繝医ャ繝・繧「繧、繧ウ繝ウ 斉家文化について(斉家文化礼賛)

  中国斉家文化の古い出土物を集めている関係で、斉家文化に調べてみたので、斉家文化の特徴がだんだん分かってきた。殆どの人が中国の斉家文化などについて関心が無いかもしれないが、知り得たことを書いておきたくなった。だいたい斉家文化について日本語のネットで調べてみてもあまりよくわからない。特にその文化の特徴についてはあまり紹介されていない。例えばィキペディアで斉家文化の項について調べてみても、玉器については全く触れていない。斉家文化は大量に玉器を作り出した文化なのだから、それについて書いてなければ斉家文化について紹介したことにはならないと思うのだが。

  斉家文化は今から4000年位前に黄河上流の黄土地帯に栄えた文化である。極めて大雑把に言えば日本の縄文文化と同時代である。斉家文化の特徴のある出土物は、@土器、A青銅器、B玉器である。この三つについて書かなければ斉家文化について書いたことにならない。土器は縄文文化でも当然出土するが、青銅器、玉器は縄文文化では出土していない。

  斉家文化の土器の特徴は、縄文土器と比べればよく分かる。斉家文化には窯があったが、縄文文化には無かった。それで斉家文化では薄くて硬い土器が焼けた。形を修正するのに手で回すロクロも使われたらしい。斉家文化の土器には綺麗に描かれた紋様があった(無紋の土器もある)が、縄文土器の紋様は縄などを押し付けたりした紋様である。紋様の描かれた土器を、中国語で「彩陶」と言うのであるが、中国語に土器という言葉は無く、「彩陶」は陶器ではなく土器である。「彩陶」の紋様は幾何学的な模様であったり、抽象的な模様であったりなかなかきれいな紋様が多い。

 

                斉家文化の彩陶

  土器の使い方も違っていて、斉家文化の土器には火を使って煮炊きした形跡はない。出土する場所は墓からが多い。彩陶は所有者の身分を表すもののようでもあって、身分の高い者の墓からはたくさん出る。斉家文化の土器は身分財とか飾り物であったかもしれない。土器の中から穀物の種が出た例もあるから当然容器としては使われていたらしい。縄文土器は墓から出土しないのではなかろうか。縄文土器と比較すればいろいろ違いがあるが、出土する土器の数が縄文土器よりずっと多いのも特徴の一つである。

  実は上に書いた斉家文化の土器の特徴は、斉家文化のだけの特徴ではなく、斉家文化の前にあった馬家窯文化にもそうであったし、そのもっと前の文化にもあった。だから斉家文化のだけの特徴ではないのだけれど、「彩陶」は特徴ある綺麗な紋様が描かれた土器であって、現代になっても鑑賞に堪えるものなので、収集の対象になっている。

  Aの青銅器についてであるが、銅の技術は西アジアから伝わったという説もあり、斉家文化の前の文化である馬家窯文化でも銅の破片が出土しているから、斉家文化が銅器の最初の例ではない。しかし銅に錫を混ぜて青銅の技術にしてみたり、鋳型を使って初めて鏡を作ったりして、青銅器文化を発達させた文化は斉家文化なのである。青銅の鏡やナイフも斉家文化で初めて出来た。そして中国第一の王朝である夏王朝に青銅器の技術を伝えたのは斉家文化なのである。


                 斉家文化の青銅鏡

  私が別のところで書いたことであるが、盾形の銅牌飾が、斉家文化にも夏王朝の文化(二里頭文化)にもあることから夏王朝の青銅器のルーツが斉家文化であることは確かなことらしいのだが、そして斉家文化は青銅器時代に入るのに重要な役割を果たした文化なのであるが、何故か斉家文化はあまり評価されていない。従って夏王朝の青銅器のルーツが斉家文化であるという考古学者は少ないのである。では夏王朝の青銅器のルーツは何処かというと、二里頭文化の前の中原の龍山文化あたりにあると考える学者が多いようである。斉家文化から出土すると銅器、青銅器の数と、龍山文化で出土する銅器、青銅器の数とでは、圧倒的に斉家文化の方が多く、龍山文化で出土する銅器はほんの僅かなのであるが。

  なぜ中国の考古学者が斉家文化を重視しないかというと、斉家文化が中国の西北地方の西の戎(えびす)の文化であり、中国中原の文化でないことも関係があるかもしれない。

  ここで斉家文化の別の面の特徴を書くことになるが、斉家文化は黄河上流とその周辺の支流を中心にした、黄土地帯の文化であり、その範囲は甘粛省、青海省、寧夏、陜西省や内蒙古の一部までを含み、直径800q位の広い文化圏を持っていた。斉家文化の遺蹟は1100個所も発見(2002年時点で)されている。このことは謝端?氏の著書「甘青地区史前考古」に書いてあるのだけれど、この1100個所という数字が密度として濃いのか薄いのかが書かれていなくて不満なのだけれど、多分広いだけでなく濃密な文化圏であったようである。しかし斉家文化は中国の中原から離れた文化で、尚且つこの文化を担った民族は古代羌族(きょうぞく)であると言われる異民族であったようである。

  もう一つ斉家文化が重視されない理由は、「今まで学界の斉家文化に対する探求が希薄であって、斉家文化に精通した学者はほんの僅かである」らしいのである。葉舒憲氏の論文(斉家文化と玉器時代―西北成人教育学報―2008年1期)の論文にそう書いてある。

  斉家文化の青銅器に話を戻せば、純銅から青銅へ治銅の技術を進歩させたり、鋳型を使用して青銅器を作り出したのは、斉家文化なのである。謝端?氏の著書「甘青地区史前考古」によれば、「斉家文化の晩期に青銅器時代に入ったことは、中国古代冶金史の輝かしい1ページだ」と書かれている。

  斉家文化のもう一つの特徴ある出土物は、B玉(ぎょく)器である。斉家文化の「彩陶」は斉家文化の以前からあり、次の時代の文化にも引き継がれた。青銅器も次の文化に引き継がれさらに進歩した。しかし玉器は斉家文化の前に玉器は無く、家文化の後の文化に玉器は出現しないのである。斉家文化の後の文化の辛店文化などでは玉器が消えてしまったのである。この地方の玉器は斉家文化の時代だけに出現し、しかも大量に作られた。しかし斉家文化の玉器が夏王朝に伝わった可能性はあるかもしれない。

 

                 斉家文化の玉器・璋

  玉器は斉家文化だけに突然出現したわけではなく、長江下流の良渚文化から、中国中原の文化を通じて、黄河上流の西北の斉家文化まで伝わったものである。玉の璧(へき)やj(そう)などの形状は、良渚文化に存在していた形状が、斉家文化まであまり変化することなく伝わっている。

  玉器とは軟玉と言われる特別な石を加工したものであるが、その形状によって、璧、j、刀、圭、斧、璋、?、笏などの多彩な形状がある。多くは板状の形であるが、jは立方体の形状である。これらの玉製品を金属工具が無い時代に玉(ぎょく)を板状に切り出したり、大きい穴や小さい穴を明けたりして、最後に綺麗に磨き上げる加工ができたのである。祭器や葬器として使われたらしい。前出の葉舒憲氏の論文によれば、斉家文化の玉器は、中国西北部の先史文化の末期に、最も光り輝いたまばゆいばかりの成果物であると述べている。ある斉家文化についての解説で、斉家文化では玉器が出土すると書いてあったとしても、それについて賞賛の言葉が書いてなければ、斉家文化の特徴について書いてないことに等しいと私は思う。

  斉家文化では家畜が飼われていた。家畜は豚が一番多く次は羊であったとか。豚の下顎骨が墓に埋葬されているし、祭祀で犠牲として殺されたりしているいから、貴重な家畜であったに違いない。羊は玉器の紋様としてよく登場する。農業では原始農業の段階になっていて粟が主食であったらしい。住居の床は白灰色の面になっていて、清潔で堅固で防湿効果もあったとか。織物も発達していたらしい。斉家文化では動物の骨を焼いて占いか祭祀に使っていた。祭祀遺跡としては石で囲まれた円い祭祀跡が出土しているから何らかの祭祀がおこなわれていたに違いない。

  斉家文化は部族社会であったが、すでに身分差が生いた。墓には彩陶や玉器などの副葬品をたくさん伴う墓と、一個も出土しない墓もある。墓は一人の墓が一般的であったが、夫婦合葬の墓もあった。墓の中には人の犠牲を伴うものもあった。犠牲者は部落間の戦争の犠牲者か捕虜であったのか、あるいは祭祀の為の人の犠牲であったのか。謝端?氏の本には、斉家文化は原始社会が崩壊し軍事民主制の時代になったと書いてある。 

  しかし私によれば斉家文化の一番の特徴は、青銅の技術などで夏王朝に最も影響を与えた文化であることではないだろうか。そんなことを言っても中国の中原の文化を研究する殆どの考古学者は、辺境の文化に関心が無いのだから、斉家文化が二里頭文化(夏王朝)に影響を与えたなんて認められないことかもしれない。しかし一部の中国の考古学者の中には、夏王朝の前の文化である斉家文化の重要性を強調する考古学者がいないわけではない。

  別のところで書いたことであるが、天水から獣面紋銅牌飾が出土していることを発見した張天恩博士は、その論文「天水出土の獣面紋銅牌飾とその関連問題」(中原文物20021期)のなかで「二里頭文化(夏王朝)の青銅器の発展は、斉家文化から影響を受けたことを排除できない」と書かれている。獣面紋銅牌飾が出土した天水は、斉家文化地帯であって、獣面紋銅牌飾は斉家文化でも夏王朝でも出土しているからである。

  斉家文化は夏王朝よりずっと前に出現した文化であるが、両者の文化はほぼ同時期に滅びたらしい。葉舒憲氏の論文「斉家文化と玉器時代」によると、斉家文化の年代は天水西山坪遺跡出土の木炭の樹輪校正年代からBC2140BC1529とされる。夏王朝はこの時代の最後の100年間(岡本秀典博士)ぐらいに存在した。だから時間的にみても斉家文化が夏王朝に影響を与えた可能性は十分考えられるのである。 

  前出の葉舒憲氏の論文「斉家文化と玉器時代」には、「斉家文化と夏王朝ではどちらが先に先に青銅器時代に入ったのか? 河西回廊にあった斉家文化やその近隣の四?文化が、西部から中原に銅器の文化を送り込む役割を果たしたのである。このように見ると斉家文化と夏王朝の関係は重要な意義がある」と書いている。 

  更に「豊富になりつつある斉家文化玉文化の資料、特に斉家文化の玉器の礼器としての体系が整備されつつある現状から、これを元に夏文化のルーツを西の方に目を向けることはできないだろうか? また“史記”などの文献にも 夏王朝の始祖“大禹は西羌の出である”と書かれていることから、夏王朝のルーツが西の方にあることを示している。さらに知られているように斉家文化が羌人の文化であることと完全に一致していないだろうか?」と書いてある。

  葉舒憲氏の論文では夏王朝の銅器の文化のルーツは斉家文化あたりであったろうと言っているが、同時に斉家文化と夏王朝との関係の研究が進んでいないことも示している。斉家文化の玉器の礼器としての体系を元に夏王朝との関係を調べられないかと提案しているのであるが、二つの文化の出土品を比べるのは考古学の当たり前の方法だと思うが、それが何故かこの研究は未だに進んでいないようである。別のところで書く予定だが斉家文化の玉器については大きな問題があるのが原因かもしれない。

   また夏王朝の始祖の“禹”の出身が西羌であるという伝説を根拠に、斉家文化と夏王朝の関係を論じるのは考古学的には危うい話である。伝説を根拠にするならば禹”の出身地は、四川省の大地震があったあたりであって、孟子も禹”は石紐(四川省茂州?川県)の生まれで、西羌人であると言っているそうであるが、斉家文化の古代羌(きょう)族がいたあたりは、さらに西の甘粛省である。だからこの伝説から夏王朝と羌族とは関係がありそうだと言えても、斉家文化との関係は論じられないのではないだろうか。伝説などによらずもっと考古学的な方法で、両者の関係の研究を進められないものだろうか。

  私は自分で斉家文化の盾形銅牌飾を集めて、盾形銅牌飾が夏王朝にもあることから、青銅器の文化は斉家文化から夏王朝に伝播したと考えているが、考古学的には斉家文化と夏王朝の関係はまだまだ研究が不足のようである。斉家文化を紹介するのに、夏王朝の青銅器文化の源流は斉家文化にあったと中国語の論文の中にハッキリと書いてもらいたいものである。


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