タイトル 夏の庭 〜The Friends〜
著者 湯本香樹実
出版社 福武書店・新潮文庫
価格 ¥400 (新潮文庫版)

 10代の最初の半分、私は決して明るく元気な少女ではなかった。いたずらに本ばかり読み、日記に訳の分からないことを書き付け、自信過剰と劣等感の間を振り子のように揺れ動き、あまり理由もなく自殺を考えていた。つまりは、典型的な文学少女だったわけで、今思い出すと赤面ものだ。
 思春期の一時期、どうしようもなく、生き死にについて考えてしまうことがある。私の場合は意味のない自殺願望だったわけで、今でも覚えているのは、講談社文庫の原民喜「夏の花」の裏表紙に、恥ずかしいほど観念的な遺書を書いてみた、というもの。原民喜の本の裏、というのが泣かせますなぁ(笑)。
 湯本香樹実さんの「夏の庭」は、そんな頃の、すっかり忘れていた恥ずかしい日々を思い出させてくれた。これは、それぞれにいろいろな問題を持つ3人の少年たちが人の死に出会い、自分の生を理解し子供時代に別れを告げるという話。S・キングの「スタンドバイミー」と比較されることも多い。
 少年たちの持つ問題は、両親の不和と母親のアルコール依存、母親の学歴偏重、両親の離婚という今の世の中にはありふれた、でも子供の立場だったら辛いものばかりだ。3人とも学校の中で目立った存在でもない。3人とも、居場所がある訳でなく、家でも学校でもユタユタと漂いながら何となく日々を積み重ねている。たぶん、彼らにとって、大多数の子供たちにとって、そういう生でも死でもないあやふやな状態が今を生きるための自衛手段なんだと思う。
 その少年たちが、興味本位に一人暮らしの老人を観察し始める。少年たちは人の「死」を見たことがない。老人を観察していれば、人の「死」に出会えるかもしれない。やがて少年たちのもくろみは当の老人に見つかり、少年たちと老人との奇妙な交流が始まる。
 最初はお互いに煙たがっていた老人と少年たちは、次第にお互いの存在を認めあっていく。老人は少年たちに、生活に関わるいろいろな雑事を教える。庭の手入れも、包丁の使い方も、それは細かな雑事だけれど今の子供たちが家庭ではなかなか教わらないことばかり。でも、本当は歴史の年号や文章問題の解き方なんかより生きていくのに必要なこと。少年たちはその短い夏の間に、老人の家の庭で必要なことを学び、老人の「過去」を知り、老人の孤独にふれ、やがて老人を愛するようになるのだけれど、彼らと老人の絆がやっとつながったとき、老人は静かに「死」を迎えた。彼らは最初の望み通り老人の「死」を発見するのだけれど、「死」は彼らが思っていたほどわくわくするものではなかった。
 10代の前半、思春期の頃というのはとても不安定だ。子供の頃には解らなかった大人の様々な問題が見えてくる。親の言うことが決して正しいこととは限らないと言うことが解ってくる。でも、10代前半の少年少女は現実の社会に対してはあまりにも無力だ。その上、この国に暮らしていると、「生」も「死」もあまり現実感のないまま、仮想の空間の中でいくらでも弄ぶことの出来るもののような気がする。
 でも、少年たちが目撃した老人の「生」と「死」は、現実のものとして少年たちに人間の「生」のはかなさ、「死」の悲しみ、自分や他の誰かが生きるということの大きさを、彼らに教えたのだろうと思う。人は、誰のせいでもなく、自分の力で、自分自身の「生」を生き、「死」を迎えるのだということ、だから、自分以外の「生命」をも尊ぶべきものなのだということを、老人はその「死」を持って彼らに、また読者である私たちに教えてくれるのだと思う。
 実は、この小説を読んでいる最中に、神戸の不幸な事件が起こった。犯人逮捕のニュースを聞きながら、殺された少年の無念さと、殺した少年の闇とを思い、とても悲しかった。犯人の少年はこの小説を知っているだろうか。
 「スタンドバイミー」と同様に、この小説にも相米慎二監督による優れた映画がある。映画の舞台は、偶然にも神戸だった。