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西暦 | 年度 | 内容 |
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9世紀 | ヨーロッパ、イベリヤ半島の付け根、大西洋側ビスケイ湾でバスク人が捕鯨を始める。セミクジラを捕獲、食用とされていた。
バスク捕鯨はビスケイ湾全体に広がりノルマンとの交流で造船技術が発達、船が大型化された。食用から鬚・鯨油に利用拡大。 | |
13〜14世紀 | バスク人は大西洋に乗り出す。バスク人がコロンブスに新大陸情報を流したとも云われている。 | |
16世紀前半 | バスク人はニューファンドランド近海へ漁船・捕鯨船を送り込んでいた。 | |
1571年 | 捕鯨のため500トン級の船を使い乗組員85名でカナダ北岸、アメリカ沿岸に行くというバスク人との「雇船契約」がある。 | |
1570年代 | イギリス商人がニューファンドランド近海を偵察しバスク系300〜400トン級の捕鯨船30数隻操業と報告している。 | |
1580年代 | イギリスの北米大陸入植運動が本格化する。 | |
1596年 | オランダは北極圏のスピッツベルゲン島を発見・命名した。付近に多くのホッキョククジラを発見、捕鯨の可能性を見出した。 | |
16世紀初頭 | 16世紀初頭、バスク捕鯨は新大陸アメリカに進出したが17世紀には他勢力との競争に破れ衰退した。 | |
1603年 | 慶長8年 | (日本:江戸時代スタート) |
1606年 | 慶長11年 | (日本:太地で「鯨組」による組織的な捕鯨が始まる) |
1607年 | 慶長12年 | イギリスからアメリカ:ジェームズタウンへ入植。困難を重ね「植民地の建設に成功」した。 |
1611年 | 慶長16年 | イギリスのモスクワ会社は北極圏スピッツベルゲン島にバスク人捕鯨者を乗せ出漁13頭のホッキョククジラを捕獲した。 |
1612年 | 慶長17年 | (日本:千葉県でツチ鯨の手銛漁(突取捕鯨)が始まる) 1612年北極圏スピッツベルゲン島にモスクワ会社は捕鯨船2隻を出した。イギリス、オランダ、バスク船の鯨争奪戦が始まる。 |
1614年 | スピッツベルゲン島はイギリスのデッチ上げでイギリス領となる。しかしイギリスは捕鯨技術導入に失敗、オランダは成功し 北極圏捕鯨はオランダがリードしていく。 | |
1620年 | 元和6年 | イギリスの移民船メイフラワー号(旧捕鯨船)アメリカ東岸ケープコッドに到着、入植者が上陸した。
植民団に与えられた特許状に捕鯨を含む漁業の独占権が与えられていた。 入植理由の一つに油と鯨鬚を取るのに最適の鯨がいるからと捕鯨を考えていたことが示されている。 |
1629年 | 寛永6年 | マサチュウセッツ入植団はチャールス1世から得た特許状に入植地の独占的捕鯨権が明示されていた (参考:鯨と捕鯨の文化史:森田勝昭) |
1644年 | 天保1年 | アメリカ東岸には、多くのクジラが見られ、入植地では漂着クジラは「共有物」とされた。 |
1650年 | 慶安3年 | 既に先住民のインディアンは鯨を捕っていた。入植者はインディアンを雇い捕鯨を行うことになった。
特定の個人に捕鯨の権利が与えられ、数年後には「捕鯨会社」が設立された。数隻でのボートによる沿岸捕鯨で 技術はバスク系北極圏捕鯨のものを導入した。(鯨と捕鯨の文化史:森田勝昭) |
1654年 | 承応3年 | アメリカ東岸では「寄り鯨」の所有は、「共有物」から「土地所有者のもの」 と変っていった。 |
1660年 | 万治3年 | 北米大陸の植民地からイギリス人10家族がナンタケットへ移住してきた。これらの人はナンタケット捕鯨の中心に
なった人たちである。 ある日、迷いセミクジラを3日かかって捕らえ捕鯨事業の可能性を掴んだ。 当時ナンタケット島にはインディアン2,500人余りが住み農耕・漁業で暮らしていた。入植者はインディアンから入植権を買った。 |
1667年 | 寛文7年 | 植民地での捕鯨業は1667年にロングアイランドのサウスハンプトンではじまる(参考:ジョン万次郎とその時代) |
1669年 | 寛文9年 | ロングアイランドのサウスハンプトンでは1669年に年間12〜13の鯨が捕れ480バーレルの油を採取している。 |
1670年 | 寛文10年 | アメリカ東岸で「捕鯨業」が始まる。 |
1672年 | 寛文12年 | ナンタケットにロングアイランドから捕鯨の専門家ジェームズ・ローバーが招かれ捕鯨技術を教わる。 |
1675年 | 延宝3年 | (日本:太地で「網取り式捕鯨」が始まる) |
1688年 | 元禄1年 | 捕鯨先進地ケープコッドからイカボッド・パドックをナンタケットに招き、捕鯨実行にこぎつける。
アメリカでは海上で捕獲したクジラは「個人所有」と認められるようになった。(1680年説:黒船異聞P10) 鯨の所有権は「共有物」、時を経て「土地の所有者」、沖取では「個人のもの」と替わっていった。 インディアンは捕鯨出資から排除され、労働力を提供する側に替わり、強制的奴隷状態におかれ、病気等により人数も減った。 |
1689年 | 元禄2年 | ロングアイランドのサウスハンプトンでは14の捕鯨会社が競合、鯨油2148バーレルの生産をしている。 |
1690年 | 元禄3年 | ナンタケット島で「捕鯨業」はじまる。 |
1698年 | 元禄11年 | ナンタケットでは20トン前後の1本マストの『スループ型帆船』を所有する者が、沖での捕鯨を始めたらしい。 |
1700年 | 元禄13年 | 帆で沖へ出てクジラを捕る「アメリカ式捕鯨」の時代にはいる。 |
1712年 | 聖徳2年 | ナンタケットのハッシー船長は20フィート位の小さい捕鯨ボートで沖へ流され、鯨の群れの中に入る、試しに銛を投げ
はじめてマッコウクジラを捕獲。
捕鯨者たちは北アメリカ大西洋岸を北へ向かう。{バスク人による母工船型洋式突取捕鯨法の確立} |
1715年 | 聖徳5年 | ナンタケット捕鯨船は6隻,30トン〜40トンのスループ型帆船の捕鯨船6隻でニューファウンドランド「外洋捕鯨・遠洋捕鯨」に出かけている。鯨油600バレル生産。
帆走捕鯨母船に捕鯨ボートを2隻積む方式であった。 |
1720年 | 享保5年 | ボストン経由でイギリスに鯨油を輸出しはじめた。ボストンから最初のマッコウクジラ捕鯨船が出港した報告がある。 |
1722年 | 享保7年 | アメリカ式捕鯨、最初の遭難事故おきる。1760年までに少なくとも9隻が遭難した。 |
1730年 | 享保15年 | ナンタケット捕鯨船は25隻。鯨油3700バレル生産。1730年代には40〜50トンの2本マストの『スクーナー型帆船』が登場した。 |
1732年〜
1746年 | 享保17年〜 延享3年 | ニューファウンドランドの捕鯨業者はデービス海峡に出漁した。 |
1745年 | 延享2年 | ナンタケットから直接イギリスに鯨油輸出。1740年代60〜70トンに大型化した。 |
1748年 | 寛延1年 | ナンタケット捕鯨船は60隻。鯨油11250バレル生産。 |
1751年 | 寛延4年 | ニューファウンドランドの捕鯨業者はバフィン湾に出漁した。 |
1756年 | 宝暦6年 | ナンタケット捕鯨船は80隻。鯨油12000バレル生産。 |
1761年 | 宝暦11年 | ニューファウンドランドの捕鯨業者はセントローレンス湾とハドソン湾に出漁した。 |
1763年 | 宝暦13年 | アメリカの捕鯨船は大西洋を南半球へ向かうことになる。南のギニア湾へ進出。 |
1764年 | 明和1年 | ナンタケット捕鯨船は92隻。<資料:ナンタケットの捕鯨船隻数と鯨油産出量の推移 捕鯨U 山下渉歩著> |
1765年 | 明和2年 | ヴェルデ岬諸島やアゾレス諸島の捕鯨漁場を開発。カリブ海からメキシコ湾へ進出。 |
1766年 | 明和3年 | ナンタケット捕鯨船は110隻。 |
1768年 | 明和5年 | ナンタケット捕鯨船は70隻。鯨油10500バレル生産。 |
1770年 | 明和7年 | ナンタケット捕鯨船は120隻。鯨油18000バレル生産。
1770年代には捕鯨船は100トンを越え、さらに3本マストの『ブリック型帆船』が建造され始めた。 赤道を越えて南大西洋に乗り出す。 |
1771年 | 明和8年 | 1771年〜75年、マサチューセッツ州9港だけで捕鯨船隻数304隻、総トン数27840d、捕鯨船員4059人、
マッコウ油産出39390バレル、セミ油7650バレルであった。
その内ナンタケットの捕鯨船は150隻、船員2025人、マッコウ油26,000バレル、セミ油4,000バレル。 |
1772年 | 安永1年 | ナンタケット捕鯨船は150隻。鯨油30000バレル生産。 |
1773年 | 安永2年 | ナンタケット捕鯨船は150隻。鯨油30000バレル生産。伝染病がナンタケットのインディアンを襲いインディアン人口の3分の2を奪った。
優秀なインディアン銛打ちが減りポルトガル人に入れ替わった。 |
1774年 | 安永3年 | ナンタケット捕鯨船は150隻。鯨油30000バレル生産。1774年の捕鯨規模、捕鯨船360隻、総トン数33,000トン、捕鯨従事者4700人。
マッコウ油45,000バレル、セミ油8500バレル。鯨ヒゲ75,000ポンド。 産油から逆算したマッコウ鯨約1800頭、セミ鯨140頭の捕獲となる(資料: 捕鯨U 山下渉歩著) 漁場はブラジル海岸に進出。 |
1775年 | 安永4年 | ナンタケット捕鯨船は150隻。鯨油30000バレル生産。総トン数150百トン平均100トンの船。『独立戦争』始まる。
アメリカの捕鯨業は1775年頃までナンタケット中心に発展したがニューベッドフォードが捕鯨に参加した 漁場はフォークランド諸島まで進んだ。 |
1789年 | 寛政1年 | アメリカ・イギリスの捕鯨船が喜望峰経由・ケープホーン経由の両方から太平洋へ入る。
オーストラリア、タスマニア、ニュージランド近海で操業をした。 |
1790年 | 寛政2年 | マッコウクジラを原料にしたロウソク・灯油の需要が増大した。オホーツク海で捕鯨操業へ |
1791年 | 寛政3年 | アメリカ捕鯨船2隻が串本に立ち寄る。
イギリスエンダビー商会の捕鯨船アメリア号がホーン岬を回って太平洋に進出マッコウクジラを捕獲した。 |
1807年 | 文化04年 | ナンタケット捕鯨船は120隻。 |
1812年 | 文化09年 | 英米戦争始まる。ナンタケット捕鯨船は116隻あった。300t−500tの船。 |
1815年 | 文化12年 | 英米戦争終結する。ナンタケットの捕鯨船はわずか23隻に減った。 |
1818年 | 文政01年 | ナンタケットのグローブ号が太平洋の中心域まで進出した。「遠海漁場(Off-shore Grounds)」から「遠洋捕鯨(?)」の始まりとも云われている。 |
1819年 | 文政02年 | 日本沿岸でマッコウクジラの捕獲・資源豊富の情報によりナンタケット船32隻(約半数)が出帆。
ナンタケット・ニューベッドホードの捕鯨船は52隻であった。 1819年ナンタケットの捕鯨船、シップ型帆船エセックス号(238d)の事故が発生、痛ましい3ヶ月の漂流と悲惨な人肉食発生。 巨大マッコウクジラの2回の攻撃により浸水。20人が3隻のボートに分乗漂流、最終生き残りは8人だった。 |
1820年 | 文政03年 | 白鯨のモデル事件発生。アメリカの帆走母工船マロー号が日本近海の鯨漁場に到着・ジャパングラウンド発見( 1818年という説もある)した。ジャパングラウンドのジャパンは北西端に日本列島、南東隅に小笠原諸島を有する巨大な三角海域をさしていた。 |
1821年 | 文政04年 | ナンタケット捕鯨船は84隻。 |
1822年 | 文政05年 | 1822年日本好漁場からマロー号が帰り、このニュースでアメリカ式捕鯨船は日本沖に60隻以上が来る。 |
1824年 | 文政07年 | アメリカ捕鯨船の12名の乗組員が2隻のボートで大津浜上陸した(大津浜事件)・日本の漂流船9人救助される。
1824年イギリス捕鯨船トランシット号が初めて小笠原に立ち寄った。 |
1825年 | 文政08年 | 外国捕鯨船団が日本近海で操業。(735隻)? |
1829年 | 文政12年 | アメリカ捕鯨船203隻。1827年頃から1860年がアメリカの全盛時代といわれる。(黒船異聞p23) |
1831年 | イギリスのビーチ船長が報告書を刊行、ジャパングランドの有望な補給基地として琉球と小笠原を挙げている。 | |
1833年 | 天保04年 | 1833年アメリカ捕鯨船392隻13万トン、1万人の人が乗り組んでいた。 |
1834年 | 天保05年 | アメリカ捕鯨船421隻。 |
1839年 | 天保10年 | 長者丸10人救助される。アメリカの出港数は太平洋130隻、大西洋85隻、インド洋34隻である。
1839年〜42年のアメリカの出港数は年平均250隻で46%117隻が太平洋に向かっている。 |
1840年 | 天保11年 | 1840年代毎年100隻が太平洋操業。 |
1841年 | 天保12年 | ジョン万次郎は米捕鯨船に救助される。モーガン号が出港。
1841年当時最大の捕鯨港ニューベッドフォードから太平洋に向かった捕鯨船は平均1,281バーレルのマッコウ油を採取平均57頭を捕獲。 ナンタケット船は隻数は少ないが平均1,494バレル、66頭を捕獲しナンタケットの技術の優位さを示している。 |
1842年 | 天保13年 | 世界の出漁捕鯨船は882隻であった。アメリカ捕鯨船652隻、イギリス100隻。
1842年から北米北西岸のセミクジラ漁場が開発され43年64隻、44年108隻、45年139隻が向かった。 |
1843年 | 天保14年 | 1839年ー1842年絶頂期。アメリカ捕鯨船675隻、総トン数199,000d。 |
1844年 | 弘化01年 | 1844年アメリカ捕鯨船644隻、約200,000d、17、600から20、000人乗り組み。カムチャッカ沿岸でホッキョククジラを捕る。
フランスの捕鯨船厚岸沖に来て薪と食料を求める。 |
1845年 | 弘化02年 | アメリカ捕鯨船695隻、総トン数は219,000d。 油産出量から逆算した捕獲頭数は、1844年から1848年の5年間の捕獲がマッコウクジラ24,860頭、年平均4,970頭、セミクジラが22,270頭、年平均4,450頭と云われ両方合計で年平均9,420頭の鯨が捕獲されたと推測される。(捕鯨U 山下渉登著P66) |
1846年 | 弘化03年 | 1846年アメリカ捕鯨船735隻233、189トンと最多。ニューベッドフォード船254隻・ナンタケット船75隻であった
1846年の捕鯨産業全体で7万人の雇用規模であった。ハワイに寄港したアメリカ船は最高の596隻といわれる。 ※アメリカのオリバー・アレンがボンブランス(破裂銛)を発明した。 |
1847年 | 弘化04年 | 全世界の捕鯨船数は900隻といわる。内アメリカ捕鯨船722隻230、000トンであった。 |
1848年 | 嘉永01年 | アメリカ捕鯨船659隻211、000トンであった。ベーリング海峡を越え北極海へ入る。北極海はアメリカ船による「最後の漁場」となった。
ベーリング海にアメリカは1848年2隻、50年147隻が入った。 1848年レーウィズ・テンプルが回転し鯨体から抜け難くした突取銛先を開発した。The Temple またはToggle ironと呼ばれる。 アメリカ・カルフォルニアで金鉱発見される。 |
1849年 | 嘉永02年 | アメリカ捕鯨船614隻196、000トンであった。1849年アメリカでゴールドラッシュになり、捕鯨船員がカルフォルニアに移動した。 |
1850年 | 嘉永03年 | アメリカ捕鯨船543隻171、000トンであった。<参考:黒船異聞 川澄哲夫著>
1850年ニューベッドフォードから83隻が出港し52隻がベーリング海のセミクジラ・ホッキョククジラに向かった。 この漁場も資源枯渇を招き、日本沿岸捕鯨の不漁に影響した。 |
1851年 | 嘉永04年 | アメリカ捕鯨船553隻172、000トンであった。<左記数字はE.P.ホウマン『アメリカの鯨取り』資料> |
1852年 | 嘉永05年 | アメリカ捕鯨船620隻194、000トンであった。 |
1853年 | 嘉永06年 | ペリー来航。アメリカ捕鯨船661隻206、000トンであった。2万人の乗組員が太平洋に来ていた。帆式工船300〜400d。 |
1854年 | 安政01年 | アメリカ捕鯨船668隻208、000トンであった。(太平洋の遠洋捕鯨業は、最初オランダから、イギリスの手に移り、最後にアメリカが制覇しハワイを領有した) 1854年,函館が開港した。(寄港数は下記表参照) |
1855年 | 安政02年 | アメリカ捕鯨船638隻200、000トンであった。集中的マッコウクジラ捕獲で各漁場は荒廃した。 |
1856年 | 安政03年 | アメリカ捕鯨船635隻199、000トンであった。 |
1857年 | 安政04年 | アメリカ捕鯨船655隻204、000トンであった。函館奉行所役人がアメリカ捕鯨船レピッド号で※ボンブランスを実見した。 |
1858年 | 安政05年 | アメリカ捕鯨船654隻203、000トンであった。1846年アメリカに繊維工場が出来、捕鯨の労働力が繊維産業に移動した。(ベルベット工場など) |
1859年 | 安政06年 | アメリカ捕鯨船625隻195、000トンであった。ペンシルバニアで石油が発見され鯨油の需要が少なく価格暴落。鯨が助かったと喜ぶ風刺漫画出る。 |
1860年 | 万延01年 | アメリカ捕鯨船571隻177、000トンであった。(中浜万次郎がアメリカ式捕鯨を実施するも成功と云えず)。 |
1861年 | 文久01年 | 1861−65年南北戦争 |
1863年 | 文久03年 | ※ノルウェーのスフェント・フォインがノルウェー式捕鯨法を確立した。 |
1868年 | 明治元年 | (江戸時代に幕・明治元年) |
1870年代 | 明治初期 | アメリカの捕鯨漁場は北アラスカの海域(バーロー岬から東のボーフォート海)に移った。ホッキョククジラを捕りつくした。生産物もマッコウ油が売れなくなると鯨ヒゲだけになった。またパリの鯨ヒゲでふんわりと膨らませたファッションも時代遅れになり需要が減ってしまいました。 |
1871年 | 明治3年 | 遭難事故。39隻のうち32隻が氷に閉じ込められ船を捨てる。総勢1219人が100隻のボートに分乗2〜4日かかって他の捕鯨船に辿り着いた。無事ホノルルに帰港した。 |
1876年 | 明治9年 | 捕鯨船11隻が氷に閉じ込められ350数名の内300名は他の捕鯨船に救助されたが越冬をした人たち50数名は翌年まで3名が生き残っただけで太平洋帆船捕鯨の息の根を止めた(参考:捕鯨U 山下渉登) |
1870年代 | 明治初期 | アメリカ式帆船外洋捕鯨は実質的に終了した(参考:捕鯨U 山下渉登) |
1891年 | 明治24年 | (ロシアで捕鯨会社が設立され日本海で操業した。) |
1900年 | 明治33年 | (日本がノルウェー式捕鯨を始める。) |
1914年 | 大正3年 | アメリカ捕鯨船最後の航海、The End |
西暦 | 米国総隻数 | 北太平洋出漁数 |
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1844年 | 595 | 170 |
1845年 | 643 | 263 |
1846年 | 680 | 292 |
1847年 | 670 | 177 |
1848年 | 621 | 159 |
1849年 | 581 | 155 |
1850年 | 510 | 144 |
1851年 | 502 | 138 |
1852年 | 558 | 278 |
1853年 | 599 | 238 |
1854年 | 602 | 232 |
1855年 | 584 | 217 |
1856年 | 585 | 178 |
1857年 | 593 | 143 |
1858年 | 587 | 196 |
1859年 | 561 | 176 |
1860年 | 508 | 121 |
西暦 | アメリカ | ロシア | フランス | ドイツ | 計 |
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1855年 | 8 | 8 | |||
1856年 | 4 | 4 | |||
1857年 | 4 | 4 | |||
1858年 | 16 | 1 | 17 | ||
1859年 | 36 | 1 | 37 | ||
1860年 | 18 | 3 | 21 | ||
1861年 | 15 | 1 | 16 | ||
1862年 | 15 | 15 | |||
1863年 | 4 | 4 | |||
1864年 | 7 | 7 | |||
1865年 | 14 | 14 | |||
1866年 | 10 | 2 | 12 | ||
1867年 | 9 | 2 | 11 | ||
計 | 160 | 4 | 2 | 4 | 170 |
総船舶数 | 274 | 131 | 32 | 39 | 757 |