胡同の奥の謎

  北京の胡同の様子やそこにある門のことについては、既に書いたことがありますが、あの奥には謎があります。胡同にある門の奥の一単位を“院”と言うのだそうですが、その“院”が雑居の院であるのと、個人の院である場合があります。北京では、個人の院として残されているところはとても少ないです。“院”に付いての謎とは、“院”の運命が雑居の“院”と、一家だけの物とにどうして分かれたかという疑問です。長屋のようにして作られた“院”であるなら、雑居状態になると思いますが、“院”は元々ある一家のために建てたものであったと思えるのです。例えば四合院と呼ばれるお屋敷のような建て方もあれも“院”の一つです。それがどうして雑居の院に成ってしまったのか。一方個人所有の“院”もあるにはあります。では何故個人所有の“院”が雑居の院になるのを免れたのか? これが知りたい疑問です。

  また、雑居の“院”に住み込んだ人は何時からどのようにして住むように成ったのか、またどこから来てここに住むようになったのか、そう言うような調査などが無いものかと思うのですが。



  多分、雑居状態状態になったのは文化大革命の混乱によるものと思われますが、しかし、その混乱を免れたのか、または後で個人に戻されたのか分かりませんが、個人の“院”があるにはあるのです。この運命の分かれ道はなんだったのか、それが知りたい謎なのですが、これは近代史のタブーに触れることなのかななどとも考えられますが。

  胡同とは北京の路地裏の道のことですが、胡同には普通、家の入り口な無いのです。胡同に向けて門があって、一旦その門を潜って奥に進むと家の入り口があります。そう書くと、お屋敷の門があってその奥に家があるように聞こえますがそうではないのです。いや昔はそうだったのでしょう。そういうお屋敷のような家を四合院と言って、門の中には中庭があったのです。しかし今では四合院を何軒もの家族が占有してしまって、庭だったところが不法建築で埋め尽くされ、人一人がやっと通れるような道が残っている状態になっています。

  私も胡同を観光したことがあるのですが、人力車の車夫が、この家は民国時代に安く買って、それを観光用に公開しているのだと説明してくれました。しかし四合院で公開できるとか、一家だけで使用していると言う例は極めて少ないようです。観光用に公開できる四合院など殆ど無いと言ってもいい状態です。殆どが多くの雑多な建築物で埋めつくされているからです。

  私が住んでいる牛街の近くにも、七井胡同、爛漫胡同とか、南半載胡同などの古くからの胡同があります。これらの胡同も近く取り壊しになると新聞に書いてあった(ような記憶がある)ので、写真を撮りに行ってきました。胡同の写真ではなくて、胡同の奥の奥、つまり門の中を覗いた写真です。その院の中はかなり乱雑で汚いです。場所が無いから乱雑にならざるを得ないのかもしれません。しかし狭いと言う理由だけでこうなるのか、何か中華民族の住み方にも原因があるように思えますが。かなりの混沌状態です。

  しかし、ここにも雑居家族の“院”と、一家だけで住んでいる“院”とがあって、混乱状態に成っているのは雑居家族の“院”で、一家だけで住んでいる“院”は門も奇麗に維持されているようです。そして一家だけで住んでいる“院”の門はたいてい閉じられていますが、雑居家族の“院”の門は開け放されていいます。それで胡同の奥の奥、つまり門の中を覗いた写真が撮れたというわけです。必然的に門の中は乱雑と言った感じの写真になりました。

  撮ってきた写真についてですが、自分で言うのも変ですが、この写真は珍しいです。北京に住む我が社の社員の90%は胡同を見たことが無いし、こんな写真も見ことがないと思います。しかし私の部屋の隣に住んでいるおじさんおばさんは良く知っているはずです。わが牛街の5,6年前はこれと同じであって、牛街の団地に住んでいる多くの人は、以前そこに住んでいた人達であったからです。