日本の鯨文化:鯨に関わる伝説・逸話(2)



地域 くじら伝説など 言伝え内容
太地 「子持ち鯨は夢にも見るな」
格言
戒め 
「背美の子持ちは夢にも見るな」という格言は背美鯨の母子の場合には捕鯨を 行わないという「戒め」の言葉である。
子鯨を守る母鯨は危険で事故が起き易いこと、又 子鯨が死んでしまうという哀れさと資源保護の観点から言われたもの。
明治十一年(1878年)の漂流事故で太地鯨方が壊滅した時の背美鯨 は巨大であったためか多くの人が亡くなりました。
安房勝山 「絵馬奉納・鯨塚建立」
神魚・恵比寿神として崇拝 
「絵馬」は鯨に対しての感謝と供養の気持ち、鯨大漁・海上安全祈祷をこめて 奉納し「鯨塚」は漁が終わるごとに鯨組の漁師、出刃組たちが一基ずつ弁天様 に奉納したものと言われています。(町報歴史資料館)
寄り鯨・流れ鯨・鯨に 助けられた場合などにたてられました。 
明浜 「村人を救った鯨」
 戒名を与え鯨塚建立
天保年間、明浜沖に突然大きな鯨が流れつき、食べ物がなくて困っていた村人たち は、これを捕らえて食糧とし命をつなぎました。
村人の窮地を救った鯨に「戒名」を与え、鯨塚として浜辺に3基(高山、俵津、宮野浦)、立てられました。
(あけはま伝説)(明浜物語(3つの伝説)) 
宇和島 「弘法大師伝説」
鯨大師 
弘法大師は離島九島鯨谷に願成寺を開かれ、「鯨大師」を作られたものの海を渡っ て九島までお札を納めに行くのは不便と宇和島の海岸にあった渡し場に遥拝所を設 けられた。
そこに馬目木(ウバメガシ)の枝を立てておかれたら、いつしか根づい て葉がしげるようになったという。
現在もお堂と馬目木が残り、土地の人々の深い 信仰の対象となっている。鯨大師の由来は鯨谷にあったためとも推察されます。
(宇和島市観光協会) 
下関 「イルカの泳ぐ方向で平家が
武運を占ったという逸話」 
源平の時代には壇ノ浦の合戦においてイルカの泳ぐ方向で平家が武運を占ったとい う逸話もあります。
イルカたちが平氏の前で引き返せば平氏の勝利,平氏の下を通 過したら源氏の勝利とでました。
イルカたちは,平氏の舟の下を通過し、結局,源 氏の勝利となったそうです。(伝統捕鯨に関する下関宣言) 
仙崎 「鯨が捕れた時、鯨唄を
手をこすり ながら
歌い、決して叩かない」 
昔、鯨を素手で捕っていた頃、鯨が捕れた時、鯨唄を手をこすりながら歌い、決し て叩かないそうです。
理由は「捕れて嬉しいが、鯨のかわいそうである」との回向 の気持ちの現れだといわれています。(長門市観光協会) 
名古屋他 「鯱鉾シャチホコの起源」  昔、日本や中国では火災が起きると消火する方法がまったくなかったのですべてを 焼き尽くす火災は人々から大変恐れられていました。
そこで、剣鉾のような鋭いひ れを持ち虎のように凶暴で鯨まで切り裂いて食べてしまい、さらに泳げば大波を立 てて雨を降らせると信じられていた「鯱」は高層の天守閣にうってつけの飾りでし た。また、干ばつに苦しまないように天に一番近い建物の最上部に水に縁のあるもの を置いたともいわれています。(名護屋城紹介サイト) 
安房・江戸 「凧のうなりを鯨とも云う」
「上総とんび」
「江戸角凧」 
「上総とんび」は、土地の材料を使用しているのが特色。房州雌竹の骨に和紙をは り、地麻で補強、音を競うために「うなり」を張る。
「うなり」の材料は「鯨の髭」をテープ状に熱加工をしたものだった。豊漁のお礼に「万祝」の装いで守護神、玉 前神社に詣でた。
この万祝をヒントに考案されたのが「上総とんび」。「上総とん び」は万祝のシンボルとして九十九里の村々で揚げられた。
(Welcome to Kumi's Room from Yotsukaido )

「江戸角凧」長い「うなり」を付けて揚げるのは江戸角凧の特徴です。弓矢の 弓のようなものに籐をテープ状に裂いて張り、凧の頭に乗せて揚げます。
籐は風を 受けて震え、ブーンと唸ります。昔は籐の変わりに「鯨の髭」を裂いたものや動物 の皮なども使われたようです。
千葉の袖凧などはうなりの事を今でも「くじら」と 呼びます。名古屋の蝉凧、マレーシアの凧にも「うなり」がついている。 
(Mikio Toki)
長崎 「福を運ぶ」という伝承
 宮本武蔵と巨鯨
 鯨重
 長崎くんち・鯨の潮吹き 
「福を運ぶ」という伝承もあることから、長崎では正月料理に鯨を使う 鯨料理を 重箱に詰めたおせち、すわなち「鯨重」で、その他、雑煮などのも「鯨=めでたい」 という構図からか、鯨は長崎の祭事にも登場します。
江戸中期に始まった伝統的な 祭り「長崎くんち」長崎市万屋町の「鯨の潮吹き」や小ケ倉町の「鯨舟」など。
『鯨カツ弁当』のパッケージには歌川国芳の勇壮な浮世絵「宮本武蔵と巨鯨」が描 かれています。かつて肥前の国を訪れた武蔵が、海に出て鯨と格闘したという伝説 にちなんだ作品。(ekispablog)
小川島 長崎くんち
「鯨の潮吹き」起源 
鯨鯢供養塔 
中尾氏が小川島を本拠地とし、西海捕鯨によって呼子の小川島は繁栄した。
その繁 栄振りは、長崎くんちの「鯨の潮吹き」は3代中尾茂啓が中心となって作られた、と の逸話も残っている。
鯨の供養のために建立された鯨鯢供養塔は、今でもその面影 を伝えている。
鯨(雄のクジラ)鯢(雌のクジラ)のことで、「ゲイゲイ」と読む。
(Wikipedia) 
長崎県壱岐市 鬼ヶ島伝説
「鯨をすくう鬼の足跡」
郷ノ浦町の西端、牧崎の先端にある。玄武岩の海蝕崖の絶壁上に広がる草原に、ぽ っかり開いた周囲110mの大穴。
これは途方もなく長い時間をかけて波が浸食した海 蝕洞の先端部が、陥没してできた穴である。
壱岐を代表する景観で、地元では、大 鬼のデイが鯨をすくい捕るために踏ん張ってできた足跡で「鬼の足跡」と呼ばれている。
この時のもう片方の足跡は勝本町辰ノ島の蛇ケ谷にある足跡である。
牧崎の海岸に突き出たにんまり笑うゴリラ岩が愉快だ。(壱岐市役所観光商工課) 
相差 鯨に乗った観音様  青峰山 正福寺の本尊・十一面観音は西暦736年今から約1250年前に鯨に駕して 相差白浜の鯨岩に出現したといわれています。
1寸8分の黄金仏で、碑は出現場のすぐ上の鯨山に建立されています。7/14には「鯨祭」も行われます。(鯨崎遊歩道) 
生月 相撲取り生月鯨太左エ門   「生月鯨左エ門」は、その名の通り長崎県は生月島の出身。鯨のように大きいとい うことから、当時の松浦公が「鯨左エ門」と名付けた。
日本一と言われるだけあっ て、身長はジャイアント馬場さんもビックリの7尺5寸(2m27cm!)体重は45 貫(約170k)手はヨコ12cm、タテ26.5cm、もっとスゴイのは足で1尺(約33 cm)まさにジャンボサイズ。
子供の頃、米俵を両肩にひょいと載せて歩いたという 逸話も残っている。
実際は相撲取りというよりも、その巨漢で人気を集めた看板役 者だった。
お墓は生月町内 の法善寺にあるが、墓石は彼の背丈に見合うように、 やはり特大。(よっ、日本一!の相撲取り)
宮崎 枇榔島 美女ヶ島 鯨⇒美女 枇榔島は、門川湾の沖合い6キロメートルに浮かぶ、面積4.12ヘクタールの小 島で、ビロウ樹があったことから名づけられたといわれています。
また、伝説には、神武天皇の軍船が、1頭の鯨を仕留めようとすると、鯨は「美女」に 変身し、今、 子供を産むところだからと助けを求めました。
そして、美女は鯨の姿に戻って島影 に消えたともあり、別名「美女ヶ島」とも言われています。(庵川漁業協同組合)
壱岐  鯨石参詣  壱岐を代表する玄武岩、地下の岩盤の一部が地上に出ているものです。
地上に出て いる部分の長さは7m。かつて、鯨組の漁師達は、大漁祈願のためにこの石に参詣し たといいます。
この石にお祈りすれば、大漁になるという言い伝えがある。鯨石と 呼ばれていて、大海原を泳いでいる鯨の背中のようにも見えます。
(壱岐の捕鯨)(鯨岩) 
酒田 クジラの名は「安隆寺」
 坊主
出羽の国の最上川の河口、酒田の近辺の磯に、体長二十メートルあまりの黒い鯨が 寄りついた。
背中に大きな字で「安隆寺」と書いてある。腹には人の両足があって、草鞋 を履いている。
坊主の道具が一式、やはり腹の中に入っていた。人々はあれこれ詮議して、『この名の寺はどこにあるのか』と調べたところ、酒田の町に、た しかに安隆寺という一向宗の寺があった。
その寺の坊主は人並みはずれて強欲で、 好き勝手のし放題だったが、三年前に五十歳過ぎで死んだ。越前の敦賀に向かう船 旅の途中、船が難破したのである。
背に銘がある以上、この鯨は安隆寺の坊主にま ちがいない。そうとわかって、鯨を喰う者もなく、油も採らずに打ち捨てられた。
(あやしい古典文学 No.43)
油津 油津の港物語
 飢えを救った鯨
 鯨魂碑
江戸時代に、大嵐のため、油津の漁師が飢えに苦しんでいたとき、鯨が打ち上げら れて、助かった。
鯨は子どもを宿していたために、油津の人々は、親鯨の目玉と子 どもを葬り、鯨魂碑を建てて、鯨に感謝した。(「油津の港物語」宮崎県日南市)
太地 「鯨えびす」
福の神」
網囲み突き取り法
七福神で知られる恵比須さんは、海上、漁業、商業などの神として広く信仰を集めているが、この地に伝わる「えびす」は、鯨で名を売った男の話。
昔。まだ太地の人々が鯨の捕り方を知らなかったときのこと。
悠然と泳ぐ鯨の群れを見ていた和田頼治という男が、大きな網で鯨を追い込み、モリで撃ち捕ることを考えついた。
頼治は多くの漁師を指揮して、つぎつぎと大鯨を仕止めていったのだが、そのうち、 だれいうとなく頼治を「鯨えびす」と呼ぶようになったという。 
ところで、鯨そのものを「えびす」と呼ぶ地方がある。
サメやイルカ、はては海で拾った石までも、そう呼ぶところがあるとも。
つまりそれは、豊漁をもたらしてくれる「福の神」という視点から生まれたものであり、そこには素朴な信仰さえあったのだろう。
(紀州 民話の旅)
那智勝浦 海中の井戸  鯨の汐 紀の松島で知られる勝浦湾に「モグラ水道」と呼ばれる水脈が走り、海底から真水が わきでている。全国でも珍しい海中井戸だ。
文覚上人(一一二○〜?)が那智の滝で の荒行に行く途中のこと。
一頭の鯨が巨大なシャチに追われているのを見た上人、手にした金剛杖を投げて鯨を救った。
そして那智の山にさしかかると、こどもたちにいじめられているモグラを助け、こどもからはアメをもらった。
やがて行をはじめた上人、邪魔をしにきた天狗にアメを与え、深い滝ツボはモグラの協力で水を抜いてもらった。
さらに滝でおぼれかけたモグラを助けたのは、あのときの鯨だった。 鯨がいまも水を噴き上げるのは、その時、水を吸ったためだからという。(紀州 民話の旅) 
太地町 雪鯨橋の由来  1756年(宝暦6年)に瑞光寺4代目住職・潭住知忍(たんじゅうちにん)が、南紀太地 浦(現在の和歌山県太地町)に行脚した。
太地の村人は捕鯨で生計を立てていたが、折からの不漁のために食べるものにも困っている状況だった。
村の代表者が潭住に豊漁祈願を依頼したものの、潭住は「殺生は仏教の教えに背く」として一度は断った。
しかし村人の困っている様子を見て豊漁祈願に応じることにした。潭住が祈願をはじ めたところ豊漁となり、村の危機は解決した。
後日、村人は瑞光寺を訪問し、お礼として黄金30両とクジラの骨18本を寄進した。
潭住がクジラの供養のためにクジラの骨を使って橋を造ったことが雪鯨橋の始まりとなった。(Wikipedia) 
志摩市大王町 鯨石 鯨お腹から出た石 鯨の腹から出た石は波切神社の鳥居をくぐって右手にあります。昔は、波切でも捕鯨が行われていたらしく。
ある日、捕まえた鯨を解体したところ、大きな卵型の石が出てきて、漁師たちを驚かせたそうです。
そこで、漁師たちが、神のたたりを恐れてこの石を波切神社に祀ったそうです。
(パンフレット:波切の民話と史跡景勝地を訪ねてより) 
熱川 鯨の岩・猪の岩・亀の岩  昔から片瀬の衆と奈良本(現在の熱川)衆は色々なものを交換して仲良く生活していました。
しかし、いつも交換できる物があるというわけではありません。
ときには土地と漁の成果を交換することもありました。
この岩は、当時の貴重なタンパク源であった鯨や猪、べっこうの材料として貴重だった亀をお互いの里が土地と交換したこと を忘れないように証文として残したものです。 
日本 ? 「山の鯨・海のいのしし」
ストランディング 
鯨はもとは山に住んでいて「今でも鯨は、ときとして群れをなし、山の見える浜やい そに乗り上げる」のだそうだ。
そうだったのか。それで集団自殺に見えるようなことをするのか。
([ 民話(伝説・昔話) ]??「日本の民話 1 動物の世界」 【瀬川拓男・松谷みよ子】) 
佐久穂町 「千曲川を上った鯨」  大むかし、鯨が千曲川を上ってきた。 (信州の民話伝説集成)
<鯨羊羹>  
佐土原 くじらようかん(鯨羊羹)
の由来 
鯨羊羹の起こりは、元禄時代島津氏五代藩主、惟久公の世継、忠雅公出生の折「世に 出ては王者の風格をもて」と菓匠に命じて鯨を影どらせた蒸しようかんを献上させ以 来佐土原藩では、毎年端午の節句に縁起物とする事を例とするようになったものです 。(宮崎市佐土原町の くじらようかん(鯨羊羹)) 
尾道市 くじらようかん(鯨羊羹)
の由来
おばいけ 
中屋のWebサイトの説明によれば,「鯨羊羹は古来から日本で食された鯨の表皮の黒い 部分と白い脂肪層の食べ物「おばいけ」の姿に見せかけた羊羹です。
昆布と寒天など を混ぜて黒皮を、道明寺糒(どうみょうじほしい)と寒天・砂糖で白い脂肪層を表現 しています。」とあります。宮崎県の佐土原にも「くじらようかん」があります。
同じ様なネーミングですが,形状や食感も異なる和菓子のようです。
(夢楽の風まかせ) 
<鯨餅>  
東北地方 
鰺ヶ沢
山形県 
浅虫
鯨餅の由来
久持良餅
久慈良餅
くじらもち 
鰺ヶ沢(青森県)では「鯨餅」と書き、山形県では「久持良餅」、浅虫(青森県)で は「久慈良餅」の字を充てる。
江戸時代の京の「鯨餅」は、うるち米の上白粉・氷砂糖の粉・餡・葛粉で出来ていた。
こんにちの「くじらもち」とは少し様子が違うようで、ようするに白と黒の二層になった棹物である。その断面を見れば、黒い皮の下に白く厚い脂肪のある鯨の皮の断面に良く似ていた。
「鯨餅」という名前の謂れは、その形状にあった。
この時代の「鯨餅」には、黒黄白の三層にするものもあったらしい。
黄色を何によって出すかは、書物には書かれていない。また、断面が富士山に見えるように作るやり方もあった。「富士鯨」と言う。
いまでも山形県や青森県で、「くじらもち」が盛んに作られている。(夢楽の風まかせ)  
新庄市 鯨餅の由来 
"くぢら餅" 
久持良餅
名前の由来には、漢字で書くと「久持良餅」となり、久しく持ちが良い食べ物で、保 存食の意味と、その形が鯨肉に似ているから「鯨餅」と言うのもある。 
(新庄市商工観光課)
八戸
東通 
大畑・大間 
函館・松前
くじらもち  包み紙には、「港名産 八戸太郎 鯨餅」と書かれています。
花くずらは、花を象っ た「鯨餅」という意味。
東通では「べこもち」を「鯨餅」と呼び、大畑や大間の手が ける以前から作られていたという。
鯨餅が、函館や松前にもある。日本海を伝わって きた鯨餅が、北前船の終着点で絵柄紋様になったことは面白い。(ひがしどおり「し おさいラーメン」(東通村)) 
江戸 虎屋の鯨餅  鯨餅. これは鯨の皮に見立てた餅だそうで. 虎屋の古文書『御菓子之畫圖』(1707)を .ひもといてつくってみたということでした。虎屋の創業は室町時代 (約480年前)。 
日南市 親子鯨と鯨餅 
鯨魂碑 
村人を救った鯨
漁村油津は嵐が幾日も続き、漁民達は漁が出来ず困り果て、家族は餓死寸前であった 。
そこに大きな鯨が迷い込み、飢えていた人々は村長の許しも待ち切れず、梯子をかけてよじ登り皆で分けあって飢えをしのいだ。
話を聞いて近郷の農村から人手があり、飢饉にあえいでいた百姓衆の飢えもいやした。
大鯨は七浦の民を救った。この大鯨 は子どもをはらんでいた。人々は親鯨の目玉と子ども鯨をねんごろに葬り、供養した 。
それ以来、油津を中心とする七浦は豊漁が続き人々は幾久しく飢えを知らず栄えたという。
猟師たちは鯨の霊を漁業の神として仰ぐようになり、毎年五月の節句には近郷の農村 から寄せられた餅米をひき「鯨もち」をこしらえて感謝の心を込めて“鯨魂碑”に供 え、油津の漁家は代々、この風習を受け継ぎ豊漁を祈願した。
「鯨餅」は、米の粉で 長さ15cm、幅3cmくらいのロール巻きで中にあんこを入れ、くちなしの実の黄 色い汁で二本の線をひき、鯨にみたてた。
(「油津 海と光と風と」(NIC21編) より「南那珂の伝説」) 
  
<特別付録>  
山梨 オリンピア( 巨峰×巨鯨)  ぶどうの品種、幻のぶどうとも云われました。巨峰×「巨鯨」の交配。紅い炎の色と 、その若さと情熱を表した品種として、あらゆるぶどうの中で最も美味しく日本民族 の誇りであるから、また、オリンピック開催の年でもありオリンピアが良いのではな いかと提案があり、満場一致で名前がオリンピアに決まりました。
(上原邦吉のオリンピア) 
  
  

※場所は市町村合併により変更があります。