今度のJRの事故で思ったのだけれど、中国の社会と日本の社会は大分違う。別の国だから、違うのは当たり前なのだけれど、同じように見えてもかなり違うところが在る。今度の事故においても、中国だったら、管理の厳しさによるスピードの出し過ぎなんていう事故は起きなかったかもしれない。

  中国人は生活の「圧力」が多いと言う言葉をよく使う。新聞の記事にもこの言葉がよく表れる。この圧力のことを、日本語ではプレッシャーと言うが、翻訳すれば同じ意味である。言葉からすれば、日本の社会においても、中国の社会においても、社会生活上のプレッシャーが大きいことは同じように聞こえる。

  しかし中国人が言う「生活の圧力」と、日本人が言う「プレッシャー」とは内容はかなり違うのではなかろうか。以前、汽車で旅行したときのことであるが、車掌が一仕事を終えて、食堂車の隅に大勢集まり、ワイワイガヤガヤと楽しそうにおしゃべりをしていた。中国の車掌は一両に一人はいるから、大勢なのである。乗客には冷えたビールを出さないでおいて、自らは冷蔵庫からは冷えたビールを取り出しておいしそうに飲んでいたが、これは食堂車の従業員であったかもしれない。鉄道警察も列車に大勢乗っていたが、食堂車の禁煙と書いてある下で、タバコをプカーっとやっていた。いずれの鉄道従業員も、プレッシャーなど無さそうに見えて、楽しそうだった。日本の運転手や車掌のようにな孤独な職場環境でもなかった。

  JRの社員が事故を知ってからも、ゴルフに行った事が発覚したが、事故と直接関係無い部門の人間がゴルフに行って何が悪いのか、これが中国人の考え方かもしれない。多分そうだと思う。しかし日本では共同責任が問われる。

  中国では、建て掛けで止めてしまったビルがあちこちに目につく。資金繰りの当てが外れて金が続かなくなったのである。資金繰りが続かなくことがあるのは日本でも同じであるが、中国の場合の方が安易に事業を始めるらしい。何とか成るだろうと思って工事を始めたが、やはり資金が続かなくなってしって工事が中止してまったビルがあちこちにある。中国では、この責任者の責任は多分問われないかもしれない。ビルの建設に一回失敗しても、次のところで又やり直せばいい。しかし日本の社会では、一度失敗すると、何時までも責任を問われる。中国では多分日本より社会的責任が軽いのだと思う。

  日本でならば就業時間に職場を離れて、チョッと買い物に行くなんて事はなかなか出来ないし、就業時間中に度々家族に電話することも、日本では不自由である。しかし中国では、可愛い子供が元気にしているだろかと度々電話を掛けられる。日本でもセールスマンが喫茶店でサボっているなんて事はある。しかし表向きには許される事ではない。こう言ったことから見れば、中国人の言う「生活の圧力」が多いなんて事は、決してそんな事はない。中国の生活の方がずっと気楽なのである。

  中国語では「生活の圧力が多い」という言い方は、金銭的に生活が苦しいという事も含めるらしい。中国には収入が本当に少なくて、本当に生活に困っている人が多勢いるし、満足に医療や教育が受けられない人がいるのも確かである。貧しいことや金が無い事を、日本人はプレッシャーとも圧力とも言わないが、中国人はこのことも「生活の圧力」と表現するようである。そうであるならば、中国の生活に「圧力」が多いというのは理解できることである。しかし日本は給料が良いから日本に行って稼ぎたいなんて言う中国人が多いが、日本の社会は意外に厳しい社会であって、管理上、心理上のプレッシャーが強いということを知っているだろうか。

  私が通勤する途中に乞食が数人もいて、物乞いをしている。一方日本にはホームレスはいるが乞食はいない。中国には脚を切断してしまって、乞食でしか生活のしようが無い人が多勢いる。日本では、こう言った人が全くいないのはすばらしいことである。しかしホームレスの中には心理的、管理的プレッシャーが逃れるためにホームレスになった人がいるのも、日本のことである。

社中国から日本の社会を見れば