新聞によると、最近杭州で腐敗(賄賂など)を無くそうという宣言がなされたそうである。その宣言とは「わが国の優秀な伝統と歴史を拠りどころとして、腐敗文化に挑戦しよう」、「清廉な政治制度を作って、腐敗文化を押しのけよう」、と言うものであった。中国には賄賂が多いから、賄賂に関する評論もとても多い。評論の題目は、腐敗が何故多いのかとか、どうしたら無くせるのか等についてである。それでこの手の評論を探すのは難しいことではない。それで杭州での宣言についてだが、人民日報に評論が載っていた。そのうち二つの主張がなかなか面白くて興味深かった。

  その前に、「腐敗文化」と言う言い方は何かおかしくないだろうか。腐敗って文化なのか? 腐敗とは賄賂を貰うようなことを言うのだが、賄賂は文化だろうか。やはりおかしいと思うのだけれど。何故か中国では腐敗も文化であるらしい。評論の一つも、「腐敗は文化と言えるのか?」と言うこととであった。

  南方日報という新聞の12月12日に載った時評であるが、評者は英国の人類学者テーラーの定義や中国の“辞源”や“漢語大事典”を引いて、腐敗などの悪い習慣を文化といういのは、おかしいと言っている。文化とは、個人とか社会が、必要があって創造した物質財産や精神的財産などを言うのであって、文化を貶める「腐敗」は文化ではないと言う意見である。(ここまでが新聞の記事から)

  元々は中国に文化と言う概念も文字も無かった。文化と言う文字は、100年以上も前に英語の“culture”を日本で“文化”という文字に換えたものである。それが中国に渡って使われた文字である。(昔から中国にあった文化という文字は別の意味であった)。だから元の意味から考えるならば、英国の人類学者などの西洋の定義を参考にするのが正しい。今では“文化”の文字は、中国に無くてはならない文字となったが、いつのまにか西洋(日本も含めて)の文化の意味と違ってきてしまった。上の評論の評者はおかしいと言うが、中国の腐敗は伝統であって、伝統は文化だから腐敗も文化と言うのかもしれない。賄賂という悪しき習慣も文化の中に含めると言う、中国らしい懐の深い変わり方を遂げたのかもしれない。

  別のもう一つの興味ある評論とは、「中国の歴史を拠りどころとして、清廉な政治が出来るのか?」という疑問である。日本人でも中国の歴史に詳しい人ならば、同じような感想をも持つかもしれない。「中国の歴史に学んだのでは、却って汚職はなくならないのではないだろうか?」という疑問である。(12月11日の新華網に載った記事)

  評者は曰く、歴史を鏡として未来に向かおうと言い方は確かにある。しかし中国の歴史の中から清廉な思想を探し出そうとすると、別のものが見えてきてしまう。それは中国の故人の歴史家“呉ヨ”も言っているが、中国の二十四史(中国の正史)には汚職の話が満ち満ちている。一方清廉な政治と言えば、官吏を押さえるための過酷な刑罰辞典に過ぎないと。つまり酷刑を持って清廉な政治をしようとした。(私の注;そう言えば中国の処刑の仕方はむごいものであったらしい。現代でもこれを書いている12月16日に貴州省の交通庁の長庁が死刑に処された。罪は汚職で、その後外国に逃げようとした。)

  歴史上の汚職事件は多くて数え切れない。汚職を無くすためには極刑に処するしかなかった。だがしかしその結果はどうであったか? いくら禁止しても際限なく腐敗は現われる。太平の世の中でも腐敗は荒れ狂い、国難の際にもなお腐敗が盛んになる。ある時は為政者は自分の命の為に、汚職を見逃しておいた。ついには腐敗が加速して、王朝が滅び王朝滅亡の悪循環となる。

  評者の話は続く。歴史伝統上の腐敗は専制体制がしからしめたものである。そして腐敗は専制体制に寄生して毒瘤となって、自らは切除できない。専制体制と清廉反腐敗は本来相反するものである。我々が歴史と伝統から何を学ぼうと言うのか? 歴史と伝統で腐敗文化を無くすことができるのか?

  歴史と伝統では腐敗文化を無くすることはできないばかりか、歴史と伝統は腐敗文化の母体である。腐敗文化は歴史と伝統の下に隠れた卵である。一旦環境が整うと、その卵は直ぐに孵化を始める。

  中国の伝統社会は血縁や地縁、上下、官民などの関係を通して広がっていく関係社会である。関係社会では、メンバーの各々が感情的な義務とか役割を持った社会で、その義理と人情が行き過ぎれば腐敗になる。実際に腐敗と人情とは中国の歴史、伝統においては切り離せないものであった。そして今もなお中国は関係社会と人情社会である。人情社会が悪いとは言わないが、法治社会に軌道修正しなけばならない。

  しかし未だにある人達は腐敗文化を治すのに歴史と伝統に頼ろうとしているが、まさか法治を疎かにして、人情を強化しようとしているのではあるまい。そんなことをすれば元来た道に戻るようなものだ。

  腐敗は既に中国の文化になっている。そして中国ではそれが千年以上も続いていて、古人も治めることができなかった。それは統治者が専制体制をとっていたからである。しかし現代においても過去に倣おうとするようでは、棚からぼた餅が落ちるのを待つようなものだ。健全な民主、法制、公開、透明な政治文化を創ってこそ腐敗文化の良薬になる。

  以上が新華網に載った評論である。

  ところでこれから中国で腐敗を無くせるのだろうか? 腐敗を無くす方法としてよく新聞に載っているのは意識改革である。共産党員としての自覚とか、共産党員は庶民の先鋒でなければならないとか、江沢民が唱えた“三個代表”なんかも意識改革の一つの運動ではなかろうか。

  しかし、意識改革程度で、腐敗がなくなるものだろうか。初に書いた杭州の腐敗撲滅宣言「歴史を拠りどころとして」などではとてもとても無くなりそうも無い。この国にこれだけ多くの汚職があるのを見ると、DNAの中にその体質が染み込んでいるようにも見える。勿論日本も汚職はある。しかしそのやり方は密かにやるものであるが、中国のは汚職をやりだすと目がくらんで、夢中になってしまうようなところがある。おおっぴらに汚職をやるわけではないが、これだけ盛んにやれば、当然他の人には何となくわかると言う程度までやる。中国の歴史と伝統に培われた腐敗文化は、意識改革程度では無くならないほどに、今でも意識の下に隠れている(卵の)ように見える。この卵はチャンスがあると直ぐに孵化する。

  もう一つの改革の方法は、政治制度の改革である。上記の筆者も専制体制では駄目で、健全な民主が良薬といっている。中国の今の状態はどうなのだろう。専制体制は無くなったのか、中国の社会は公開、透明なのであろうか。それがそうではない。共産党の専制で公開でも透明でもない。その例は、県のトップである県委員会の書記が、賄賂を貰って官位を売るという売官の話によく現れている。売官の話は次の日記をご覧いただきたい。

  結論を先に書けば「健全な民主」制度に改革する。つまり選挙で指導者を選ぶようにしなければ汚職は無くならないのでは。県委員会の書記のように一人に巨大な権力が集中するのでなく、国民の意志が指導者選びに反映する制度にしなければ腐敗が無くならないのではなかろうか。天地をひっくり返すような大革命を起こしても直らなかったものが、意識改革くらいでは直るはずが無い。そう言った主張も投書の形で新聞に載っていたので、これも次の日記でご覧頂きたい。

中国の腐敗文化について