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寛永寺霊園〜科学博物館
2011.6.29
 今日は石燈篭や水盤が心配で、寛永寺霊園に行ってきた。が、歩いてい るうちにあることに気づいた!最近、はやっている漫画が原作のTVドラマ、「仁」というのがある。今日のコースを歩いていると不思議 なことに、この「仁」に関連する事項や場所ことが多いことに気づいた。
 寛永寺に向かう途中に浄名院がある。最近、この浄名院は墓地のための 区画整理、駐車場の確保などのため工事をしていた。そして、気がつくと、ちょうど、院の角、桜並木の入り口に地蔵が.できていた。 ま、墓地の販売広告の看板が上部に立てられ、お守りと飲料の自動販売機が隣に並んでいるのは愛嬌ということで。
 江戸時代、まさに「仁」の時代は寛永寺は今の上野公園、さらには田端 方面まで広がる巨刹であった。根本中堂は今の公園噴水あたりに大規模なものがあった。今の根本中堂がある小規模な寛永寺は江戸時代は 大慈院という院のひとつであった。今の根本中堂は、後に寛永寺開祖天界の縁の地、川越の喜多院から移築されたものだ。あ、川越も 「仁」に出てきた、徳川縁の地である。
 さて、寛永寺には事務所として江戸時代の建物も残っている(右写真)。その中には15代将軍、慶喜が大政奉還後に謹慎した部屋も現 存している。慶喜の妾の一人は「を組辰五郎親分」の娘。
 寛永寺霊園には6人の江戸幕府将軍が眠っている。まず、今の寛永寺に 近い常憲院霊廟には5代綱吉、8代吉宗、13代家定が、少し離れた厳有院霊廟には4代家綱、10代家治、11代家斉の墓がある。それ ぞれの霊廟は石垣で守られている。
 左は常憲院の勅額門。右は常憲院の石垣、スカイツリーが見える。ここには大河ドラマで有名になった篤姫(家定の妻)の墓もある。
 厳有院には石燈籠が並んでいるが....やはり崩れているものもあっ た、残念だ。でも、かなりのものは持ちこたえている。これまで廃棄してしまうのだろうか?
 厳有院勅額門は無事なようだ。勅額門と同じく重要文化財の水盤舎もくずれてはいなかった。
 寛永寺霊園から鶯谷駅のホーム、さらには日暮里方面を臨む。なんの変 哲もない写真だが....。実は上野から西日暮里あたりまでのJR線沿いの崖は昔はなかったようだ。国鉄(現JR)が通ったときに切 通しにしたようだ。この一帯は江戸時代には緩やかな斜面であった。そのために芋坂、御隠殿坂などの名が残っている。実はそれらは今は JRを越える陸橋だ。寛永寺の本坊は江戸時代には今の国立博物館にあった。そして、根岸には別邸があった。つまり、御隠殿坂は本坊と 別邸をつなぐ坂という訳だ。
 ところで、戊辰戦争のとき新政府軍は旧幕府軍の逃亡経路を作っておいたようだ。それが、この上野の山から根岸方面への坂だ。という ことで「仁」の最終回で咲さんが、兄を呼び戻しにいって、活躍した場面の設定は地形的にも、今、切通しになっているこのあたりだった かもしれない。湯島からは遠回りになるが、ダイレクトには行けない状況だったであろう。
 これは、国立博物館の裏、寛永寺霊園側にひっそりとある北門にある受 付の建物。北門は閉鎖している。建物の中には黒電話も残っている。
 寛永寺霊園から上野の崖上にある院が連なる地域を抜ける。アメリカノ ウゼンカヅラがきれいに咲いていた。写真の現龍院は趣のある建物だが、多くの院は近代的な建物となっている。
 
 院が立ち並ぶその一角に日本鳩レース協会の建物がある。建物は新しく なったが上部には鳩舎がある。以前の建物はJRに乗っていると鳩たちがよく見えたのだが。
 科学博物館である物に出会った。田中久重が作った万年時計。田中氏は 「仁」に出てきた江戸末期の発明家。「東洋のエジソン」と言われる技術者だ。後の東芝の礎を築いた方だ。技術もすごいが、なんでこん なに美しいのだろうか、これ!
 これは江戸時代の博物学に関するコーナー。このすぐ隣は江戸時代の医 学のコーナー、まさに「仁」の世界だった。
 科学博物館にはよく行く。リピーターズパスがあるので、いつでも出入 りできるのがよい。
 でも、あまり、行かないのが屋上のハーブガーデン。存在すら知らない人が多いかも?