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| 年 代 | 捕 鯨 の 変 遷 |
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| 縄文時代 |
千葉県の幾つかの貝塚に縄文時代のイルカを食べた後の骨が残されている。 (市川市)姥山貝塚公園、(千葉市)月ノ木貝塚・東寺山貝塚 (千葉市)千葉県立中央博物館・千葉市立加曾利貝塚博物館 |
| 1500年代後半 |
千葉県勝山付近でモリやヤリを使った「突き捕り式捕鯨」を行なうグループが生まれたようだ。
主に小型のクジラを追っていたが大型のセミクジラ・コククジラなどおとなしいクジラも捕るようになった。 |
| 1600年代 |
江戸時代初期、各地で「網捕り式捕鯨」が行なわれたが千葉県勝山ではツチクジラが深く潜る習性のため
「網捕り式捕鯨」は行われず「突き捕り式捕鯨」が続けられた。 |
| 1612年 |
慶長17年、安房勝山(現・鋸南町)領主里見忠義が伊勢神宮の祈祷者にクジラの初漁時、クジラの脂皮を献上
していたという記録が残されている。 |
| 1655年 |
安房勝山では初代醍醐新兵衛(定明)が元締めとなって統制のとれた経営組織『鯨組』が作られた。 |
| 1704年 |
二代醍醐新兵衛(明広)は更に組織化した『突組』を完成させ3組57隻、総勢500〜600名規模となった。 |
| 1820年〜1865年 |
日本近海は鯨の好漁場のためジャパングランドと呼ばれ「アメリカ式捕鯨」の全盛期で外国の捕鯨船が日本
近海に集まり太平洋側の鯨を沢山取りました。 この為日本近海の鯨が急減し、小型船の日本の鯨組は沖合いの操業が出来ず古式捕鯨は衰退しました。 |
| 1802年 |
ロシア・アメリカ等の外国船が日本近海に頻繁に現れたので、幕府は北方開拓防衛政策として五代醍醐新兵衛
(定昌)に未開地蝦夷での捕鯨を決意させました。
醍醐新兵衛(定昌)はエトロフ島に達したが病に倒れ計画はこころざし半ばで挫折しました。 |
| 1852年 |
50年後、後継者の八代醍醐新兵衛(定緝)は台風に会って2隻の船を失うという危険にあいましたが残る4隻で
蝦夷地に到着し爆発槍「ボンブランス」でアメリカ式捕鯨を始めましたが36歳の若さで病死してしまいました。 |
| 1864年 |
さらに九代醍醐新兵衛(定固)も北方に挑戦し樺太沿岸でサケ漁を営みましたが幕末の動乱で帰郷しなければ
なりませんでした。体調不良も重なり失明してしまい志を達成できませんでした。 |
| 1871年 |
「勝山突組」は廃藩置県に伴ない規模を縮小し、遂に鯨組解体に追いこまれました。 |
| 1889年 |
十代醍醐新兵衛(徳太郎)は財界の渋沢栄一、大倉喜八郎の協力のもと明治政府の官吏・関沢明清と館山に
捕鯨会社「大日本水産会社」を興しましたが未熟な捕鯨技術のため業績不振に陥り、遂に解散してしまいました。 |
| 1894年 |
明治政府の官吏を辞めた関沢明清は帆船「長寿丸」(40d)全長18bの船に改良ボンブランスと中型砲を備えた
2隻の手漕ぎ舟を積んで館山から宮城県金華山沖に出漁しました。多くのくじらを発見しマッコウクジラ2頭を
捕獲したが日本捕鯨の打開には結びつきませんでした。 100年前のアメリカの捕鯨帆船が300d以上であったのに比べると日本初期の捕鯨とはいえ大変な苦労であった。 |
| 1899年 |
ノルウェーの捕鯨技術を学んだ岡十郎はノルウェー式の捕鯨会社「日本遠洋漁業」を設立しました。「長州丸」
122dを建造しノルウェー人砲手を雇い数年の多難と努力のすえ捕鯨の近代化に成功しました。この会社が後の
東洋捕鯨になりました。 |
| 1907年 |
房総館山では関沢明清の弟 鏑木余三男が「房総遠洋漁業」を設立しました。さらに増資して「東海漁業」に
変更しました。蒸気船「天富丸」130d、グリーナー砲と銛をノルウェーに発注して捕鯨の操業海域を拡大し
て捕獲成果を出しました。しかし純益は低くて自立できず国・県の保護が必要な状態でした。 |
| 1908年 |
日露戦争後、東洋捕鯨・東海漁業の成功に影響されて近代化された装備の捕鯨会社が乱立し12社にもなりま
した。このため大手4社が合併し、大きくなった岡十郎社長の東洋捕鯨に「東海漁業」は天富丸と新型の
捕鯨具を売却し遠洋捕鯨を撤退しました。残った「東洋捕鯨」は館山を基地として、銚子にも進出しまし
たが鯨資源の減少により銚子から撤退しました。 |
| 1909年 |
遠洋捕鯨から撤退した「東海捕鯨」は捕鯨規制枠外のツチクジラなどを追う小型沿岸捕鯨の一地方業者に戻り、
基地を館山から白浜に移しました。さらに白浜に千倉の3捕鯨業者を吸収し千葉県の捕鯨基地は白浜だけと
なりました。 |
| 1948年 |
東海捕鯨は戦後の重油・ロープ等の資材不足で15隻の操業余裕がなくて、定置網漁をしていた庄司政吉に3隻の
捕鯨船を引き受け話が出て、同時に県から政府に捕鯨管轄権が移されて捕鯨許可枠が一つ増やされため「外房
捕鯨」が設立されることになりました。 |
| 1950年 |
最盛期には、房総の東海漁業と外房捕鯨は1年間に130頭も捕獲することもありました。 |
| 1958年 |
「外房捕鯨」は房総沖のツチクジラの減少で宮城県鮎川を基地とするミンク鯨漁に参加しました。
4・5・6月オホーツク海でミンク漁、7・8月は千葉の和田に戻りツチクジラ漁、再び北上し9・10月ミンク鯨を
追って操業しました。 |
| 1964年 |
南氷洋捕鯨は早いもの勝ちの捕鯨オリンピック時代に突入して鯨肉が過剰気味になり安価に陥ったため基盤
が弱い小型捕鯨業者は倒産しだしました。 |
| 1969年 |
「東海漁業」は鯨組時代の操業方法、3〜4隻で鯨1頭を追う効率の悪い操業のため採算割れとなりました。
一方、外房捕鯨は一隻一頭の効率の良い操業方法をとったため生き残ることができました。 |
| 1987年 |
小型沿岸捕鯨の対象であったミンククジラがモラトリヤム(捕鯨一時中止)で捕獲禁止になり、外房捕鯨は
ツチクジラとゴンドウクジラ漁に専念するた外房の和田浦に捕鯨基地を戻しました。 |
| 1988年 |
「日東捕鯨」は長崎県五島列島から千葉県和田を中心に大型鯨を捕獲していたがモラトリアムにより撤退する
ことになり房総の捕鯨会社は「外房捕鯨」一社となってしまいました。 |
| 2005年現在 |
IWC管轄外のクジラで日本政府の監督のもとにあるツチクジラ・ゴンドウクジラを捕獲する小型沿岸捕鯨
業者は外房捕鯨を含め現在は8社、9隻の規模となっています。 |
