中国での入院生活

  1996年の中国で、春節の休暇が一過聞以上も続き、その間何もすることも無く、よくは分らない中国語のテレビを見て無為に過ごしていたら、休暇の終る頃に椎聞板ヘルニアになってしまった。とにかく痛くて、べツトから全く起き上がることも出来ず、トイレにも這って行く状況になってしまった。前にもこの病気になったことがあり、このことについて本を読んだ事があったのだが、自分自身の診断では、安静が第一で、べットでじっとしているのが一番と思えた。たまたまし少し前に家ヘ書いた手紙には、中国の様々な病院事情から、中国の病院には絶対に入りたくないと書いたぱかりであった。しかし周囲の人は、何もしないで病人を放っておくことに耐えられない様子であるし、トイレや食事もままならない状態では、やはり病院に入る方がよいと思い、入院する事にした。

  会社の人が一日以上も時間をかけて、市内で一番よいと言う病院を探して来てくれた。その病院は吉林市唯一の私立病院であり、結果的にはその病院が一番よかったと思えた。しかしその病院の名前が"創傷病院"と言う名前なので、何と縁起が悪い名前であった。この名前からすると、傷を創るという意味に思えが、中国語では悪い意味ではないとのことであった。建物は6階か7階建であったがエレぺ一タ一が無いので、外科が在る5階まで大勢で担ぎ上げて貰った。

  入院するに当たっての大きな問題点は、付き添いの問題であった。吉林市あたりでは、病院の付添い婦と言う職業が無いらしい。一般の人はどうするのか聞いてみたところ、中国では家族の絆が強いから、必ず家族の誰かが助けるのだと言う。それはそうかもしれないが、もう一つの理由は、仕事が無くてブラブラしている人が非常に多いのも、理由の一つと思えた。入院してみたら多くの暇人がが、私の病室に現れて、私のことを見物に来たので、なるほどと納得出来たのである。家族や親類の中にそんな人が多ければ、付き添いの職業の需要も無い訳である。

  私の場合は、家族が日本からすぐ飛んで来るわけにもいかないので、付添をしてくれる人を至急探してもらわねばならなかった。その病院にも、親戚の病人のところへ見舞いに来て、ぶらぶらしている人が居たので、そのおぱさんを付添いに頼んだ。この吉林唯一の私立の病院の売り物は、ロシアとの技術的な提携を結んでいることや、診断装置に"CT"があることであるらしかった。その他にも"医療費以外の謝礼は不要です"等の張り紙があったりして、私立の病院としての特色を打ち出していた。今迄の中国での体験から、この様なスロ一ガンが有るところには、却って皮肉にも反対の現象が有る場合が多かったのだが、ここは私立の病院であったので、このスロ一ガンのとおりであったかもしれない。今迄は中国には私立病院は非常に少なかったのである。その希な私立病院が出来るあたっては、様々な中国的な経緯があることを、付き添いのおぱさんを通して後程知ることが出来た。やはり美人の院長のお父さんは、市の衛生局とは特別の関係があるらしかった。
  入院して思い出したのであるが、実はこの病院が開業した頃、ロシア人の女の先生と一緒に、ウクライナ人の眼科医を、この病院の訪ねて行ったことを思い出した。1993年の四月か五月の頃の頃で、ロシア人の先生と、遠くの公園までサイクリングに行った帰りであったのでよく億えている。その時は病院が出来たばかりでの頃であって、ウクライナ人の若い医者が手術の技術指導をしていた。しかし私が入院した時は、ロシア人の先生の名札が掛かっていたが、、ロシア人の医者は誰も居なくて、その名前だけが人寄せに使われているようであった。数えてみるとこの病院が出来てから丁度3年であった。その建物は外側は白くて新しそうであっても、建物の内部はもう古ぴた感じがした。

  この病院の自慢のCT装置は、日本の病院が、検査や薬で稼いでいるのと同じく、この装置の利用が病院の相当の収入源になるらしかった。この外科に入院する場合は、必ずCTの検査を受けてからでなくては、病室に入院出来ない様な仕組みになっていた。元々CTの検査が必要無い患者に対しても、そこを通過しないと入院できないシステムになっていた。

  最も中国的な制度と言えぱ、病院に入院する際には、入院治療に必要な十分の額を、入院前に前納しなけれがないことである。つまり治療よりお金の納付が先らしいのである。その様な制度になっていれば十分予想されることであるが、治療が遅れてしまって、悲劇となった事件が、吉林市でも実際に有った。後で例の付添いのおばさんから聞いた話しである。警察官の子供を病院に運んだのだが、入院の為の金がなかったのか、金集めに手問取ったのか、その子供は死んでしまい、その結果警官はピストルを持って、医者を撃ち殺してしまったのだとか。

  別の新聞記事で美談として載っていた話であるが、怪我人を助けた人が、お金も掻き集めて駆けつけてくれたと書いてあった。つまり病人を病院に運んだだけでは美談にならず、入院費用も用意してあげたことが、美談の理由であるらしかった。又別の新聞記事には、病院のスロ一ガンに、"治療費の納入より治療を優先しよう"などと書いてあることが賞賛されていた。入院時の体験から、これらの新聞記事の背景がよく理解出来た。治療費の前納をしてから治療が始まるのが、中国では普通の事らしい。私の場合も入院して1O日目位に、看護婦さんが、"明日になると、払い込み済みの費用が無くなるので追加分を払い込んで下さい"と言ってきた。どうやら払い込み済みの費用を、毎日差し引いて残金を管理する方式があるらしかった。

  病気の診断は、足の先に痔れが現れることや、足を曲げた時の痛さ等の、典型的な症状から、腰椎の四番目と五番目の問のヘルニヤだと言われた。日本ヘ帰国してからの日本の専門病院での診断と同じであったので、中国の病院の診断は正しかったことが分かった。治療の主な方法は、週一回の"復位"と言う治療で、3、4人がかりで腰を操み解したり、足を引っ張ったり、足を逆エピ状に曲げたりして、位置を矯正する荒っぽいものであった。この治療は腰椎に麻酔を打ってから行うので、痛くはなかったが却って悪くなるのではないかと心配もした。結果的には一週問位すると少しずづつ痛みは薄らいでいった。

  その他には、腰部と足のマッサ一ジ(これは中国語で按摩と言う)。ニ日に一回の背骨の両脇ヘの何かの注射。飲み薬はビタミンB(匂いで分った)。それと何かの点滴注射を毎日。本当のところ中国の注射は少し気味が悪かった。中国では注射バリを洗浄して再利用する等の新聞記事を日本で見たこともあるし、中国の新聞の投書欄でも見たこともある。中国の一部の病院では有り得ることの様であった。それでよく観察していたのであるが、点滴の針は新しいものを使っているらしかった。しかし麻酔の注射針や、ニ日に一度腰に打つ針はかなり長くて、太いものであったので、これは使い廻しをしているのかもしれなかった。少し気味が悪かった。

  中国では点滴がやたらに行われる療法で、チョットした風邪でも輪液の点滴を行う。私は不要だと言ったけれども、体に良いと言われて毎日これもやられた。点滴をする場所は中国では腕ではなく、手の甲の静脈に行う。これも中国式である。それと日本と同じ様に牽引も行った。しかし原理は同じであっても装置はかなり貧弱で、足を引っ張る錘りは、何かの鉄の塊を使い、それを吊るす紐も、いいかげんな荷造りの紐の様であった。腰の部分を固定する装置がないから、体全体がずるずると引っ張られて、手でベットの手すりを掴んでいないと効果が無いようであった。

  中国式医療でよく使われる針・灸は、この病院の通常の治療体系の中には組み入れられてはいないらしかったが、痺れがなかなか取れないので、中国式の長い針でニ回程治療を受けた。チリチリと神経に触り、あまり気持ちの良いものではなく、効果が有ったとも思われなかった。生まれて始めて受けた針治療が中国であった。

  病院では日本語が全く通じず、こちらの中国語もほん少しの片言なので心配もしたが、複雑な会話はあまり無く、簡単な言葉は通じたので、あまり問題は無かった。それでも痛いとか大便とか、小便位の単語は知っていなけれぱならないが、その程度の言葉は言えたからあまり問題はなかった。ちなみに大便と小便は日本語の発音に似ていた。カルテはどうも無いらしかった。医者の回診の時も、事務室に行って診断書を書いて貰った時も、見当たらなかった。但し、先程の話の通り、掛った金額(治療費)は記録し計算もしているので、何かの記録はあるには違いない。

  病室は個室を確保して貰った。一日1OO元で、医師の月給が7OO元位であったから、その給料からすると相当高いのであるが、日本円にすると1300円位であるから、そんなには高いとも言えない値段であった。しかし設備はこの寒い吉林の三月であるのに、暖房は満足ではなく、テレビはあっても殆ど見えず、隣との壁は薄いので、隣の部屋の人から、いぴきがうるさいと言われたりした。幸い電源が在ったので、電気毛布を買ってきて貰い寒さを防いだ。
  
  部屋は結構広くて、椅子ともう一つのぺットも在った。その為か付き添いのおぱさんの親戚や知合いがゾロゾロトと、入れ替わり立ち代わり部屋を訪れて、空いているぺットに腰掛けて私のことを観察したりするようになった。そのうちおぱさんの談話室の様になってしまった。とにかく沢山の人が来たが、多くの人が仕事も無く、時問を潰す所も無いらしかった。本当に失業中の人が多いのである。おぱさんの友達だという若い女性も現れた。姉妹で別々に現れたのだが、両方とも離婚していて仕事は無いとのことであった。ニ人とも革のミニスカ一トを穿いているところも、なんとなく怪しかった。その一人の方は男友達も一緒に連れてきて背中を出して、湿布薬を張ってもらったりしていた。何の目的で現れたのか知らないが、暇つぶしに来たのは確かである。

  やはり中国ではあまりプライパシーには気を遺わないようであった。勝手に入ってくる人も居たり、病室のドアもキチンと閉めない人が多かった。ドアの開けっ放は困るので、必ず閉めて貰うように頼んだ。しかし来客が多いことは私に取っても暇つぷしにもなった。少しの会話は成り立つので、簡単な質問をしてみたりした。こちらからの質問は仕事は何をしているかであったが、昼間から私の病室に現れる人は当然仕事は無かった。

  相手からの質問で多いのは、収入は幾らかであるかが圧倒的に多かった。次には結婚しているか、子供がいるか、自宅の部屋は幾つあるか等であった。収入の差は圧倒的な差(10倍、2O倍ではきかない位の差)であったのでこれにはまともに答えなかった。しかしこちらの人は給料に付いては開けっぴろげで、勿論自分の給料も隠さないし、この病院の医師の給料や看護婦さんの給料も聞けぱ全部分った。それにしてもこの国の医者の給料は非常に低い。700元位と言っていたから、大学の先生よりも安い。日本円で10,000円位であるから、驚くほど低い。一般の人の平均的な収入と同じ位である。しかし一般の労働者よりはずっと尊敬はされている様であった。実際には副収入があったりするのかもしれない。

  これは別の病院に行った時の話であるが、喉のあたりがおかしいので、会社の社員のお兄さんを頼って病院に行ったことがある。その際に、無事病院から退院出来た人のお礼の宴会が昼間からあり、医者を数人招いて、5O〜6O度の白酒を昼聞から、グイグイと飲む宴会があった。私が珍しい日本人であったせいか、訳の分らぬ聞にその宴会のお相伴にあずかることになってしまった。この時の体験からすると、患者は退院する際に、医者にお礼の宴会をするらしい。結構副収入も多いのかもしれない。余談になるが、その病院の診療費は、その知人のお兄さんが副院長をやっているとかで、ただであった。レントゲンでも見て貰ったり、耳鼻科の先生に見てもらったのであるが、それでもただとは、中国的で驚いてしまった。もっともここではレントゲンは、フイルムに撮らないで透視だけでありカルテも作らないようであったが。

  入院の話に戻せぱ、やはりここのトイレに問題があった。中国では高級ホテル以外はトイレに問題が在る。これについての話しをすればきりが無い。ここのトイレは腰が痛いのに洋式の便座が無く、その代わり中央に穴の有る木の腰掛けの様なものがあったが、不潔であまり使いたくないような代物であった。

  この病院が私立病院であり、中国では珍しいことであるのは先に書いた通りであるが、院長は4O前の美人の女性との事で、その人を見たことはないが、副院長をしてる妹も大柄の美人であった。中国の旧正月の15日は"元宵節"と言って祭日である。その副院長が院長の代理として、花をプレゼントしてくれた。冬の吉林では本物の花は非常に高価なのである。本物の花のプレゼントは、特別室に居る日本人だからかもしれないが、他の部屋にも挨拶に回っていた。この様なことをするのは私立病院であるからかもしれない。遠い日本から来て心細いでしようが、困った事があれぱ何でも言って下さいと言われ、チョットいい気分になった。医者も看護婦さんも親切であった。他の公立の普通の病院では、あまり親切ではないとのことであった。

  院長は美人だとの評判であったが、実は女院長は"小院長"と呼ぱれていて、その父親が実力者で"大院長"と呼ぱれていると聞いた。父親は地方政府の公衆衛生局か何かの偉い人であって、何かの利権絡みで病院を作ったらしい。吉林市唯一の労災病院の指定としての地位もチャント獲得していた。"小院長"もやり手とのことで、以前は結婚していたのだが、この病院の設立に成功してから旦那と別れてしまったのだとか。本当はこの辺の経緯をもっと聞きたかったのだが、中国語での話しなので疲れてしまった。

  この話をしてくれたおぱさんは、以前は針金工場(何の針金かなのか?)に勤めていたが、今は仕事が無いと言っていた。中国的な話なのであるが、エ場は稼動していなくても、そこに籍はまだ在るようであった。しかし給料も仕事も無く、暇ぱかり有るのでダンスホ一ルの入場定期券を持って、毎日昼問からダンスホ一ルに通っていると言っていた。その定期券は月5元(80円位)で他の人が購入したものを、使いまわしをして踊りに行くとのことであった。そのおばさんは、私が全く動けない一週問位は病室でじっとしていたが、私がどうにか動けるようになると、定期券を持ってダンスホ一ルに出かけるようになった。

  私が住んでいたところは大学の構内の宿舎であったのであるが、そこに住んで居る人達の生活レべルと、付き添いのおぱさんの達の生活とはかなり違うことが分かってきた。以前の吉林市には平屋が多かったが、次々と7階建位の集合住宅に立て替えられていた。日本では考えられない位に、大規模に住宅地の再開発が行なわれて、一斉に古い住宅を破壊する。しかし駅の周辺には、古い平屋のレンガ作りの町並みがまだ残っていた。そこに住んでいるおぱさんの家は、一部屋だけの平屋で、夫と中学生の娘と三人で住んでいると言っていた。その一部屋にぺットがニつ在るらしい。その中学生は物怖じしない可愛い女の子で、病室によく遊びに来た。旦那は病院の料理人をしていて、給料は4OO元。この給料だけで三人で生活しているらしかった。旦那とよくけんかするとも、旦那を叩くこともあると言った。そうすると旦那の方が泣くとも言っていた。おばさんの話しで、中国の庶民の生活の様子が良く分り、そんな話を、中国語で苦労して聞きながら病院での暇を潰した。そうして三週問後に無事この病院を退院出来た。

  今にして思えば、良い体験であった。吉林での入院では、沢山の人にお世話になってしまった。よくよく考えて見ると、外国人があまり心配も無く、中国で入院生活が出来たのも、お世話になった人の陰である。残留婦人の子供に当たる人からも果物のお見舞いもらったりした。退院後に妻が日本からやって来て、四月には日本に帰国した。又中国へ戻るチャンスが直ぐ在るだろうと思っていたが、その機会が無くなってしまい、お世話になりながらお礼も言っていない人もいて、なんとも心残りのままである。