雪の甘加草原と八角城



  旅の6日目である5月3日には雪が降った。その前日には黄砂に見舞われた。静かに降る黄砂でなく、強風を伴う黄砂だった。旅行しているところは甘粛省の甘南であり、甘粛省の北の方は黄砂の発生源だからである。そして翌朝起きてみたら5月であるのに雪が降っていた。しかしその日は八角城を見に行く予定だったので、予定通りタクシーで雪の中を八角城見物に出かけた。

  八角城は、甘粛省の甘南の甘加草原の一角にある。夏河から33kだそうである。「甘」という字を三個並べたが、甘粛省と甘南は漢語、最後の甘加はガンジャーと読みチベット語かもしれない。八角城はチベット族地帯(高原)の草原の中にある城砦遺跡である。調べてみると漢代の砦遺跡だそうで、この辺りは漢、唐の時代は、青海高原の蛮族と国を接していて、古代の羌族や、吐番と争ったところであるらしい。青海方面への出口として、交易が盛んであったのかもしれない。しかし今では舗装もしていない砂利道があるだけで、荒涼とした景色の中に、忘れられたようにぽつんとその姿を曝している。この辺りの甘加草原を通る人も、外からここを訪れる人も殆どいないところである。近代的生活からもかけ離れた僻地である。

  この八角城は、歴史からも忘れられているのかもしれない。調べてみても八角城の形などの記述はあるが、漢代の何時ころに作られたのか、ここでどんなことがあったのかなどの記述は全く見つからなかった。忘れられているのが良かったのか、城壁などの形がかなり良い状態で残っている。それにかなり大きい城砦である。甘粛省の北には、敦煌莫高窟の辺りに、城砦として陽関とか玉門関、河倉城があるが、そのどれよりも、規模が大きい。しかも、漢代と言えば2000年以上も前の可能性もある。

  実はその城壁の遺跡の中に人が住んでいて、チベット族と漢族の農民の家があるのである。農民は城壁の中だけに住んでいるようであった。2000年前の城壁が、農民の家を囲い込んで、崩れもしないで残っているかと思うと、何かの感慨を催す。なにか凄いことのようにも思える。敦煌莫高窟の辺りには漢代長城と言うのがあるが、あっちのは風雪に晒されて消えかかっていたが、八角城の方は、今でも強固な城壁が村をぐるっと囲んでいた。意外なところに思いがけない遺跡があるものだと思った。こんな高原に漢代の遺跡があるなんてことは、殆どの中国人にも知られていないことなのではなかろうか。

  ここが八角城と言われるのには理由があって、八角ではないのだが角が多いのである。城の形は十字の形をしていて、その十字の中が中空になっていて、そこが城内なのである。城壁に登って城内を見ると確かに十字形のように見える。十字形の城壁ならば、合計12画角であるが、省略したのか八角城と言われている。

  歴史の中に忘れ去られていた八角城であったが、これが観光資源になることに地方政府も気が付いたのか、八角城への道を最近拡張して、砂利などを敷いたのだと言う。来年にはチャンと舗装するのだとか。実は昨年のGWにもこの辺りを通ったのだが、近くの町夏河でも八角城の観光の話は全く聞かなかった。しかし今年のGWには、タクシーの運転手から、何回も八角城の観光へ誘われた。今年辺りから八角城への関心が高まり観光で見に行く人も増えたのだろう。元々私が今年の旅行の計画の中に八角城を入れたのは、今年になって八角城への旅行記(日本語では一つだけしか見つからなかった)を見たからだった。案外簡単に行けそうだと思ったからである。

  出発した時に降っていた雪も、峠を一つ越して甘加草原を走り、八角城に着いたころには止んでいた。雪山が遠くに見える八角城はなかなか趣があって良かった。馬に乗って近くを回ったがこれも良かった。村の中を見られたのも良かった。馬には1時間乗ることを勧められたが、30分で良いと断ってしまった。今になって考えれば、城の周りをぐるっと回るとか、村の中を馬で歩いてみるのも良かったかもしれない。

  何故そうしなかったか。その時はトイレが気になっていからかもしれない。八角城には公衆トイレが全く無いのである。城壁に登った時、入場料の徴収人から馬に乗ることを勧められた。その時閃いたのだが、馬に乗るから馬に乗る前に、トイレを貸してくれと頼んだのである。我ながらいいアイデアだと思った。しかし思い通りにならなかった。トイレならその男の家に連れて行ってくれればいいのにと思ったが、そうではなく、近くの家の入り口を開けてみたり、他人の家で聞いてみたりしていた。しかし結局は断られて、物陰で用を足すことにした。もしかしたら、その辺りの家にはまともなトイレが無く、恥ずかしがって貸してくれなかったのかもしれない。他の地区のチベット族のトイレはなかなか良かったのだが。

  そんなこともあって、一時間と言う乗馬を30分でいいと言ってしまったのかもしれない。そう言えば乗馬にはもう一つの問題があった。乗馬自体は既に郎木寺で慣れたから問題が無いのだが、ここでは馬の口取りをしてくれる子供と言葉が通じないのである。だから方向転換とかが上手くいかないのである。入場料の徴収人とは中国語が通じた。乗馬の商売を始めたのも最近のことかもしれない。払ったお金をその場で馬の持ち主と子供に配分していた。

  入場料は10元であったが、八角城への入場料ではなく、城壁への登り料なのか、小さい門のくぐり料だったかもしれない。この門も2000年前のものが崩れずに残っているかと思うと、それさえもなかなかのものだと思えた。今ではその門を兵士ではなく、ヤクなどが勝手に行き来していた。ところでここには外人もバスで観光にきていたが、あの女性達のトイレはどうしたのだろう。