もし日本製漢語が中国語に入らなかったら毛沢東は論文を書けなかった

 もし日本製漢語が中国語に入らなかったら毛沢東は論文を書けなかった。そんなことは信じられないと思う人は、下の、毛沢東が書いた論文「実践論」の一部を見ていただきたい。中国語の「実践論」を日本語に訳して、日本製漢語には色を着けてある。ここから名詞だけを取り出して日本製漢語を数えてみれば50パーセント以上はあるかもしれない。これを見れば膨大な日本製漢語が中国に入っていると思うかもしれないが、1000語位らしい。1000語程度であっても、日本製漢語を使用しないことにしたら普通の会話ができなくなるくらい使用頻度が高く、重要な漢語になっているのである。

 「マルクス以前の唯物綸
は、 人の社会性を無視し、 人の歴史的発展を無視したもので、認識問題を観察した。それがために、 認識と社会実践との依存関係、 すなわち、生産階級闘争にたいする認識の依存関係を了解することができなかった。まず第一にマルクス主義者は、 こう思う…人類の生産活動は、 最も基本的な実践活動であり、 その他のすべての活動を決定するものである。 人の認識は、 主として、物質生産活動に依存し、 しだいに、 自然現象自然の性質・自然の法則・人と自然との関係を了解する、 そのうえ、 生産活動をとおして、 各種の、ことなる程度で、しだいに、 人と人との、 一定の相互関係を認識する。 これら一切の知識は、 生産活動をはなれては、 得ることが、 できない。 階級のない社会では、 どの人も、 社会の一員という資格で、 その他の社会メンバーと協力し、 一定の生産関係を結び、 生産活動に従事して、 人類の物質生活の問題を解決する。いろいろな階級社会では、 各階級社会のメンバーは、 やはりいろいろ、 ちがった方式で、一定の生産関係をむすび、 生産活動に従事して、 人類の物質生活の問題を解決する。これが、 人の認識発展の基本的なみなもとである」。 (陳生保教授の論文「中国語の中の日本語)より。インターネットで検索できる)

 陳生保教授の論文によれば、「共産党 幹部 指導 社会主義 市場 経済 という文は、 すべて日本製漢語語彙でできているといったら、 これらの語彙をさかんに使っている普通の中国人は信じかねるだろうし、 これらの語彙の原産地の日本人も、 たぶん半信半疑だろうが、 しかし それは事実である。」とある。

  王彬彬氏の論文(现代汉语中的日语“外来语”问题)(日本語訳がある)によれば、「実際上、日本語「外来語」を離れてしまえば、わたしたちは今日ほとんど話をすることができない。わたしがこの日本語「外来語」を論じる文章を書くとき、大量に日本語「外来語」を使わなければ、根本的に文章が成立しないのである。」とある。

 さらに王彬彬氏の論文には、「現代中国語の中の日本語からの外来語は、驚くほどの数がある。統計によれば、わたしたちが現在使用している社会・人文・科学方【面の名詞・用語において、実に70%が日本から輸入したものである。わたしたちは毎日、東洋のやり方で西洋の概念を論じ、考え、話しているのだが、その大部分が日本人によってもたらされたものである。このことを思うと、わたしは頭がかゆくなってしまう」と書かれている。

 「中華人民共和国」の「共和」も日本製の漢語である。毛沢東だけでなく習近平主席も共産党や共産主義について演説をするならば、日本製漢語を使わなければならない。共産も、主義も、日本製漢語だからである。更に毛沢東主席や習近平主席の「主席」でさえ日本人が新しく意味を与えた漢語である。主席の元の意味は、『史記』に出典があり、宴席を主宰する者の意味であるが、リーダーの意味を与えたのは日本人である。

 これらの言葉が日本製であるかについて疑問を持つ人には、私が北京で買った「漢語外来詞詞典」を見せてあげたい。中国からすればこれらの漢語は外国から中国に入った外来語なので、これらの言葉は中国の外来語辞典に載っている。ちなみにこの外来語辞典は絶版になっていたが、私が北京で務めていた会社から200mも離れていないお寺の中にある古本屋で見つけた。一万の外来語を収録してあり、日本からの外来語はその内、896であると言う。下は私が持っている「漢語外来詞詞典」の一ページである。


 上の「漢語外来詞詞典」のページには、「文化」「文庫」「文明」が出てくるが、源日と書かれているので、日本人が作った漢字語であることが分かる。「文化」は、英語のcultureの意訳であり、古代漢語にもこの文字はあり、その意味は・・・・・(中国語なので読めない)と書いてある。「文庫」もlibrary からの意訳としているが、古代漢語には文庫の言葉は無い。だからこの文庫は日本人の造語である。「文明」については「源日」と書かれていて日本からのものであり、civilizationからの意訳であり、古代漢語にも≪易・乾≫に出典があり、意味は・・・・(中国語なので読めない)であると書かれている。つまり文明、文化という漢語は古くから中国にあるのだけれど、中国文明、中国文化という場合に使う文明、文化は日本人が西洋の概念から作った日本製漢語なのである。

 では、何個ぐらい日本製漢語が中国語の中に入ったかであるが、1000個ぐらいらしい。私の持っている「漢語外来詞詞典」の中には、896語の日本からの外来語が載っている。


 中国語からすれば日本からの外来語であるが、その日本からの外来語は大きく二つに分けられる。その一つは西洋の概念を、日本人が苦労して西洋語から日本語に翻訳した漢字語、もう一つは苦労しないでも元々日本語にあった漢字語である。日本人が西洋語から日本語に翻訳した漢字語は、更に二つのタイプに分けることができる。一つは古代中国語の漢語を改造して古代中国語を利用した漢字語と、日本人が漢字を組み合わせて新しく作った言葉である。

 上に挙げた「文明」は先に西洋語のcivilizationがあり、これを「文明」という漢字語に翻訳して、その「文明」という漢字語が中国で使われている。このタイプの西洋語から漢語に翻訳した漢字については、王彬彬氏の論文の結びの言葉には次のようなことが書かれている。「最後にわたしは言いたい。わたしたちが使用している西洋の概念について、基本的には日本人がわたしたちに替わって翻訳したものであり、中国と西洋の間には、永遠に日本というものが挟まっているのである」。例えば中国人が中華文明について語るとき、civilizationという西洋の言葉と中国語の文明という言葉の間に、日本人が作った文明という言葉が永遠に挟まっているのである。このタイプの漢語の裏には西洋語と西洋の概念が隠れているという意味でもある。

 つまり日本製漢字語は三つのタイプに分けられるのだが、その分け方とその和製漢語の例は、金光林氏の論文『近現代の中国語、韓国・朝鮮語における日本語の影響』から借用、引用した。

西洋語を翻訳するのに古代中国語の意味を改造し、その古代中国語をそのまま利用した言葉
 その例に「文明」「文化」「文学」があるが、「文明」の古代漢語の意味は、物事の筋道が大いに明らかになるという意味であり、「文化」の古代漢語の意味は、文治教化により、また法律などにより人民を平和に治め従わせる意味であり、「文学」の古代漢語の意味は文章の意味である。その他の例は
分析、物理、演説、風刺、学士、芸術、議決、具体、博士、保険、封建、方面、
法律、方式、保障、表情、表象、意味、自由、住所、会計、階級、改造、革命、
環境、過程、計画、経理、経済、権利、検討、機械、機会、機関、規則、講義、
故意、交際、交渉、構造、教育、共和、労働、領会、政治、社会、進歩、信用、
支持、自然、手段、主席、主食、運動、予算、遊撃、唯一、

西洋語を翻訳するのに日本人が漢字を組み合わせて新しく作った言葉。その例は、
動産、導体、液体、演繹、不動産、復員、概括、概念、概論、概算、学位、学期、
学齢、劇場、現役、現実、現象、原則、下水道、議案、議員、議会、義務、技師、
互恵、軍事、軍国主義、背景、配給、迫害、迫撃砲、博覧会、判断、反動、反映、
反革命、判決、反応、反射、反対、破産、併発症、偏見、批判、批評、否決、引渡、
否認、否定、法学、法医学、法人、法科、放射、保釈、放射線、保障、放送、法則、
法廷、法定、方程式、表演、表決、一元論、医学、意志、意識、意図、自治、自白、
自発的、人為的、人格、人生観、蒸発、情報、条件、蒸気、静脈、蒸留、科学、
化学、解放、海事、改良、回収、潰瘍、改善、客観、幹部、関係、観念、管制、
鑑定、借方、仮説、貸方、仮定、過渡、寡頭政治、刑法、警察、系統、経済学、

 このタイプの言葉はまだまだまだあってこのタイプが一番多い。
このタイプとは日本人が熟慮して作った言葉でもある。

③元々日本にあった漢字語が中国語に仲間入りした言葉
場合、場面、場所、便所、備品、武士道、舞台、貯蓄、調製、大本営、
道具、不景気、服従、服務、被写、副食(物)、復習、破門、派出所、
必要、保険、方針、表現、一覧表、人力車、解決、経験、権威、化粧品、
希望、勤務、記録、個別、交換、克服、故障、交通、共通、距離、命令、
身分、見習、美濃紙、目標、内服、内容、認可、玩具、例外、連想、浪人、
作物、作戦、三輪車、請求、接近、説教、節約、支部、支配、市場、
執行、侵害、申請、支店、初歩、症状、処女作、処刑、集団など、

二文字で漢字語を作ったのは日本人である

 上の例を見ると二文字語が断然多い。日本人は二文字または二文字以上の言葉を組み合わせて西洋語を訳してきたが、中国人は単漢字を用いるのが習慣であったらしい。中国にも厳復という翻訳家がいたのだが、単漢字を用いて西洋専門用語を訳すのはまさに厳復の習慣であった。このことについて王国維という人は「精密・不精密の違いは、すべてここにある」という。単漢字を用いたのでは意味が多義になり、ぼやけてしまう。二文字で作れば意味が狭くなり、何のことを言っているのかはっきりわかる。王国維の言葉は実際には厳復への批評であった。日本人が二文字語語好んだのは、日本人の姓と名が多くの場合二文字でできているのと関係があるのかもしれない。

 日本人が作った二文字または二文字以上の言葉は、中国語が古代語から現代語へ脱皮するのに大いに貢献したらしい。中国の古代語 にも 二つまたは二つ以上の文字でできた語彙も少々あることはあるのだが、 非常に少ないのだとか。 ほとんどは一つの文字が一つの語彙になるのである。 日本人が作った二つまたは二つ以上の文字でできた漢字語は、中国語の複音化へ変化を促進した。また復音化は 語義が細くなり、 表現がいっそう緻密になり、 正確になったことを表している。日本製漢語は中国語の現代化に大いに貢献したらしい。

 もう一つ日本製漢字語が中国人に評判が良かったのは、日本製漢字語が中国語の文法に沿って作られたからでもある。例えば「動詞+客語」 の造語法は日本語にはもともとないばかりか、 日本語の文法とは正反対であった。

その例は、断交 脱党 動員 失踪 投票 休戦 作戦など。

「形容詞+名詞」の造語法は日本語と同じであるが、その例は
人権 金庫 特権 哲学 表像 美学 戦線 環境 芸術

「副詞+動詞」の造語法は日本語と同じであるが、その例は
独占 交流 高圧 特許 否定 肯定 表決、歓送 仲裁 妄想

 これらの漢字を作った日本人は漢籍、漢文に造詣が深かったのだろう。だから中国式の造語ができたのだろう。だから中国人は違和感を感じないである。

日本語を中国語に最初に翻訳したのはだれか

 その人は梁啓超である。梁啓超は康有為等とともに日本の明治維新のように改革を進めようと、1898年に戊戌変法(ぼじゅつへんぽう)を起こしたが、西太后に密告されバレてしまって、戊戌変法は失敗し、日本の軍艦「大島号」で日本に亡命した。暇であったので、梁啓超は日本の作家・東海散士の小説『佳人之奇遇』を借りて、開いてみた。すると日本語があまり分からない梁啓超であっても概要を理解することができた。そして翻訳することもできた。翻訳するにあたって、多くの漢字語は元の小説中の言葉を翻訳する必要もなく書き写しただけだった。

 これは日本の近代文学が中国に紹介されるスタートであった。〖佳人之奇遇〗の連載が完了した後、すぐにまた日本作家・矢野竜渓の小説『経国美談』の漢訳が連載された。この二つの小説の訳文は、すべて日本語に通じていない梁啓超の手になるものであった。

 このころ、大量の西洋の名詞・用語が日本語の中に進入してしまっており、「政治小説」として書かれた『佳人の奇遇』と『経国美談』の中には、自然とこの種の訳語が多く含まれていた。日本語に通じていない梁啓超は、その訳文の中で、いくつかの日本人の訳語についてはそのまま模倣することしかできなかった。これこそ、日本語「外来語」が中国に入り始めた最初だったのである。梁啓超は特に深く考えることなく、簡単に民主・科学・政治・経済・自由・法律・哲学・美学といった語彙を中国の読者に紹介したようである。

 梁啓超は 横浜で新聞 『清議報』 と雑誌 『新民叢報』 を出版し、 中国の 維新を鼓吹した。 そして 彼の新聞、 雑誌には日本の事が盛んに紹介され、 日本語の語彙がたくさん使われていた。 梁氏はまた 『日本語を学ぶ利益を論ず』 という文章をしたためて、 中国人に日本語を学び、 日本の本を読むように呼びかけた。

日本の書物を翻訳したのは誰なのか

 大勢の中国留学生が日本に来た。 彼らはみなはっきりした使命感を持っている。 それはつまり明治維新後の日本に学ぶと同時に、 日本を通じて西洋文明を祖国に紹介するということである。 したがって彼らは短期間の速成的日本語教育を受けたのち、 ただちに日本書の翻訳に取り組み、 それを日本でまたは中国国内に送って出版した。中国国内でも日本書の翻訳ブームが起きていた。 当時翻訳された書物は政治、 経済、 哲学、 宗教、 法律、 歴史、 地理、 産業、 医学、 軍事、 文学、 芸術など、 マルクス・エンゲルスの 『共産党宣言』() から川口章吾の 『ハーモニカ吹奏法』 まで、 社会科学と自然科学のあらゆる分野にわたっている。 一九四五年日本国際文化振興会によって出版された実藤恵秀氏の 『中訳日文書目』 によると、 合計二六〇〇点あるそうである。当時留学生たちは翻訳の組織をつくり、 「譯書彙編』 や 『游学譯編』 などの雑誌を出版し、 単行本を出版した。 日本の中学校の教科書をかたっぱしから訳すという 「教科書譯輯社」 という団体までできていた。

 日本製漢字語を中国の留学生が翻訳して中国に紹介することは、日中戦争が始まり、中国の留学生がみな国に帰ってしまい、それによって終わりになった。

以上