日本が戦争で負けるまでは、確かにあった北京の城壁が、今では殆ど完全に近く無くなっている。しかも徹底的にといっていいほどに壊されてしまった。そんなに古くない昔に、確かにあった北京の城壁がなくなっていると気づけば、何時、誰が、何のために壊したのかと、知りたくなるのは当然ではないだろうか。 このことについてインターネットで調べたが全く分からない。壊されたのは中国政府成立直後の頃であることはわった。しかし誰が、何のために壊したかは、全く書かれていない。今の世の中ならインターネットで調べるとたいていのことが分かる。しかしこのことについては全く解らなかった。 全くどこにも書かれていないということは不思議なことではなかろうか。あんなに大きな歴史遺産が忽然として無くなってしまったのだから、どうして無くなったのか、何故壊したのか知りたいと思う人はいないのだろうか。今城壁の在った跡は広い二環路が走っている。城壁と城門を壊したのは今の二環路を作るためだったのだろうか。そのとおりなら、その案は誰が考えたのだろう。何故か徹底的に惜しげもなく城壁と城門を壊したように思える。 最近ある中国人から、北京の城壁を壊したのは毛沢東であるとハッキリ聞いた。しかし多くの人がそれを言うことはタブーなんだろうか。殆ど誰もそれついて話さないし、書いてもないのは、毛沢東のタブーに触れるからかもしれない。毛沢東は公表できことをたくさんやっているから、その一つかもしれない。 北京の歴史について知りたいと思って、「北京」倉沢進・李国慶著、中公新書を読んでみた。新中国成立後に、天安門広場や広い長安街ができたことは書かれている。この辺りには、宮廷の門とか壁がたくさん在ったのだが、これを取り壊し、大国にふさわしい権威と権力を誇示する空間としたらしい。宮廷の門とか壁を壊したのは広大な天安門広場を造る為に壊したのだろう。しかし北京を囲む城壁を何の為に壊したかは書かれていない。書かれていないことが不思議である。 ただこの本によると、都市再開発には毛沢東の意思が強くは働いたことは触れられている。すなわち再開発案には、二つの案があって、中国の学者(梁・陳氏)が提案した案は、旧市内を歴史名城としてできる限り保全し、西の郊外に官庁街を造るというものであった。これに対しソ連人専門家が提案した案があって、それは天安門広場や長安街にそって政府機関を配置するという案であった。この案はモスクワ市建設の経験とかスターリンの考えにも添った案であったらしい。二つの案の間に長い論争があって、ついにソ連案が採用されたのだが、それは毛沢東の意向であったらしいと推測(王軍と言う人が丹念に追及したとか)している。この毛沢東の意向があって、中国の学者の、旧市内をできる限り保全するという案に賛成する人は、大幹部の中で誰もいなくなったのだとか。そしてその後の1950年以降、梁・陳氏の反対を押し切って城門と城壁は次々と壊されていったと書かれている。 上の内容から北京の城壁を壊したのは毛沢東の指示だったのかどうかは、ハッキリ分からない。しかし、毛沢東の意向がどこかに反映して、城壁が壊されたようにも読める。単純に言えば毛沢東が壊したと言ってもいいように思える。 しかしそのことについて書かれたものが殆どないのは、何故か不思議である。ハッキリしないことならば、毛沢東の意向が反映して城壁がされたらしいとでも書けないものだろうか。それも駄目なら城壁が壊された経緯は謎だとか、少なくとも誰が破壊を指示したかは謎である、とでも書けないのだろうか。 先に書いたが、中国人の中に、北京の城壁を壊したのは、毛沢東だと言う人もいるくらいだから、このことは北京の近代史を知る人なら、知っていることかもしれない。ユン・ チアンの「マオ 誰も知らなかった毛沢東」の中に確か、北京の城壁は毛沢東が壊したと書かれていたように思う。その本の中では、毛沢東は全く古い文化財の保護などに関心が無く、却って文化財の破壊を好んだと言うような性癖についても書かれていたように思う。 それはともかく、貴重な文化遺産で、歴史的な城壁が消えてしまったことを不思議に思わないのが不思議である。だれもそんなことに興味が無いのだろうか。これを語るのはタブーなのだろうか。誰が北京の城壁を壊したのだろう。 |