タイトル サイダーハウス・ルール
著者 J・アーヴィング(訳:真野明裕)
出版社 文芸春秋
価格 上・下1600円(今は文庫版あり)

 アーヴィングという作家は、日本では村上春樹っぽい人だと思われがちで、現に村上が翻訳している小説もあるくらいだから仕方ないのだけれど、よくよく読むと、実は対極にある作家のような気がする。
 確かに、登場人物が殆ど全てエキセントリックであったり、不条理な状況がこれでもかと出てきたりするところは、村上もアーヴィングも同じだけれど、村上の小説が、結局は「いかにかっこよく絶望するか」なのに対して、アーヴィングは「どんな不条理の中でも希望すること」を追い求めているような気がしてならない。私は実はアーヴィングの作品は殆ど全て好きなのだけど、一番好きなのはどれかと聞かれると、ちょっとだけ「ホテルニューハンプシャー」に未練を残しつつ、「サイダーハウス・ルール」かな、というところだ。

 かつて、インターネット前夜に流行った通信手段にパソコン通信と呼ばれる物があって、個人が自分のパソコンをホスト局にして電話回線と繋ぎ、BBSを運営していくというのが主だった形態だったのだけど、そうした草の根(個人で運営するホストをこう呼んでいた)BBSの一つに、最初のTeaRoomCHACOは置かれていた。これは私が運営していたホストではなくて、ホストの管理者のノリとご厚意でシグの一つとして置かれていたのだが、ここにしばしば書き込んでくれる青年が、ある日こんな書き込みを残していった。
 「サイダーハウスルールを読んだ人、いますか。どんな風に思いました??」
 実は、サイダーハウスルールは一人の少年の成長の物語なのだけど、そのなかで主人公が関わり、拒否し、最期は受け入れる主要なキーワードに「堕胎」がある。だから、こんな質問を若い男の子からされると、当時は私も若い女の子だったのでどきどきする。

 主人公の少年は孤児院で育つが、この孤児院の医者は当時(物語の時間は、アメリカで中絶が合法化される1970年代以前に設定されている。)のアメリカでは非合法であった堕胎をこっそりとしている。でも、それは決して営利のためではなくて、望まない妊娠をしてしまった弱者である女性を救済する最終的な方法であるのだけれど、その医者の行為を潔しとしない主人公はやがて自分を後継者にと考える医者と孤児院から旅立ち、様々な経験を経て、やがて、思いもかけない形で、自ら医者の後継者となり自身もまた弱い立場の女性を救済するための堕胎医となるべく孤児院へ戻って行く。
 中絶−堕胎にあまり深刻な罪悪感がないこの国と違って、WASPの考え方が道徳観の規範となっているアメリカでは、フェミニズムという考え方が出現するまでは中絶は絶対的悪であった。だから、主人公が彼が父親とも慕う医者の行為を、しかし受け入れられないのは、日本人にはわかりにくいことだけどアメリカ社会では当然のことだ。だから、彼はアメリカの底辺をさすらいはじめる。季節労働者として農園で働き、戦争を経験し、友人の恋人を愛し、長い年月の果てに、彼は、社会の不条理の中では、建前の上では大きな罪悪のように見える行為も一つの救いになりえるのだと言うことに気が付くのだと思う。

 サイダーハウスルールについて書き込んだ青年は、中絶をした彼の友人にどう言葉をかけていいのか解らなくて、たまたま好きだったアーヴィングの小説を繰り返し読んだのだと言っていた。いくら罪悪感が希薄とはいえ、やはり中絶という行為は深い傷を女性に残すから。まして、彼の友人は中絶とともに相手の男性と別れたらしい。
 何故、主人公はあれほどいやがっていた堕胎医に、最後はなるのでしょうね、という彼の問いに、うまい表現ではないけれどそれは主人公の贖罪のように思うと私は答えた。それが、彼が犯してきたうらぎりや、人を傷つける行為に対する贖罪になるのかどうか、私には今でも解らないのだけれど。
 だけど、あれからずいぶんと時間が過ぎて、もはや20代前半の純粋さを残した時代から遠く離れた私たちは、たぶん裏切りや、人を傷つける行為を自らもまた犯してきただろう。そして、その上でもなお、希望をなくしたくないとすれば、社会の建前などではない、なにか本質的な物があるのだと、少しは解ってきたかもしれない。
 今はもう行方のしれない彼が今でもアーヴィングを読んでいるとしたら、私は彼と、年月を経てより深く感じる不条理のなかで、それでも希望していくことの困難さと尊さをもう一度話したいと思う。