日本の鯨文化:鯨に関わる伝説・逸話(3)


地域 くじら伝説など 言伝え内容
太地 鯨とり(くじらとり)
網囲み突き取り漁法 
くもの巣の網(あみ)
紀州の海岸ぞいは、山からすぐ海になっているので、なかなか田んぼが作れません。
あるとき、村人が浜に打ちあがった鯨を食べるとおいしかったので 、なんとかして鯨をとれないものだろうかと考えました。
鯨は、アメリカの西海岸から黒潮に乗って、赤道のあたりを通って日本に近 づきますが、そのころは寒い冬です。
畑仕事も少なく、鯨をとって食料にしようと思ったのです。

はじめは船を沖に出して、銛(もり)でついて、鯨を殺すという方法でした。
ところが、鯨があばれて船がひっくり返され、死ぬ人がたくさん出ました。
あるとき、和田頼春(わだよりはる)という人が、くもの巣(す)を見て、 そうだ、くもの巣のような大きな網(あみ)を作って、鯨にかぶせてつか まえればいいのだ、と思いつきました。

そこで、見張り番が高い所から鯨を見つけると、のろしをたいて沖(おき )で待ちかまえている船に知らせ、その船が鯨のところに急いでかけつけ て網(あみ)をかぶせ、くじらを動けなくしました。
そして、銛(もり)を打ちこんで鯨を弱らせ、鯨が死んで沈む前に、鯨の 鼻にあなを開けて綱(つな)を通し、大きな船で浜まで引いてくる、とい う方法にしたのです。
(わかやまの民話(みんわ)
福江市 「鯨瀬」の丈吉の波
(崎山) 
崎山のカンメという海岸の北側に長く突出た石滝という所がある。
その石滝 の鼻の下に「鯨瀬」という鯨に似た立派な瀬がある。
昔、丈吉親子と隣のおじさんと三人で、鯨瀬に魚釣りに行き、その日はとて良い天気であったが、夕方近くになってから急に風が南に変わり波も高 くなってきた。

隣のおじさんは早くやめて帰ろうといって「丈吉、危いから早く上がれ」といって注意をしたが、次々に大きな魚がつれるので夢中になって丈吉親子は釣り続けていた。
その中に突然高い大きな波が打寄せて丈吉とその子の二人は波にさらわれ、 その後どこにも二人の死骸はあがらなかった。
それで今でもその霊がさまよい浮ばれずにいるのか、鯨瀬の上で話しをする と急に高い波が打寄せてくるという。(福江市の伝説・民話)
塩釜市 「鯨島」の浄瑠璃  ある夜のこと、朴島の漁師で「平八」と呼ぶ若者が夜釣りに出かけ、鯨島か ら1丁ばかり隔てた海上に小船をとどめて一生懸命に釣りしていた。
すると、不思議にも、あたりに人がいるはずのない海上に、どこからともな く、自分の名を呼ぶ声がする。

この夜更けにこの離れ小島から俺の名を呼ぶわけがない。
多分狐狸の仕業だ ろうと思ったので、平八は気にもとめづ、相変わらず釣りしていると、今度 は耳ぎわで法螺貝でも吹きたてるような大声に変わり、怒鳴りつけられたの で、若者平八の血の気は急に沸き立った。
あべこべに怒鳴りつけると、巌頭 の人声は更に大きくなった。

無人島であるはずの小島に、幾千万の群集とも思える大人数の気配がし出し たばかりか、海上には軍兵を満載した舟が現われ、平八も俄かに恐れをなし 、釣りどころの騒ぎじゃないと、一生懸命に舟を漕いで、朴島に逃げ帰り、 村人たちにこのことを話した.

「われわれ一同で押しかけ、畜生の正体を見届けてやろうじゃないか。」と 相談が忽ちまとまり、次の夜、竹槍・樫棒を用意して昨夜の場所に舟をとめ て、待ち構えていた。
すると昨夜のとおり、鯨島の巌頭から声がして、今まで真っ暗であった海上 一面に、幾百幾千という大提灯が灯され、真昼の様な明るさに変わった中に 、源平両軍、白旗・紅旗をひるがえし、矢弾を飛ばして相戦う光景のすさま じさ。

平八をはじめ漁師一同はあっけにとられて、しばらく呆然と見とれていた。
その上、ご丁寧に浄瑠璃まで入れて見せられたので、漁師一同はとても面白 がった。
と思っているうちに、今までの光景はパッと消えて、以前の闇に変 わり、「今晩は生命だけは助けてつかわすほどに、早々にたち帰れっ。」と いう声だけが聞こえた。

それからこの付近で夜釣りをする者はいなくなった。 時折付近を航行する 舟人が、島の上から上手な浄瑠璃の流れてくるのを耳にすることがあったと 言われている。
(朴島の昔話・伝説)(塩釜市のホームページ) 
南三陸町神割崎の伝説
鯨をめぐる争い
昔々、長清水浜と十三浜村は村境の事でいつも争ってばかりおりました。
ある日の事、海が荒れて大きな鯨が一匹、浜に打ち上げられました。
その鯨をめぐって激しい争いが起こり、あわや血の雨かと言うその夜ドドド ーンと言う大轟音と共に、岬と鯨が真二つに割れたのです。

村人達は、これは神意と感じそれ以来この割れ目を村境として、永年の争い に終止符を打ちました。
神が割った岬「神割崎」として、今も石巻市との境界になっています。
(神割崎の伝説) 
厚岸と白糠 おとり鯨 アイヌ伝説
戦いに利用された鯨
遠い昔のことである。厚岸と白糠のアイヌの戦いで、白糠勢がオトベのチャ シにたてこもり、厚岸勢は攻めあぐんだ。
ついに、厚岸勢は一策を案じ、夜 半に砂で浜辺に鯨の形を作り、その上に魚を置き、油をまいて「寄り鯨」に 見せかけて、そのかげに軍隊を伏せておいた。

夜が明けるとたくさんのカラスが群れ集まってさわいだ。
白糠勢はすでに食 料の欠乏に苦しんでいたので、これを見て「寄り鯨だ!それ行け」と武器を 持たずにチャシを飛び出したところを、厚岸勢のためにさんざん打ち破られ たという。

鯨が波に打ち寄せられて陸に上ることを寄り鯨という。
フムペ ヤン!鯨が陸 に上がったぞ!というとコタンは騒然となり、人々は血相をかえて海岸にか けつけた。

鯨の肉と油は、コタンの人たちにとってかけがえのない大切な食料であった。
また、鯨のひげは楽器の飾りに使われたし、筋(すじ)は弓の糸に加工した と言われている。 (アイヌ語ラジオ講座)
射水市 鯨神輿のいわれ 

鯨(くじら)わけ
むかし、新湊地域の海老江村(えびえむら)に彦兵衛(ひこべえ)という船 頭(せんどう)がいました。
あるとき、彦兵衛(ひこべえ)の夢(ゆめ)に 神さまがあらわれ「海老江(えびえ)の沖に大きな鯨(くじら)が沈んでい る」とつげました。
彦兵衛(ひこべえ)がそこへいってみると、おつげのと おり、約15mもある大きな鯨(くじら)がいました。

彦兵衛(ひこべえ)は、網元(あみもと)の清与衛門(きよえもん)といっ しょに村人にたのんで、その大鯨(おおくじら)をつかまえました。
鯨(くじら)を売ったお金の一部は、里の家々へ「鯨(くじら)わけ」とし てふるまうのが習(なら)わしでしたが、この鯨(くじら)は神さまのおつ げによるものなので、鯨(くじら)わけ分の売りあげ金で神さまにお礼をす ることにしました。

彦兵衛(ひこべえ)たちはそのお金で御輿(みこし)をつくり、加茂社(か もしゃ)におさめ、鯨御輿(くじらみこし)とよばれるようになりました。
(射水市教育委員会) 
波照間島 鯨(くじら)の由来
 牛⇒鯨(くじら)
波照間島にどうしようもない「不精な男」がいました。この男は田んぼ作業 が嫌で嫌でしょうがない人間でした。
ある時、男は多くの牛を飼っていたので自分は働かず、牛ばかりに田んぼ仕 事をさせていました。
牛が上手く田を耕すので男は有頂天になって牛を追い 立ててばかりいました。

ちょうどその時、大津波がせまってきていたのでした。
男が津波に気付いた ときには足元にまで来ていて大声を上げて逃げましたが遂に波に呑込まれて しまいました。
間もなく男は底に沈んでしまい、牛たちはそれでも一生懸命に泳ぎ続けまし た。

波照間島も見えなくなりそれでも牛たちは泳ぎに泳ぎ足を動かしていました。
そのうち前足は胸ヒレに変わり、後ろ足は尾ヒレに変わり鯨になって海で暮 らすようになりました。

秋になると鯨達は故郷の波照間島沖に来ては島恋しさに汐を高く吹き上げて 牛のようにモーモーと鳴いています。
これはもともと鯨が牛だったからだそ うです。これが鯨のはじまりだとさ!
(沖縄国際大学文学部 遠藤庄治教授)
渡嘉敷島 鯨(くじら)の由来 
牛⇒鯨
沖縄本島に近い慶良間(けらま)諸島の渡嘉敷島でも似たような話が伝わって います。 
昔、怠け者の牛は、「陸にいると、人間に使われてたまらん。」  と人間にこき使われるのを嫌がって海に逃げて鯨(くじら)になりました。

ところが、海でもまた龍宮でこき使われたので、龍宮を逃げ出して、渡嘉 敷島の近くに帰り、牛のような鳴き声をあげて、泳ぐようになりました。

龍宮の神様は、鯨が龍宮から逃げ出すと大変怒って、歯の鋭いシャチに、 「鯨は働かずに逃げていったから、追いかけて見つけ次第殺してしまえ。」  と命令しました。
それで、シャチは鯨を見つけると殺すようになりました。

秋になると、慶良間海峡に鯨がやってくるのは、鯨達が故郷に帰ってくるた めで、また鯨が牛と同じような声で鳴くのも、もともと鯨は牛だったからと 言うことです。(沖縄国際大学文学部 遠藤庄治教授)
徳之島 鯨の由来 
片目の鬼子⇒鯨
ウナリとイーリ(妹と兄)はふたりで暮らしていた。 
イーリ(兄)はウナ リ(妹)をおいて旅に出かけた。
二年間の旅を終えて、自分のシマ(村)へ 帰って来てみたら、ウナリがいなくなっていた。
村びとたちが{ウナリは鬼にとられたのではないか」と、うわさし合ってい ることだけがわかった。
イーリは、ウナリのことを諦めることができなかっ たので、今度は、舟を仕立て島のある限り一つ一つ巡り、ウナリの消息をた ずね歩いた。すると、ある島にウナリが、おったんだ。

村びとたちがうわさしていたとおり鬼にさらわれていた。
そして、この無人島に連れて来られ、無理やり妻にされて、片目の子供を生んだそうな。ウナリと片目の男の子は、イーリが、鬼であるアージャが帰って来ても食い殺されないようにとの知恵をめぐらしたそうな。

そうして、片目の男の子はウナリとイーリと一緒に舟を仕立てて島を逃げだ したそうな。
ウナリとイーリは、元の村に帰って、片目の男の子を育ててい たんだって。
片目だから、みんなから鬼の子だと言われ、学校へ行くのをいやがるように なったそうな。
そして、ある日のこと、母親のウナリに向かって、 「僕は 、人並みでないのだから地上では暮らせません。

それで、海中に潜って暮らします。そして、正月の二十七、八日には必ず島 の沖合で潮を吹き上げるから、それを見て、ぼくの元気な姿だと思って下さ い」そう言いのこして、海中深く潜って行ったそうな。
これが、鯨のはじま りだって。(徳之島の民話(昭和43年10月 前田満広さんの話))
八戸 「くじらの八戸太郎」
鯨⇒石・岩
「くじら岩」・
「えびす石」
「えびす浜」
「くじらの太郎様がなくなられたぞぉ。」「いつまでも浜のくらしを守って もらうのだ。」 「おまつりしよう。八戸太郎様をおまつりしよう。」浜の 人びとはそうだんをして、くじらをてあつくおまつりすることにしました。
くじらはそのままくちることなく黒く大きな岩となりました。

土地の人びとは、この岩のことを「くじら岩」または「えびす石」とよび、 八戸太郎が泳いだ浜を「えびす浜」ともよんで、くじらの八戸太郎をわすれ ませんでした。
こうして、熊野から八戸の海にたどりついたくじらの八戸太郎は、ねんがん どおりりょうしたちの神様としてまつられました。

八戸のおしろのとの様も、浜の大りょうの時にはお使いの者をつかわし、こ の「くじら岩」にかんしゃをささげました。
鮫の海べの「西宮神社」のご神体は、この石になった「くじらの八戸太郎」 だということです。   (種差海岸オフィシャルブログ「たねブロ」)
(八戸市小学校国語教育研究会発行「ふるさとの昔っこ(改定版)」八戸地 方の民話集より)
豊後高田市 鯨の石碑がある
呉崎の墓地 
南無阿弥陀仏鯨塔
明治22年7月1日のころ、磯町の漁師佐伯伝次兄弟が、仲間と高田の沖へ 船をこぎ出していた時のことです。
伝次が10メートルもありそうな大きな鯨を見つけました。
伝次兄弟は、大声であたりの漁船を呼び集め、かいや棒切れで追い回し、や っとのことで砂浜まで追いつめました。

さあ、それからが大変です。砂浜に寝そべって動かなくなった鯨をどうした ものか、ほと ほと困ってしまいました。
魚屋に料理してもらうしかあるまいと、魚屋の仙太郎に来てもらうことにな りました。
 仙太郎が、「えいや」とばかりに背中に太刀を突き刺しました が、前にも後ろにも引けず、とうとう鉈や斧でどうにか処分しました。

呉崎石部の墓地には、「南無阿弥陀仏鯨塔」と記した石碑があり、この鯨の 骨を祭っています。
今でも誰が詣でるのか、毎年盂蘭盆会には線香と花が供 えられているとのことです。
(民話説明板より)
串本 鯨のお礼 子供が鯨を助けた話 海中公園のある串本町有田稲村に昔、ふさ吉という子供がおった。
ある時ふさ吉が浜に出るとクジラの子供が磯に打ち上げられて死にかけていた。
ふさ吉はかわいそうに思ってこの子供を助けてやった。

しばらくしたある日のこと、ふさ吉がまた浜に出ていると、沖からこの前のクジラが大きなお母さんクジラの背中に乗ってやってきた。
お母さんクジラは、子供を助けてくれたお礼にと、ふさ吉を背中に乗せてすごい勢いで海を泳ぎだした。

やがて遠い遠いアメリカの海岸に着いたクジラは、ふさ吉をそこに降ろすとまた戻っていった。ふさ吉が上陸したところは見たこともない様な大きな木が生える森で、そこでふさ吉は森の神様から一本の木をもらい、その木にまたがって再び稲村に帰ってきた。ふさ吉が死んだと思っていた村人は大騒ぎ。

早速その木をききんの時にお世話になったお金持ちの家に贈り、お金持ちはその木で家を建てた。(和歌山県「復刻版 紀州民話の旅」より改変) 
金毘羅詣での鯨
夢枕金毘羅詣り
親子鯨  祟り
このあたりが、まだ呉浦と言われていたころの話です。
漁師町だった和庄 (わしょう)に、誰もがうらやむほど大きな網元(あみもと)がありまし た。
ある時、何日も時化(しけ)が続き雑魚(ざこ)さえ獲れなくなりま した。
網元は困り果てていましたが、ある夜、夢に鯨がでてきました。

「あすの朝、呉沖を鯨が三匹通ります。しかしこれを捕って下さいますな、 夫婦鯨が子鯨を連れて金毘羅(こんぴら)詣りをするのだから。
見逃して くれたら帰りに捕らえられるから・・・・・」ふと目を醒ました網元は妙 な夢を見たものだと、ひとり思案にふけりました。 

漁師仲間では「金毘羅詣りをする鯨を捕ってはならぬ」という昔からの厳 い掟がありました。
網元は「夢枕というのは本当なのか」と審(いぶか)しみながら、まどろ む夜を明かしました。
夜が明けるころ「鯨よう、鯨よう」と浜を突っ走る 漁師の声が聞こえました。

ハッとした網元は「捕ってはならぬ」と漁師共に言い聞かせようとしまし た。
しかし、その時網元は良からぬ考えをおこしました。
「この不漁続きに、 鯨三匹、この俺さえ黙りこくっておればよいのだ」そうとっさに腹を決め ました。

櫓拍子そろえ大漁幟を押し立てた威勢のいい漁船はやがて黒山のような鯨 三匹をゴッサゴッサと引きづって浜へ帰ってきました。
和庄の浜一帯は久しぶりの祝い酒に酔いしれました。
ところが、それから網元は毎夜毎夜うなされ始めました。

大木が枯れるように、あれほど大きかった網元も見る見るうちに落ちぶれ ていきました。
「上りの鯨はとってはならぬ」と、それを今更のように浜 の人達も悔い改めましたが、それからは金毘羅詣りの鯨は呉沖を通らなく なりました。 (呉の民話 金毘羅詣での鯨)
白浦 母子くじら 夢枕
親子鯨 祟り
昔々、奥熊野の入り江に、鯨を捕って豊かな暮らしをしている白浦という 漁村があった。ある年鯨が全く捕れなくなった。
そんなある日の夜、常林寺の和尚さんの枕元に美しい女性が現れた。

「明日私は、子を産むために南の海に行きます。前の海を通りますがどう か私を捕らないでください。お願いします」 と言って消えた。
明くる日 和尚さんは、夢の中の女性は、母鯨だと思い、漁師達の家へ知 らせに行ったが、もう皆漁に出たあとだった。

 その頃一人の漁師が鯨を見つけた。
皆は、いっせいに鯨を船で取り囲み 手はずよく鯨を捕った。
久しぶりの大漁に喜びながら船が戻り、大きな鯨が捕れたことで、村人が たくさん集まった。
早速さばいてみると、和尚さんが夢で見たとおり、お 腹の中にこくじらが入っていた。 

それからこの村では、病気になる人が増えた。
また海が荒れて多くの人が亡くなった。
村人は白浦の丘に母子鯨の立派な墓をつくり手厚く弔った。
それから悪い出来事は、おこらなくなったという。
(古老の話/民話) 
佐賀県呼子 龍昌院建立の伝説
「鯨が建てたお寺」
親子鯨
祟り
ある年の元旦、羽差の一人が夢を見た。
その夢は親子連れの鯨で、弁天島 (呼子湾の入り口にある小島、弁財天を祭ってある。)にお参りに行く途 中だ。
それで今だけはどうか見逃してほしい。(一説には、自分の腹に子 供を身ごもっているのでこの子供を産むまでは)と懇願している様子が夢 枕に現れた。

夢から覚めた羽差は大急ぎで漁場に出かけて捕らえるのをやめさせようと したが、ときすでに遅く、他の羽差が「はらみ鯨」を(別説では仔鯨)捕らえて息たえさせていた。
というその羽差の残念がること甚だしく、我 が家に帰ったところ、平素は梁の上高く、しかも頑丈にしまっていたはず の鉾が我が子供の胸に突き刺さり、すでに息絶えていたという。

以来、その羽差は落胆のあまり発狂し我が子の名前を呼びながら自殺した という。
それで、その鯨の霊を慰め供養するために鯨1頭分の代価全額を当てて建 立したのが現在の龍昌院である。

2代目甚六も当初から富豪であったわけではなく、借金取りから追われて 裏山へ逃げ隠れしていたとも伝えられている。
そのとき握り飯を持って隠 れていたらしい。
この頃を忘れないためにこの龍昌院を建立したさいに、屋根の鬼かわらに 握り飯の形を表して語り伝えようとした。実際に三角形の形の印が見える。
  (呼子ネット) 
山口県仙崎 鯨の霊崇拝と鯨回向
親子鯨
祟り
大津郡仙崎町に、殿村某という素封家が鯨組を経営した。
夢枕に「明日は子鯨をつれてこの沖を通るが、どうぞ子鯨だけは、捕えぬように見のがしてくれ、その代わり、帰り道にこの夫婦がお前の網にかかるから」と、しかし殿村は鯨の親子もろとも殺したので、その家は祟りでついに家が傾いてしまった。

これは鯨の霊信仰が生んだ一つの伝説。通浦は鯨捕りの盛んなところで、向岸寺抱えの観音堂の中には元禄5年に安置した鯨の位牌がある。
仙崎の寺にもこれがあって、毎年三月鯨回向として参詣する者が多い。
鯨の胎児の「鯨墓」も有名である。  ( 「大津郡志」より) 
長崎県福江市 紋九郎鯨の伝説
白鯨
祟り
捕鯨の網元紋九郎は、7年になる不漁から脱しようと、昔、人をとって食っ たという鬼神に丑刻(うしのこく)参りを続け満願の夜、夢に不思議なお告 げを受ける。
それは、大漁と引きかえに若い息子の甚九郎の血がほしい、というお告げで あった。

次の夜、又、不思議な夢を見る。
さざえ島と崎山鼻との間を抜け、白浜めがけて泳いで来た三十三尋(ひろ) もある白鯨が「紋九郎よ、私は祈願があって大宝寺参りする処じゃ。
明朝早く崎山沖を通るが、その時は必ず見逃せよ。」その夜明け、夢の通り 巨鯨が崎山沖に現われた。

紋九郎の制止もきかず、息子の甚九郎も他の舟子も沖に出て、白鯨に挑んだ が、白鯨は、逆に網舟に襲いかかり、多くの舟子と共に甚九郎も尾ひれに打 たれて死ぬ。
それを見て、父紋九郎も狂い、鯨に挑み、命を果たす。

巨鯨も又、命たえて、浜に打ち上げられる。
その鯨を人は「紋九郎鯨」と呼び、上崎山では旧正月16日、鯨踊を奉納するという。
伝説が見事な物語となって甦っている。
(田中正明)(「紋九郎と鯨」 「五島物語」) 
和歌山県 面白話『山におった鯨』
鯨と猪の入れ替わり 
ずっと昔、まだ鯨(くじら)が海でのうて、山に棲(す)んどったころの話や。
山の神さん、朝からせわしのう、木ィを数えておらしたと。
「兎山(うさぎやま)の木ィも今年は立派(りっぱ)やし、むじな谷の木ィも 上々や。

はてさて、鯨山はどないやろ」山の神さん、ほくほく顔で鯨山まで来なさった。
するとどうじゃろう。
木ィという木ィが根こそぎ横倒(よこだお)しになっとった。
まるで嵐(あらし)にでも会(お)うたようじゃったと。

「こりゃ、いったい何としたことや。
鯨、鯨、おまえまた大あばれしょったな」 神さん、えらい怒ってゆうたそうや。
すると、鯨が、小さい目ェに涙いっぱいためて言うにはな、
「こないに図体(ずうたい)が大きゅうては、あくびひとつで枝は折れるし、
くしゃみふたつで木ィが飛ぶし、どないもこないも・・・。
えらいすまんこ とです」 あんまり鯨が泣くもんで、これには山の神さんもほとほと困ってしもうた。

「そうか、そうか・・・。おお、ええことがあるわい。
ひとつ海の神に頼んでみよう」そう言うて、一番高い山に登ると、 大(おっ)きな声で怒鳴(どな)ったそうや。

「おおい、海の神よ―。わしんとこの鯨、おまえの海で預かってくれんかの――」
すると、しばらくしてはるかむこうから、海の神さんの声や。
「おお、よかろう。なら、ちょうどええ。こっちもひとつ頼みじゃ。
わしん とこの猪(いのしし)が海の魚荒しまわって困っとる。

おまえの山で預かってくれんかの――」
その頃は、猪も海におったんやと。
こうして、二人の神さん相談(そうだん)してのう、鯨と猪をとりかえっこ しょったそうや。

それからちゅうもんは、鯨は広い海でゆうゆう暮らすし、猪は猪で山でガサ ゴソ暮らすようになったちゅうことや。 
そやさかいに、今でも鯨と猪は、よう似た味のするもんやそうな。
(フジパン株式会社)
※熊本にも同じようは民話があります。
伊原市 鯨田物語「クジラのしわざ」
面白話 
「潮吹き」と「島」
大むかし、井原盆地(井原市)が、まだ安那の海とよばれていたころ、今の 市民病院のあたりは鯨田と呼ばれていました。
あるばん、若い二人の男女が、丸木船のかげで時のたつのもわすれて語り合 っていました。

星が一面にかがやいていました。
ふと、夜もかなりふけかけたことに気づいた二人は、あすの晩も会う約束を して立ちあがりました。
そのとき、とつぜん頭の上の方から、雨のようなものが降ってきました。

二人は、空を見上げましたが、空はいちめんの星空で雲一つみあたりません。
ふしぎに思った二人が沖をながめると、今まで何もなかったところに、小さな 島がぽっかり浮き出ていました。
おどろいた二人は、村の長老の家にかけこみました。

信じられないという顔で聞いていた長老も、おどろいて、二人とともに浜辺に かけつけてみましたが、そのときには、二人が見たという島は、もう消えてし まって何もありませんでした。
長老は、それでも心配になって、さっそく村人を集め、相談した結果、巫女に うらなってもらうことになりました。

巫女は、「これは、村によくないことが起こる前ぶれです。
それを防ぐためには、最初にこのふしぎなできごとを見た二人をいけにえとし て神に供え、神の御心をしずめなければなりません。」とつげました。
二人は、ふりかかった身のふしあわせに毎日毎晩なき悲しみ、 食事ものどを 通らぬありさまでした。

しかし、やがてそのなみだが かれはてるころ、二人は村人のために死んでゆ けることに喜びを感じ若い命を神にささげたと言われています。
言うまでもなく、二人の見た島と雨というのは、安那の海に迷いこんだクジラ のしわざであったということです。
  (伊原の民話) 
  

※場所は市町村合併により変更があります。