江戸期と現在の比較
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江戸期の地図と現在の状況を比較してみよう。江戸期の建造物は現在も同じ場所にあるもの、なくなったもの、移動したものなど様々である。今回は江戸期、明治12年、大正元年、昭和16年、昭和22年、昭和58年の地図などを参考に考えてみた。
現在も江戸期と同じ場所にあると考えられるものには、大慈院(現寛永寺)、根津神社、護国院、浄名院などがある。不忍池も当然、現在と同じ場所である。
消失して別の建造物になっているものとしては「水戸殿」で、現在は東京大学となっている。津梁院は場所を移動している。
江戸期の道筋で現在も残っていると考えられるものもある。
@の筋は現在、寛永寺正面から芸大わきを通り、護国院へとぬける道筋とほぼ変わらないと考えられる。
Aの道筋は現在では上野桜木と谷中を分ける「カヤバ」や「愛玉子」のある通であろう。北に向け進み、西に折れるとEの三崎坂を通り、千駄木方面へ向かう。分岐し北東に向かう道筋は、やや現在では変わっているようだが、谷中の桜並木のようである。
Bは現在の「御隠殿坂」「芋坂」付近であろうと思われる。日光御門跡があるが、それと別邸をつなぐ位置にある。「御隠殿坂」は日光御門跡と別邸をつなぐ用途があった。別邸の一部は現在では線路の一部となっているようである。
Cは現在の寛永寺坂および陸橋付近であろう。言問通の道筋は津梁院を目安に考えることができる。津梁院は昭和22年の地図まで江戸期とほぼ同じ位置にあり(江戸時代でも時期により、地図上の位置が異なるようであるし、以降も微妙に縮小、移動しているようにも思えるが)、この昭和22年の地図を見ると言問通の北側のJR線路際にある。現在はファミリーレストラン「ジョナサン」となっている場所である。以前は東京時計研究所という施設があった。この道筋はDの善光寺坂とつながることが江戸期の地図からも分かる。現在の津梁院は言問通の南側にある。津梁院と浄名院の間の部分ないしは浄名院の一部がが現在の上野桜木の桜並木付近ではないだろうか。