『鯨研通信』376号日本鯨類研究所1984) |
日本各地 | 夢枕 |
海の霊魚としてのクジラは、夢枕に立って、捕獲を止めて欲しいと懇願することが多い。 (日本常民文化紀要:鯨鯢供養の地域的展開−捕鯨地域を中心に) |
佐賀県呼子町 | 夢,弁天島詣り |
親子連れの鯨から、弁天島にお詣りに行くので、捕獲しないでほしいと夢の中で哀願された。しかし仲間から促されて獲ってしまった。 (日本常民文化紀要:吉原 友吉『房南捕鯨』(相澤文庫刊1982)) |
長崎県西彼杵郡 | 夢枕 |
鯨が漁師の夢枕に立ち、参詣の為沖を通るから捕まえないでくれと頼んだ。 鯨は自分の体のどこに紋があるかということまで教えたという。 (旅と伝説:鯨と鯨組) |
佐賀県 | 和尚 | 小川島では、鯨の皮の下の薄い皮を衣という。これは鯨の前世が和尚であったしるしだと言っている。(旅と伝説:鯨と鯨組) |
佐賀県唐津市 | (俗信)和尚 |
鯨は和尚の生まれ変わり。鯨の黒皮は和尚の衣。 (佐賀県東松浦郡呼子町 調査報告書) |
日本各地 | 海神,神使い |
非捕鯨地域でも捕鯨地域であっても、鯨は、海神の神使いや海からの贈り物として考えられていた。 (日本常民文化紀要)(鯨鯢供養の地域的展開−捕鯨地域を中心に) |
大分県白杵市 | 鯨、海神の使い |
明治十九年に漁師が鯨を引き上げたが、すでに死んでいた。鯨は海の神の使いとされていたので、鯨の骨と一文銭を入れて埋葬した。 (日本常民文化紀要:吉井 正治「白杵市内の鯨の墓について」(『白杵史談』71号1984) |
三重県鳥羽市松尾町 | 観音,守護神 |
正福寺に伝わる『志州天朗峰福寺縁起』がある。鯨に乗って海中よりやってきた十一面観音像は、現在でも漁師や航海者の守護神となっている。(日本常民文化紀要:堀口 味佐子「鯨の伝説」(『海と人間』4号1976)『志州天朗峰福寺縁起』) |
三重県鳥羽市 | 観音,鯨石 |
鯨山出現観音の伝説がある。夢に出た観音の言う通り浜を歩いていると、一匹の大鯨が近づいてきて、その上に一体の観音像を乗せていた。 この浜の平という人物が取り上げると、鯨は石となった。それを鯨石と呼ぶようになった。(日本常民文化紀要) |
((((外国)))) | ギリシャ神話にイルカ伝説は沢山あります。 | |
ニュージーランド | マオリの伝説(映画化) | 自分たちの祖先はクジラに乗ってやってきたという伝説 「クジラの島の少女」 |
中国 | 竜涎香言い伝え | 抹香鯨の腸内に発生する様々な大きさをした結石は「龍涎香」と呼ばれる香料の一種である。龍の涎(よだれ)が固まったという中国の言い伝え |
聖書 | 旧約聖書の『ヨナ書』 大魚=クジラ |
ニネベは、当時アッシリアの首都で、ヘブライ人にとって奢侈と放蕩の代名詞でした。 ヨナはこの使命を嫌がり、逃げ出そうとして、タルシシュ(スペインにあったフェニキア人の交易地)行きの船に乗り込みました。 しかし、神は暴風を起こし、船乗りたちは誰か罪を犯した者が船に乗っているせいではないかと疑い、くじを引いて探し出すことにしました。 くじにあたったのはヨナでした。そこで、ヨナを海に投げ込んだところ、暴風はまたたく間におさまりました。 神は、巨大な魚を遣わしてヨナを呑み込ませました。 ヨナは生きたまま魚の腹の中で3日間過ごし、やがて海岸に吐き出されました。 ヨナは改めて神の命令を受けて、今度は言われたとおりニネベの都に向かって行きました。 (参考:化けくじら七変化) 同じようは話が「コーラン」にもあります。 |