北京の城壁はMが壊した
(2008年11月12日)



  先月9月に「北京の城壁を壊したのは誰か」という日記を書いたばかりなのだが、実はネットで調べてみると、毛沢東が北京の城壁を破壊させたのは、中国人の一部では知られていることであるらしい。「新中国成立後、毛沢東が古い城壁の取り壊しを命じた。今になってみると、これは非常に惜しいことだ。」という文が日本語で見られる。こんなにハッキリ書いてもいいのかな、と思うが、「人民中国」と言う日本語の中国政府系の雑誌の中に書かれたものである。邱華棟と言う作家が書いたものである。

  更に調べてみると、中国語ではオリンピック前後に、「毛沢東の一言が北京の古い城壁を破壊した」という文章がネット上でいくつか見られるようになった。オリンピックの関係が有るのかどうか分からないが、殆ど同じ文章が、8月5日から8月8日頃にかけて写真入りで転載されている。同じ文章が別のページに何度も転載されると言うのも、中国ならではのおかしなことであるのだが。これとか、これとか、これである。

  更に別のページで、「毛沢東が北京の城壁の取り壊しを命令した。故宮ももう少しで花園に改造されるところだった」というタイトルも見える。これも中国新聞周刊から転載されたものらしい。これも今年の7月に書かれたものである。内容は似ているので元の資料の出所は同じかもしれない。

  更に一年前にも、既に同じような文書が発表されているのを見つけた。 題目は「北京城壁大規模排除記・毛沢東はこれは政治問題だと言った」(北京城墻大規模拆除記,毛沢東称是政治問題)である。この文章には参考にした資料の名前も書かれている「北京社会科学」2005年第4期である。だから信用できると思う。

  実は、先日見学に行った四合院の主人も「毛沢東が北京の城壁を壊した」と言っていた。北京の城壁が破壊されたのは40年前または50年前くらいのことであるから、古い北京人なら城壁の破壊に参加し、それが「最高指示に」よって行われたことを覚えているかもしれない。

  しかし、北京の城壁が消えてしまったことは、語ってはならないヒ・ミ・ツなのである。何故秘密にしなければならないのか? 秘密にすることこそ異常なことであるのだが、ここは中国である。どんな風に秘密なのかと言えば、例えば、北京には北京市計画展覧館と言うところがある。そこには北京市の歴史とか、歴史的名城としての保護とか、都市計画につい展示すべき所であるはずである。しかし、北京の威容を示す城壁と多くの城門が消えて無くなってしまったのは、新中国成立から文化大革命が終結するまでの間のことなのであるが、その間の北京の史跡保護などについては、何も書かれていない。城壁が無くなったことにも触れていない。事実はその間に有った城壁と城門がほとんどなくなっている。だがそれが無くなったことも、ヒ・ミ・ツなのである。

  その頃都市計画があったことだけは書かれていた。たったそれだけである。実は北京の都市計画をし、北京の城壁、城門の取り壊しに反対した重要な人物として梁思成(後述)と言う人がいるが、その人の紹介も無い。歴史的遺産を保護したのか、しなかったのか? 都市計画は実行されたのか、説明は全く無い。説明はできないのである。秘密にしているのである。偉大であるはずの毛沢東との関係があるからである。

  では本当に「毛沢東の一言が北京の古い城壁を破壊した」のか。その根拠は数々ある。しかし「たった一言」でそうなったわけではなく、かなり執拗に主張を繰り返していようである。思い付きではなく、毛沢東の思想に基いて古い城壁が破壊されたのである。毛沢東の思想とは、文化遺産であっても、城壁、楼門などは打破すべき旧悪思想と結びついているので、城壁、楼門も破壊すべきだという考えであるらしい。共産党は「宗教はアヘン」と言っていたが、それと同じ考え方なのだろう。歴史的建造物の価値を全く認めない思想であった。故宮も含めて、皇帝とか王朝の建物は毛沢東にとって、憎悪の対象であったかもしれない。

  ネットで調べてみると、毛沢東が北京の城壁の取り除きを指示したのは、確認できるところでは、1953年8月12日であるらしい。毛沢東はこの日の全国財経会議で、北京の城壁撤去の大問題は政府によって決定し、政府によって実行されると講話した。そしてその年の12月から北京の外城の城壁と楼門の取り壊しが始まった。北京は城壁によって内城と外城とに分かれているが、このとき取り壊しが始まったのは外城の城壁であった。しかし、楼門と城壁を取り壊すと言ってもそれは大変なことであったらしい。城壁の片側だけしかかレンガを外せなかったり、両側のレンガを外したとしても、城壁の真中の土は、残っていたりしていたらしい。それでも北京城の南側の外城の永定門、広渠門、広安門などは1957年頃に取壊されている。1957年は反右派闘争の頃である。これは百家争鳴運動と称して、知識人に自由に意見を言わせたあと、その意見は右派だとして、毛沢東が知識人を根絶やしにした闘争である。

  この頃の時期に北京の城壁の取り壊しに反対した人物として重要な人物がいる。梁思成と言う人物で、建築学者、古代築歴研究者、教育家であった。ちなみに梁思成は日本で生まれている。政府としても取り壊しに反対の声があり、1957年6月には国の文化部が北京の城壁の取り壊しは国際的にも影響が大きいとして、取り壊しは不賛成という意見を北京市に伝えた。これに国務院も賛成して、北京の城壁の取り壊しは中止になったのである。

  ところが1958年1月になると毛沢東は南寧の会議で次のように言うのである。「我メン不軽視過去,迷信将来,還有什マ希望? 古董不可不好,也不可太好。北京拆牌楼,城墻打洞也哭鼻子。ツェ是政治問題」(毛沢東の韜晦な言い回しらしい。翻訳は難しい。最後の言葉は、これは政治問題だ)

  1958年1月、つまり同じ月に、第14回最高国務会議で、毛沢東は言う。「南京、済南、長沙的城墻拆了很好,北京、開?封的旧房子最好全部変成新房子」(南京や済南、長沙のように城壁を取ってしまったところは良い。北京や開封の古い家は全部新しくする方がいい)

  1958年3月には成都会議で毛沢東は又言う。「拆除城墻,北京応当向天津和上海看斉。」(城壁を取り除いて、天津や上海のようにすべきである)

  1958年4月には、周恩来が「毛主席の指示に基いて、今後数年内に北京市の都市の様子を徹底的に変えること」についての手紙を中共中央に送った。

  そして1958年8月に北載河会議の後に大躍進運動が始まり、9月に北京市が「北京の総体規画説明」と言う案を出した。それには共産主義思想とその風格をもって、北京旧市街を根本的に改造し、旧市街が与えている制約と束縛から解放するというものであった。具体的には正陽門、徳勝門、鼓楼などを除き、全ての城門と城壁を取り除くという計画であった。尚且つ「根本的改造」とは故宮の改造も含むものであった。先の周恩来の手紙の中でも、故宮の改造に触れていたらしい。

  このときの大躍進運動とは、毛沢東の号令で始った農工業の大増産政策(毛沢東思想に基づく中国の急進的な社会主義建設運動)であるが、毛沢東の無知な手法で行われ、ずさんな管理の元で無理な増産を指示したため、大失敗に終った運動である。2000万人以上が餓死したと言われる狂気の運動であった。

  このようにして北京の内城の城壁の撤去は1958年に始ったのだが、レンガの量は40万立方mもあり、レンガを取ってもレンガの間の土は更にその12倍もあった。しかも大躍進運動の時期の、農村では何千万人もの餓死者が出ている頃のことであるから、労働力が不足して、城壁は撤去しきれなかったのである。実は大躍進運動の時期にどのくらい、城壁と城門の撤去が行われたのか調べてみたがはっきりしない。例えば、永定門の歴史とか規模については調べられるが、この門が何時壊されたのか、中国語のページには書かれていないのである。やはり秘密に属する事なのかもしれない。

  北京の地下鉄環状線は、北京の内城の城壁があった位置とほぼ一致している。それで、城壁を壊したのは地下鉄を通す為であると言う人もいる。しかし、城壁を破壊したし始めたことの方が先であって、城壁がある位置に地下鉄を作ることを決めたのは後のことである。北京に初めて作られた地下鉄は、北京駅から北京の西にある西山へ通じるものであった。ルートは北京駅から、崇文門、前門、和平門、宣武門、復興門の辺りを通って、西山へ至るのだが、復興門から西は人の少ないところである。何故こんなところに地下鉄を通したかというと、軍事目的であるからである。西山には衛戍部隊がいたとか、毛沢東の隠れ家が在った(ユン、チュアンの“マオ”の中に書かれていたか?)らしい。時はあたかも中国とソ連と間に今にも戦争が起きるかもしれないといわれていた緊張の時期である。防空壕とか軍隊の移動とか、毛沢東が逃げるとか、そういう目的の地下鉄であったのである。

  なお、現在の北京地下鉄一号線の終点は苹果園であるが、その先に更に駅が二つあり、二つ目は西山の軍区の下に達していて、ジープやトラックが通れるゆるい坂があると言う。ここまで行く電車は実際に今でも一日に何本かはあるらしい。勿論限られた人しか乗せないらしい。これは秘密の話ではない。

  上記の城門とその間の城壁を地下鉄のために取り壊すことを決まったのは、1965年1月のことである。それに以前に既に内城の城門で壊されていたものもあったが、崇文門、和平門、宣武門の方はその時期まだ残っていた。地下鉄工事の方法は、地面から下へ掘り下げる方法であったので、家を撤去して住宅密集地帯に地下鉄を通すより、既に壊されたり、壊れかけている城壁の位置に、地下鉄を作れば、コストがずっと安いと言うことから決められたのである。北京地下鉄の歴史について書いたページがあるがそれを読むと分る。

  地下鉄工事は軍事施設としての工事であるから、秘密裏に行われた。しかしそこで行われている工事が、地下鉄工事であるという人は誰も言う人は居なかったのだが、誰もがその工事は地下鉄工事であることを知っていたらしい。

  地下鉄工事は始め、軍隊や専門の作業員によって行われていたらしいが、そのうち文化大革命に突入した後で、北京人に城壁の取壊の義務を科す大動員令がでた。文化大革命がまさに狂気であったように、城壁の破壊もまた狂気の中で行われたらしい。「北京城壁の最後の取り壊し」という文章の中にそのありさまが書かれている。

  この話しは1969年の春の初めの頃のことで、復興門近くの城壁、既に夕暮れに近く、土埃が舞う中のことである。各職場からの人々が、道具を手に蟻の如く城壁に取り付いて、レンガ剥がし落とし、トラック、三輪車、大八車、馬車、手押し車に積み運び出したと書かれている。しかしことは城壁を破壊すれば済むことではなく、防空壕(地下鉄)を作る為に尚深く掘り進まなければならなかった。「穴を深く掘ること」は逆らえない「最高指示」であって、城壁はある一人が言うがままに決められた対象であったと書かれている。城壁を対象にした破壊は、文化大革命で醸された残忍な破壊欲を満たしたとも書かれている。

  この文を書いた人物は、その頃まだが学生で、復興門の城壁の辺の狂乱の中で、陶酔して城壁を壊していて、それが北京人の血と肉であり、民族の魂を破壊していることに気づく由もなく、まして城壁の取り壊しに反対している梁思成などがいることなど知らなかったと書いている。

  この北京の城壁の取り壊しに反対した人物、梁思成は、この文化大革命の初期に迫害を受けて酷い目に合っている。梁思成は年をとって病気になっているにもかかわらず、「反動学術権威」として批判対象として利用価値があると言うことで、「最高指示」が出されたらしい。病院から引きずり出されつるし上げにあっている。「最高指示」とは毛沢東による指示のことかも。これにより梁思成は心身共に踏みにじられ、1972年の1月9日文化大革命のさなか、貧しさの中で病没している。1972年には北京の城壁の取り壊しが完了した年である。奇しくも北京の城壁も悲劇の建築家梁思成も、1972年に命を終えている。

  梁思成は北京の遺産の保護、城壁や楼門の破壊に反対した人物として忘れてはならない人物なのであるが、梁思成を紹介している文(中国の)の中に、これも不思議なことであるが、梁思成が北京の城壁の取り壊しに反対したこと、彼の提案した都市計画が毛沢東の反対にあって採用されなかったことは、一切触れられていない。やはり中国の恥部だから隠したいのだろう。先に書いた北京の北京市計画展覧館にも梁思成の名前は一切現れない。

  文化大革命の初期に、故宮を破壊して「人民休憩室」を造るなどの具体的な驚くべき計画があったことは、最初に紹介した「毛沢東の一言が北京の古い城壁を破壊した」の中に書かれている。これも毛沢東思想(?)の流れと言うか、毛沢東が指示したことであるらしい。2005年10月14日に故宮博物館の院長の鄭欣氏が、《光明日報》に文章を発表している。それによるとこれらのプロジェクトの一部は実現して、「人民の休憩室」などはできたらしい。しかしその他の計画は余裕がなく、故宮は運が良く破壊を免れたのである。もし余裕があったら今頃は・・・・・・。何故故宮を破壊しなければならないのか。やはり宮殿や門額などが「封建意識」を代表しているからだと書かれている。破壊しなければならない理由は思想なのである。それも毛沢東の思想である。

  故宮を取り壊して改造する計画は既に書いたが、1958年4月の周恩来の「毛主席の指示に基いて、今後数年内に北京市の都市の様子を徹底的に変えることについて」の中共中央への手紙や、その後の1958年9月に北京市が作った「北京の総体規画説明」と言う案の中にある。その中の「根本的改造」には、故宮の改造も含まれていたのである。地下鉄建設のさい、周恩来総理の指示で正陽門と徳勝門の箭楼(矢を放つ砦)は、一命を取り留めた(文化大革命、1966年〜) とあるが、周恩来は毛主席に散々痛めつけられていて、既に1958年4月には故宮の改造に賛成してしまっているようである。「毛主席の指示に基いて、今後数年内に北京市の都市の様子を徹底的に変えることについて」の中共中央への手紙がそれである。しかし地下鉄環状線は、正陽門のところでカーブしていて正陽門を避けて通っているのは確かに分かる。正陽門が破壊されなかったのは周恩来のお蔭であるらしい。

  ところでプロジェクトの一部が実現されて、「人民の休憩室」などはできたというのは、どの辺りか? もしかしたら、天安門の東側にある一角の中に、労働人民文化宮とか労働劇場などという、およそ故宮とは似つかわしくない建物がある。あれだろうか。多分天安門の東側にある一角だろう。

  尚、北京の城門が何時頃壊されたか。城門は如何に文化的に価値がある建物であったかは、このページの写真を見れば分かる。城壁の破壊は53年に始って、毛沢東が発動した文化大革命の狂気の時代のさなかの、1972年に終わるのである。

  このページにある永定門は1957年に壊された。しかし2004年8月にオリンピックに関する計画の一つとして復元されたのである。毛沢東は北京の第一書記彭真に、「この問題については私は進んでいる。お前は遅れている。歴史は50年後にお前の誤りを証明するだろう。私は正しいのだ」と言ってのけた。もしたくさんの北京の城壁と城門が残っていたら、中国は、オリンピックで北京の歴史や文化について、誇ることができただろう。今見える永定門はとてもちゃちに見える。そして永定門一つを復元した程度では、却って取り返しのつかない文化遺産の破壊があったことを思い出させてしまうのではないだろうか。

  実はオリンピック前に地安門を復元しようと言う案があったが、何故か立ち消えになったしまった。地安門は内城や外城の門ではないが、北京の城の南北の中軸線上にあった門である。もし地安門を復元したら、これも復元したことが明らかなちゃちなもに見えたのではないだろうか。

  なお、「北京の城壁は毛沢東が破壊した」ことについては、日本語では書かれたものが無いかもしれない。しかし「梁思成」については、最近、日本語に翻訳された「北京再造―古都の命運と建築家梁思成」の中に詳しく紹介されているらしい。元は王軍とう中国人の記者が書いた「城記」であるが、それを北京の胡同に住んでいるという多田麻美さんと言う人が訳したものである。私は読んでいないのだが、多分梁思成の案が毛沢東に反対された経緯は詳しく書かれているようである。