牛街の乞食

  私が住んでいるのは北京の牛街と言うところなのであるが、何故だかここには乞食が多いように思える。その前に乞食という言葉は差別用語ではないかどうか調べてみた。“乞食”は差別用語だと言っていた人がいるので念の為、放送禁止用語一覧を見てみたが、この言葉はリストに無かった。その人が言うには、中国の乞食の話をするのに“乞食”という言葉は葉不適切だから、“ホームレス”と訳すと言っていた。しかし乞食とホームレスでは全然意味が違ってしまう。乞食は文字通り物乞いをする人であるが、ホームレスは家が無いが物乞いをしない人達である。日本に乞食は居ないと思うがホームレスはいる。牛街にいるのは明らかに物乞いをする乞食である。

  牛街に“乞食が多い”と言っても、際立って多いということではなく、北京のあちこちに乞食がいるから、牛街に“乞食が多い”ことに、北京市民でも気が付いていないかもしれない。しかし牛街には牛街ならではの乞食がいる。それは牛街の乞食は回族であることである。

  乞食の話を書く前に牛街の“街”について書いておくと、牛街とは日本語の街(地域)の意味ではない。“街”は本来は道の名前である。だから牛街には牛街といわれる大通りがある。そしてその通りの両側の建物に番号をつけて、その建物は牛街の何号とかも言う。これがアドレスになる。そして私が住んでいる団地も牛街西区・・・・・・ という言い方で確かに地域をあらわしている。しかし 中国のアドレスは地面に付けた番号ではない。多分北京では建物が無い場所には、地番によるアドレスは無いのではないかと思える。だからナビゲーターの検索でも地番での検索はできないのではないだろうか。

  話が逸れたが、牛街は変った街で、回族が多いところとして知られている。更に話が逸れるが回族について書いておくと、回族は中国の少数民族の一つで、「中国人と同じような顔をしている回教徒」と言ってもいいのかもしない。顔では中国人と区別ができない。話す言葉も漢語である。しかし回族の歴史は古いらしく、あるページで調べたところ、「回族のルーツは西暦7世紀に溯ることができる。当時アラブとペルシアの商人が中国へ商売をしに来て、中国南東部沿海の広州、泉州などに居住していた。数百年にわたる発展を経て、これらの人たちは回族の一部となった。そのほかに、13世紀の初め頃、戦争のため中国西北部に移住させられた中央アジアの人たち、ペルシア人とアラブの人たちは、婚姻、宗教などの形で、絶えず漢族、ウイグル族、モンゴル族の人々と融合し、回族を形成することになった」とある。だから沿岸部の回族と西北部とは全く別の民族のようで、むしろDNA的には殆ど漢族に同化している回教徒のように思える。

  北京の人の記憶に残っている牛街とは特別の雰囲気のある街だったのではないかと思う。かっての牛街の様子は、細い胡同(路地)が迷路のように走り、袋小路も多く、家は不法建築が多く、危険で汚く、スラムのような街であったらしい。家の作りは石を積み上げて作ったような低い平屋であった。トイレは各家庭には無く当然外の共同トイレであった。牛街といわれるメイン道路は幅7,8mの道路であったらしい。そこに住む人々は回族と言われる少数民族であり、回族料理の軽食堂がたくさんあって、羊の串を焼く煙が立ちこめているような街だったのだと思う。牛街の中心には信仰の対象である牛街清真寺と言われるイスラム寺院があった。勿論今でもある。しかしイスラム寺院はかなり中国化してしまっている。例えばイスラム寺院に特徴的な尖塔が、尖塔ではなくなって、日本の鐘撞堂のような形に変化している。

  住んでる人々の顔は漢族と変わらないが、回族特有の白くて丸い帽子を被っていたりして、牛街は特別な街なのである。例えばここでは決して豚肉は売っていない。売っているのは牛肉と羊肉である。牛や羊の肉にしても、ここの肉は処理する際に、お祈りしながら屠殺するとか、特別の方法で処理するとか、とにかくイスラムの掟によって特別に処理された肉であるらしい。それで回教にとって安心できるから“安心肉”とも言う。またこの肉は清真肉とも言われ、厳格な回教徒はこの清真肉を買うためにわざわざ牛街まで買いに来ると言う。清真はモスリンとかイスラムとかいう意味である。

  そのスラムのようなごちゃごちゃとした平屋の牛街が、危険建物改造プロジェクト計画の対象になり、2000年ごろまでには完全に取り壊され、2003年頃までには細い道を40mもの大通りに拡張し、住宅は19階の高層ビル群として建て直した。もしかしたら当局がこの街の改造計画に早くから取り組んだのは、ここで少数民族の不満が爆破するのを用心したのか、怪しい輩が入り込みやすい場所と思えたのか、そんな理由もあって早くからこの牛街の改造計画を策定したのではないかと思えるのだが。

  当局は道路とか建物だけではなく、立派な回族の為の学校や病院も作った。また回族対策にも力を入れ、宗教的な摩擦を生じないように、イスラム教の習慣を尊重し、清真(イスラム)ではないレストランの開業を禁止したり、回教徒がタブーとする豚肉を売ってはならないと禁止している。

  ようやく牛街の乞食の話になるが、牛街にはトルファンという有名なレストランがある。このレストランは由緒正しいイスラム教に則ったレストランであるから、土日の休日にはここでよく回族の結婚式が行われる。そうするとそこに必ず乞食が表れて、結婚式の参加者に物乞いをする。初めは服装から見て乞食らしからぬから、乞食ではないと思っていたが、やはり物乞いをするから乞食であった。

  ある休日の結婚披露宴が行われている日に、ここのレストランの前を通ったら、乞食の一人から、あなたは回族かと聞かれが、そうではないと答えると乞食は別の人の方に行ってしまった。イスラム寺院の前にもいつも物乞いがいる。牛街には回教徒のための清真スーパーがあるが、そこにも乞食がいる。そしてそのあたりの乞食は殆どが回教徒のようである。回教徒の街だから乞食も回教徒が多いというのでなく、回教徒の乞食を引き付ける何か特別なものがあるのではないだろうか。それはイスラム教徒には何か特別の教えのようなもの、例えば富める者は貧しいものに施しをしなければならないというような、教義があるのかもしれない。周りの中国人に聞いてみても、そんなことは誰も知らないが、多分そういではないかと思える。

  牛街には乞食が多いのはここが貧しい地区だからではない。むしろ“調和の取れた社会”の見本のような街として当局が盛んに宣伝しているところなのである。“調和の取れた社会”とは、胡錦涛政権になって政治スローガンとしている“和諧社会”のことである。ここが“和諧社会”の見本の様な所であるのは、ここがかってはスラムのような街であったのが、今は高層住宅が立ち並ぶ街並みに改造できたこととによるのかもしれない。私が考えるもう一つの牛街が“和諧社会”であるという理由は、ここに住む人達が回族であることも大きな理由ではなかろうか。回族と共産党政府が上手くやっているというのは、朝鮮族や満族とうまくやっているということより、ずっと宣伝効果があるのだと思う。なぜなら回族は朝鮮族や満族と違って何度も漢族によって弾圧され、反乱も起きた民族だからである。

  そしてここには“民族団結”というスローガンが掛かっている。この意味は日本語なら同じ民族が団結しようと言う意味になると思うが、中国ではいろいろな民族が団結しようという意味になるらしい。かっては反乱を起こした少数民族が穏やかに暮らしているという意味では、牛街は見本のような街なのである。もっとも中国のスローガンは現実の社会の状態とかけ離れていることをスローガンとする場合がある。乞食が多い街に“調和の取れた社会”というスローガンを掲げているのも、そういったことのひとつである。

  今、私は牛街に住んであるが、昔はずっと変った街であったらしい。変った街のままであったら私はここには住めなかったかもしれない。面白味は少なくなったが、回族の乞食が多いとか、豚肉は売っていないとか、イスラム寺院があるとか、まだまだ牛街は面白いところもある。そして最もイスラム的になるのはラマダン明けのお祭りの日である。

  いまや日本に乞食はいなくなったが中国にはいる。ところで回教スーパーの前にいる立派なひげの回教徒の乞食は、ホームレスではないのかもしれない。どこかに家があるのかもしれない。回教徒特有のひげのお陰で貰いが多いように見える。