こんなこともする中国

  春節の前に、北京女子監獄についてのある計画が発表された。春節とは中国人ならだれでもが楽しみにしている旧正月のお祭りである。そのときに北京女子監獄の女囚人の中から12人を選んで、家族と24時間特別の部屋で同居させると言うものであった。これを「同居会見」と言うのだそうだが、女囚の家族とは当然夫であって、親が同居して会見するわけではないらしい。子どもも「同居会見」できるらしい。この同居の為に監獄内に新たに建物を作り、一階には会見室と食堂を作り、二階には12部屋の個室を作ったそうである。部屋はホテルのスタンダードタイプで、トイレ(シャワーも?)付きでツインベット。他には生活用品が配置してあるのだとか。

  この「同居会見」は当局の粋な計らいと言うのかもしれないが、あちこちの新聞の関心を引いたらしく、いろいろな意見付きで報道された。ある新聞は監獄制度の改革の一種の進歩であり、人道とか愛情によって、犯人の改造を促進するものであると書かれていた。他には、高い壁の中での“一夜情”(これは何と訳すのか)に当惑を覚える、とか、別の新聞には、「言うまでもなく、立案者の考えは、受刑者の性の要求を満足させて、恩恵を与えて良い方向に導く」という解説も有った。大体多くの新聞は、興味本位での報道であった。

  私はこのニュースを見て、何かおかしいと思った。決めたのが突然の話でもあるようだし、北京だけの特殊なことのようにも思えた。一番重要なことは法律に基づいての決定なのかという疑問がわいた。そしてこのニュースに関連する投稿を見ていたら、ある大学の副教の投稿が載っていた。この内容を見ると、「同居会見」は法律に基づいていないと書かれていた。副教授の意見は、法律に根拠がないのに、監獄当局がこのようなことを勝手にやってはいけないというものであった。

  副教授の投稿に書かれた疑問は、立案者はこのような方法でどんな効果を期待しているのか、元々自由を制限された受刑者が、性の自由を与えられる権利があるのだろうか。受刑者に性を享受する権利が有ったとして、どういう条件の人に、そのような権利を与えるのか。条件をハッキリさせないで、特別の人にその権利を与えるとすれば、それは特権にならないのか。どうやって12人を選ぶのかなど、中国の新聞であっても極めて常識的な疑問が書かれていた。

  最大の問題はこれを決めた監獄側の問題で、服役囚に夫との同居を許すなど、監獄側が勝手に権力を行使してもいいのか。勝手に建物を作ってしまったり、会見の条件を決めたり、犯人の申請を受け付けたり、その中から人を選んでみたり、これらは監獄側の権力の乱用の表れである。公権力とは、監獄が勝手に決めるものではない。与えられていない権力は、使ってはいけないのが、公権力を持つ側の、あるべき最低の線ではなかろうか、と意見を述べていた。

  北京女子監獄には1000人位の囚人がいて、12の監区に分かれているのだそうである。選択方法は一つの監区から優秀な一人を選び出すのだそうである。同じ条件であったとしても、1000人の中では12人しか選ばれないから、権利があったとして権利が有る人でも、性を享受できない人は多勢居るに違いない。

  他の新聞記事にはこれを制度化するならば、よほど透明且公平にしなければ腐敗の元になると書いてあった。刑務所には「保外就医」と言う制度があって、これが腐敗、汚職、賄賂などに繋がっているのだとか。受刑中に病気になった場合、仮釈放して治療を受けられると言う制度らしい。1000人から特別な12人を選ぶなんてことをすれば、中国では当然有りうることなのだろう。まして透明、公開ではないのだから。この意見はいかにも中国らしい。

  私の下世話な疑問を付け加えれば、何故女子だけなのか、男にこの権利はないのか、何故12人なのか、何故田舎の刑務所ではダメで、北京女子監獄だけなのか、である。新聞に書いてあった他の問題点は、妊娠したらどうするか。避妊を強制するのか、避妊を強制できるのか、失敗したらどうするのか、子どもが出来てしまったら誰が育てるのかなどであった。 

  この問題の重要な点は、やはり法に拠るか拠らないかが重要であって、法律に基づいていないならば、中国は法治国家とは言えないのではないだろうか。監獄当局は「同居会見」が越権行為であることを全く理解できずに、お代官様とか領主様が、たまに庶民に与える恩恵のように考えて、選ばれた庶民(実は受刑者)に特殊な贈り物をしたつもりで、善意を施したと思っているのかもしれない。この様に考えるのは、近代国家が法律に拠って統治するとことを、全く理解していないからなのだろう。この考え方は未だに中国に残る封建思想なのかもしれない。もしかして法を超越して事を決めるのは、毛沢東思想なのかもしれない。そうであったとすると、やはり中国は人治の国なのだろう。

  実は、中国の新聞のニュースを見ると、「法に拠って罰する」、などの法を強調する表現が、日本ずっと多いようにも見える。罰するのは法律に拠ってであることは、あたリ前のことだから、そんなに何時も強調する必要は無いはずなのだけれど、何時も新聞にはそう書いてある。だから中国でも近代国家は、法律に拠らねばならぬということをよく自覚はしているらしい。しかし確かに一人の副教授はおかしいと異議を唱えたが、大分の新聞のコメントでは、妊娠したらどうするなんて程度のコメントしかなかった。監獄制度の進歩であるとも書いてあった。新聞はお上の公権力の行使には、鈍感なばかりでなく、越権行為が問題であることに気が付いていない。法律の制限を越えて事を決めていいのだとすれば、監獄が法律を気にすることなく、虐待をすることだって考えられる。監獄が自分で決める権利があると思えば何だって出来る。

  だがしかしである。中国では司法と立法とが独立していないようだから、これはこれで当たり前のことなのかもしれないと思い直した。監獄側も法律を無視したのではなくて、自らが法律を作り、立法の立場に立ったのかもしれない。それにしても制度上はこう言った制度の改定を審議するところが、他には無いのだろうか。無いのかもしれない。我々西側の人間から見ればチョッと不思議でもあるのだが、他の自由主義諸国とは違って、ここは共産党が治める中国なのだから、それが当たり前の世界なのかもしれない。おかしいと思う方がおかしいのかもしれない。でも中国は法治国家だと自ら言っているのだけれど。とにかく中国では法律上の根拠が無くても、この程度のことは当局のさじ加減で決められるらしい。