タイトル | イシ −二つの世界に生きたインディアンの物語− |
著者 | シオドーラ・クローバー 訳:中野好夫・中村妙子 |
出版社 | 岩波書店 |
価格 | 2800円+消費税 |
何年も後に、遠い世界に住む人々までが、かつてヤヒ族がどんな言葉を話し、
どんな神々や英雄をあがめていたか、また、どんな<生きかた>をよしとして
いたかを知ることができるように・・・。
掲げた言葉は、著者であるシオドーラ・クローバーがこの本を書いた目的で、本の冒頭に書かれていた言葉だ。ヤヒ族というのはアメリカインディアンの一部族で、アメリカのゴールドラッシュと並行して白人たちに狩られ、20世紀初頭に絶滅してしまった人たちである。この本の主人公、イシは、その最後の一人となった。彼はその生涯の大半を白人の社会から隠れて生き、やがて偶然の発見によって白人社会に連れ出され、カリフォルニア大学の人類学博物館で手厚い保護を受け、同時に研究対象の資料にもされ、その生涯を終える。実在の人物である。
著者のシオドーラ・クローバーはアメリカの人類学者だ。夫のアルフレッド・クローバーはイシが晩年を過ごした博物館の研究責任者で、イシと親しい人物でもあった。二人は生前のイシから聞いた彼の生涯を一冊の本として刊行する計画をしていたが、計画の半ばでアルフレッドは他界し、イシの生涯はシオドーラの手によって出版された。もともとは大人向けの専門的な書であったが、シオドーラの手によって子ども向けに書き直されたのがこの本だ。
本の最初は、イシの少年時代から始まる。彼は、母親、祖父母、叔父、年下の従姉妹、年上の青年と暮らしている。彼の父親は、ゴールドラッシュで彼らの地に進入してきた白人に殺された。従姉妹や青年の村も、白人によって虐殺されてる。生き残ったヤヒ族はこの時点で彼らしかいないようだ。彼らは、白人がこない山奥に隠れ里を作り、ひっそりと暮らしている。日々の糧は男たちの取ってくる狩猟の獲物と、女とこどもと老人が集める木の実や草などの採集品だ。夜になると火を囲み、ヤヒ族の様々な伝説が語られる。元々、ヤヒ族は自然の中で、自然の恵みを受けながら、自然と共存して生きてきたのだ。その生活は、縄文時代のようでもあり、良質のファンタジーのようでもある。
しかしながら、イシの時代にはその生活はすでに、白人たちによって蹂躙され、破壊されていることも事実なのだった。やがて、彼が兄のように慕っていた青年は、白人によって殺され、彼らの小さなコミュニティはさらに山奥へと逃れていく。そこで、祖父母はひっそりと生涯を終え、母、叔父、密かに思いを寄せていた年下の従姉妹も、白人に狩られたり、行方不明になったりして、彼の元を去っていく。イシは独りぼっちで、白人から逃れながら山野を彷徨い、中年となったある日、捕らえられ、博物館へと送られる。晩年のイシは、彼を理解しようとする研究者に囲まれてそれなりに静かな一生を送るが、感染性の病気によって他界する。
大人に向けたイシの話は、社会人類学の古典的名著であるばかりでなく、白人の、先住民族に対するナチスなみの人権侵害の記録でもあり、読んでいてなかなかに辛いところもあるのだが、こちらの子ども向けの著作は、イシの幼少時の生活が生き生きと描かれていて、その文化の深さと生活の豊かさに心がときめく。アメリカ先住民族の生活と文化は、社会人類学や考古学の世界ではしばしば日本の縄文時代と比較されるのだが、確かにイシの生活を見ると、日本の縄文時代もまた、不毛な原始時代などではなく、豊かな感性と文化に溢れた時代であったのだろうと想像させてくれる。自然と寄り添い、自然から知恵と恵みを受ける文化と、物質的豊かさと便利さを高めた代償として自然に敵対する近代文明とでは、どちらが野蛮で下卑ているのか、この本を読む限りでは、どうみても近代文明の中に存在する人々の方が野蛮であるように思える。
だから、子供向きのためにトーンが抑えられているとはいえ、イシに対する白人たちの略奪行為はとても辛い。私たち人類は、その心の中にいかに高慢で野蛮で下卑たものを内在しているのかと、思い知らされる。異質の文化、文明を見下す心、物質的優位にあるものの奢り、それらをして、一つの民族、文化をこの世界から葬り去ることは人間の負の歴史であり、大きな罪であると思う。加害者である私たちにとって唯一の救いは、イシとヤヒ族の文化と運命がかろうじてクローバーの著作として伝えられて事であり、それによって私たちはようやく、異なった文化の豊かさ、失った文化への寂寞と後悔を感じることができるのだ。
最後に、研究者の枠を越えてイシの晩年の友人となり、イシのしたかった告発をイシの遺志を受けて著作としたクローバー夫妻は、「ゲド戦記」の作者のル=グインの両親でもある。クローバー夫妻が全人類に対して記したかった異なる文化への謙虚な尊敬を、彼らの娘がいかに昇華し深化させていったのか、続けてル=グインの著作を読むととても興味深い。