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夏王朝の銅牌飾(どうはいしょく)のルーツは斉家文化にあることを
示している玉器
下の写真の左が収蔵した玉器で斉家文化の玉器で、右は夏王朝の遺蹟から出土した青銅製の
牌飾(はいしょく)で本の表紙に使われている。
この両者は外形、紋様が非常によく似ている。このことは斉家文化から技術や紋様が
夏王朝に伝播した決定的な証拠になるはずである。しかし考古学者は夏王朝の銅牌飾については
知っているが、斉家文化に似た物が存在することを全く知らないのである。
一方この出土物を売っている古物商も、斉家文化のものと似た物が、
夏王朝の出土物にあることを知らないのである。二つの文化の物を同時に並べたのは、
「私」が最初ではないかと思う。現在でも両者を「私」以外に並べた人以外にはいないと思う。
右の玉器は「夏王朝の銅牌飾のルーツが斉家文化にある」ことを示す考古学上の貴重なお宝である。



夏王朝の銅牌飾(どうはいしょく)のルーツは斉家文化にあることを
示している青銅器の銅牌飾


下の左の二枚の写真は玉器ではなく、青銅器であって、斉家文化の銅牌飾である。
玉器よりは青銅器の方が一層技術が進んでいるが、斉家文化の青銅器にも、
夏王朝の遺跡から出土した銅牌飾とソックリのものがある。左右の写真をご覧あれ。
右側の二枚の参考写真は、夏王朝の遺跡から出土した三個のうちの二個の銅牌飾である。
斉家文化の青銅器の銅牌飾は、形状の上でも製造技術の上でも、玉器より夏王朝の銅牌飾と似ている。
甘粛省の斉家文化地帯は二里頭文化(夏王朝)から900qも離れた文化圏のであるが、そうであっても
これほどまでに似たものが出土することは、「夏王朝の銅牌飾のルーツは斉家文化にある」ことを示して
いるのである。一方考古学者たちは夏王朝の銅牌飾のルーツは斉家文化にある」ことを知らないのだが、
私が収集した玉や青銅器の牌飾は考古学者も知らない考古学上の事実を教えて
くれる
決定的なお宝なのである。その詳しい根拠は
「夏王朝の銅牌飾のルーツを探る。ルーツは斉家文化にあった」でご覧あれ。

斉家文化の出土品。収蔵品。人面紋

夏王朝の遺蹟から出土した人面紋の
銅牌飾
左の斉家文化の物とソックリと
言っていいほどよく似ている。そして上の本
の表紙の銅牌飾と全く同一品である。但し
本の表紙では目が下になっているが、
人面紋としてみるならば目を
上にして見るはずであるとおもうが。

斉家文化の出土品。収集品。獣面紋。
夏王朝の遺蹟から出土した獣面紋の銅牌飾。
獣面紋であることも似ているが、両者とも瓦状
に反りが入っていて鋳造方法も似ている。
この銅牌飾は2010年に東京国立博物館で
展示された。





斉家文化の象嵌のある玉器

斉家文化の玉器である。斉家文化は黄河上流(甘粛省)あった文化である。
玉(ぎょく)を厚さ5mmぐらいに薄く削り、その石板を穿ち、そこにトルコ石などをはめ込み、
表面を平らに磨いたものである。黒っぽい石の部分が玉である。
日本の縄文時代と同じ時代に金属器を使わないで、これだけの加工ができた。
3700年も前のものでありながら、今に至るまでトルコ石(?)の剥離は一つもない。
技術的にも芸術的にも、素晴らしい古代の工芸品である。高さ21.5cm、幅23.6cm、厚さ5mm。



斉家文化のトルコ石象嵌の鹿

上に載せたトルコ石の象嵌がある玉器や青銅器と同時代の、斉家文化の玉器である。
斉家文化は、黄河上流(甘粛省)にあった文化で、今の中国人とは別の種族の
文化であった。多分羌族(きょうぞく)であったかもしれない。羌族の末裔は今でも四川省の大地震が
あったあたりに住んでいる。この鹿の玉器は高さ41pもある。古代の芸術的工芸品である。石を加工する
技術は相当高度なものであり、象嵌の技術も高度であった。何を使って石を削り穴をあけ、接着剤には何を
使ったのか? 鹿は五つのパーツからできていて、パーツを結ぶ紐を通す穴が明けられている。
この細い穴も金属工具が無い時代に古代人が明けたものである。
造形の芸術性も素晴らしい。あまりにも素晴らしいので額に入れた飾ってみた。




トルコ石象嵌のある玉璧(ぎょくへき)

円盤の中央に穴が開いている形を壁(へき)という。長江下流の良渚文化から
遥々甘粛省の斉家文化まで伝わった形である。玉(ぎょく)で作られた璧なので、
玉璧(ぎょくへき)というが、黒い部分が玉である。その玉を彫り込んでトルコ石が嵌め込んである。
現代に作られた偽物ではないか?なんて言う人がいるかもしれないが、これは古代の斉家文化の
方法で作られた本物である。外側の円は真円ではない。物差しやコンパスが無かったから
真円はできないのである。これに対して中央の穴は真円に近い。この穴の大きさの硬い石の丸棒を
押し当てて、グルグル回して擦ればば、真円ができたに違いない。中央の穴には傾斜が付いている。
その傾斜の面には擦られた線が残っている。これは斉家文化の玉壁に現われる特徴でもある。
また、トルコ石の一部が白化していたり、他のトルコ石も汚れのようなものが見られる。
これは長いこと地中にあったための経年変化で、古代の出土物である証拠である。

こう書いても、古い物を真似た偽物でないかと言う人がいるかもしれない。また中国人はなんでも
偽物を作るという人もいる。下のものは現代の工芸品だとすれば、この手作り品はいくらぐらいのコストで
出来るのだろうか。実はこの買値はその製造コストには見合あわない位安い値段で買えるのである。
今のところトルコ石駅象嵌の玉壁は、その価値が知られていないから、安く買えるのだが、
コストより安く買えることが、偽物でない一番の証拠だと思う。
中国人は利益にならない偽物は作らないのである。 直径19.4cm、 厚さ8〜10mm。




トルコ石象嵌のある玉璧(ぎょくへき)
ここに載せたトルコ石の象嵌がある玉器や青銅器は、すべて斉家文化のもので、この玉壁も
斉家文化のものある。斉家文化以外にこれだけの象眼を施した玉器は現われていない。




トルコ石象嵌の玉斧(ぎょくふ)

下のような形の玉器を玉斧(ぎょくふ)という。刃が付いているので有刃玉器(ゆうじんぎょくき)とも
言われる。この形は考古学的には山東省の龍山文化に出現したものが、遥か西の甘粛省の
斉家文化に伝わったものである。玉壁(ぎょくへき)とは起源の文化が違う。
斉家文化の玉斧ははじめトルコ石の象嵌などなかったが、西から伝来した(?)象嵌の技術と
合体して斉家文化の晩期にはトルコ石を隙間なく嵌め込めるようになった。
そうして斉家文化は消滅してしまった。だから下のものは斉家文化最後の、
最高の芸術品ではないかと私には思えるのである。



馬家窯文化・馬廠類型の彩陶の壷
下のものは日本語であれば土器というが、中国語に土器という言葉は無く、陶器の一種の属する。
彩色があるので中国語では「彩陶」といわれる。今から4500年前後の馬家窯文化・馬廠類型の土器である。
馬家窯文化は、甘粛省、青海省のあたりの文化で、日本では縄文時代であった。
中国のこの時代(今から4200年位前)以前から、すでにロクロや窯があって、
土器には美しい文様が描かれていた。日本の土器には彩色されたものは殆ど無い。
中国の馬家窯文化の土器は、多くは墓から出土する。身分を表す身分財であったらしい。同時に観賞・愛玩用の
目的を持って作られたもので、煮炊きに使われた形跡はない。だから芸術的にも美しいものが多い。



馬家窯文化・馬家窯類型の瓮
馬家窯文化・馬家窯類型はB.C.3400〜2700頃の文化で、大雑把に言えば今から5000年前頃のもので、
とても古いものである。この形は中国語の彩陶の図鑑に「瓮」として載っていた。瓮は「へ」と読み、
飲食物の容器、瓶(かめ)、の意味らしい。
今から5000年も前に、このような芸術的な波型の紋様を精巧に描く文化が、黄河上流にあった。
煮炊きには使われた形跡もない芸術品である。身分を表す身分財でもあった。
もっともこの時代この地方の土器はどれも煮炊きには使われていない。この形が「瓮」だとしても「瓮」として名前が
付けられ分類されたのは発掘が行われた後のことで、これが作られた時代には文字などなど無かった。




馬家窯文化・馬家窯類型の鉢
馬家窯文化・馬家窯類型はB.C.3400〜2700頃の文化であるから、今から約5000年前くらいのもの。
動物紋は珍しく貴重なものであるが、この紋様は明らかに馬家窯文化・馬家窯類型のものである。
本物の鑑別方法は、馬家窯文化は黄土高原の文化だから出土品は黄土の匂いがする。
また黄土はアルカリ性であるからなのか、出土品は石灰の析出物がこびり付く。
これがあると本物の証拠だという。この彩色土器には明らかに二つのものがある。




馬家窯文化・馬廠類型の双耳盆
馬家窯文化・馬家廠類型は馬家窯類型のものより700年位は後のタイプである。だから紋様なども
変化している。しかし指が四本であることは、700年経っても変わらないらしい。
上の鉢の蛙らしき紋様も指が四本である。図鑑を参照したところ、この内面の紋様は
神龍紋であって、四本の龍の脚であると書かれていた。本当に龍の脚を書いたものだろうか。
今から約4000年前くらいのものの紋様が、どうして龍だと分ったのだろう。
彩陶の図鑑に書いてあると言っても、図鑑を作ったのは収蔵家の図鑑である。
中国では考古学者ではなく収蔵家が図鑑を作るのである。その理由は収蔵家の方が考古学者より
沢山彩陶を収集しているからである。収蔵家が集めた彩陶はおそらく盗掘品である




仰韶文化半坡類型の瓶
仰韶文化・半坡(はんぱ)類型は、西安付近にある半坡村の遺跡の文化である。
この形を中国語では、小口双耳尖底瓶とか、小口鼓腹尖底瓶と言う。「瓶」であるらしい。
半坡(はんぱ)遺跡からは大規模な集落が発掘されている。その遺跡の中の墓の
副葬品として、半坡遺跡の典型的な土器の形として、この形の「瓶」が出土する。
西安郊外の半坡遺跡博物館で見ることができる。この形の「瓶」は
今から6000年前の物で、気の遠くなるような古い新石器時代の遺物なのである。
勿論、「瓶」と言う名前が半坡文化の時代にあったわけではない。
この形は、考古学の本のなどでは良く知られた形であるが、このような大きな瓶が
日本に他にあるだろう。日本で持っているのは私だけかもしれない。



これは石器である。6000年位前(?)に内蒙古にあった紅山文化のもの。
現代のモンゴル人の様に瞼が厚い。6000年位前のものであっても写実的なのか。
死んだ人の写実なのだろうか。首から吊るした装飾品なのかもしれないが、
6000年位前の加工品であるから、その時代でも相当価値があったに違いない。





斉家文化のトルコ石象嵌玉器のコレクション−1

斉家文化のトルコ石象嵌玉器のコレクション−2






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