京成にかかる橋、今昔
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上野の台地は標高で20m前後ある。それに比べ、周囲の低地は高いところで5mほどだ。この差がはっきりと分かるのが上野の台地の東端、上野桜木だ。上野桜木から谷中7丁目にかけてはJR線
沿に落差のある崖状の地形をみることができる。
京成線はここで、変化に富む経路を通る。北から日暮里へとやって きた京成線は高架をくだり、日暮里駅に停まる。日暮里では駅舎をJRと共有する。高さ的には崖下といえる。日暮里を過 ぎると京成線は一気に駆け上がり、右に折れながら、JRの上を通過し、上野の台地へ切通状に入っていく。10m以上、急激に高さを増すこととなる。そして、わず か数十m、切通状の線路を通り、徐々に下りながら、地下へともぐりこんで行く。この、地下にもぐりこむトンネル入り口に「東臺門」の 文字が大きく掲げられている。
そのため、上野桜木では京成線は道路より一段、低い場所を通過し ていることとなり、いつも電車を見下ろすこととなる。この上野桜木2丁目東端では、京成は身近な日常のひとつだ。京成電鉄管理の土地も 所々にある。これは、京成に関係した施設や、道筋が時代とともに変化したためであるかもしれない。
その変化のひとつが、一段、低い京成を超えるため
の陸橋だ。昭和16年の上野桜木(桜木町)と今の上野桜木を比べてみ
た。地図上の灰色の道筋は昭和16年と今でほとんど同じように存在するものだ。青色
の道筋は昭和16年のみ存在するものだ。黒色は逆に今のみ存在する
道筋だ。これをみると、昭和16年のほうが、京成にかかる陸橋が多いことがわか
る。@とBは、今はなく、それにつながる道筋も今は宅地となっている。Bは戦後の昭和22年の地図にも残っている。多分、戦災の影響と、そ
の後の宅地化の関係で、いくつかの橋と道が消えたのであろう。谷中霊園方面から寛永寺に入る道筋も変わっていることわかる。京
成が上野桜木を通過するのは本当に短い距離だが、時代とともに、このような変化が見られる。
写真は昔の道筋の名残のようだ。石段が住宅の塀の外側に寂しげに 残っている。ここは谷中の墓地のはずれ、知っている人は少ないだろう。石段を登ると住宅の塀にぶつかり、つながる道筋はない。古い地 図にはそれにつながる道筋は出ているのだが。ちょうど、地図の京成とJRが交わるあたりだ。