寛永寺散策 戻る
寛永寺にはいつも、谷中霊園よりの脇の門から入る。そのまま、歩いていくと根本中堂の裏をぬけ、寛永寺霊園へと到る。右手に寛永寺幼稚園があり、目の前には根本中堂の側面がそびえ立っている。根本中堂は入母屋造。本堂には様々な動物の彫刻がある。境内にはイチョウ、ヒマラヤスギの巨木がそびえ立ち、かなりの年月を生き抜いたと思える桜の木が並んでいる。そのためか、境内はいつも、やや、暗めだ。寛永寺は江戸時代には巨刹であり、竹の台(今の上野公園内の噴水のあたり)に巨大な根本中堂があった。今の寛永寺は子院の大慈院があった場所だ。徳川慶喜謹慎の場所である。今の根本中堂は後に開祖、天海縁の川越の喜多院から移築されたものだ。
寛永寺幼稚園と根本中堂の間を通り、根本中堂前に出ると石灯篭や水盤などが並んでいる。大きな四角い水盤が根本中堂の前に、左右にある。これは、かつては将軍などが詣でたときの、馬のためのものと聞いた。根本中堂に続く石畳の左右に並ぶ石灯篭にはかつては将軍たちの院号が刻まれていたとのことだが、戊辰戦争時に削られたらしい。よく見ると、石灯篭の一部に赤くなっている部分が見られる。かつては漆で朱に塗られていた名残だそうである。
根本中堂の南側には、戊辰戦争の碑、地蔵や灯篭など大小の石の創造物、鐘楼などがある。中には将軍家の葵のご紋と菊のご紋の2種類が刻まれた珍しい、灯篭などもある。なぜか、ミスノンのような白いペンで「桂芳院」などと記されている。誰が書いたのかはわからない。「桂芳院」を調べてみると、一橋徳川2代徳川治斉に宮家から嫁いだ方のようだ。ふたつの紋が刻まれているのも、肯けるようだが、定かではない。
寛永寺は江戸城の鬼門に当たると言われるが、正確には北東の鬼門には当たらないようだ。むしろ、浅草寺のほうが鬼門の北東に当たる。寛永寺は徳川の官宇、菩提寺の色合いが強いが、浅草寺ではなく寛永寺がその責を負うに到るには、様々な経緯があるようだ。寛永寺の本尊が薬師如来、浅草寺は観音であることも関係しているとの説もある。
境内に到らず、根本中堂の裏を通り、寛永寺霊園に入ると、4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定の霊廟が広い面積を占めている。立派な勅額門も見ることができる。霊園を東の方に向かうと崖に突き当たり、眼下にJRの線路と鶯谷の駅を眺めることがことができる。その先には根岸をはじめ、広い低地が広がっている。「上野」という地名はかつて、伊賀上野藩主、藤堂影虎の居があったためという説もあるが、単に高台であったからという説もある。ここからの眺めは後者の説を想起させる。ただ、昔は今のような切り立った崖ではなく、なだらかな斜面であったそうである。
寛永寺境内や寛永寺霊園は今でこそ少しずつ、観光地化してきたが、特別な静寂さがある。隣接しているのが、芸大や静かな住宅地であるためもあるであろう。