消えゆく北京の胡同(2007年12月20日)


  ここは宣武区騾馬市大街の南の一角、約1k四方が全て立ち退きで取り壊されるのだが、取り壊すに先立って、殆どの壁に汚らしく「○に拆」の字が書かれている。「拆」の字はチャイと読むが、これを見ていると、チャイだ、チャイだ、拆だぁ〜 家を壊すぞ〜、早く立ち退け!!! と言って、脅しているように見える。

  この辺り一帯が、北京の都市再開発の対象となり、取り壊されるのであるが、この都市再開発プロジェクトを「危険家屋改造工程」と言い、約して「危改」と言う。

  やたらに壁に書きなぐられた「○に拆の字」を見ていると、私には威嚇的な感じを受けるが、当の住民はどうなのだろう。こんなにあちこちに書いてあっては、私には脅しのように見るのだが。「○に拆」の字は退去に同意した家屋に対してだけ書かれたものだろうか。まだ退去の契約が完了していない家にも、全ての壁に書いてしまっているように見える。気でも狂ったかのようにやたらに書いてある。

                 

  そうだとすると、この壁の“表面”の権利とか所有権はどうなっているのだろう。家の移転契約が成立する前でも、他人の家の壁に「○に拆の字」を書いてもいいものだろうか。日本でなら家の壁と言えども、個人に所有権が在る壁に、こんな大きな落書きのような字を書けば、必ず問題になる行為である。しかし中国人には家の壁は個人の物という意識が無いのだろうか。このあたりは、日本人と中国人の感覚はかなり違うのかもしれない。考えてみると例えば共同の門があるが、あれは自分の門であると言う意識が無いのかもしれない。だから「○に拆」の字を書かれても、威嚇とは感じないのかも。

  いずれにしろ、このように「○に拆」の字をやたらに、汚く書きなぐるのは、日本人の感覚とはかけ離れている。

  “拆”の字について、講釈を述べておくと、拆の字はチャイと読み、壊すと言う意味もあるが、元の意味は、合わさったものや組み立てたものをはずす、ばらばらにすると言う意味である。北京のあたりの平屋は、壁はレンガ作りであるから、このレンガははずされて再利用される。拆(チャイ・ばらばらに)されたレンガは、不法に建て増すにも使われる。そして不法建築で埋め尽くされてしまった一角が、「危険家屋改造工程」の対象となる。不法な建て増しと書いたが、本当に不法ではないかもしれない。そのような建物が懲り壊されたとは、あまり聞かないからである。不法なと言ったのは、日本人的な感覚からである。もしかしたら中国では勝手に空き地に家を建てても不法建築ではないのかも。

  勝手に建築を建てたといっても、野原や河原ではなく、伝統的な北京の建物の空間を埋め尽くしたのである。北京の伝統的な建物は殆どが「平房」と呼ばれる平屋であるが、不法建築もまた平屋で、伝統的な建物の壁に張り付いて増殖してしまっている。最近は、Google の航空写真などで、このあたりを空から見られるが、低い建物がびっしりと詰まっている。都心の土地の有効利用と言う意味からも、住民を立ち退かせたいのかもしれないが、プロジェクト名を都市再開発プロジェクトと言わないで、「危険家屋改造工程」と言う辺りは、何か偽善的な感じも受ける。しかしこんな状態だから実際に危険な建物があるのは間違いない。危険であるばかりではなく不衛生でもある。トイレは各家庭に無く、公衆トイレである。

  住宅の入り口は表通りに面していなくて、入り口は必ず囲まれた一角の中に口を向けている。囲まれ場所には門が一つだけあり、決して裏口などは無い。そして囲んでいるのは、塀などではなくて、大部分が家の壁である。家の壁が繋がって、囲いになっている。その囲まれた空間を「院」と言う。

  その院は、伝統的な建物である四合院であったりするが、その四合院の庭に不法建築を建て増したり、既にある家の壁を利用して別の家を建て増ししてある。そのようにして家が増殖してしまった場所を「大雑院」と言う。「大雑院」の中の迷路のような細い道だけが、洗濯物を干せる空間である。既にある家の壁を利用して作る部屋は、日本で言えば、自分の家の建て増しであるかもしれないが、大雑院の中では別の家族の家が作られているのである。何故大雑院になってしまったのか。何故原状に回復できないのか、不思議である。

  最近、大雑院の中の迷路をたどることができた。「危改」プロジェクトが進行している地区に写真を撮りに行ったのだが、「チャイ」が進んでいるところでは、家が取り壊され、道だけが残っていたからである。本当に細い道がくねくねと奥まで続いていた。その道は、何故か家の中を突き抜けていたりして、更に奥に続いていた。

  大雑院の家の壊し方は普通とちょっと違う。家一軒分を一気にドッと壊す・・・・ のではないのである。例えば大きな院には長屋門があったりするが、その長屋門の脇の部屋に一家族が住んでいたりする。その一家族の移転が決まって、移転するとその一部屋だけを、人が住めないよいに壊すのである。大雑院だからである。例えば「潘家胡同」と名づけられた胡同を歩いて行くと、壊された家ではなく、壊された部屋が口を開けていた。

  そのようにして家がだんだん壊されていくと、壁がなくなって大雑院の中が覗けるようになる。そこには、何と言ったらいいか言葉にできないような乱雑な世界が露になる。普通ならば日の当らない家が、突然日当たりが良くなったりする。大雑院の中に新たに樹を植えるなんてことはできないはずだが、結構大木が残っている。これは以前の四合院の中庭の樹なんかが、そのまま残されているのだろう。狭い空間であるのに、邪魔であるはずの樹が残されているのは何故か不思議である。取り壊した跡を見ても意外と太い大木が残っていたりする。

  このようにして部屋毎に破壊されて行って、最後には焼け野原のように全ての建物が取り壊されるが、そこに一軒だけ残った家が、ぽつんとあった。近づいて見ると、それは紛れもない四合院であった。しかも四合院の中庭が残っていた。建て増しは一部されていたが、中庭がある空間は健在だった。中庭がまだ残っている四合院は、極めて珍しい。それが周りの家が取り壊されたことによって、家が剥き出しになり、はっきりと見えるよういになった。珍しいものを見つけたので、早速写真に撮った。北京には伝統的な建物である四合院が多いと言っても、大雑院になっていない、中庭が残っている四合院は少ないのである。

  四合院の庭が覗けたと書いたが正確に言うと、この建物は既に四合院ではない。なぜなら四合院とは、中庭を四方の建て物が囲んでいるから、完全な四合院なら中庭は、簡単には覗けない。しかしこの四合院は南の部分が、既に無くなっていたので、外から庭が覗けたのである。それに一軒と書いたが、これも正確ではない。四合院とは確かに昔は一軒の家だったのだが、今では数家族の家になっているところが大部分なのである。この四合院も正面の家と、西側の家、東側の家は、別々の家族が住んでいて三軒分の家のようであった。

  有名な歴史上の人物が住んでいたという四合院もあった。“康有為”と言う人の屋敷であったが、ここも中庭に大雑院が建て増しされていた。北京市文物保護単位に指定さていたが、取り壊してしまうらしい。門に複雑な彫り物がされた、綺麗なレンガ作りの門などもあったが、全て取り壊してしまうらしい。歴史的な四合院は残すべきだという意見があるかもしれないが、危険で不衛生な大雑院となってしまっていては、取り壊す以外に、方法は無いのかもしれない